三島由紀夫 1925‐70



小説家,劇作家。東京生れ。本名平岡公威 (きみたけ)。 

彼は1925年1月14日、両親が同居していた祖父母の家で生まれた。

1931 年学習院初等科に入り,高等科まで学習院で学ぶ。この時代に文学活動を開始し,第 1 作品集《花ざかりの森》(1944) を刊行。 20 歳で敗戦をむかえるが,敗戦を何ものかの喪失と感じた時代感覚は,のちに三島の思想の根幹を形づくる。彼は時代にとり残された孤独人であった。

47 年に東大法学部を卒業。 49 年に《仮面の告白》を刊行して作家としての地位を確立する。

52 年におけるギリシア訪問を契機に,ギリシア的な健康への希求が生まれ,牧歌的な小説《潮騒》
(1954) に行き着いたただけでなく,のちにボディビルで肉体を鍛える態度の伏線を形づくった。 56 年に《金閣寺》で芸術的な一つの到達点をきわめた。

60 年安保のあと二・二六事件に取材した《憂国》(1961) にいたって〈戦前〉的なものが作品に入りはじめる。この傾向はやがて鮮明になり, 67 年に自衛隊に体験入隊, 68 年に〈楯の会〉を結成し,70 年 11 月 25 日に自衛隊市谷駐屯地へ会員と共に日本刀を携帯して乱入し、自衛官の決起をうながしたが果たせず、舎弟森田と割腹自殺した。

三島のニヒリズムを持った知的な文体は今日でも評価が高い。

祖父の平岡定太郎はかつて樺太長官を勤めたが、金銭がらみのスキャンダルで辞職を余儀なくされ、その後事業家になったが、十年ほどで破産した。生後まだ七週間の時、神経症を病んでいた祖母夏子はその子を母の手から取り上げ、自分の病室にベビーベッドを置いた。

それから一二年間、夏子は孫を独り占めし女の子のように育てた。その子は他の子供達と遊ぶことを許されず、両親にもほとんど会えなかった。

周囲から隔離された世界での唯一の遊び相手は祖母の書斎にあったハンス・アンデルセンやオスカー・ワイルドの童話。

アンデルセンの「薔薇の妖精」は三島の潜在的サディズムを目覚めさせたと推測される。「恋人が記念にくれた薔薇に接吻しているところを大きなナイフで悪党に刺し殺され首を斬られる美しい若者」の物語である。こうした物語は三島のサディスティックな夢想の素材となってしまい、強度なサディズムや同性愛的思考に至ってしまった。

彼は一四歳の時、剣闘士達が血まみれでのたうち回る「殺人劇場」を考案した。また海水パンツの男を見て、「切腹する若い侍の姿と、まだ太っていない筋肉質の相撲取りのイメージ」とが交じり合い、射精した経験もあったという。こうした思考は、今日のサカキバラを初めとする青年犯罪者の考えに通ずる一面があり、疾風怒涛の時代を翔ける青年達の苦悩を代弁している。

また、自伝的小説「仮面の告白」には、矢に射られた聖セバスチャンの絵を見て初めて射精を経験するという場面すらある。これは今日著しく増加している二次元愛好者(漫画やアニメのキャラクターに恋をしてしまう)の流れも感じさせる。

のちにボディビルを始めて、病弱な身体が改善される。自信をつけた三島はちんけなヤクザ映画に出演したり、自分の裸体を記した写真集の発表を行う。68 年に結成した楯の会の制服は、旧軍を意識しつつも派手過ぎるデザインであった。晩年における彼の思考には、ナルシシズムや服装倒錯の一面もうかがえる。

人間の精神世界を全て体現した彼にとっては、もはや死しか求めるものは無かったのかもしれない。

 


 

三島由紀夫
劇的な最後を遂げた彼を崇拝する
人間は今日も多い。

 

 

・・・楯の会結成時、一人一人が指を切ってコップに血を注ぐ。三島はそれに塩で味付け、日本帝国への忠誠を誓い全員でそれを飲み干した。三島は青年達の口や歯が真赤になっているのを見渡し「美しいドラキュラの一団だ!」と言って高笑いした。


(写真は、著書「葉隠れ」より)

 

 

 

 

 

 

 

 


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「心理学を学ぶには?カウンセラーになるには?」の記事です。
性と文化の革命家(心理学の偉人伝)  心理学を学ぶには?カウンセラーになるには?(誰でもこれから実現できる方法)  参考文献