雲と水面

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曹洞宗と公案禅


曹洞宗では公案を用いないとの誤解を持たれている方に、洞門下においても公案禅(看話禅)が盛んに行われていた事実を知っていただく為、安谷白雲老師(曹洞宗・当時)と秋月龍a老師(臨済宗妙心寺派)の著書から抜粋したものを、ここでご覧頂きます。


永平寺 における 入室 独参

     −関頑牛老師と「独参」−   
                    
               安谷 白雲

 [正法眼蔵・弁道話の「端坐参禅を正門とし」という一句は] 
 「参禅は坐禅なり」という道元禅師のお言葉があるくらいだから、端坐参禅の四字で坐禅を意味すると見てさしつかへないが、端坐の二字を坐禅と見、参禅の二字を入室独参と見る事もできる。臨済宗では現に入室独参のことを参禅といっている。
 筆者がなぜこのように味わうかというと、道元禅師の示された『学道用心集』の中に、参師聞法と工夫坐禅の大切なことを示され、この二つは鳥の両翼のごとく、車の両輪のごとく、二つそろわなくては仏道修行はできないと教えておられるからである。
 参師聞法の純乎として純なるものは入室独参であることは言うまでもない。一般の提唱や講演、または法話などを聞いて坐禅するだけでは、本当の仏道修行はできない。なんとしても入室独参しなければだめである。
 このことは実地に修行したことのある人ならば、誰でも納得できる。真剣に坐禅していると、坐禅修行の途上において、幾多の疑問が出てくるし、心境の変化もいろいろあって、どうしたらよいか、まごつくことがしばしばある。
 さらにまた、自分では気がつかなくて、いつの間にか横道にそれて、坐禅の本筋を見失っていることもあるから、しばしば正師に点検してもらう必要がある。それで入室独参は修行に欠くべからざる重要なものである。このことは道元禅師が天童淨祖の許(もと)において、しばしば入室独参なされた事実に照らしてみても明らかなことである。
 しかるに今から四、五十年前のことであるが、大本山永平寺において、時の後堂職、関頑牛老師が大衆に独参せよと命じたとき、役寮はじめ全員これに反対した。永平寺には古来独参などは無かったものだと言い張った。老師がそんなはずはない。「放参」という金牌があるくらいだから、「独参」という金牌もあるにちがいない。放参とは独参を休むことを放(ゆる)すという意味だから、独参を休むほうだけあって、独参を行う方がないというはずがない。どこかに独参牌があるにちがいないから、探せと命じて、大衆に探させたら、仏壇の下から金文字の「独参」という牌が出てきた。しかもその文字は、永平寺の世代さまでも特に有名な玄透さまがお書きになったものであった。
  それ見よ。昔はこの通り独参が立派に行われていたのだ。今日独参が無くなっているのは坐禅修行が甚だ怠慢であることを証明しているのだ。だから全員独参せよと、改めて厳命を下した。後堂職は曹洞宗においては、当時大衆の修行を指導監督する最高の責任者であるから、老師の命に背くわけにはいかない。そこで役寮が窮余の一策を案出して、宗務庁に手をまわし、宗務庁から永平寺での独参を差し止めてもらうようにしたという、実にばかばかしいことがあった。その後の成り行きは言うにしのびないから書かないが、関老師はまもなく入院され、ついで遷化された。老師が大法のために不惜身命であらせられたことに対し、謹んで合掌礼拝する。

     (やすたに はくうん「正法眼蔵参究・弁道話」春秋社・初版昭和四十五年・復刻版平成十一年)

 玄透禅師 (玄透即中 1729〜1807)。 永平寺50世貫主。月舟宗胡から卍山道白・面山瑞方に継承された古規復古の運動を受け継ぎ、道元時代の古規への復古を目指した。そのために永平寺の僧堂を古規に倣って改築するなど、伽藍および規矩の復興に努め「中興」と称せられた。「正法眼蔵」の開版にも尽力した。
 当時、永平寺と総持寺は対立しており、総持寺側が幕府に訴えて別立しようとしたところ、禅師は自ら幕府に出向いて抗論し、遂に旧例に復することを得た。
勅号「洞宗宏振禅師」を賜る。   (「新版禅学大辞典」「曹洞宗人名事典」による)




大本山永平寺
吉祥山永平寺



禅 修行における「公 案 禅」

               秋月 龍a

ある曹洞宗の学匠は、「臨済禅は凡夫が仏になろうと言う坐禅、曹洞禅は真っ向仏が坐る坐禅だから、宗教の次元がまるで違う」と言うが、そんなことはない。 [略] 白隠は、「衆生本来仏なり」と言い、「直(じき)に自性を証すれば、自性即ち無性にて、すでに戯論(けろん)を離れたり。因果一如の門開け、無二亦(やく)無三の道直(なお)し」と言って、因(修行)と果(証悟)は一如(修証一等)であると言っているから、その点では道元禅も白隠禅も何の違いもない。ただ白隠は、曹洞宗の一部の人々が「本証妙修」の観念禅の上にあぐらをかいて、実際には「心身脱落」どころか、まるきり衆生の、凡夫の妄想坐禅、居眠り坐禅に陥っている実際の弊害に黙っておれずに、「黙照の邪禅」「無事禅・ぬけがら禅」と批判したのである。そこから、彼は大慧の「大疑」禅を受けて、「公案禅」による「見性」を強調したまでである。
 だから、宗教の次元など違うはずがない。ただ修行の上で、まず強調したところが異なるまでである。繰り返し言うと、ともに「一味」の「祖師禅」である。
  [中略]
 今、また、「只管打坐」の説も、その基本思想である「本証妙修」のおのずからなる発現であることを見た。「本証」の「妙修」するところ、仏の坐禅、本来の仏として坐る坐禅ということにならざるを得ない。そう考えれば、「只管打坐」こそ、仏教本来の、「正伝の仏法」の坐禅観だということになる。私は臨済宗の僧籍にあり、白隠下の法孫の一人として師家として世に立っているが、「只管打坐」こそ、「正伝の仏法」の坐禅だと断言してはばからない。奥多摩の古仏、加藤耕山老師も、「衲(わし)は曹洞宗の出だからというわけではないが、只管打坐が親しい。しかし今日の曹洞宗の人々の只管打坐は、あれはダメだ」と明言されていた。是々庵老師は、その点、やはり白隠と意見を同じくされていた。老師は遷化の日まで、学人に公案を課して参究させられたけれども、「公案禅」に対しても批判的で、「公案を使わないで別に教育する工夫」を強く私に望まれた。が、私は故鈴木大拙先生とともに、「今となってはやはり公案禅を生かして用いるよりない」と思う。ただ「公案をその本義に帰して」、正しく用いることが大事であろう。大拙先生の意見もそうであった。
 一時代くらい前までは、曹洞宗の師家方も公案を用いられた。総持寺でも、水野虎渓老師や渡辺玄宗禅師がそうであった。孤峰智サン(「王」偏に「粲」の旁)禅師も若いとき大いに公案禅に参じたと、お手紙をいただいたことがある。原田祖岳老師の公案禅は有名である。その法系の三宝教団は、今日欧米の一部では、臨済・曹洞の伝統の二宗をしのぐ勢いであり、「臨済・曹洞の長所を止揚(アウフヘーベン)した禅」と自称する向きもある。ただし、その室内の見解(けんげ)は、祖岳流で、正伝の臨済正宗(しょうじゅう)のそれとは大きく異なっている。異なって悪いというのではない。そこに、「もし優劣有りと道(い)わば、未だ参学の眼(まなこ)を具せず。もし優劣無しと道うも、亦未だ参学の眼を具せず」である。
 ともあれ、私は今後、曹洞宗においても、「公案禅」が復興されることを願っている。

               (あきつき りょうみん「禅仏教とは何か」法蔵館・平成二年)


渡辺玄宗禅師 (本行玄宗 1869〜1963)。総持寺独住17世貫主。勅賜「円鑑不昧禅師」。昭和38年12月9日示寂。

孤峰智サン禅師 (瑩堂智サン 1879〜1967)。総持寺独住18世貫主。勅賜「円応至道禅師」。昭和42年11月1日示寂。

 


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