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油断! 油断(対日石油禁輸)が戦争を始める要因(動機)であったはずだが・・・
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| 大和片道燃料工作 戦艦大和TOP |
【ヒ86船団の悲劇】 我ノ最大弱点タル海上補給ノ維持増強ニ対スル事前対策ヲ怠リ 【海防艦諸元】 開戦時存在した日本海軍海防艦四隻 【海上護衛総司令部】 無能なり! 船舶喪失と海上護衛総司令部の参謀ら 【暗号に無頓着な参謀】 商船暗号は解読され会敵率100%以上。全く無為無策 |
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陸海軍還送原油実態
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開戦1年目、ミッドウェイ海戦の大敗北にもまして、海軍TOPに衝撃を与えたのが、燃料の問題であった。ソロモン海戦など数次わたる大きな海戦での燃料消費量の増大である。
開戦1年目の消費予測280万キロリットルと見込んだものが、実際に〆てみると485万キロリットルにも達していた。 還送油槽船の損耗はやがて海軍にボデイブローのように効いてくる。マリアナ沖海戦に先立つタウイタウイ艦隊進出にも陸軍に泣きついて頁岩油を融通して貰った。この進出も新鋭機艦爆彗星を岩国で錬成を行っていたが、ガソリン枯渇で練習さえままならず、 南方資源地帯で訓練を行う腹づもりであったが、進出したものの米潜の出没で空母艦載機の訓練さえ出来なかった。 テニアン島在の角田覚治率いる第一航空艦隊もガソリン不足に悩まされ、哨戒・偵察飛行さえ手抜きせざるを得なくなる。 |
| @.戦後明らかになった事実 | 〔南方より還送された油〕 |
| 昭和17年(1942) | KL | 昭和18年(1943) | KL | 昭和19年(1944) | KL | 昭和20年(1945) | KL |
| 1〜3月 | 110,000 | 1〜3月 | 320,000 | 1〜3月 | 450,000 | 1〜3月 | 110,000 |
| 4〜6月 | 220,000 | 4〜6月 | 730,000 | 4〜6月 | 300,000 | 3月以降はゼロ | |
| 7〜9月 | 360,000 | 7〜9月 | 540,000 | 7〜9月 | 180,000 | ||
| 10〜12月 | 640,000 | 10〜12月 | 590,000 | 10〜12月 | 210,000 | ||
| 米国戦略爆撃調査団報告〔陸軍燃料廠史・技術偏〕頁164〜165 | |||||||
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※ 油がなんとか、月平均20万トン還送されたのは、昭和17年第四四半期と昭和18年第二四半期のみである。 昭和14年石油在庫量は8,172,600KL であったが、この年7月米国は日米通商条約破棄を通告し、対日石油輸出規制を実施する。翌年は国内消費抑制策を行ったにもかかわらず在庫は7,883,220KLに減っている。なお、消費量は昭和15年(1940)で年間454万KL程度である。それでも毎月37万KLは必要とされていた。よって毎月順調に20万KL(トン)還送された程度では備蓄油を食いつぶすことに変わりない。 かつ、油槽船は106隻,48万5千総トンを保有するに過ぎなかった。ご承知と思うが、油は大きく分けると白油系(ガソリン・灯軽油),黒油系(A〜C重油),潤滑油系の三種がある。当然原油や重油の搭載後は白油系の搭載は出来ない。 ここにあげた昭和14年,昭和15年年の石油在庫量は「陸軍燃料廠 石井正紀著」頁47 図2−2 企画院にみる数字 |
| 昭和16年、海軍が保有していた国内貯油量 単位:KL | ||||||
| 原油 | 重油 | 航揮発油 | 普通揮発油 | 航空潤滑油 | 普通潤滑油 | 合計 |
| 1,435,000 | 3,624,000 | 473,000 | 27,000 | 6,400 | 13,600 | 5,579,000 |
| 出典:徳山海軍燃料廠史頁290 | ||||||
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昭和17年(1942)2月14日、陸軍降下部隊はパレンバンを奇襲。翌日には極東最大とも云われていたプラデュー製油所をほぼ無傷で占領することに成功した。6月からは日本向け石油還送が始まる。
ただし、資源地帯の占領は抜け目なく目論んだものの、
還送を組織的・計画的に陸海軍共同で取り組むことができなかったことで生産した油の50%は持ち帰れなかった。太平洋戦争は、米国の石油禁輸政策にその遠因を求められ、死中に活を求める「自存自衛」戦いだったはずだが、Imperial Navy にはこの長大なシーレーンを守る装備も戦略も全く持ち合わせていなかった。 南方での石油精製量こちら 石油精製技術で完敗した海軍 |
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開戦劈頭、陸軍はスマトラ島全域の石油地帯を占領下に置いたが、
海軍はボルネオ島東側の油田と製油所を占領した。
そこに、第百一燃料敞(サマリンダ・タラカン)と第百二燃料敞(バリックパパン)を開設する。 ボルネオ東側部の占領は陸軍第18師団坂口支隊と海軍呉第二特別陸戦隊が協同して行ったが、 投入部隊の実勢にあわせ油田施設を分割して占領。陸軍と海軍は太平洋戦争を別々に戦っていた。 陸軍の油は陸軍。海軍の油は海軍となったが、海軍の消費量に間に合わなかった。 すなわち、接収した石油施設の占領比率は陸軍85対海軍15であり海軍の消費量を満たさなかった。 また両軍から石油の採掘精製量が政府に報告されることもなかった。 戦争は国家対国家の暴力装置対決であるはずだが、国益を担う暴力装置(陸・海)間で資源獲得競争を行っていたに過ぎない。 1944年6月に戦ったマリアナ沖海戦でも、陸軍に泣きついて9万トンの燃料を融通してもらって戦った。 戦争で輸送船を護衛することを忘れた海軍は艦隊を動かす燃料もなくなり、陸軍の褌で相撲したのである。 |
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1942年2月14日スマトラ島パレンバンにあったロイヤル・ダッチ・シェル社の製油所を占領した。
製油所は大きな損害もなく日本軍(陸軍)の手中に入り、国内から復旧や製油所生産再開のために500人もの技術者が送り込まれた。
同製油所だけで、当時の日本の年間消費量を大きく上まわり、陸海軍とも継戦の目途がついたと安堵した。
すなわち、戦いに勝てるという自信*をつけたのである。 ところが、
この一帯は陸軍の占領下で、この油が海軍に融通されることはなかった。 産出と生産状況はこちら パレンバンはムシ川の河口からおよそ100キロの内陸に位置するため、製油所から吃水の浅い小・中型の 油槽船を使い大規模な着岸施設や貯槽施設のあるシンガポールまでピストン輸送せざるを得なかった。 このための最初の油槽船が完成したのが、1944年3月、第2次戦時標準船「2TM型」(排水量2,800t,全長93m)である。 マリアナ沖海戦の3カ月前のことだった。 ここまでくると人災は極れり!と嘆息する。 ところが、還送船の護衛が必要なことや、潜水艦からの攻撃や防御技術を全く考えていなかった海軍は、 米軍の通商破壊戦により還送は途絶した。製油所では造ったものの搬出の方法がなくなり、その処分に困り 空しく燃やしたという。 実際のところ無防備で輸送船は航海したのではない。海軍としては精一杯の護衛(戦時急造型海防艦など)を付けていた。 ただ、この護衛艦に敵潜を探知する兵器と、有効な武器を保持していなかった。 |
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*陸軍は資源地帯の損害が軽微で復旧も簡単に推移したことで、
継戦に自信をつけたが、その油を日本に運ぶ段になって思わぬ障害にぶち当たる。
陸軍割当油送船(油槽)が10隻,13,480総トン(Gross tonnage)しか無い実態を知らされる。
一方海軍は52隻,322,890総トンを確保していた。
民需用に44隻,148,730総トン。陸軍はこの事実に愕然とする。
陸軍の海軍に対する不信感は敗戦までぬぐい去れなかった。 シンガポールから内地(門司)まで 2,540 浬、当時の航行日数実績で往路15.9日、復路13.8日を要した。陸軍がねじりハチマキで頑張ったところで1ヶ月4万トン程度しか内地に運べない。 一方海軍は作戦用補給も含めて90万トン程度の輸送能力を確保していた。 陸軍、海軍、民需用油送船トン数は「日本商船隊戦時遭難史」による。 昨今、都市近郊の、俗にトラックステーションと呼ばれているGSでの軽油販売量は1店舗で月間1,000KL以上もある。 すなわち、陸軍の運ぶ油の量は40店舗分にしかならない。 石油資源の獲得情況 |
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戦艦大和の燃料タンクは 6,300トン搭載できた。 だが、1945年4月月頭在庫は 26,413トンしか無かった。 徳山海軍燃料廠には重油全量で15,000トンしかなく、かつ簿外重油は200トンであった。 開戦判断は、外圧に対する自存自衛の戦いと位置付けていた。 よって戦略資源を東南アジアに求めた。東南アジアからの資源は船舶に頼らざるを得ない。 ところが大艦巨砲がこの国を守ると固く信じていた海軍にあって、本格的な米軍反攻に為す術もなく、1945年1月をもって、 東南アジアからの資源輸送は不可能となった。同年3月南方からの資源輸送として試みられた「南号作戦」は船舶喪失の前に頓挫中止された。 それでも、なお艦隊決戦、殴り込み戦法しか取り得ない海軍に官僚主義の極致をみる。 |
海軍1カ月平均重油・揮発油消費量
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| 油 種 年度 : 消費量 | 重 油 (単位:万KL) | 揮 発 油 (単位:万KL) | ||||
| 国内消費量 | 南方消費量 | 消費合計 | 国内消費量 | 南方消費量 | 消費合計 | |
| 昭和16年度月平均 (1941) | 13.00 | 0.00 | 13.00 | 1.80 | 0.37 | 2.17 |
| 昭和17年度月平均 (1942) | 12.60 | 17.90 | 30.50 | 2.37 | 1.54 | 3.91 |
| 昭和18年度月平均 (1943) | 11.30 | 18.00 | 29.30 | 2.67 | 2.67 | 5.34 |
| 昭和19年度月平均 (1944) | 8.34 | 14.50 | 22.84 | 2.30 | 2.30 | 4.60 |
| 昭和20年度月平均 (1945) | 2.44 | 3.02 | 5.46 | 1.70 | 0.20 | 1.90 |
| 5カ年間月平均 | 11.11 | 15.27 | 26.38 | 2.54 | 1.99 | 4.53 |
| 揮発油は3種類が確認できる。まず普通揮発油(主たる用途自動車内燃機)、87オクタン価、92オクタン価。この2種類は航空機用内燃機関。
南方占領地原油による製油は接触分解装置が作れなかったので100オクタン価以上の航空機揮発油は生産されていない。
このオクタン価の違いは、航空機戦での大きな敗因である。 * 第三海軍燃料敞(徳山)に高オクタンガソリン製造装置である「水素添加装置」の遺物が、現在日本ゼオン(株)敷地に無惨な外観を曝していたが、 その装置が順調に機能したという史料(資料)を探せ出せなかった。 ご存知の方ぜひご一報下さい。 なお、この水添装置は低オクタン価ガソリンを92オクタン価にする装置だった可能性がある。 徳山海軍燃料廠史に昭和14年(1939年開戦2年前)軽油を水添分解して、92オクタン価ガソリンを得るための九八式分解水添装置が完成。 この年92オクタン価を得るけれども、能力は計画に達しなかった。 * ミッドウェイ海戦で全艦艇が使用した燃料は60万KLと伝えられており、国内燃料敞がフル稼働しても3.5カ月分に相当する。第一次世界大戦以降ハイドロカーボン時代が出現するが、 艦隊行動での燃料補給能力は作戦を左右する情況が出来した。 海軍が占領した油田地帯の実態はこちら |
| ■ 海軍国内月頭重油・揮発油在庫量 |
| 国内月頭燃料実態「太平洋戦争と石油 三輪宗弘/著 日本経済評論社 2004/1発行」 | 年 項目:月 | 昭和19年 (1944) | 昭和20年 (1945) | 10月 | 11月 | 12月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 |
| 原油 (t) | 26,428 | 24,048 | 18,714 | 18,435 | 5,127 | 3,827 | 1,285 | 1,285 |
| 缶用重油 (t) | 9,514 | 20,690 | 31,826 | 29,579 | 24,370 | 26,533 | 26,413 | 27,767 |
| 1号重油 (t) | 73,182 | 20,086 | 13,448 | 5,528 | 22,668 | 9,767 | 15,561 | 10,568 |
| 2号重油 (t) | 25,018 | 18,698 | 8,843 | 10,906 | 4,737 | 1,763 | 7,187 | 7,910 |
| 航揮(KL) | 57,704 | 35,841 | 35,868 | 38,521 | 32,659 | 21,272 | 36,491 | 27,727 |
| 航空潤滑油(KL) | 7,635 | 5,819 | 4,068 | 3,319 | 2,942 | 2,918 | 6,291 | 6,801 |
| 普通潤滑油(KL) | 31,518 | 30,430 | 28,235 | 26,733 | 26,215 | 25,835 | 25,576 | 24,812 |
| 出所:海軍省軍需局長『月頭報告』より。
重油単位:トン その他はKL。 1号重油は現在のA重油か? 注)戦艦大和だけでも6,300屯の重油が積めた。 ※ 昭和20年2月には月間消費量1,200トン(40t/日)以上の軍艦の予備役化を決定する。 この措置により、戦艦長門(横須賀)・榛名・伊勢・日向(呉)が予備役となり戦列から外された。 空母天城,阿蘇など大型艦も建造途中だが放棄された。 | ||||||||
| 海軍燃料廠の石油製品生産量 昭和20年4〜8月 単位:KL | |||||||
| 原油処理量 | 航空揮発油 | 一般揮発油 | 灯軽油 | ディーゼル油 | 重油 | 航空潤滑油 | 一般潤滑油 |
| 11,001 | 3,550 | 200 | 4,601 | 0 | 10,221 | 1,402 | 1,060 |
| 第二(四日市),第三(徳山)及び第六(台湾)燃料廠の合計値 出典:日本における石油と戦争〔石油評論社〕 | |||||||
| ※ 原油処理量に比べ製品量が多いのは半製品が原油と混和もしくは半製品で製品化が図られたことによる。 |
| ■ 徳山海軍燃料史にみる生産データ (同誌単位:バレルをKLに直す) |
| 抽出油種/年 | 昭和16年 (1941) | 昭和17年 (1942) | 昭和18年 (1943) | 昭和19年 (1944) | 昭和20年 (1945) | 合 計 |
| (バレル) | 1,120,000 | 1,300,000 | 1,235,000 | 995,000 | 91,900 | 4,741,900 |
| 航空ガソリン KL | 178,080.0 | 206,700.0 | 196,365.0 | 158,205.0 | 14,612.1 | 753,962.1 |
| 87オクタン 40% | 71,232.0 | 82,680.0 | 78,546.0 | 63,282.0 | 5,844.8 | 301,584.8 |
| 91オクタン 40% | 71,232.0 | 82,680.0 | 78,546.0 | 63,282.0 | 5,844.8 | 301,584.8 |
| 95オクタン 1% | 1,780.8 | 2,067.0 | 1,963.7 | 1,582.1 | 146.1 | 7,539.6 |
| 70-85オクタン19% | 33,835.2 | 39,273.0 | 37,309.4 | 30,059.0 | 2,776.3 | 143,252.8 |
| 抽出油種の%は精製量を表す。全生産量からの%である。95オクタン価の航空ガソリンは全体の1%の抽出割合である。連合軍が航空機に使用していた100オクタン価の航揮製造技術は確立されていない。 | ||||||
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※『太平洋戦争と石油』頁189 の表の一部を引用。引用書には、航空揮発油 前掲書1月は385,521KLとしている。
桁違いだろう。よって 38,521 の数量とした。 * 1945年4月大和出撃月頭重油在庫(1号,2号,缶用)は49,161KL。 戦争通年平均月間消費量 263,800KL。 悲劇的な数字をご理解頂けるだろう。 * 同じく揮発油、1945年4月月頭 31,867KL。 通年平均月間消費量 45,300KL ■ 軍艦用缶用重油は悲劇的な数字である。大和以下は合計1万トン近い燃料を搭載したので、 在庫量の38%程度を一挙に消費した。 この重油の多量消費は、 細々と続いていた大陸との動脈対馬海峡に米潜水艦の跳梁を許すことになり、 雑穀さえ庶民の口に入り難くなり国民の飢渇は一挙に加速した。 流通統制は戦時下の英国、ドイツより不徹底でヤミ流通が横行した。 ■ 昭和19年(1944)4月以降、海軍艦隊作戦遂行能力を喪失しつつあった。 前掲書でミッドウェイ海戦使用量60万キロリットル。マリアナ沖海戦で35万キロリットル。 レイテ作戦で20万キロリットル*消費された。 マリアナ沖海戦の燃料不足は陸軍に泣きつき融通して貰った。 * レイテ作戦(捷号作戦)に随番させる油槽船の手持ちはすでに海軍には無かった。 戦史叢書海軍捷号作戦<2> 頁38 ■ 昭和19年(1944)10月台湾沖航空戦、フィリピン作戦、レイテ沖海戦などが続き、缶用重油在庫減少量だけでも 22,000KL にも及ぶ。 1944年8月頃には国内海軍燃料の8割が第3海軍燃料敞地区に偏在していた。理由は、第1、第2燃料敞までの海上輸送路が敵潜の脅威化にあり、 南方より一番近い徳山が選ばれた。 |
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■ 現在の油種と当時の呼称 1号重油 A重油は軽油90%に少量の残渣油を混ぜたものである。 2号重油 B重油は残渣油と軽油を半量程度ずつ調合したものである (なお、最近B重油はほとんど生産されない) 1〜2号重油の、主たる用途はディーゼルエンジン。内燃機用である。 3号重油(缶用重油を含む) C重油は90%以上が残渣油である。 現在は、含有硫黄分で更に細分化されている。 主たる用途は外燃機。ボイラー用である。 当時凝固点10°〜25゚C のものが製造されていたが、 凝固点を5゚C 以下とするために凝固点降下剤としてアルミニウム・ステアレート(製品が固のを防ぐ・ 抗ケーキング剤/親油性増粘剤/乳化助剤)を使用したとある。 よって寒冷地でない限りタンクの加温設備は必要なかったと思われる。 |
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当時現在にみられる石油製品のJIS規格があったわけではない、
日本海軍燃料史や徳山海軍燃料敞史を調べても、1号重油,2号重油の性状は、はっきりしない。
高速を必要とした艦艇はロ号艦本式蒸気タービン式ボイラーは重油専焼で缶用重油が使われていた。1号重油は現在A重油に近いものであったと考えられ、
小型のディーゼル内燃機に使われたと考えられる。 資源還送船で属にエンジン故障を「腹痛船」と呼んでいたことは、燃料欠乏の中で搭載機関に適合しない 燃料を使ったか、高品位な潤滑油(潤滑油は米国からの輸入品, 石油製品の8割は米国製品)製造のノウハウがなく粗悪な潤滑油だった可能性もある。 航空機もまた同じく多くがエンジン不具合で任務から脱落している。 故障の不安は、艦船でも航空機でも乗員の信頼性を失わせ、士気の阻喪につながったことは容易に察しがつく。 徳山海軍燃料廠史頁334に航空潤滑油製造装置では、プロパンを用いてアスファルトを分離し、デュオソール抽出、ワックス除去、真空蒸留、白土処理の順で行った。と述べるにとどまる。
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| 徳山海軍燃料廠 |
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| 昭和20年(1945)に到着した油槽船 |
| 1945年2月07日(ヒ88A) せりあ丸*1 航空ガソリン17,000トン(和歌山・陸軍) |
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船種:油槽船 総トン数: 10,238トン 所属:三菱汽船 速力:13Kt 兵装:船首 高射砲2 船橋 20mm連装機関砲4 13mm機銃4 船尾 20mm連装機関砲4 13mm機銃4 短25cm砲1 爆雷10個 乗船人員 乗組員船長以下 74人 陸軍連絡将校 1人 陸軍砲戦隊 44人 海軍警備隊 51人 海軍機関指導班員 7人 以上合計177人 傭船種別 C |
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1945年3月13日(ヒ96) 富士山丸 原油16,000トン(徳山・海軍) 1945年3月14日(ヒ94) 東亜丸 油種不明15,800トン(揚荷先不明・和歌山か?) 1945年3月27日(ヒ96) 光島丸 原油9,279トン,重油1,000トン,錫60トン,ジルコン60トン(徳山・海軍) 海軍燃料基地(第三海軍燃料敞のある山口県徳山に富士山丸は原油16,000トンを陸揚げすることに成功。 同じヒ96船団*2だった光春丸が3月27日、徳山燃料敞に帰り着き揚貨した。 このヒ96船団が運んだ油が日本に届いた最後の油だった。 「出典:戦う民間船 2006年7月13日発行」ほか |
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■ 1945年、南方資源輸送の南号作戦はせりあ丸で始まり11回実施された。
計30隻の油槽船が送り出されたが、
日本に油を持ち帰ることが出来たのはわずか6隻にしか過ぎなかった。 そのような状況に置かれながら、ヒ88J船団(タンカー3隻,貨物船8隻)は1945年3月19日シンガポール港を発ち日本へ向かった。 この船団は繰り返し空襲を受け全滅した。その船団に、 同行していた駆逐艦「天津風」苦闘の実態「25歳の艦長海戦記 駆逐艦『天津風』かく戦えり」の一読をお勧めしたい。 同書より、たった1機のB25爆撃機(陸軍)の攻撃力は海防艦一隻を凌駕する。 そして、これも全滅したヒ86船団の悲劇はこちら 開戦前から油!油!と叫んでいた海軍占領地の油の情況はこちら |
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同書、駆逐艦『天津風』森田友行艦長のあとがき 「海上においては艦艇は群がる潜水艦の伏在海面をやみくもに走り、 護衛の航空機が一機もない赤裸で、敵機の作戦海面を行くというまったく勝ち目のない死の行進 ともいうべき 戦争を、惰性で続けているに過ぎなかった。いつか神風が吹くと信じていた 戦争指導部のエリート軍人たちの妄想に操られて。 このころ、一億玉砕という言葉が折に触れ、叫ばれるようになった。国民の多くがこの言葉に心酔した。 死の礼讃である。戦争の目標は勝利であるはずが、死を礼讃して勝利に結びつくことはない。 政治に従属すべき軍事が、いつのまにか政治の上に立ち、勝算のない本土決戦を計画し、 最後の決戦を戦おうとする大本営の指導を、誰も止めることができなかった。 莫大な人命が失われることが予想され、国土は焦土と化すのがわかりながら・・・・」 森田友行大尉(25歳)は海軍最年少の駆逐艦艦長であった。ヒ88J船団の一翼に加わりただ一隻撃沈を免れ、 廈門(あもい)に自力擱座する。この艦の航海士兼通信士の学徒兵岡田英雄(東大文学部二年)は奇しくも大和が 撃沈されたその日の戦闘で戦死した34人、他2人の告別式に臨んでいた。 「天津風は奇跡的に海の藻屑とならず、乗組員の八割は生き残って、ここ廈門(あもい)の地で告別式を挙げることになった。 私たちは、この境涯を何と解し、もはや帰らない戦友をどのように慰めたらよいのか。 わが子、わが兄、わが夫を失った家族は、何も知らされないまま放置され、 手のとどかない戦場に在ると信じる肉親の無事を祈るのみであろう。 |
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このような事態が三年余にわたって継続され、
国民が不安と恐怖と失望におおわれるなかで、
いったい何が目標を失った絶望的な戦争に、
国民を駆り立てよう とするのか。この断末魔の戦局の中で、
国民になお犠牲を積み重ねようとする根拠は何か。だれも責任をとろうとする者もないまま、
「何の成算もない戦争が、国民を死に巻き込みながら、
ただ暴走をしているのではないか」告別式の進行する間、私はこのような思いに落ち込んでいた。 彼、岡田は彼我戦力比が2対1までは勝つチャンスがあるが、3対1で勝つ可能性は極めて低いことを歴史は教えている。 だが、この当時の米日の戦力差は10対1以上だった。このような戦闘は戦争ではない。もはやなぶり殺しという有り様である。 それでも戦争を続けるという作戦指導部は、もはや戦争目的を逸脱したもので、狂気の集団というしかない。 |
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「25歳の艦長海戦記 森田友幸:著 光人社 2000.3」(駆逐艦「天津風」かく戦えり) 艦首もなく艦橋もなく兵備兵装も限られた絶体絶命の逆境下に船団を護衛し 敵潜水艦と航空機の包囲網をかいくぐって、ただ一隻沈没を免れた日本海軍最年少艦長の創意工夫の戦いの記録である。 駆逐艦「芙蓉」「霞」水雷長として各方面作戦に従事。小といえども一艦の艦長として、 冷静な判断と行動。そして運まで森田に味方した。 1945年2月、駆逐艦「天津風」艦長。1920年3月、福岡県大牟田市に生まれる。 駆逐艦天津風の慰霊碑は呉海軍墓地にある。碑には「戦友よ安らかに眠り給え」生き残った者の痛恨の言葉である。
*前掲書及び「戦時輸送船団史 駒宮真七郎/著」をあわせて読んで頂きたい。 資源輸送の最前で戦った同胞の苦闘に対しこれも涙なくして読めない。 |
*ヒ88J船団はシンガポールから門司回航の計画だった。
船舶数七。護衛艦八隻(+一隻天津風・船団加入)で日本に向かった。駆逐艦天津風を除いて全て海の藻屑となった。
そのほとんどは陸軍機B-25の攻撃による。海防艦84号は、米潜 HANMER-HEAD の雷撃による。同艦生存乗組員救助の海防艦130号は米機の攻撃で撃沈されている。 このヒ88J船団を襲撃した米陸軍第345爆撃隊であった。駆逐艦「天津風」は大破したものの沈没を 免れ廈門(あもい)で擱座した。この攻撃で、護衛艦の対空砲火で撃墜され不時着した乗員をすかさず救助したと書く。 そして、これ以降資源を日本に運ぶ船団が組織されることはなかった。 もはや打つ手がなかったのだ。 攻撃優先防御軽視の重い付けが国家存亡の危機を招いた。 そのバカたちの行き着いた先にコンクリート船があった。 この事実を君は信じられるか?。
4月月頭、1号重油が6,000トン急増しており、光春丸が輸送した原油が貢献したのか?
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戦争末期輸送船での、大量・大規模な作戦が不可能(すぐ撃沈)と悟った
(戦訓が生きた)海軍省は 「臨時船舶徴用隊」を結成(1945/06/06)した。
これは海軍省嘱託(勅任待遇) 川南造船社長川南豊作氏発案により小型船(機帆船・漁船)
での沖縄片道輸送を本気で考え実行に移そうとしてのことであった。そして、
九州各地で徴用(計画200隻、実績135隻)を行った。無謀というより、ここまでくると
海軍関係者の頭脳と思考を疑わざるを得ない。
あの優勢な米機動部隊の艦載機に遊び半分の標的を与えるようなものだ。 輸送船舶喪失で常軌を逸した海軍は舵のないコンクリート船を建造した。 |
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*1 もはやこの時期南方からシンガポールから帰還することは「特攻」を意味していた。
せりあ丸(10,238総トン)は1945年1月15日資源還送の内命を受け「特攻油送船神機突破輸送隊」と命名された。
船長浦部 毅は、海軍側に味方機雷堰敷設海図の貸与を求めたが、機密一点張りで貸与を拒否された。
敵は米国だけでなく、味方と思った海軍も、最早や日本の船舶にとって敵であった。
1945年1月20日資源還送の「南号作戦(ほとんど特攻を意味した)」が大本営から発令され即日実行に移された。 |
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神機突破輸送隊の船団会議がセレター軍港司令部で開催された。浦部毅船長は「軍に対する航行要望事項」を提出。 一、護衛艦を2隻つけること。 二、改二A型貨物船を同行させないこと。 三、船長に船団指揮権と航路の選定を一任すること。 四、海図を貸与されたいこと。 海軍側は三項について強硬に反対。結局折衷案的に船団指揮権は、護衛艦先任艦長に委ねるが、船長は状況により行動の自由が許される。と決着した。 |
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10:00 二隻の護衛艦(41号,205号海防艦)でシンガポールを出港。
徹底的な沿岸航路を選択する。
1月26日、米双発マーチン機の攻撃を受け、同機を撃墜。翌27日07:00頃3本の雷跡を発見。
扇状に同船に放たれたが危機を回避。その後も米機の空襲を受けたが至近弾でかわし、
18日目に下関六連に到着(16:30時)。同船の無事到着を祝し大本営からの祝電と船舶司令部(陸軍)より表彰を受けた。
輸送さえ「特攻」となった。 輸送船就労船員の損耗率は陸海軍の比ではなく海軍16%,陸軍20%,船員43%だったという。 一番挺身し勇ましく戦ったのは他でもない船員らであった。 船舶喪失実態はこちら。 船員死亡の実態。 |
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*2
ヒ96船団は油槽船3隻。「あまと丸」「光春丸」「富士山丸」。1945年2月22日にシンガポールを出港。
第8海防艦、第81号海防艦、海防艦稲木の3隻が護衛に付いた。油槽船の3隻は戦時標準船の2TL型で速力13ノット,1万総トン級である。 1945年2月27日01:35、カムラン湾に差し掛かったとき、あまと丸が雷撃され沈没。1945年3月1日15:05空襲を受け、光春丸は船首左舷貨物庫に直撃弾(便乗者8人死亡)を受け、破口から烈しい浸水となった。 船の平行を保つため搭載原油2,500トンを投棄。かろうじて香港に到着。約10日間の修理の後3月18日単船で帰還の途についた。3月22日廈門(あもい)沖で明島丸,新南,宇久と会同。3月27日06:00門司に帰還。 富士山丸は直撃弾こそ免れたが至近弾で損傷。独行し本土に向かった。 該船はその後昼間航行のみで尺取り虫様で航行。3月13日18:10無事門司に着桟した。 駒宮真七郎著 『戦時輸送船団史』 で光春丸の運んだ重油全量は三田尻沖に仮泊していた戦艦大和に搭載した。と記している。 参考までに、日本から南方に向かう場合奇数。帰還便が偶数だった。 また、資源を持って帰ることを『還送』と云った。 鉄道でも航空でも奇数番号便は下り便。偶数番号便は上り便である。 |
![]() GF作戦 機関参謀小林儀作大佐が本来の作戦をねじ曲げた![]() |
[transport] 内の各 htm ファイル 船団護衛をおろそかにした海軍の下でのヒ86船団の悲劇
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