搭乗員養成で完敗した海軍 飛行予科練習生の実態−T

昭和16年(1941年)12月8日
この日、未曾有の民族的悲劇の幕が切って落とされた。 無謀な開戦だったのか、指導者が無責任だったのか、戦後さまざまな 論議がなされたが、戦争で失ったものは返ってこない。
国際慣例に反する交戦通告前の攻撃となった。多くWebサイトなどで奇襲と称しているが秋葉原事件の被害者と一緒でいきなり刺された・刺したようなものだった。 秋葉原事件の犯人に、すごいぞおまえは奇襲を行ったと賞賛するだろうか。 百人が百人犯人は許せないと 思うだろう。 この件は駐米日本大使館の怠慢に尽きる。 日米関係は険悪化の情況にあって緊張感がまるで感じられない。 だがこの責任の一端は海軍にもあった。 その真相はこちら

秋葉原通り魔事件(あきはばらとおりまじけん)とは2008年(平成20年)6月8日に東京・秋葉原で発生した通り魔事件のことである。この事件で7人が死亡、10人が負傷した。
表−1(1) 昭和16年(1941)12月8日 開戦当時の海軍戦闘航空兵力機数
戦闘機 艦爆艦攻陸攻 飛行艇 二座水偵三座水偵陸偵察
37512619432448177 121 30
合計1,395機で戦争に突入した。戦史叢書沖縄方面海軍作戦

表−1(2)  開戦前の全航空兵力
艦載機数基地航空機数練習機機合 計
7031,4699323,104
本表は日本海軍史による

表−2 昭和16年(1941)12月8日 開戦当時の搭乗員数
 士官 特・准士官下士官兵整備員
操縦460308 1,834 2,602791
偵察219358 2,358 2,935
679666 4,192 5,537791
昭和16年(1941)12月8日〜昭和18年(1943)年末までにこれら搭乗員の戦死は6,711人に達した。よって開戦時の人員を上回った。 戦史叢書 沖縄方面海軍作戦に弁解じみて、「急速養成によって多数の搭乗員が養成されたがそれによって練度が落ちるのも自明の理である」と述べる。 損失で練度が落ちたことは仕方がなかった。と泣き言を述べているのだ。戦争(暴力の応酬)だから人的損害は 避けて通れない。戦史叢書編者の言う昭和18年末(1943年)までの空母戦力を見てみよう。
「戦史叢書沖縄方面海軍戦史 P90」 昭和19年(1944)1,363人の搭乗員を失った。
年・月正規空母搭載艦載機
昭和17年9月
(1942)
日本5267
米国3255
昭和17年12月
(1942)
日本6291
米国3250
昭和18年2月
(1943)
日本6291
米国6401
昭和18年12月
(1943)
日本7321
米国181,066
 昭和17年(1942)9月はミッドウェイ海戦の後である。正規空母戦力において明らかに日本が有利である。空母の変動について、詳しくはこちらこちらを参照下さい。 
 当然米国も空母戦力において大きな打撃*1を受けていた。 ところが、米国は1943年の後半から猛烈な拡充を行うようになる。 これほどの拡充を行いながら彼らの搭乗員練度は落ちたのか? 以降の戦闘から練度は全く落ちていない。  実際のところ、工業力の差で建艦は米国に追いつけないだろうが、 搭乗員養成というソフトウエアでは同列であるはずだ。 戦争そのもののスタートは一緒であり、当然教育のスタートも一緒である。それどころか、戦争するかどうかのキーは日本側が握っていた。 すなわち、若干だが準備ということに限りれば有利だったはずである。 予科練の錬成はこちらをどうぞ
搭乗員損耗につてい何がその要因だったのか、
1.損耗に対する対策・対応が未構築だった。
2.搭乗員養成システムが全く話にならなかった。
3.搭乗員救助のシステムを構築出来なかったので、みすみす搭乗員を失った。
 これらが主たる要因であろう。 戦史叢書 沖縄方面海軍作戦の編者は単なる泣き言を言っているに過ぎない。 自明の理が聞いて呆れる。 兵学校教育はアホのポンタ養成組織だった証左である。  企業経営は常に先見性が求められる。先見性絶無の帝国海軍だった。
 昭和20年(1945)4月6日、航空特攻菊水作戦が西南諸島で開始されたが、侵攻する連合国は上陸軍だけでも18万人に及ぶ大軍で攻め寄せた。日本は米国本土にこの程度の兵力を上陸させ、 補給を続け制圧する力量があったであろうか。
 昭和19年(1944)末、軍令部第一部長に就任した富岡定俊は、戦後になってだが
ア.比島作戦の前途は見込みがない。
イ.台湾の防備には自信を持ち得ない。
ウ.沖縄なれば、点であるから防備は易い。九州や台湾から飛行機の特攻をかけられるし、潜水艦も有効に協力させられる。ひとり、沖縄戦場のみが戦勢挽回を策し得る決戦場である。と述べている。
ではこれ以降の段階で Imperial Navy はどのような目標を持っていたのか? こちらをどうぞ。
*1 作家澤地火久枝氏はその著書 「記録・ミッドウェイ海戦」 で搭乗員の戦死は日本 121(巡洋艦水偵搭乗員含む)
その内空母搭乗員は110人。 空母赤城7、加賀21、飛龍72、蒼龍10である。 一方米海軍の搭乗員戦死者 208である。 
この海戦で歴戦の搭乗員を多く失ったことが日本海軍の敗因である。という通説はウソ。 それでもなお、空母戦力は日本が有利だった。
1.はじめに
1) 乙種飛行予科練習生
 昭和5年(1930年)に創設され、 高等小学校卒業者で満14歳以上20歳末満で厳しい試験に合格した者のみ 採用され、中堅幹部育成の為の教育を受けた。 また昭和18年(1943年)から戦局の悪化に伴い乙種予科練志願者の中から選抜し、 乙種(特)飛行予科練習生(特乙飛)とし短期養成を行った。当初は、 横須賀の追浜基地がその教育に用いられたが、手狭なため土浦海軍航空隊に 変更になった。戦局悪化による大量養成を図る必要にせまられ、 練習基地は全国へと広がっていった。
 初期理念的教育期間2年6ヶ月。 飛練6ヶ月。
2) 甲種飛行予科練習生
 昭和12年(1937年)、更なる搭乗員育成のため、旧制中学校4 学年1学期予期修了以上 (後に3学年修了程度)の学力を有し年齢は満15歳以上20歳未満の志願者制度を設けた。  結果から見れば、航空士官の下働き、すなわち下士官養成所であるとともに、 海軍で一番死亡率の高い兵員養成所となった。
なお、前記の練習生は乙種飛行予科練習生(乙飛)と改められた。  この改編に伴い、操縦練習生の名称を丙種飛行予科練習生(丙飛)に変更。
 また、各予科練を甲・乙・丙と言う優劣を表す名称に変更したため、 また昇進速度の違いなどもあり海軍当局と生徒の対立関係が発生した。また甲飛の募集のさい、 海軍兵学校に準ずる処遇と誤解を与える募集方法だったために間違えて甲飛に入隊してしまった例も多い。
 教育期間:基礎教育1年6ヶ月。飛練6ヶ月。
 戦局が風雲急を告げる甲種13期は前期,後期の二期に別れた。昭和18年10月に入隊した前期組は基礎教育8ヶ月。飛練6ヶ月。 12月入隊の後期組は訓練用のガソリンが枯渇し実質的飛行訓練はなされず、水中,水上特攻隊員に充足された。
 昭和19年には膨大な甲種飛行予科練習生が入隊している。単なる人材確保とも思えない。本音の意図はどこにあったのか。戦後の公刊戦史は何も答えていない。
3) 乙種(特)飛行予科練習生
 戦いが熾烈となった昭和18年(1943)、乙種飛行予備学生(17歳以上)の優秀者を短期養成するため特乙制度が発足した。 同年に4,330人。翌1944年2,384人が、岩国、三重の営門をくぐった。後、搭乗員養成期間は6ヶ月程度に短縮された。この特乙は航空特攻要員に充当される。  教育期間:基礎教育:6ヶ月。飛練:6ヶ月。
4) 丙種飛行予科練習生
 海軍内部からの採用である。 昭和15年(1940) 10月1日を嚆矢として、1943年(昭和18年) 3月31日が最後の入校となった。この間の 入隊者は 7,298人である。そして戦死者は 5,502人に達した。  海軍最下級の学歴者が多かったし、彼らの戦死率は実に 75.4% であった。 兵学校出身者は、これら純真な若者を罵倒し、けしかけ、自らは後方にあって進め! 進め!とボロぎれの如く扱った。 と、残された資料で垣間見られる。
 教育期間:基礎教育:3ヶ月。飛練:6ヶ月。

表−1 各年別予科練入隊者・戦没者数
表−1 項 目乙飛甲飛丙飛特乙
開戦前入隊数6,2033,1682,333 11,704
戦没数4,0912,4661,935 8,492
戦没率 %66.077.8 82.972.6
役務数 2,112 702 3983,212
昭和16年
(1941年)
入隊数603 603
戦没数484 484
戦没率 %80.380.3
役務数119 119
昭和17年
(1942年)
入隊数2,980 2,2883,1138,381
戦没数 5131,510 2,3074,330
戦没率 %17.266.0 74.1 51.7
役務数2,467778 806 4,051
昭和18年
(1943年)
入隊数7,31031,2031,249 4,330 44,092
戦没数1861,834776 1,310 4,106
戦没率 %2.5 5.962.130.3 9.3
役務数 7,124 29,369 473 3,020 39,986
昭和19年
(1944年)
入隊数36,746 78,027 2,384117,157
戦没数 194 83838 1,070
戦没率 %0.5 1.1 1.60.9
役務数 36,552 77,189 2,346116,087
昭和20年
(1945年)
入隊数33,86425,034 58,898
戦没数 0 130 130
戦没率 %0.00.50.2
役務数33,864 24,90458,768
全期間入隊数87,103139,720 7,298 6,714240,835
戦没数 4,984 6,7785,502134818,612
戦没率 %5.7 4.9 75.4 20.17.7
役務数 82,119 132,942 1,7965,366222,223
 項 目乙飛甲飛丙飛特乙
卑怯未練 海軍兵学校 階級別特攻死

表−2 海軍各年保有機数
表−2  海軍各年保有機数
機種別:年月昭和17年12月
(1942年)
昭和19年3月
(1944年)
昭和20年8月
(1945年)
戦闘機 569 1,999 2,337
艦攻・艦爆184 636 860
陸攻・陸爆510 473 594
偵察・哨戒10 10 317
輸送機 7995 58
水偵・観測309 937 535
飛行艇83 118 20
練習機6361,6712,515
合計2,3805,9397,236
本表出典:日本海軍航空史(時事通信社)

表−3 昭和17年(1942年) 予科練習生 集計
表−3  昭和17年 予科練習生 集計発生した事象
前期
昭和17年1月〜6月
入隊数3,447 珊瑚海海戦 1942年5月7〜8日
戦没者数1,848 ミッドウェイ海戦 1942年6月5日
戦没率 %53.6
役務数1,599
初期
昭和17年7月〜12月
入隊数 4,934ガダルカナル島戦始まる
ソロモン消耗戦 1942年8月7日〜
南太平洋海戦 1942年10月26日
戦没者数2,482
戦没率 %50.3
役務数 2,452

2.搭乗員養成で完敗した海軍
1) Imperial Navy の空母搭乗員養成は24カ月程度が必要だった。
米軍は12ヶ月で航空母艦に離着艦可能にまで仕上げた。 恐らくカリキュラムの問題だと考えられる。 実質的な対米戦闘は開戦の翌年1942年からであり、当然戦闘における兵員消耗を考慮すれば、 1939年頃から空母搭乗員の養成を開始しなければならない。
開戦前の搭乗員養成人員は、そのまま1941年12月まで全員在隊したとは考えにくいが数字的には必要十分な 11,704人 に達している。この戦力でもって太平洋戦争に突入した。
2) 1942〜43年初頭の搭乗員喪失
@ 1942年5月7〜8日珊瑚海海戦 A 1942年6月5日ミッドウェイ海戦  B 1942年 8月7日〜ソロモン消耗戦
C1942年10月26日南太平洋海戦。 この海戦で空母「翔鶴」、軽空母 「瑞鳳」中破。多くの搭乗員を失しなった。前二つが空母艦載機同士の戦いであり、 Aの段階で日米双方とも空母と艦載機の戦力は大幅に減殺された。  Cに入り帝国海軍は大きな誤りを犯した。 ラバウルから島伝いにガダルカナル島まで到達できる空海域に、 残存空母搭乗員を6ヵ月間注ぎ込んのだ。 ガダルカナル島は海軍が飛行場建設のため勝手に進出し、 つられて陸軍が少ない兵力を小出しに注ぎ込んだし、陸軍航空隊は全く活躍していない。 米海軍にとってこの海戦の実質的敗北は 大きく、瞬間的だが太平洋方面で使用できる正規空母はゼロとなってしまった。 日本海軍にとって千載一遇のチャンスであったはずだが・・・・・
表−1 にみるように、開戦までに養成したベテラン搭乗員がこの期間に無力化された。 ガ島撤退までに海軍の第一線機 892 機、搭乗員 1,882人を失った。 これはミッドウェイ海戦の3倍の喪失機であり搭乗員は実に15倍であった。  海軍が実戦機 1,200 機程度で戦争に突入したことを思えば喪失機は再生産可能だとしても、搭乗員の喪失はその手当を欠いていただけに致命的であり、開戦14ヵ月 にして再起不能の打撃を蒙ってしまった。
少なくとも航空兵力養成の実状からガダルカナル島には手を出すべきでなかったし、島嶼伝いに飛行すれば島にたどり付ける 訳であるから、5〜600浬も目標無き洋上を飛行できる能力の搭乗員をこの局面で使う愚は避けるべきであった。 この瑞鶴、翔鶴他のパイロットをラバウルに 揚げたのは、他ならぬ聯合艦隊司令長官山本五十六(1943年4月18日戦死)であった。 彼は有能だったかも知れないが、洞察力と大局的戦略眼並びに 航空兵錬成の現状と実態を知っていたとは思えない。
平賀譲に関するエピソード
珊瑚海海戦で中破した空母翔鶴の損傷はミッドウェイ海戦の敗北までは放置されていた。理由は簡単で当時の Imperial Navy で航空母艦は補助戦力であり、主戦力はあくまで戦艦であった。 この思想の根源は建艦の神様視されていた平賀譲に負うところが大きい。 彼の主張は明快で戦艦の主砲弾は1発1トン以上。それを砲1門で100発搭載している。 仮に大和級だと主砲9門。砲弾1,000Kg × 主砲9 × 100発= 900,000Kg すなわち900トンを敵の頭上に見舞うことが出来る。 これだけの重量を空母艦載機で敵に見舞うとすれば航空機の爆弾が 250Kg だと 3,600機 必要だ。 こんなことが実現できるか考えて見ろ!。 ごもっともが海軍の金科玉条になった。  ちなみに翔鶴,瑞鶴の搭載機は72機である。 すなわち戦闘機24機,艦爆(爆弾)24機,艦攻(魚雷または爆弾)24機である。艦爆が敵の頭上に見舞う爆弾重量は6トン,艦攻は19.2トンである。
日本の空母で一度に発艦できる機数は概ね戦闘機9機,艦攻9機,艦爆9機である。離艦距離の関係でまず戦闘機が発艦,続いて艦爆,最後に総重量が大きな艦攻(魚雷800Kg)の順であった。 主砲砲術系が海軍の主導権を最後の最後まで握っていた。 明治の頭脳が昭和を戦っていたのだ。 兵学校出身者の大多数はそれを誰も不思議と感じない歴史上誠に不思議な戦闘集団だった。 戦艦大和と武蔵は何かあると引き出され一仕事したつもりで(実際たいした仕事はしていない)瀬戸内西部に帰還したが戦艦だけはいつも周囲に防潜網が展張された。 航空戦力の優劣が戦勢を支配したが、変わる時代に変わらぬ頭脳の持ち主が Imperial Navy を支配していた。
ミッドウェイ海戦の後、空母改良研究会が開催された。 結論は驚くべき内容だった。

飛行予科練習生の実態−2進む    若者に死ぬことを煽った罪深い人間

[imperialnavy] 内の各 htm ファイル
板谷芳直がみた海軍省内の玉音放送   昭和20年1月25日 決戦非常措置要綱