鉄道旧狩勝線と石狩道路(十勝国道)の路線選定を考える

 鉄道旧狩勝線と石狩道路(十勝国道)の路線選定を考える


 ここでは、狩勝峠越えの道路と鉄道の路線選定について考えていく事にします。旧線と旧国道の経路です。

 官設鉄道の旭川−釧路間が開通したのは明治40年9月8日(日曜日)であった。北海道における鉄道創始は明治5年、新橋−横浜間開業と同じ年に既にその胎動をみている。実際に汽車が走るのは明治12年の手宮−札幌間が最初であるが、開拓事業の推進には不可欠のものであり、本道に眠っている資源を本州に大量に搬出する為にも、当初から重要であったということであろう。

 しかしながら、広大な北海道にくまなく鉄道網を張り巡らせるのは大変な事であった。南北に連なる脊梁山脈である日高山脈・大雪山系、北見山地・・・。北海道の東西交通を険しい地形が阻んできた。

 狩勝峠を初めて越えた和人は、一般的に「松浦武四郎」とされている。松浦武四郎は、文政元年(1818)三重県一志郡須川村小野江(現在の三雲町小野江)に生まれた。「十勝日誌」をはじめとする地図、紀行文など大量の著作を表し「北海道」の名付け親となった人物である。彼の踏査ルート、ならびに通過経路は後の交通路開削ルートに多大な影響を与えている。ここに、幕末より明治に至るまでのこの地方の主な探検、調査を下にあげる事にする。

 

  •  寛政12年(1800) 皆川周太夫(しゅうだゆう)の「寛政日勝道路」踏査(清水−日高間の日勝峠ルートにあたる)。

  •  天保3〜5年 (1832-1834) 今井八九郎(松前藩)の「東西蝦夷地大河之図」に「シントクからソラツま で二五・六里位」と記述される。

  •  明治5年 (1872)  開拓使属吏一瀬朝春が空知川より佐幌岳山頂を経て清水町人舞(二トマフ)に入る「北海道河源探討記」。また、酒井忠郁(ただふみ)の狩勝越え「北地履行記」。

  •  明治9年 アメリカ人技師モルレ・S・デー、十勝・佐幌川流域の調査。松本安宅ら三角測量隊、十勝川流域へ。

  •  明治12年 行商人 大宇川八郎、日高の沙流川より佐幌岳のふもとを経、清水町ビバウシに入る。

  •  明治14年9月 内田瀞・田内捨六、蝗害(こうがい)調査と札幌、根室間の道路開設の可否、日高、十勝の通路を開削するための地形、地質の調査。

  •  明治17年(1884) 内務省の高橋不二雄が地図作成の為、佐幌岳などに登る。

  •  明治21年 殖民地区画選定・道路測量、内田瀞・柳本通義ら。

  •  明治29年 北海道庁に臨時鉄道施設部が置かれ、旭川と釧路を結ぶ鉄道が計画される。 (この年、狩勝関係分の5万分の1地形図が陸軍陸地測量部によって作成されている。)

  •   明治30年 田辺朔郎ら落合側より佐幌岳のすそを目当てに踏査。

  •   明治31年 田辺朔郎、数人の技師と共に狩勝峠に登る。

     ここに登場する、田辺朔郎というのは明治23年に完成した琵琶湖疎水の工事を担当した人物として知られる。このとき、田辺を疎水の工事主任に任命したのは北垣国道知事であった。北海道では、北垣は北海道長官となり、田辺朔郎を鉄道敷設部の技術長として任命することになった。

     新得町百年史によると田辺が「何んのよりどころもなくこの地点(狩勝)を目当にしたとは思えない」とし、酒井忠郁の「北地履行記」の記述を紹介している。
      佐幌川ノ水源ハ佐幌山ニ発シ該山ハ篁竹蔓生シ麓ニ榿楢アリ峰マデニ、嶮ニシテ峰ニ至リ平坦ノ如ク椴繁茂ナシ此山頂ヲ十勝石狩ノ国界トス頂ヨリ一四、五丁漸々下低ナシ石狩国空知郡空知川ノ支川「ユークルヘシヘ」ノ源川ニ達 忠郁明治五年中跋渉セシ處ニシテ実ニ容易ノ山脈ナリ往々石狩ト十勝ノ開道ナスニアラバ又容易ナラント思想ス

     これら先人の資料が、南富良野町落合より十勝の新得町付近に峠越えする旧狩勝線線路の路線決定に影響を及ぼしているであろうことは想像に難くない。しかし、この旧狩勝線のルートはすんなりとここに決まったわけではなかった。それは、先に完成していた石狩道路の経路も絡んでいたからである。

    『石狩道路』のこと

     狩勝の鉄道開通を遡る事、8年程前に石狩道路(十勝国道などともいう)が開通していた。明治26年に大津より茂岩(豊頃)を経て芽室高台に至るまでの道路が完成していたが、これは、当初新得まで開通する計画だったものが、途中で予算を使い切ってしまった為に芽室で工事が止まっていたものである。それを明治31年10月にいたって工事を再開し、翌年に富良野まで全通して旭川方面への交通が開かれたものである。この道路は旭川から隣りの落合まで鉄道が開通する(明治34年)とますます利用度が高くなり、新得側で収穫した作物をこの峠越えで落合駅にまで運び、列車に積み込む者が出るなどした。また、新得など十勝の北部への入植者がそれまで海路で大津より十勝川を遡っていたものが、同じく落合まで汽車に乗り、落合から狩勝越えして新得経由でそれぞれの入植地へ入っていった。尚、この道路は大正9年5月「地方費道」に昇格している。
     吉田巌の「愛郷草紙」(帯広市社会教育叢書)に昭和15年当時に開拓一世より聞き取りした石狩道路の様子の記述がある。

       「明治34年8月国境を越えて新得からシベツ川の方へ出た」(加納佐兵衛)
      「明治38年5月 石狩から山越えで帯広に来住した。当時石狩落合から帯広へは汽車が通じていない。駄鞍馬(だぐらうま)が通った。落合から新得まで上下五里、此間熊の出没で危険、クシナイまで落合から一里、クシナイ、シントクに駅逓があって泊まる・・・・(後略)」(住永勇義)


     今となっては貴重な聞き取りであるが、当時は自動車なども無く、馬等でこの道を往来した様子がわかる。この道路はいわゆる「旧狩勝線」の落合−狩勝峠−新内−新得という経路ではなく、落合−串内(くしない)−広内(ひろうち・新得の西)−ペケレベツ(清水)という経路で峠越えしている。

     石狩道路のルート選定は次の資料によって明らかにされている。
        「北海道殖民地撰定報文(明治24年3月)」・・・十勝国原野総叙(運輸) 運輸ノ便交通ノ途開ケサル敢テ喋喋ヲ要セサル所ナレトモ本地ハ東南太平洋ニ濱シ東ニ釧路港アリ中央道路ノ開築「パンケシントク」ヨリ「ヲトプケ」ノ上原ヲ経テ貫通スルノ計画アラハ他日果シテ根室、札幌ノ全通ヲ告ゲ釧路ノ築港成リ之レニ連ナル支道ヲ開築シ十勝川ノ改良水路ノ便通スルニ当テハ彼我交通物産消流需要ノ途一時ニ発達シ百科輻輳ノ地タル期シテ待ツヘキモ如何セン内部ハ僅カニ十勝川ノ水運ト土人ノ足跡ナル小径ニ過キサレハ中央道路ノ全通ハ目下ノ急務ニシテ工事易ク之ヲ石狩国部内ニ比スレハ其難易同日ノ論ニアラス「ルウマソラチ」ヨリ「パンケシントク」ノ山脉ヲ踰ヘ本地ニ入ラハ地形ハ概シテ凹凸ナク 大ナル波状ニ過キス高低大差ナク「ヲトプケ」「ピリベツ」ヲ経「リクンヘツ」ニ達スルヲ得ベシ石狩国空知川支流「ルウマソラチブト」ヨリ右岸ヲ沿フテ「シケレベナイ」ニ至ル此間高サ凡二百尺距離四五丁ノ低山河岸ニ斗出シ対岸又絶壁他ニ線路ノ取ルヘキ平地ナク此山頂ヲ踰過セサルヲ得ス「シケレベナイ」ノ渓谷ヲ遡上シ其水源ノ山頂ナル字「シクマ」ヲ経「ペンケシントク」ニ出ルハ之ヲ「ルベシベ」ヨリ「パンジヤウシベ」「ペンジヤウシベ」ノ凹峯ヲ踰ヘ「パンケシントク」ニ至ル仮定線路ニ比スレハ其距離稍ヤ近シト雖トモ険峻急坂到底通路ヲ開クヘキ所ニアラズ「シクマ」ニ於テ高低ヲ閲スルニ海面ヲ抜ク大約二千五百尺途ヲ迂回シテ「ルウマソラチ」川ヲ遡リ其支川「ルベシベ」ヨリ左折シ「パンケシントク」ノ山麓ヲ迂踰シテ山峯ノ稍凹所ニ至レハ十勝、石狩両国ノ境界ニシテ高サ海面ヲ抜ク大約二千三百尺此線路ハ漸昇漸下唯一ノ山峯アルニ過キサレハ道路ヲ爰ニ敷ク最モ便ナルナリ今「ルウマソラチブト」ヨリ此線路ヲ経テ根室方面ニ向フ踏ケンノ里程ヲ挙クレハ「ルウマソラチブト」ヨリ「リクンヘツ」ニ至ル二拾九里ニシテ其行路ハ「ルウマソラチブト」ヨリ「パンケシントク」ニ至ル大約五里「パンケシントク」ヨリ「二トマツプ」ニ至ル二里半「二トマツプ」ヨリ「ヲトプケ」上流ニ至ル八里半・・・(後略)
     

     さて、ここに登場する「パンケシントク」から「ルウマソラチ」とはまさしく現在のパンケ新得川より支流の九号川を遡上し、南富良野町串内へ至るルートで、現在高速道路ならびに道道夕張新得線の予定ルートとされている鞍部(峠)のコースである。このルート(線路)より若干距離が短いが険しくて道路として不向きとされている「シケレベナイ」渓谷とはかつての南富良野の小出牧場のあったところ(現在のどんころ野外学校のある沢)のことである。ここは現在送電線が越えているがかなり急坂である。

     道路開削本命とされたルート上にある「ルウマソラチ」支川の「ルベシベ」とは恐らく現在のオダッシュ山方面に源を発し、串内牧場サブ付近でルーオマンソラプチ川に合流する「二股川(林野庁の地図では峠の沢)」のことである。依田勉三が明治32年10月9日にこの石狩道路を越えた時に泊まったという「ルベスベ川柾小屋」は、この川の名から来ているものと思われる。

     補足すれば「ルウマソラチ」はルーオマンソラプチで道が行っている空知(川)、「シケレベナイ」はキワダの実の川、「ルベシベ」は道が沿って下るもの(川)で、交通路の存在を示す。

     さて、これだけ道路開削に適している路線であるから当然、石狩道路の峠としてこの「パンケ新得−ルーオマンソラプチ(串内)」コースは採用された訳である。そこで、鉄道の経路はというと次のような記述がある。

      北海道殖民状況報文(明治34年) 

       「十勝国前編総説地理」

      ・・・日高山脈中十勝「アイヌ」カ古来石狩ニ越ヘタル径路ハ「サオロ」川ノ支流「パンケシットク」川ヲ溯リ石狩国空知川ノ上流ニ出タリ而シテ今日石狩十勝間ノ道路モ此処ヲ開鑿シ鉄道予定線路モ亦其付近ノ低処ヲ越ユル計画ナリ・・・(後略)

      「十勝国上川郡 人舞村 屈足村」

       ・・・郡ノ南西境ニ於テハ日高山脈の高五千尺ニ達スト雖モ其脈漸ク北シテ低ク「パンケシットクナイ」ノ水源ニ於テ帯広旭川間ノ道路ヲ開通セリ其北ニ「ペンケシットクヌプリ」(高二千九百九十三尺)サオロ岳(高三千七百七十二尺)アリ更ニ降リテ高千六百余尺トナル是レ即チ十勝線鉄道ノ通過スヘキ予定地タリシカ道程ノ迂回甚タシキヲ以テ其後通過点ヲ「パンケシットクヌプリ」ノ方ニ変更シタリト云フ・・・・(後略)


     「十勝国前編総説地理」と「十勝国上川郡 人舞村 屈足村」が書かれた細かい年月はわからないが多少の時間的ラグがあるように思われる。「地理」のほうでは、石狩道路の付近に鉄道の予定ルートを設定していると解釈できる。「上川郡」の解説のほうではより記述が細かくなり、勾配を考え佐幌岳北方の標高の低い地点で峠越えさせようとしたが、迂回が甚だしいので、「パンケシットク」の方に変更したとしている。ここでいう「パンケシットク」が「ペンケシットク」の誤りなのか、あくまで石狩道路の経路に固執しているのかはなんとも言えない所であるが、峻険ゆえにいろいろな検討が重ねられたらしい事がわかるのである。

     手元に一冊の小説がある。田村喜子氏の「北海道浪漫鉄道(新潮社)」である。1986年10月発刊と、石勝線の開通に合わせて発刊されたようである。内容はブックデータベースによると「開拓を促進するためには、まず鉄路をと念じる北海道の人々の願望を一身に、未踏の原生林や激変する天候と闘い、北海道鉄道敷設に賭けた土木技術者たちの熱い夢と理念を描く。書下ろし文芸作品。」となっていて、田辺朔郎を中心に物語が展開している。もちろん狩勝峠命名の経緯などに触れていて、旧狩勝線への思いがひとつのクライマックスとなっている。この本の著者の田村氏は土木の専門家や国鉄の関係者多数に取材されていて、小説に登場する技師の名前、帝国議会の議事録、三角点の記録に至るまで詳細に調査されているなという印象を受ける。
     この小説の中での路線選定のルートは「佐幌岳北方」「狩勝峠」「ペケレペツ岳南方」の3ルートとなっている。「ペケレペツ岳南方」のルートは鉄道部の年報や、殖民地撰定報文などでは記載は無いが検討されてもおかしくないルートである。狩勝以外の2ルートについては、鹿やアイヌが峠越えするのには良いが線路を敷く事が出来ないとして、丘に阻まれて確認の取れない真中のルート(狩勝峠)を技師の杉本一らとともに踏査していく内容になっている。

     実際鉄路の選定に当たっては、小説にも登場する杉本一が中心となっていたようである。旭川釧路間の鉄道開通当日に発刊された「北海タイムス」号外を見ると、北垣国道や田辺朔郎らと並んで功労者として一技術者の名がある。
       (鉄道建設功労者)「杉本 一氏」・・・鉄道技術者として落合新得間の線路選定の任に当る。当時鉄道は僅かに美瑛まで通するのみにて下富良野以北は全く人跡至らざる処なるを以て選定員も容易に登山するを得ず時の田辺部長三宅建設課長等凝議人選の上最も熱心なる杉本氏此難関に当る事となる氏病後の疲労全く癒えざるに之を快諾し登山せんとしたが石狩方面は山深くして到底登山すべからず更に十勝国大津に航し同地より糧食を背負ひ山中に分け入り三十二年より三十三年迄二ケ年間無人の境に天幕生活をなし殊に最も困難なる雪上踏査を行ひ漸く十勝石狩間の連絡線要路の測定を行ふを得たり斯の如き大難事業や氏の如き熱心家にあらずんば到底よくすべきの事業にあらざるべし・・・


     ここにきていよいよ鉄路の選定は現在の狩勝峠と、石狩街道の峠に絞られた。南富良野村史(昭和31年刊)の編者である岸本翠月氏は同村史のなかでこう述べている。

      「十勝線鉄道と交通」より

       ・・・・十勝線鉄道撰定の時、日本人技師(桜井某ときく)は串内を経路として測量したが、英国人技師は現在の線をとって対立した。
       当時政府は英国を崇拝していたので遂に英国側が採用されたが、日本人技師は悲憤の余り自殺したという話が残っている。今日、現地の事情に明るいものは串内が適当であるいうことに異議がない様である。

      「十勝側から見た十勝街道」より

       ・・・・新得駅のホームに立って狩勝国境の左の山を仰ぐと石狩に越して串内に出た鞍部が、狩勝と問題にならない低い線を見せているのである。新国道の方がはるかに複雑で高い山にのぼっているのはなぜだろう。歴史に忠実なものなら一度は問題にしたいところである。


     以上が南富良野村史の引用である。この時期の町村史は今のように編纂委員会という形でなく、地元の文筆家がほぼ一人で書き上げるということが有ったようである。非常に深い考察が加えられていて岸本氏の村史は読み物としても面白い。当時、既に狩勝越えの道路が開削されていた訳ですから、当然道庁でもこの経路沿いに鉄路も建設しようと言う考えがあったものと思われます。岸本氏の疑問にある旧狩勝線はなぜ狩勝峠経由になったか、という点ですが、実際現地を訪れると解るのですが串内側は非常に緩やかな地形で、線路も引きやすそうな地形になっています。ですが、新得側が片勾配できつい坂になっており線路を敷くには非常に困難を伴うのです。まず、当時の鉄道技術は、トンネル掘削の技術が非常に未熟で短いものしか掘れなかったと言う事です。標高は狩勝峠が644mで石狩道路が692mとなっており、見かけよらず50m程串内経由のほうが高くなっています。狩勝峠のほうは険しい分、峰が細くなっており、ここへ標高ぎりぎりまでのぼりつめた線路から短いトンネルを掘って切り抜けたのです。串内のほうは緩やかな分、峰が太っており、新得側に下ろそうとしても長大トンネルが必要となってしまいます。どうやらこの辺に旧狩勝線の路線決定の理由がありそうです。狩勝のほうが景色が良かったとか、英国人対日本人という感情的な問題だけで決められたものではないと私は考えています。

    地図
    北海道庁作成の地図(20万分の1)大正3年の版に加筆
     



  • H15.9.20
     「狩勝峠資料」(五十嵐信克)などによる
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