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【ミッドウエー海戦】 大敗の引鉄(ひきがね)を引いた男 源田実 【特攻悲しき記録】 誰が航空特攻を主導したのか 【犬の遠吠え思想】 戦艦大和の主砲 【天一号作戦】 出撃駆逐艦 【資源還送】 に見る完敗の海軍 【戦艦大和】 袋のネズミ作戦 【予科練】 その失敗の実態 |
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飢渇は太平洋戦争前にすでにその萌芽があった。 日中戦争の長期化は軍事費の増大をもたらし、生活必需品が品不足となり物価が高騰するなど、国民生活を圧迫し政府は経済統制の強化をすすめ、 昭和16年(1941)4月から主食の米も配給制となった。米の割当は大人一人あたり二合三勺(330g)で、 当時の消費量水準からすれば八割にしかならず、国民の飢渇感は深まりつつあった。すでに綿製品は市場から消え、砂糖もマッチも切符制となり、酒類、燃料、食油、魚類が配給制となった。 中国から撤兵しない限り国民生活は破綻の道を歩いていた。 砂糖がナゼ市場から消えたのか? それは軍が砂糖からアルコール(航空機などの代替燃料)を抽出するため、ほぼその全量を奪ったことによる。 |
| 米軍の第一次機雷投下作戦は、沖縄上陸作戦を控えて帝国海軍の残存艦艇が、 もし出撃するようなことがあっても、豊後水道に限定する作戦であった。 同時に損傷艦艇が再び呉海軍工廠で修理など受けられなくする封鎖作戦でもあった。 |
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更に、米国の戦略はハッキリしていた。食料をはじめとする全ての資源を海上輸送せざるを得ない島嶼国家の命脈を絶つには輸送船を沈めることだった。
昭和18年(1943)までは、魚雷の早発や不発の問題を抱えていたが昭和19年(1944)に入るとそれも改善され、
機雷探知用FMソナー、 無音水深測深儀、敵味方識別装置(IFF)、マイクロ波SJレーダー(対艦・対空)、
前方投射式爆雷発射機、夜間潜望鏡など斬新な新兵器を次々と戦場に投入した。
一方戦術面では、当初の攻撃目標を、 輸送船隊護衛艦(日本軍には圧倒的に不足していた)とし、これをほぼ殲滅し次なる目標はタンカーだった。 昭和20年年初(1945)から敗戦までの8カ月、日本に帰り着いたタンカーはたったの6隻。 海軍大学校でも、国家総力戦の一環として、 軍令部に第12課を新設し「海上交通保護関係」を行わせたにも係わらず、 潜航潜水艦の探知能力や攻撃能力は敗戦まで改善されず有効な対応が出来なかった。 駆逐艦は潜水艦対策用ではなく 艦隊護衛の水上戦闘補助艦であり、一等駆逐艦を海上護衛に使用する海軍としてのコンセンサス(consensus)は最後まで 出来なかった。 また護衛戦そのものの認識もなかった。 ここまでの出典:公刊戦史 海上護衛戦 頁30〜 では海軍はシーレーン確保と商船保護の重要性を認識していたのか? 実は認識していたのである。 認識していながら、出来なかったことを一体どのように考えればよいのか? 単なる企画力、構想力、実行力が無かっただけなのか? 『Starvation (飢餓; 餓死):日本帝国の戦略機雷封鎖の局面』 がある。それによると、 |
| (局面) | 期 間 | 作 戦 意 図 |
| Stage−T | 3月27日〜5月2日 | 沖縄上陸支援作戦 |
| Stage−U | 5月3日〜5月12日 | 瀬戸内海と伊勢湾・東京湾の封鎖 |
| Stage−V | 5月13日〜6月6日 | 新潟・七尾・舞鶴・敦賀など九州各港の封鎖 |
| Stage−W | 6月7日〜7月8日 | Stage−Vの拡大と強化(神戸・日本海側諸港封鎖) |
| Stage−X | 7月9日〜8月15日 | 完全で全般的な封鎖(朝鮮南部・東部海岸諸港まで含めた封鎖) |
| 敵の意図とその緻密さと作戦能力の高さにただただ圧倒される。当時の為政者は国民生活のことなど、寸毫も考えていなかった。戦略爆撃調査団報告がそれを物語る。 現在も、政党間の政争に明け暮れている。日本も日本人も戦前と少しも変わっていないように見受けられる。 |
| Stage(局面)−T 1945年(昭和20年) 3月27日〜5月2日 沖縄占領支援作戦 | |||||||||
| 作戦任務 番 号 | 目標到着 日 付 | 投入 機数 | 損失 機数 | 投下 トン数 | 撃墜 機数 | 投 下 場 所 | |||
| No.1 | 第47号 | 3月27日 | 102 | 3 | 550.0 | 1 | 下関海峡西入口・周防灘 | ||
| No.2 | 第49号 | 3月30日 | 94 | 2 | 549.0 | 0 | 呉・広島水域・柱島海域・佐世保 | ||
| No.3 | 第52号 | 4月1日 | 6 | 0 | 24.0 | 0 | 呉港 | ||
| No.4 | 第53号 | 4月2日 | 10 | 0 | 54.0 | 0 | 屋代島〜柱島〜呉 | ||
| No.5 | 第54号 | 4月3日 | 9 | 0 | 47.0 | 0 | 大畠瀬戸〜呉南入口 | ||
| ここまでは、戦艦大和瀬戸内西部封じ込め作戦でもあった。 残存艦艇の佐世保進出阻止と、呉湾に戻れなくする作戦でもあった。 | |||||||||
| No.6 | 第62号 | 4月10日 | 20 | 0 | 108.0 | 0 | 下関海峡西入口 | ||
| No.7 | 第66号 | 4月13日 | 5 | 0 | 27.0 | 0 | 下関海峡東入口 | ||
| この期間に投下された機雷は1,358トン(戦史叢書 海上護衛戦)。 19隻が触雷沈没し、39隻が損傷した。 | |||||||||
| Stage(局面)−U 1945年(昭和20年) 5月3日〜5月12日 瀬戸内海と伊勢湾・東京湾の封鎖 | |||||||||
| 作戦任務 番 号 | 目標到着 日 付 | 投入 機数 | 損失 機数 | 投下 トン数 | 撃墜 機数 | 投 下 場 所 | |||
| No.8 | 第139号 | 5月3日 | 97 | 0 | -- | 0 | 下関海峡・神戸・大阪湾 | ||
| No.9 | 第150号 | 5月5日 | 98 | 0 | 576.5 | 0 | 瀬戸内海・伊勢湾・東京湾 | ||
| Stage(局面)−V 1945年(昭和20年) 5月13日〜6月6日 新潟・七尾・舞鶴・敦賀など九州各港の封鎖 | |||||||||
| 作戦任務 番 号 | 目標到着 日 付 | 投入 機数 | 損失 機数 | 投下 トン数 | 撃墜 機数 | 投 下 場 所 | |||
| No.10 | 第173号 | 5月13日 | 12 | 0 | 56.0 | 0 | 下関海峡 | ||
| No.11 | 第175号 | 5月16日 | 30 | 0 | 166.0 | 0 | 下関海峡・舞鶴港・宮津港 | ||
| No.12 | 第177号 | 5月19日 | 34 | 0 | 192.0 | 0 | 下関海峡・敦賀港 | ||
| No.13 | 第179号 | 5月21日 | 30 | 3 | 184.0 | 0 | 下関海峡・舞鶴港 | ||
| No.14 | 第180号 | 5月23日 | 32 | 1 | 176.0 | 0 | 下関海峡西・東入口 | ||
| No.15 | 第182号 | 5月25日 | 30 | 0 | 186.0 | 0 | 下関・新潟・七尾・伏木 | ||
| No.16 | 第184号 | 5月27日 | 30 | 0 | 200.0 | 0 | 下関・伏木・福岡・唐津 | ||
| No.17 | 第184号 | 5月27日 | 11 | 1 | 31.5 | 0 | 下関海峡西入口 | ||
| Starvation ナンバリングは、No.17作戦任務第184号が最後である。ここまでの機雷投下トン数は推定値を含む。初期攻撃は平均機雷搭載量から逆算し、中期以降は 搭載機雷型式ごとの投下個数から算出している。 | |||||||||
| Stage(局面)−W 1945年(昭和20年) 6月7日〜7月8日 神戸・日本海側諸港封鎖 | |||||||||
| 作戦任務 番 号 | 目標到着 日 付 | 投入 機数 | 損失 機数 | 投下 トン数 | 撃墜 機数 | 投 下 場 所 | |||
| 第190号 | 6月8日 | 31 | 0 | 159.0 | 0 | 下関海峡東西・福岡・唐津 | |||
| 第194号 | 6月10日 | 28 | 0 | 180.0 | 0 | 下関海峡東西 | |||
| 第201号 | 6月12日 | 27 | 0 | 182.0 | 0 | 下関海峡・敦賀湾 | |||
| 第202号 | 6月14日 | 30 | 0 | 176.5 | 0 | 下関海峡・新潟 | |||
| 第204号 | 6月16日 | 30 | 0 | 175.0 | 0 | 下関・伏木・福岡・唐津 | |||
| 第205号 | 6月17日 | 28 | 0 | 149.5 | 0 | 下関海峡・神戸 | |||
| 第213号 | 6月20日 | 28 | 0 | 180.0 | 0 | 下関海峡・宮津・舞鶴・新潟 | |||
| 第214号 | 6月23日 | 30 | 0 | 170.0 | 0 | 油谷湾入口・仙崎・伏木・七尾 | |||
| 第221号 | 6月24日 | 27 | 1 | 163.0 | 0 | 福岡・唐津・境港・新潟 | |||
| 第222号 | 6月26日 | 27 | 0 | 177.0 | 0 | 下関海峡・舞鶴・小浜 | |||
| 第233号 | 6月27日 | 30 | 0 | 186.5 | 0 | 萩・神戸・新潟 | |||
| 第239号 | 6月30日 | 29 | 0 | 165.0 | 0 | 下関海峡西・舞鶴・酒田 | |||
| 第244号 | 7月1日 | 28 | 0 | 161.0 | 0 | 下関海峡・伏木・七尾 | |||
| 第246号 | 7月3日 | 31 | 0 | 274.0 | 0 | 下関海峡・船川・舞鶴 | |||
| Stage(局面)−X 1945年(昭和20年) 7月9日〜8月15日 朝鮮南部・東部海岸諸港まで含めた封鎖 | |||||||||
| 作戦任務 番 号 | 目標到着 日 付 | 投入 機数 | 損失 機数 | 投下 トン数 | 撃墜 機数 | 投 下 場 所 | |||
| 第256号 | 7月10日 | 31 | 1 | 200.0 | 0 | 下関海峡・新潟・七尾 | |||
| 第262号 | 7月11日 | 30 | 0 | 163.0 | 0 | 羅津・釜山・下関・宮津・舞鶴・小浜 | |||
| 第268号 | 7月13日 | 31 | 0 | 200.0 | 0 | 下関・清津・馬山・麗水・福岡 | |||
| 第269号 | 7月15日 | 28 | 0 | 178.0 | 0 | 羅津・釜山・元山〜興南・直江津・新潟 | |||
| 第275号 | 7月17日 | 30 | 0 | 178.0 | 0 | 下関・清津・七尾〜伏木・東岩瀬 | |||
| 第276号 | 7月19日 | 31 | 1 | 184.0 | 0 | 神戸大阪・新潟・宮津・舞鶴・敦賀・小浜・元山〜興南・鼠ケ崎 | |||
| 第282号 | 7月23日 | 29 | 1 | 177.0 | 0 | 下関海峡・羅津・釜山〜馬山 | |||
| 第292号 | 7月25日 | 30 | 0 | 201.0 | 0 | 清津・釜山・七尾・伏木・敦賀・小浜 | |||
| 第296号 | 7月27日 | 30 | 3 | 168.0 | 0 | 下関・羅津・福岡・新潟・舞鶴・油谷湾・仙崎 | |||
| 第304号 | 7月29日 | 29 | 0 | 175.0 | 0 | 下関海峡西・羅津・福岡・唐津 | |||
| 第305号 | 8月1日 | 43 | 0 | 273.5 | 0 | 羅津・清津・下関西・浜田・境港・米子・中海 | |||
| 第311号 | 8月5日 | 30 | 0 | 181.5 | 0 | 羅津・迎日湾・境港・米子・中海・宮津・舞鶴・敦賀・小浜 | |||
| 第318号 | 8月7日 | 32 | 0 | 195.5 | 0 | 羅津・下関西・宮津・舞鶴・敦賀・小浜・日本海 | |||
| 第324号 | 8月10日 | 31 | 0 | 203.0 | 0 | 元山・下関西・境港・米子・中海 | |||
| 第331号 | 8月14日 | 39 | 0 | 223.5 | 0 | 下関西・浜田・宮津・七尾 | |||
| 戦略空軍*の対日機雷投下作戦は第331号が最後になった。投弾の終わりは15日02:08である。 | |||||||||
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飢餓作戦全期間を通じて投下された機雷は 12,135 個で、日本近海には、 11,277 個に達した。
その内、下関海峡には磁気機雷 1,682 個,音響機雷 1,899 個,水圧機雷 1,409 個。投下機雷総合計は 4,990 個で実に 40.2%に相当する。
攻撃は第313航空団が担当した。累計出撃機数は1,528機。ただし全機が目標に到達した訳ではない。 喪失機数は機雷投下作戦に限ると17機であるが、 対空攻撃で撃墜された機数は3月27日第1回下関海峡投下作戦と第184号5月27日の1機、残りの13機は別の要因による。 また、日本機の撃墜も3月27日の1機のみである。 機雷投下トン数は約 9,000トンに及ぶ。 機雷投下に限ると 1,500m 程度の低高度から投下している。 彼らの観測によるとサーチライトもレーダーと連動していない。 日本軍の航空機の目撃も非常に少ない。 この程度の低高度進攻に対して、航空機攻撃を行っていない(米側が記録していない)陸軍航空隊・海軍基地航空隊は一体何をしていたのであろうか??。 作戦任務番号第47号(3月27日) 1,500m 程度の低高度での機雷投下でありながら、ましてや日本の生命線ともいえる重要海域(関門海峡)で、陸海双方が所持運用していた対空火器が時代遅れの博物館陳列装備だった証であろう。 総じて戦術爆撃は少数機(多くても100機程度)で大都市焼夷弾攻撃は大規模である。最大は、 1945年6月5日07:22〜08:47 の神戸空襲。530 機が 3,133.8トン の爆弾の雨を降らせた。敗戦までに各地の民間人だけでも56万人が犠牲になった ものと推定されている。 1945年2月14日近衛上奏(敗戦・講和)までの都市攻撃は、1944年11月29日東京、29機。が最初。次が1945年1月3日の名古屋97機。 2月4日、110機による神戸。昭和天皇はこの程度の攻撃ならまだ、一矢を報いて講和を目論んでいたのかも知れない。 |
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海上防衛の担当は帝国海軍であった。
大艦巨砲・艦隊決戦に血道をあげたその先に輸送船を攻撃する米潜水艦に対して全く探知も攻撃も出来なかった。 空からの攻撃に曝された本土に於いても、
高射砲・高角砲はレーダーと連動せず(見込み射撃装置・航空機対応射撃指揮装置なし)、高度2,000m程度でも偶然を除いて米機は撃墜出来なくなっていた。
海軍も陸軍も攻撃は最大の防御とほざき、電探を敵探知の防御兵器と位置付け、研究と開発を怠った。 電探に必須のマイクロ波発生、高出力磁電管(空洞電磁管・マグネトロン)について欧米と遜色はなかったが、 軍令部や艦政本部のバカたれらは、「なニィーこちらから電波を出すだとぉー」そんなものは作らんと一顧だにしなかった。 |
| 損害多発ベスト3海域 | ||||
| 場所:項目 | 海軍艦艇 | 一般船舶 | 海軍艦艇 | 一般船舶 |
| 沈 没 | 損 傷 | |||
| 下関海峡 | 5 | 140 | 20 | 87 |
| 周防灘 | 1 | 86 | 12 | 80 |
| 和泉灘(大阪) | 1 | 25 | 1 | 18 |
| 合 計 | 7 | 251 | 33 | 185 |
| 出典:戦史叢書 海上護衛戦 頁505 | ||||
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上表は、1945年3月28日〜8月15日までの沈没・損傷ベスト3海域である。米軍による機雷投下は、
航行船舶への直接被害にとどまらず、心理作用に基づく航路遮断も大きかった。すでに述べたように、音響、磁気、
水圧機雷など多種に及び、その除去作業そのものが困難を伴うものだった。防禦の思想を持たなかった帝国海軍に開戦時、機雷掃海艇はゼロ。
開戦後に急遽建造されたが、1945年8月、敗戦時に稼働できる掃海艇は21隻にとどまった。
米戦略空軍のカーチス・ルメイは、都市無差別爆撃に執拗なまでこだわったが、鉄道網に対しての爆撃には全く興味を示していない。 都市爆撃を行った機数の半分を山陽・東海道線路の 爆撃を行えば、陸海とも国内物流網は寸断され、より早く勝利を確実にしたはずだ。 なにしろ道路網はまるで、発展途上国以下だったのだから。 確か国道1号線(東京〜大阪)が全通したのは1962年(昭和37年)頃だったはずだ。 余談だが、1945年(昭和20年)の軍・民間合わせて全国の車輌台数は 144,400台 しかなかった。 現在車輌登録台数は 5,600 万台であるが当時は人口500人に車1台程度である。当然都市間の道路は舗装されていない。 よって当時の日本で車が運転できることは特殊技能者で、 ステータスは高く村長、消防署長、車輌操縦技能者(運転者)の順である。 海軍軍人でも米軍のジープを知らないのは普通であり、 米国の若者が簡単に車を操り、敵前上陸地点に集積された物資を同時に揚陸したジープで簡単に分散させたが、 日本の若者は車が運転できなかった。 |
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国民の飢餓 ; 餓死が現実味を帯びる | ||
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Stage(局面)−T以降
大陸からの物資(食料)搬入の道は閉ざされ、 Stage(局面)−U及びVで 重要港湾も機雷で封鎖された。 国民には米国のねらい通り飢渇の危機が迫っていた。 1945年(昭和20年)の成人平均カロリー摂取量は、最低摂取要量 2,165 カロリーに対して、
わずか 1,680 カロリーに低下していた。 1945年11月1日、米の持ち越し量は全国民の4日分 13 万トンであった。また、同年の食料生産高は総計 640 万トンで大正時代初期(1912年)以来の惨憺たる不作であった。 戦争がもし続いていたなら、1941年〜45年生まれの乳幼児はそのほとんどの生存が覚束なかったと考えられる。 なお、減反政策が進んだ現在でも米の生産量は平年作で 860万トン程度はある。 <= 左の写真は1945年、国会議事堂前も芋畑にされた。 空襲・戦災を記録する会全国連絡会議空襲通信 | |
戦艦大和は沈み、戦況はますます追いつめられ国内各地は焦土となり、国民は家を焼かれ防空壕が寝食の場所となった。衣服もなく米袋を衣服代わり身にまとった者も少なくなかった。その内医薬品もなくなり、病気になっても死を見守るしか手だてがなかった。
それでもなお、軍部は一億特攻を呼号し本土決戦だ!と意気込んでいた。
敗戦に打ちのめされた国民に更なる災害が襲いかかった。1945年(昭和20年)9月17日14時頃鹿児島県枕崎市付近に上陸し日本を縦断した台風は西日本に潰滅的打撃を与えた。 食料生産にも大きな傷跡を残した。
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