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実録・戦艦大和探索 残存 Imperial Fleet 機雷封鎖袋のネズミ作戦−T
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| 機雷封鎖作戦と機雷投下数 | ||||||||
| 作戦No | 日付 | 目 標 | 出撃機 | 撃墜 | 他 損失 | 投下機雷数 | 目標落下数 | 投下高度 (m) |
| 47 | 3/27 | 下関海峡・周防灘 | 102 | 3 | - | 924 | 837 | 1,500 |
| 49 | 3/30 | 下関海峡・呉 広島・佐世保 | 94 | - | 2 | 906 | 825 | 1,500 |
| 昭和20年3月29日岩国市甲島(かぶとしま)錨地を三田尻沖(防府市)に向けて抜錨。米軍は執拗に大和あぶり出しを画策。3月27日下関海峡機雷投下。続く3月30日呉湾,広島湾(安芸灘)に機雷投下。大和はこの段階で母港呉に戻れなくなった。また随番艦艇は下関海峡から佐世保への進出も適わなくなった。 |
![]() 昭和20年(1945年)3月 歴史のその時 沖縄上陸作戦直前の米軍![]() |
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米軍は日本に残っている Imperial Fleet (帝国艦隊)の King (戦艦大和)などの残存艦艇殲滅に緻密な作戦をたてた。
その作戦の戦術的全貌は米国国立公文書館や米空軍マクスウエル基地歴史資料室に保存されている。 |
| 昭和20年(1945年)3月に入って戦艦大和の偵察を行った組織は、米第58機動部隊に所属していた戦術偵察機とグアムに配置された米陸軍所属 B-29 第311偵察航空団第3写真偵察戦隊の F-13 写真偵察機があった。 |
![]() 【写真が語る山口県の空襲頁10】,【空襲通信第3号頁36】掲載 |
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1. 第3写真偵察戦隊は作戦面では XXI 爆撃機集団の指揮に従ったが、所属は第311偵察航空団だった。 |
| *2. 写真偵察戦隊で使われた F-13 の F は戦闘機識別に使われている。 よって、混乱を避けるため戦闘機の F-13 は永久欠番とされている。 F-13写真偵察機はこちら 米軍使用ノルデン照準器はこちら |
昭和20年(1945年)3月17日、米機動部隊所属の偵察機は西日本と広島県呉港の戦術的写真偵察を行った。それに基づき、 昭和20年(1945年)3月19日未明、米第58機動部隊は、空母4隻を1機動群として4機動群合計16隻が北緯31度30分から北緯32度30分。東経133度から134度で艦載機の出撃を企てた。
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迎え撃つ五航艦は偵察により全容を把握していた。米軍の意図は沖縄上陸作戦の一環として、
基地航空隊および残存艦艇の撃滅であったが、そこまではつかみきれていなかった。
米機動部隊は前日(03/18)、南西九州・四国航空基地攻撃を行った。各基地の通信機能は大きな損害を受けた。
五航艦は黎明攻撃および彗星昼間特攻で、正規空母2、戦艦2、巡洋艦1、駆逐艦2撃沈したと確信していた。
稼働機数は陸攻37機を含む348機にしか過ぎず、搭乗員技量未熟の過大戦果報告であった。 その時の大本営発表はこちら 日本側17〜18日両日の作戦使用機数441機。未帰還47機。特攻未帰還32機。合計79機を失った。 |
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米機動部隊主力の位置は室戸岬南85Km。高知市からでも125Kmしかなかった。
呉方面攻撃隊発艦機数361機。実攻撃機数355機に達した。
攻撃目標は、岩国飛行場、広島飛行場、松山飛行場、西条飛行場、呉在泊艦艇及び
呉工廠だった。 第2群空母4隻の艦載機は神戸攻撃に向かった。第1群空母ホーネットの VF-17,VBF-17(艦戦)飛行隊 F6F戦闘機16機が 06:00 発艦した。 この戦隊は岩国飛行場,吉島飛行場の攻撃を命令されていた。 左図:「源田の剣」頁63 掲載 |
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岩国海軍飛行場には零戦3機のみであったが、基地からは被弾回避と対空砲火を撃ち上げる様子が目撃された。
この広島湾攻撃任務隊が柱島泊地西方海域で戦艦大和を発見した。 引き続き、第1群空母ベニントン VB-82(艦爆)飛行隊 SB2Cヘルダイバー(カーティス)11機も 06:47 発艦した。 幸い大和は直撃は免れ至近弾により 測距儀を損傷し呉で修理することとなった。この時以来大和は米軍の監視対象となった。 米軍にとってImperial Fleet(帝国艦隊)はすでに、大きな脅威ではなかったが、沖縄島上陸を控え監視し続けた。 米軍は一つのシナリオを作った。関門海峡を抜けると東シナ海という広大な海面があり、 ここから、大和ほかの残存艦艇が出撃し韜晦(とうかい)すれば、 探索のために大規模な索敵が必要でありそのために、航空隊、潜水艦など大戦力を割くことを危惧した。 |
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| そこで、もし大和の出撃があっても、ただ一個所の出口を豊後水道にしてしまえ。との作戦を実行した。 あわせて、それは大陸からの食料や物資輸送の船舶交通線を絶つことでもあった。 |
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* 岩国市通津沖で攻撃されている戦艦大和の写真は 1.(写真が語る日本の空襲 頁120) 2.(真相・戦艦大和ノ最期 頁45)に掲載されている。 |
1495年3月19日の広島、呉湾攻撃には開戦当初の真珠湾攻撃を彷彿とさせるが、 TBMアベンジャー(艦上攻撃機)空母ホーネット12機,ベローウッド5機,ワスプ9機,エセックス13機,バンカーヒル14機,カポット7機,ヨークタウン11機、合計71機が攻撃に参加したが呉湾停泊艦艇の損害は参加機数からみて軽微だった。 空中指揮官の指揮が粗雑だったのであろう。 |
![]() 1945年3月19日 高知沖の空母ホーネット
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07:05 ホーネットVBF-17(艦上戦爆)飛行隊 F6F戦闘機23機は、伊予灘で三四三空「紫電改」に邀撃され、6機撃墜され
、1機不時着水、1機着艦後廃棄された。撃墜された6名は行方不明となった。 ホーネットVF-17,VBF-17(艦戦)飛行隊 F6F戦闘爆撃機16機*1は、09:10 戦艦大和上空に達し、山口県小月陸軍航空隊機9機を撃墜。 人的損傷4を出したが失った航空機は無かった。空中戦は広島市地御前上空で展開された。この空中戦に 広島飛行場攻撃を令されていた空母ベニントンVMF飛行隊 F4U 2機も空戦に参加している。 ◆ 呉在泊艦艇等の損害 中破「大淀」、敷設艦二、小破「日向」、「天城」、「龍鳳」、「海鷹」、「利根」 沈没 敷設艦二、他に第十一工廠、廣工廠、呉工廠に若干の損害。備蓄火薬轟発。 ◆ 呉空襲彼我航空機損害 米側損失 34機。 内訳 343空との戦闘14機。 対空砲火20機。 日本側損失 陸・海 50機。 |
松山343空局地戦闘機「紫電改」との迎撃戦闘があった。詳しくは「源田の剣」ご参照。ヘンリー 境田 (著), 高木 晃治 (著), Henry Sakaida (原著) |
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343空源田司令は架空の米機撃墜(57余機)を上申し、
聯合艦隊から感状を受領(1945年3月24日)している。
343空のパイロットが撃墜を目撃できたであろう機数は8機だった。(1945年4月8日 同航空隊は鹿屋移動)
遭遇時刻について、米側は日本時間(ウルシー時間)より1時間早いグアム時間。1時間遅いフィリピン時間もある。 ホーネットは1時間遅いフィリピン時間の可能性。 ベニントンは1時間早いグアム時間採用の可能性がある。 日本側は地上から多くの人たちが目撃しているが時刻記録に乏しい。 |
*1VF-17(艦戦)飛行隊 F6F戦闘機16機の任務は、岩国飛行場、広島吉島飛行場制圧任務であった。
![]() F6F 戦闘機 |
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この日、大和を発見した米軍は瀬戸内封じ込め作戦 Missions(特殊任務) 49,52,53,54 を発動 |
3月19日 第58機動部隊第1群空母ホーネット VF-17,VBF-17(艦上戦爆)飛行隊F6F戦闘機隊が岩国沖で大和を発見して以降、沖縄上陸作戦を企図していた米軍は陸・海共同で残存帝国艦隊の監視を続けたが、この日以降米軍は戦艦大和を見失った。 ■3月24日 GFは沖縄に来航する米軍艦艇・船舶を,陸・海軍は航空機・艦艇によって撃滅しようとして, 戦艦「大和」以下に出撃準備命令を出した。 ■3月25日 13:23 「天一号作戦・警戒」発令。 ■3月26日 この日、米軍は慶良間列島に上陸した。大本営は,沖縄,南西諸島方面に来寇する米軍を邀撃する 「天一号作戦発動」を令した。 |
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・電令作583号 第一遊撃部隊ハ28日12:00以降、指揮官所定*2ニヨリ速ニ出撃。主力ハ豊後水道ヲ、 一部ハ下関海峡ヲ通過シ佐世保ニ前進待機スベシ。 |
![]() 大和を見失った米軍は戦艦大和瀬戸内封じ込め機雷投下作戦を敢行
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■沖縄上陸作戦を控え帝国海軍残存艦艇の脅威を取り除くため、 3月27日 XXI爆撃機集団B-29 104機*3 は関門(下関)海峡に機雷投下。 戦略爆撃調査団報告、第20航空軍発行冊子に次の標題がある |
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『Starvation (飢餓; 餓死):日本帝国の戦略機雷封鎖の局面』 それによると Stage(局面)−T.沖縄上陸支援作戦 3月27日〜5月2日 これは戦艦大和以下の艦隊を瀬戸内西部に封じ込めることと同時に沖縄早期占領をめざすものだった。 |
| 作戦No | 日付 | 目 標 | 出撃機 | 損失 | 他 損失 | 投下機雷数 | 目標落下数 | 投下高度 | ||
| 47 | 3/27 | 下関海峡・周防灘 | 102 | 3 | 924 | 837 | 1,500m | |||
| 出撃機数は機雷投下出撃機数である。目標に投下した機 94。別に2機補助機が付いてる。 | ||||||||||
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*3 日本側の記録 公刊戦史「海上護衛戦」によると 92機。 投下機雷は全て着底機雷だった。機雷(500kg・MK26,MK36)とMK25(1,000Kg)があった。これらは音響・磁気・水圧機雷などで8種類あった。 B-29 1機当たりの搭載機雷数は8個程度(MK26,MK36)であた。作戦任務第139号(発令5月3日)で世界最初の水圧機雷が投下された。 これによって瀬戸内から出撃する場合、豊後水道に限定されることにななるとともに、 大陸からの交通線は遮断された。 食料や資源を南方と大陸に依存していた日本は、緩慢な餓死への途をたどることになった。 ■この日の機雷投下と迎撃。ならびに投下地点確認方法について。 下関市史によると、投下は27日23:45頃から翌28日01:30にかけて行われた。迎撃は陸軍小月飛行第4戦隊が行ったが、 米軍側の記録で航空攻撃は低調で、若松側の対空射撃は熾烈だったとある。 一方投下確認は、機上レーダースクリーンを撮影し確認する方法がとられた。 ■米第313航空団の記録 下関海峡西入口水域投下時刻 22:37〜23:54 周防灘西部投下時刻 23:03〜翌28日 01:06 平均機雷搭載重量 5,440Kg。 航空機による攻撃は7回受けて、敵機1機撃墜。 |
引き続き、大和探索作戦【作戦任務104号】を発令
![]() | ■3月28日作戦任務104号で大和を探索する。F-13写真偵察機はグアム北飛行場から九州東岸を北上し 瀬戸内海に入り、延岡〜佐伯〜徳山〜岩国〜広島〜呉上空を通り四国西部を縦断し基地に帰った。この偵察飛行で 見事に呉湾内で大和を発見。偵察写真には、呉の沖合に、戦艦日向、大和、空母龍凰を捉えた。 偵察機は呉とその周辺に次の艦艇が在泊していることを発見する。 呉停泊大和の写真は『写真が語る日本の空襲 工藤洋三・奥住喜重編著』 P120 |
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偵察写真の分析から、 戦艦 6 実際には、日向、伊勢、榛名、大和 四艦。 空母 3 実際には、天城、龍凰、葛城、海鷹 未完成空母 阿蘇 五艦。 阿蘇はその後5月と6月各1回、海陸両軍手持ち最強爆弾(特攻搭載用)の投下実験艦となった。 当時日本軍が実戦使用している爆弾の威力が、米軍爆弾と比較出来ない程、低威力ということが判明。 重巡 4 実際には、利根、青葉、二艦。 軽巡 1 実際には、矢矧、大淀、北上 三艦。 *巡洋艦合計は五隻で符合。 駆逐艦 13 実際には、初霜、朝霜、霞、冬月、涼月、雪風、磯風、浜風、響、 花月、槇、榧、桐(修理中)、夕風(回天搭載艦に改造) 一四艦。 その外、日本側の記録で練習巡洋艦 出雲、八雲、鹿島、磐手 標的艦 摂津 などが記録されている。 参照「日本の戦歴 毎日新聞社 S.42.4.25」 ただし、3月19日に米艦載機の空襲を受けているので、損傷艦も含まれている。 敗戦時残存艦艇数はこちら。 ◆3月28日・電令作590号(19:39) 佐世保回航延期を指令したが、瀬戸内西部への空爆回避避難は実行した。 大和、矢矧+駆9。第31戦隊 駆逐艦3。 |
米軍は大和の動向を探るため3月29日作戦任務105号、107号を発する。この作戦で大和は発見出来なかった。 |
作戦任務105号の偵察ルートは大分県蒲江町から大分、別府、関門海峡を偵察し萩市上空に至り広島、
呉をかすめ室戸岬から太平洋に出るルートだった。米軍は執拗に大和を探索する。 作戦任務107号、大分県佐伯市上空から、大分市、別府市、宇佐市、中津市、
行橋市上空と北東部九州北岸をなめるように飛行し関門海峡上空に向かった。そこから北西部九州上空を飛行し、平戸島、
五島列島上空航過、屋久島上空から帰路についた。大和はここでも発見出来なかった。 大和を見失った米軍はすかさず、
3月30日〜4月3日にかけて山口県由宇沖から倉橋島、呉港内に1,034個の機雷を投下し呉湾からの脱出路を遮断する封鎖作戦を展開。一方大和は前述したように、3月28日午後呉を発ち岩国沖に仮泊翌*4 29日03:55 三田尻沖への移動を行った。 大和以下の艦隊は危ういところで機雷封鎖前に脱出したことになる。 だが、 この段階で、大和は呉に戻ることも、随番艦艇が関門海峡を抜けて東シナ海に脱出することも出来なくなってしまった。 戻っても燃料タダ飯喰いのお荷物になるだけであった。 大和は停泊しているだけで、 日量60トン程度の重油を費消したと考えられる。 1945年4月1日月頭の海軍保有缶用重油総量は 26,413トン であった。 各月における重油保有量こちら ![]() *4 大和仮泊位置岩国市甲島山頂方位 150゚ 距離3km。 大和以外は早瀬瀬戸(水道・倉橋島と東能美島間)を抜けた。出航順は大和,31S,2dg。 発令16:15 1YB信令第73号。 ![]() |
| ◆ 3月29日の大和 | |
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軍令部総長及川古志郎大将は,参内して南西諸島方面における戦局を奏上した。 その際、大元帥昭和天皇から「天一号作戦は、帝国安危の決することであり、 挙軍奮闘もって目標達成に遺憾なきように」とあり, 及川大将は「航空機による特攻攻撃を出来る限り激しくやります」と答え, 大元帥は「海軍にはもう艦がないのか?海上部隊はもうないのか?」と下問された。という。 |
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及川軍令部総長は天皇の下問次第を、聯合艦隊司令長官豊田副武大将に伝えたが、
豊田長官は同日19:22 GF(Gathered Fleetの頭文字 聯合艦隊の意) 電「畏れ多き言葉を拝し、恐縮に堪えず。臣副武以下全将兵殊死奮戦、
誓って聖慮を安じ奉り、あくまで天一号作戦を完遂を期すべし」という緊急電文を天一号作戦部隊に発した。
■ 1945年3月29日03:30
大和、仮泊地岩国市甲島(かぶとじま)付近海上を三田尻に向け移動開始。
全艦艇打ち揃っての出撃ではない。隠密離に各艦別々の行動をしている。 払暁(05:56)、釣島水道航行時、
松山343空紫電改 8 機が高度2,000mで哨戒飛行していたが、大和より対空射撃を受けた。不幸にも 2 機撃墜された。すかさず、343空は第一遊撃部隊に抗議した。
部隊側の応対。 『理由の如何を問わず艦直上飛行は敵対的行動とみなし今後も砲発す』だった。
■ 3月31日 作戦任務112号の偵察飛行は豊後水道、関門海峡を偵察。
さらに、小倉上空から西彼杵半島を左に見ながら長崎、屋久島と偵察するが
米軍は大和を発見できなかった。呉沖にも、下関付近にも佐世保、長崎にも大和は見えなかったのだ。
GFが発した3月28日大和以下の艦隊に瀬戸内海西部への空爆回避措置が功を奏した。 |
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大型艦艇はこの釣島水道を航行した。小型艦艇はその西、クダコ水道を使った。
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[us-strategy] 内の各 htm ファイル 帝国艦隊 袋のネズミ作戦−U
主要港湾機雷封鎖作戦 日本飢渇作戦の実態
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参考文献 |
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