実録・戦艦大和探索  残存 Imperial Fleet 機雷封鎖袋のネズミ作戦−U
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沖縄上陸支援作戦

昭和20年4月6日、残存帝国艦隊は最後の出撃を試みる。だがそれは強かな米軍の戦略により、柱島泊地(母港呉)にも戻ることができなくなった窮鼠のネズミの果てであった。

  戦艦大和袋のネズミ前編−T からお読み下さい。
昭和20年(1945) 4月1日月頭、海軍保有重油残量 26,413 トン。米軍関門海峡,広島湾・呉湾機雷封鎖。
  その内、特攻艦隊が搭載した燃料は、10,500 トン。
4月3日の段階で米軍は残存 Imperial Fleet (帝国艦隊)を機雷封鎖で追い詰め、
三田尻沖に結集した艦隊には、
1.座して死を待つか、
(内海西部で艦載機かB-29の爆撃で沈没)
2.死中に活を求めるか、
3.第一次世界大戦のドイツのように艦隊保全主義で講話交渉の材料に使うか、

三つに一つの選択しか残されていなかった。 結局、GF参謀「神 重徳」主導で日本の財産と将兵をなぶり殺す道を選択した。

 3月29日以降、戦艦大和の所在を見失った米軍は次の封じ込め作戦を実行することにした。
3月27日 関門海峡西入口機雷投下封鎖作戦海域は、
戦略的側面 日本海側(朝鮮海峡,東シナ海)から瀬戸内への船舶航行封鎖。
戦術的側面 瀬戸内海から日本海側の船舶航行封鎖。よって豊後水道航路の強制。
呉湾から姿を消した戦艦大和などの艦艇と、呉湾に留まっている艦隊を分離する作戦を実行した。 すなわち、艦船が広島湾や呉湾に入ることも、呉湾から出ることも出来ない機雷封鎖だ。
作戦は3月30日、4月1日〜3日かけて行われた。 岩国市由宇沖から倉橋島を直線で結んだ線に投下する。4月1日、米沖縄島上陸。戦略空軍は機雷投下作戦。 米国の底力を感ぜずにはおれない。
戦略爆撃調査団報告で第20航空軍発行冊子の標題に『Starvation (飢餓; 餓死):日本帝国の戦略機雷封鎖の局面』 がある。それによると、
(局面) 期  間作  戦  意  図     
Stage−T3月27日〜5月2日沖縄上陸支援作戦
Stage−U5月3日〜5月12日瀬戸内海と伊勢湾・東京湾の封鎖
Stage−V5月13日〜6月6日新潟・七尾・舞鶴・敦賀など九州各港の封鎖
Stage−W6月7日〜7月8日Stage−Vの拡大と強化(神戸・日本海側諸港封鎖)
Stage−X7月9日〜8月15日完全で全般的な封鎖(朝鮮南部・東部海岸諸港まで含めた封鎖)

機雷封鎖作戦と機雷投下数
作戦No日付目 標出撃機撃墜他、損失投下機雷数目標落下数投下高度 (m)
473/27下関海峡・周防灘 1023 9248371,500
493/30下関海峡・呉
広島・佐世保
 94 29068251,500
524/01 6   48 482,380〜2,440
534/02呉,広島10   84 781,830〜1,860
544/03呉,広島9   84 831,830〜1,875
合計22132 2,0461,871 
MK25,MK26,MK36などの機雷が投下された。 撃墜は3機 損失率 2.38%
本表は投下出撃機数で補助機を除いている。補助機3/27〜4/1 各2機。4/1 1機。4/3 2機である。

日付は作戦任務が発令された日。実際の投下開始時刻は翌日になる場合と同日のケースがある。 Stage−T、4月3日投下のケースで命令は前日2日と3日に出されたが、実際の投下は3日の日付がかわった直後と、同時の深夜に投下された場合などがある。

2回目の作戦は、3月30日の真夜中から、日付が変わった31日02:00頃まで行われた。B-29は、関門海峡東口航路筋と佐世保・広島湾に分散し機雷を投下した。 この空襲は関門上空まで飛来しなかったらしく下関市の記録には無い。この日は主として広島湾,柱島水域,佐世保である。
1945年3月30日、4月1日〜3日までの封鎖範囲は下のような状況だった。 関門海峡機雷投下海面。

戦時中米軍が投下した機雷爆破 2007年9月18日(9月4日に発見) 山陽新聞Webニュースから
笠岡市真鍋島6キロ北の瀬戸内海で18日、同島沖で見つかった機雷(500Kg・MK36)が爆破処理された。「ドーン」という爆音とともに 高さ約60メートル、幅約70メートルの巨大な水柱が上がった。
午前8時に作業開始。真鍋島2キロ北の海底(水深10メートル)に仮置きしていた機雷を、 ゴムボートに乗った海上自衛隊呉警備隊の水中処分隊員10人が風船を付けて浮かせ、 さらに4キロ北までえい航。
水深12メートルの海底まで沈ませ火薬を取り付け、午後1時半、爆破した。 えい航作業中は機雷から半径500メートル以内、 爆破作業中は同1キロ以内の一般船舶の航行などが禁止され、水島海上保安部の巡視艇やヘリコプターが周囲を警戒した。 爆破処理後、海上自衛隊呉警備隊、水島海上保安部が安全を確認した。
機雷は1日、笠岡市真鍋島の漁業男性が底引き網漁の操業中、引き揚げた。第2次大戦中に米軍が投下したとみられ、長さ1・7メートル、直径42センチ、重さ500キロの円筒形。
この機雷は、Stage(局面)−U(5月3日〜5月12日).瀬戸内海と神戸・大阪など工業中心の封鎖作戦で投下1個であろう。  米軍記録にみる投下機雷 MK25(2,000ポンド 1トン),MK26とMK36(1,000ボンド 500Kg)
この、広島湾,呉湾機雷封鎖作戦により、大型艦艇は移動の自由を奪われた。 かろうじて呉から脱出しても柱島海域に投下機雷が待ち受けていた。すなわち、大和以下の未発見艦隊は今や呉に戻ることも、 呉から出ることもままならなかった。米軍投下の機雷には、音響機雷、低周波音響機雷、 磁気機雷、磁気水圧機雷、接触機雷まで多種(八種類・250〜500kgの爆薬)にわたり、またそれらの複合機雷もあった。 さらに、カウンター付き信管まであった。 10までのカウンターが付いており、投下時3にセットすれば 感応検知3回目に爆発した。 もう対策・対応はお手上げだった。
戦史叢書 海上護衛戦で備後灘・燧灘に投下された機雷は219個である。
1945年4月1日、米軍は沖縄本島に上陸
赤線が機雷投下線 1945/4/1〜4/3 最終的に広島湾内には534個投下された。

作戦No日付目 標出撃機撃墜他 損失投下機雷数目標落下数投下高度
624/09下関海峡 21   132 1061,520〜1,920
664/12下関海峡 6   53 532,070〜2,350
合計 27   185 159 
関門海峡には更に79.5トンの機雷が投下された。
関門海峡には更に4月9日、4月12日にも述べ27機が機雷封鎖作戦を行い159個が目標に投下された。 安芸灘に投下された機雷は、広島宇品陸軍糧秣支廠の戦術資源の輸送阻止も兼ねていた。  Missions 62,66 での B29 の損失はなかった。 関門海峡機雷封鎖により大陸との船舶交通路が遮断され国民は飢渇に晒された。
おまけに、大和以下の艦隊が沖縄島に向かうために、海上護衛隊に回されるはずの重油が4,000トンカットされ、 ついに日本海に米潜水艦の進入*1を許した。
3月30日人間魚雷回天多々良隊を乗せた伊53潜が最初の触雷艦(光市沖)となった。沈没は免れたが損傷し基地に引き返した。代替は伊44戦で4月3日大津島基地から発進したが、再び基地に戻ることはなかった。
3月31日山口県三田尻沖で周防灘に投下した機雷の2隻目の被害艦は41駆逐隊に所属していた駆逐艦「響」だった。 その「響」を21駆逐隊駆逐艦「初霜」が曳航し呉に送り届けたが、よく触雷しなかったものである。
4月3日朝、新任74期少尉候補生が、三田尻沖に停泊している大和・矢矧に着任するため江田島から機動艇でJR山陽本線宮島口駅に向ったが、その際、機動艇士官より触雷の危険あり。 重々承知されたいという注意を受けている。
下関では目標からそれて地上に落下した機雷もあったので、大阪で信管部分が精査されたが、 当時の日本軍の技術水準では到底製作不可能との結論になった。
3月30日の作戦で B-29 2機が失われている。  大和は危ういところで、機雷封鎖線を脱出できたことになるが、 
その行動範囲は、屋代島(山口県東部)から宇部沖(山口県中部)にかけての狭い範囲に限定されてしまった。
*1 天皇の浴槽進入作戦 Operation Barney 作戦には三群九隻の潜水艦が投入された。 第一群グアム出撃は1945年5月27日。三群とも対馬海峡突破。天皇の浴槽といわれた日本海も米潜水艦の跳梁を許すことになった。これも大和後遺症と呼べるだろう。  この作戦で潜水艦1を失うも、宗谷海峡を抜けて凱旋。 科学者でも根こそぎ単発銃の引金引き役(一兵卒)に引っ張り出した日本と 新兵器開発に科学者を総動員した米国はFMソナーを開発し、日本軍の敷設した機雷堤を容易に突破できるようになった。
その後も米軍偵察機 F-13 は、
■ 4月3日作戦任務117号で機雷敷設(投下)後の状況偵察を行ったが、その際も大和は発見されなかった。
4月3日の大和では
早朝 B29 1機飛来。爆弾1発投下不発弾。被害無し。 新任74期少尉候補生(67人)、三田尻港より内火艇で着任。矢矧も同じ。
15:00時
第二艦隊の第二水雷戦隊(護衛の駆逐艦部隊)司令官古村啓蔵少将は,軽巡洋艦「矢矧」に駆逐隊司令や 各駆逐艦長らを集め、第二艦隊の有効活用法について討論したが、第二艦隊は、航空兵力の援護のない現状では, 出撃しても効果はないと判定さた。
・天信電令作第39号発令(16:48)
1.当部隊ハ沖縄方面ノ戦勢ニ鑑ミX日(五日ノ予定)ヲ期シ可動兵力ノ大部挙ゲ昼夜ニ亘リ敵攻略部隊ニ対シ連続攻撃ヲ加エ其ノ攻略企図ヲ破摧(はさい・打ち破ること)セントス
2.X日ノ作戦要領ヲ左記ノ通リ予定詳細ハ別令
(イ)陸爆夜戦隊ヲ以テ泊地付近ノ敵部隊ヲ空襲
(ロ)昼間麾下戦闘機隊ノ大部ヲ挙ゲ波状的ニ進攻シ敵邀撃(ようげき・迎え撃つ)fc(機動部隊)ヲ一方ニ牽制制圧スルト共ニ偵察機ヲ以テ電探欺瞞ヲ実施好機特攻兵力(8FGB〔基地航空隊〕ヲ主力トス)ヲ波状的ニ推進主トシテ敵輸送船団ニ突入
(ハ)X-1日夜間801fg〔航空隊〕陸攻ノ一部ヲ以テ泊地付近ニ機雷ヲ敷設
3.右作戦中全貌偵察ニ依リ空母群ヲ発見セバ特攻兵力ニ依リ之ヲ猛攻撃滅
4.動作戦中夜戦攻撃隊ハ当部隊信電令作第33号ノ攻撃ヲ続行ス
5.本作戦ヲ菊水1号作戦ト呼称ス
4月3日までの米軍の機雷投下で、瀬戸内海西部に空爆回避で展開した艦隊に戻るところはどこにもなかった。
すなわち、大和以下の艦隊は米軍が描いたシナリオどおり豊後水道から出撃した。
天信電令作第39号を受けて、三田尻沖に結集した将兵は沖縄出撃が間近いことを知る。
 1945年 4月6日作戦任務121号で、写真偵察機 F-13 のカメラは、ついに大和を発見。
空襲通信 第9号(2007.7.31) 頁66所載の写真と説明記事  これらの写真はここで販売されています。
  3PR/5M-121の説明


 *大和は徳山で燃料補給していない

4月6日01:58 グアム北飛行場を離陸した F-13は、09:46 時、徳山沖の 33゚ 57'N,131゚ 44'E で 大和と1隻の軽巡洋艦と駆逐艦6隻を発見した。    下図かまたはこちらにも
当初GFの発した沖縄突入駆逐艦は17駆逐隊雪風,磯風,濱風の3隻と21駆逐隊初霜,朝霜,霞の3隻。 計6隻。 よって撮影された駆逐艦はこの6隻か?。
31戦隊3隻と21駆逐隊のうち朝霜,初霜は燃料補給のため徳山燃料廠で燃料満載の命令を受けておりこの時刻この海域には間違いなく居ない。なお同じく駆逐隊の霞は三田尻沖で朝霜から補給を受けている。よってこの海域に居た可能性がある隻数は7隻。 消去法的に求めると大和周囲の艦は、矢矧・霞・冬月・涼月,磯風・雪風・濱風であり、「写真が語る日本空襲」頁121にもう一隻、岩島灯台よりの方位 325゚ 1,500m 付近徳山湾口入口に停泊している。

米国はWGS84測地系で世界測地系に準拠している。前述の測位を世界測地系のデジタルマップに プロットすると山口県周南市役所交差点からの方位 208.2゚ 距離 12,978m。  周南市粭島手前小瀬戸橋本土側基部からの方位 209゚ 距離 3,888m である。 また、粭島三ツ石鼻方位 203゚ 距離 2,974m である。


写真偵察機 F-13 の飛行ルートはこちら
出撃直前の戦艦大和の写真発見者は、 徳山工業高等専門学校工藤洋三教授。 偵察作戦命令書、写真は米空軍マクスウェル基地歴史資料館で 2001年3月 に発見した。
後日譚:2006年7月3日、 通称呉大和ミュージアムは工藤洋三教授に断りなくマスコミに発表し、翌4日中央紙、関係地方紙はこれを大々的に報道した。
 当然工藤洋三氏から当該施設に提供したものではない。 この件、機微に触れるので疑問のある方直接筆者にご連絡を。
徳山工高専工藤洋三教授は、F-13 米偵察戦隊撮影の戦艦大和の画像6枚を発見した。 その内3枚をとある大学の准教授に渡したしいう。 不思議なことに「写真が語る『特攻』伝説・原勝洋著」 で発見した大和の写真は3枚と書いている。 工藤教授は大和の写真は3枚でなく連続した6枚のネガだった。とおっしゃっている。
太平洋戦争の作戦に係る資料は、米国立公文書館に保存されており、その資料には16桁の番号が付されている。 その16桁の番号に基づき、写真を請求すると今度は、米空軍マクスウエル基地歴史資料室から届けられる仕組みだという。 よって、1945年4月6日大和の写真は連続した6枚で3枚ということはあり得ない。
工藤洋三教授への取材は2007年7月30日17:00〜 行った。
米軍による撮影時刻は 09:45 高度9,100m。徳山市粭島三ツ石鼻先約4Km 海上で、 軽巡1(矢矧)と駆逐艦6隻。なぜか、同海域に停泊していた残りの駆逐艦5隻は発見されていない。
当時のこの海域には、戦艦大和、二水戦旗艦矢矧。そして、
 ■17駆逐隊 磯風・雪風・濱風 3隻
 ■21駆逐隊 初霜・朝霜・霞  3隻
 ■41駆逐隊 冬月・涼月    2隻 -- 響 触雷で脱落 --
 ■31戦隊43駆逐隊 花月・榧・槇 3隻  合計13隻がいなければならない。  在泊艦艇で確認できる艦艇は次の通りである。
不知火(陽炎)型駆逐艦で沖縄特攻参加艦艇は第17駆逐隊の磯風・雪風・濱風が該当する。
秋月型駆逐艦で沖縄特攻参加艦艇は 第41駆逐隊の冬月・涼月である。
初春型駆逐艦で沖縄特攻参加艦艇は第21駆逐隊の初霜である。 偵察ルートは、日向市から福岡、関門海峡上空を航過し山口県南岸をなめるように飛行した。 室津半島から陸地境界上を飛行し広島を偵察。四国西部を縦断し基地グアムに向かった。
このとき、搭載されていた K-18B 地図作成カメラは非常に広範囲を撮影している。

<== 左の写真は「写真が語る『特攻』伝説」所載である。
徳山沖の大和上空から西は防府市、東は光市までの範囲だ。 戦後情報開示された写真からの艦艇解析は大和右舷右下が矢矧、その右が秋月型駆逐艦。 左舷大和の上が不知火型駆逐艦だろう。ということだ。 この一連の米軍機雷投下作戦で大和は袋のネズミとなった。沖縄に出撃しなくても、 翌々日頃には大規模なB29による戦術的爆撃を受けたことだろう。そして、大和は、 米軍のシナリオ通り豊後水道を出撃する。
参考文献
  • 公刊戦史 「沖縄方面海軍作戦」
  • 公刊戦史 「海上護衛戦」
  • --空襲・戦災を記録する会全国連絡会議会報   事務局はこちら。 米軍兵器に興味ある方も閲覧を
       (-- 第3号及び第9号)
  • 写真が語る『特攻』伝説 (原勝洋:著)
  • 源田の剣(ヘンリー境田,高木晃治共著)
  • 続き Starvation (飢餓; 餓死)の実際。    続き GF 機関参謀 小林儀作が当初作戦をねじ曲げた。

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