この法は人人の分上にゆたかにそなわれりといへども、いまだ修せざるにはあらわれず、証せざるにはうることなし。(弁道話)
正法眼蔵随聞記と公案禅
曹洞宗で公案禅を排しようとする論者は、「正法眼蔵随聞記」の中で道元禅師が公案禅を否定されているかのように述べられていることを大きな拠り所としている。
しかし、果たして「随聞記」が道元禅師の真意を正確に伝えたものかどうか疑問があるうえ、そもそもその編者が、一般に信じられている第一の弟子・孤雲懐奘禅師その人であるかさえ大いに疑わしいのである。そうだとすれば、道元禅は黙照禅であるとする主張の最大の論拠は失われることとなる。
この点を、史料研究の権威である今枝愛眞博士と大久保道舟博士の著述によって明らかにする。
道 元 と 公 案 禅
今枝 愛眞(東京大学教授)
やがて、寛喜三年(1231)八月、道元は『弁道話』一巻を著わすにいたった。これは、叡山の天台に対しても、自分の伝えたものこそ正伝の仏法であるという信念をあらためて表明したもので、さきの『普勧坐禅儀』と形をかえた道元の立宗宣言といってよいであろう。
その巻頭に、道元はこの正伝の仏法について、
[正法眼蔵の原文省略]
と、端坐参禅、すなわち、参禅を正門として説いており、この法は、誰もが本来そなえもっているものであるから、その気になって坐禅を正門として修し証することによって、あらわすことができるものである、としている。しかし、この正伝の仏法は、「人人の分上にゆたかにそなわれり、といえども、いまだ修せざるにはあらはれず。証せざるには、うることなし」といった性格のものであると説いている。これは、出家以来かれがいだきつづけてきた、人は生まれながら仏であるのになぜ修行が必要なのかという、疑問に対する解答である。
ついで、さきに『普勧坐禅儀』において、坐禅の根本義を説き、坐禅は大安楽の法門だから、賢愚の差別なく、誰にでも勧めるのだといった道元は、さらに、『弁道話』において、坐禅に関する十九の設問をかかげ、一々その疑問に答える形式で、只管打坐の仏法について、その抱負と信念を強調した。そのなかで、とくに大切だと思われるいくつかの点についてのべておこう。
仏法に入るには、多くの門があるが、坐禅こそ仏法の正門である。それは、釈尊以来の諸仏はみな坐禅によって得道したからだとして、
大師釈尊、まさしく得道の妙術を正伝し、また、三世の如来ともに、坐禅より得道せり。このゆゑに、正門なることをあいつたへたるなり。しかあるのみにあらず。西天東地の諸祖、みな坐禅より得道せるなり。ゆゑに、いま正門を人天にしめす。
とのべ、坐禅以外の諸行は、悟にいたる一つの方便であっても、仏法の真の要訣ではありえないとして、余行一切をしりぞけ、もっぱら坐禅すべきことを強く主張した。そして、坐禅は只管打坐でなければならないと説いた。
ところで、この只管打坐、すなわち、一向の坐禅については、それがあたかも、臨済禅に対する曹洞禅の最大の特色であるかのように云われている。すなわち、
臨済禅は公案を用いる看話禅(かんなぜん)である。これに対して、曹洞宗の禅は、公案の工夫によらない黙照禅で、ただ黙々と坐禅して自然に得道に入ろうとするもの、と考えている向きがある。なるほど道元も、もっぱら坐禅に徹することを勧めて、
宗門の正伝にいはく、この単伝正直の仏法は、最上のなかに最上なり。参見知識のはじめより、さらに焼香・礼拝・念仏・修懺・看経をもちゐず。ただし、打坐して心身脱落することをえよ。
といい、如淨の教えをしばしば引用している。
また、読経や念仏については、
読経・念仏のつとめにうるところの功徳を、なんぢしるやいなや。ただしたをうごかし、こゑをあぐるを、仏事功徳とおもへる、いとかなし。
[正法眼蔵の原文一部省略]
と、ただ形だけの読経や祈祷・念仏を批判したばかりではない。
さらにすすんで、坐禅修行をつとめるうえに、真言密教や天台止観などの余教を兼修するのは妨げないであろうかという、門人の問いに答えて、古今東西、仏法を正伝した諸祖で兼修をしたものは聞いたことがないとして、言下に否定し、
[正法眼蔵の原文一部省略] まことに、一事をこととせざれば、一智に達することなし。
ときっぱり云い切っている。そしてまた、次のように文字禅をも退けている。
ただまさにしるべし。七仏の妙法は得道明心の宗匠に、契心証会の学人、あひしたがふて正伝すれば、的旨あらはれて稟持せらるるなり。文字習学の法師の、しりおよぶべきにあらず。
したがって、修行者は迷いを止めて、ひたすら、
正師のをしへにより、坐禅弁道して、諸仏の自受用三昧を証得すべし。
と、正師によって、仏法の正門である坐禅行に入るべきことを説いた。
このように、只管打坐といい、あるいは「ひとへに坐禅」といい、道元が坐禅をとくに重視していることは明らかである。しかしそれを、公案を用いない黙照禅というように解してしまってよいであろうか。そこで、道元の主著である『正法眼蔵』をみると、『碧岩録』からの引用をはじめとして、いたるところで公案の論評を行っているばかりでなく、公案を否定したような個所はどこにも見当たらない。したがって、道元のいう「ひとえに坐禅」とか、只管打坐というのも、従来いわれているような、公案禅・看話禅の全面的な否定を意味するわけではなく、「純一の仏法」、つまり坐禅による正伝の仏法を強調するあまり、宋朝風の公案禅の行き過ぎを手きびしく批判しようとしたところから発したものであろう。
(いまえだ あいしん「道元ーその行動と思想」評論社・昭和四五年)
随 聞 記 と 孤 雲 懐 奘
今枝 愛眞
道元なきあと、その思想のもっとも忠実な継承者となったのは、いうまでもなく永平寺を継いだ孤雲懐奘(1198〜1280)である。
かれは道元より二歳も年上であったが、道元の心酔者となってその教化活動を助けるかたわら、すでに深草時代の仁治ニ年頃から、『正法眼蔵』の浄書を行っている。越前に移ってからはいっそうそれに専念した。懐奘が書写したものだけでも、実に六十余巻に及んでいる。
[中略]
永平寺では、懐奘のあと徹通義介(1219〜1309)が第三世となった。かれは道元のもとで永平寺の典座(てんぞ)や監寺(かんす)をつとめ、道元が最後に上京した折には留守を託された程の人物であったが、道元の死去によって、その法を継ぐとの約束は果たされなかった。懐奘の弟子となった進歩的なかれは、大陸での見聞をもとに、山門などの伽藍や行事・儀礼などを一新し、永平寺教団の発展のために積極的に取り組んだのである。
ところが、道元の枯淡な禅風を守りつづけようとする宝慶寺(ほうきょうじ・福井県大野市)の寂円や義演など、保守的な人々と意見が対立し、ついに文永九年(1272)二月、永平寺を退いて、加賀の大乗寺(金沢市)に移ってしまった。これが永平寺の三代相論といわれる事件である。
この後、永平寺は、残った寂円・義演の一派だけによって受け継がれ、徹通のあと義演(〜1314)が永平寺第四世となり、ついで寂円門下の義雲(1253〜1333)が五世となった。義雲は梵鐘を鋳造するなどしてこの寺の復興を遂げるとともに、散逸しかけた『眼蔵』を集成することにつとめ、懐奘の奥書がある諸巻を中心に写本を集めて、あらたに六十巻本を編集した。おそらく当時永平寺では、懐奘が編集した七十五巻本が散逸してしまっていたためであろう。こうして六十巻本は道元自編の十二巻本とともに、寂円・義演派の根本聖典として永平寺・宝慶寺における伝承をもとにつくられたのが、有名な『正法眼蔵随聞記』(以下『随聞記』という)である。
ところで読者は、このような説に奇異な感をもつにちがいない。というのは、『随聞記』は道元が日常その門下に説いた教えや言行をもとに、弟子の懐奘が聞き書きをして編集したものと、一般に考えられているからである。たしかに『随聞記』は道元の宗教と思想をもっとも解り易く説いたものとして、その説得力ある内容は、今日なお、われわれの心を強く打つものがある。おそらくその古典的価値は、今後も永遠に変わらないと断言してよいであろう。
しかし、そのなかに例えば次のような記述がある。
「語録・公案等を見て、古人の行履(あんり・行い)をも知り、あるいは迷者のために説き聞かしめん。皆是れ自行化他(自分のための修行と、他人を教化すること)のために無用なり。只管打坐して大事(悟りを開くこと)を明らめ、心の理を明らめなば、後には一字を知らずとも、他に開示(説くこと)せんに、用い尽くすべからず」
すなわち、語録や公案などを学ぶ必要などはない。ただひたすら坐禅をして悟りを開けば、その後は、たとえ一字も知らなくても、ひとに仏法を説くことができる、という記述である。
さらに、懐奘の坐禅の効能についての問いに答えて、次のようにもいっている。
「公案話頭(禅の公案)を見て、聊か知覚(分別すること)あるやうなりとも、其れは佛祖(釈尊)の道にとほざかる因縁なり。無所得無所悟(悟るところがないこと)にて端坐して時を移さば、即ち祖道なるべし。[以下略]」
これは公案を使う問答によって、仏教の神髄がいくら分かったように思っても、かえってそれは、釈尊の本当の精神に遠ざかる原因にもなる。なにも悟るところがなくても、ただひたすら坐禅をして時を過ごせば、それがそのまま釈尊が説いた仏道につながるのである。古人は公案を使うことも、使わないでひたすら坐禅に打ち込むことも、ともに勧めたが、やはりわたしは、もっぱら坐禅をすることを特に勧める。公案によって悟りを開いた人もいるにはいるが、それも坐禅の効果によって悟ったのである。だから、正しいのは只管坐禅である。
道元は『随聞記』でこのように説いたというのであるが、これはまさしく公案禅の否定にほかならない。しかも、このような只管坐禅に対する考え方や、公案否定の『随聞記』の考え方は、明らかに道元が『眼蔵』で説いたところと矛盾している。このように、『眼蔵』では全く見られない禅の本質に関する正反対の思想が『随聞記』に説かれているということは、ただ道元の思想の変化というだけではかたずけられない重要な点である。
さらに又、模範的な坐禅の例として、大恵について次のように述べている。
「[随聞記原文省略]」
かの大恵は腫物が尻にできたとき、医者から死の危険があると宣告されたが、死ぬかもしれないならそれまではもっともっと坐禅に打ち込まなければならないといって、一層猛烈に坐禅にはげんだという。この大恵の修行態度を賞賛している。ところが、すでにのべたように、道元は『眼蔵』では大恵の禅を口をきわめて非難している。両者の間にはあまりにも大きな考え方の違いがある。
また、あるとき人が道元に勧めて、「仏法を興すためには、幕府がある関東に行って布教された方がよいでしょう」と進言した。これに対して、道元は次のように説いたという。
「然らず。若し仏法に志あらば、山川江海を渡っても来って学すべし。[以下略]」
つまり、仏法に入ろうという深い志がない人のために、わざわざ、鎌倉あたりまで出かけて行くのは、自分のために物質的なよりどころを求め、財宝を手に入れようと考えるからである。そのようなことは身体を苦しめるだけで無駄であるから、行くまでもないと思う。このようにのべ、道元は鎌倉下向を拒絶している。これは道元が鎌倉へ下向した史実と矛盾している。
したがって、『随聞記』の記述と『眼蔵』や道元に関する史実などとの間には、大きな食い違いがあることがわかる。とすれば、『随聞記』は道元の忠実な祖述者である懐奘が道元の言行などを聞き書きしたものであるとの従来の説には、いささか問題があるといわなければならない。
大久保道舟氏も、用語の時代的特徴から、鎌倉時代の末頃にその弟子あたりが作ったものであろうと推測しているのはもっともである。
しかし、『随聞記』の最古の形態を示している長円寺の奥書を見ると、康暦ニ年(1380)五月に越前の宝慶寺で書写したとある。したがって、『随聞記』は南北朝中期に成立していたことは確かである。
以上のような諸点から見ると、『随聞記』は、鎌倉時代の末期から南北朝中期の間に、『眼蔵』や道元の言行・伝承などをもとに、宝慶寺又は永平寺によっていた寂円・義演一派の法孫が、道元の思想をあらたに解り易く説き示そうとして著わしたものではなかろうか。
(「道元 坐禅ひとすじの沙門」日本放送協会出版・昭和五十一年)

吉祥山永平寺
正 法 眼 蔵 随 聞 記 解 題
大久保 道舟
(東京大学史料編纂所史料編纂官、
駒澤大学教授)
本書[正法眼蔵随聞記]六巻は日本曹洞宗の開祖道元禅師の法語を結集したものである。編者は禅師の上足懐奘禅師と伝えられているが、しかし叙述の形式や用語の時代的色彩などから考察して、恐らく懐奘の直弟子あたりにおいて集録せられたものと推定される。
由来道元禅師の法語・語録等が多く懐奘によって集大成されたことは、既に学者の認めるところであるが、しかし禅師の法語の総てが懐奘一人の手によって蒐集せられたものではなく、両師滅後その法孫によって纏められたものも多数あったと見なければならぬ。即ち道元禅師自筆の草稿や、或いは懐奘によって相伝せられてものなどについて、それ等を総合整理し、一つの新たな文献として道元禅師の全集中に繰り入れられたものがあったと思う。本書は恐らくこうした手続きによって成立したものらしく、全体の表現を吟味することにおいて一見明瞭である。即ち懐奘の直弟子中の何人かが、師の遺稿や(懐奘が筆録しておかれた道元禅師の法語)、師匠懐奘について直接聴聞したいはゆる聴書(ききがき)などを中心に整理合揉し、その編集上の功績を師匠に帰して、いはゆる「侍者懐奘編」としたものであろう。故に本書の形式的成立は懐奘入滅以後のことであって、恐らくそれは鎌倉の末葉に属していると思われる。
この推定は勿論内容を吟味することにおいて可能なのであるが、尚、本書の跋に、
先師永平奘和尚在学地日、[中略] 六冊倶嘉禎年中記録
と見えていることは、私のこの推定を一層確実にするものである。しかもこの跋については、[中略]このたび長圓寺本(愛知県幡豆郡三和村長圓寺蔵)を手にするに及んで、その成立が決して新しい時代ではなく、相当に古いものであることが判明した。[中略]この跋の成立に対しては相当に歴史的価値を認めてもよいように思われる。これに「先師永平奘」と書きそめ、而して「今録集六冊」と記していることは、大いに刮目すべきところである。即ち六冊にまとめ、正法眼蔵拾遺分のうちに収めたのは懐奘の直弟子であって、先師懐奘はただ学地にあるの日に、道元禅師から聞いたことをそのまま書きとめて置かれたまでである。大体宝慶記の編集されたのは、道元禅師が入滅せられた建長五年のことであって、八月に禅師がなくなり、その十二月十日懐奘が永平寺の丈室において禅師の在宋記を発見し、その草稿にもとづいて書写編纂されたものである。この事は、同書の奥書きにも明らかであって、宝慶記という書名も恐らくこの時に命名せられたように思はれる。そこで考えさせられることは「如雲門室中玄記永平宝慶記」というこの言葉は、懐奘及びそれ以後の人にして道ひ得るのであって、今の跋にこの記事のあるのは蓋し当然といはなければならぬ。即ち跋の作者は、懐奘の随聞的記録は懐奘がかって編記した永平の宝慶記のようなものであるというのである。懐奘の宝慶記の編記が確実なものである以上、この作者のいっている随聞云々の語もまた正鵠を得た言葉であるといわなければならぬ。したがって、「今録集六冊」といった 今という語は懐奘の直弟子のいった言葉であるに相違ないし、又六冊に録集し巻を調べて仮字の正法眼蔵拾遺分の中に編入したのも、懐奘法嗣中の何人かであったことは、敢えて疑う余地はないのである。
(おおくぼ どうしゅう「新校註解正法眼蔵随聞記」山喜房仏書林・昭和十七年)
トップ |
| は じ め に | 曹 洞 宗 と 公 案 禅 |
| 文 献 の 紹 介 | 坐禅会の紹介・リンク |