真相 大和片道燃料工作。小林儀作が大和を沈めた
大和片道燃料工作
戦艦大和TOP
船団輸送に見る完敗の海軍】 ヒ86船団の悲劇。
資源還送を考えなかった】 1944年夏、すでに戦争を継続する油がなかった。
海防艦諸元】 開戦時存在した日本海軍四隻の海防艦諸元及び最後の態様。
船舶喪失】 海上護衛参謀の回想。
GF作戦 機関参謀小林儀作が本来の作戦をねじ曲げた
大和の燃料について次の裏話が語られている。
徳山海軍燃料廠史頁432〜
戦艦大和への給油(渡辺崎雄)
 二十年四月一日、米軍が沖縄本島に上陸した。全島は強大な攻撃力を備えた敵の要塞に化身しはじめ、日本本土の空襲基地に変貌しっつあった。  日本海軍は虎の子の超巨大戦艦大和を旗艦として、戦局挽回のための捨身の戦法天一号菊水作戦を取った。大和は沖縄本島に突入欄座世界最大最強威力の十八吋主砲九門の一斉砲火をもって、所在米艦船及び上陸米軍を徹底的にと壮烈無比の戦略、帝国海軍最後の突撃であった。
 四月四日燃料補給のため徳山湾沖に入港、はるか沖合ではあるが七万二千八百トンの浮城。その雄姿偉たり壮たり、艦長は有賀幸作少将で、難攻不落の大坂城を想起する偉容であった。眦(まなじり)を決して死を思わず生還を期せず全身全霊火の玉となってぶつかる乗員の悲壮な気塊沸々として胸に迫った。我は直接この任に非ざるも身ぶるいする複雑な感動を全身に受けた。一緒に庁舎屋上から望見の者、皆同じ思いを洩らす、日本人なら誰にでも当然の感動であった。
 大本営緊急作戦命令六〇七号「第二艦隊は四月六日内海を出撃、九州南方を経て、北西方から沖縄に近接、八日未明を期し、沖縄泊地に突入し所在の敵艦船を攻撃せよ」。燃料は沖縄までの片道分搭載指令、文字通りの行って帰れない航行であったが、徳山軍需部支部の塩田高治大尉(特)、三燃製品管理者小松儀之助大尉(特)は 各艦機関長の要請に欣然応諾、帝国海軍艦隊の作戦行動は、これが最後、しかも生還を期待できない吾等海軍仲間、その上全海軍の人に代わっての出撃、この人を不安に思わせて 而も残油は微々たるもの、かまうものかと上司に言わず、帝国海軍の艦隊がいま特攻として死にいこうとする途上である、存分に動けなくてどうする、片道燃料なんてことがあるかかまわぬ、みんな持って行ってくれとバルブを全開にした。大和満載六千トンのところ四千トン、矢矧千二百トン、各駆逐艦満載、勿論呉鎮の司令部は全く知らないこと。結局、タンクは空っぽ、これでよいのだと両人、責任は一切引き受ける。俺達覚悟は出来ている。三燃の特攻だと静かに胸を張った。このことは後日、渡辺伊三郎廠長や二見仲一総務部長にも知られたが、良くやってくれたとの思い出一杯だったと聞いている。
(下松市末武中山根)以上原文のまま
若干の錯誤と、後知恵的なものもあるが、当時の現場の雰囲気を感じさせる。矢矧は入港していないのに千二百トンと記されているなどである。参考までに戦艦大和は粭島陰になって三燃(徳山燃料廠)からは見えない
両人とは塩田高治大尉(特)、三燃製品管理者小松儀之助大尉(特)と思われる。
以下(注)ご参照
小林儀作手記抜粋全文
小林儀作氏  「日本海軍燃料史(下) 燃料懇話会/編 1972年発行」P988〜989 に抜粋だが全文が掲載されている。
小林手記全文 日本海軍燃料史(下)頁988〜989掲載 沖縄特攻艦隊の燃料
    *小林儀作
本文は機関科第33期50周年記念誌より許可を得て抜翠したものである。(編纂委員)
まえがき
巷間風聞として伝えられる処によれば,沖縄向け突込んだ戦艦大和(重巡矢矧他,駆逐艦8隻)以下の特攻艦隊は当時の国内燃料の欠乏状態から片道燃料しか持たずに出撃したと云われているが真相は次に記す様に燃料は満載で出撃したのである。 以下は当時の連合艦隊機関参謀であった機33期小林儀作大佐の思出である。
天号作戦(大和沖縄突入作戦)
湾内に碇泊し徒らに敵機の襲撃を待つより日本海軍の名誉*1にかけその最後を飾らしむる為、 軍艦大和を沖縄に突入せしむる作戦がG・F(連合艦隊)首脳部にて立案され軍令部と協議せらる。 軍令部は現在国内の燃料貯油極度に減少し物資輸送の船舶の護衛艦の燃料も充分と云い難き状況にある。 又敵の制空圏下の艦隊行動はたとえ沖縄に突入し得たりとするもその生還は期し難い, 強いて本作戦を行う場合に於ても燃料は片道分しか渡せないとの強硬意見である。 早速G.F.に於いては作戦会議を開かれ本作戦実施の可否につき真剣なる討議が行なわれる。 若手参謀の多くは「本作戦の成果等に関する論議は暫く措くとしても,たとえ生還の算少なしとは云え燃料を片道しか与えないとは「武人の情に非ず*2」とて反対意見を述べたるもG・F・首脳部は本作戦決行に決す。 筆者は昭和20年3月20日大海指令作戦命令伝達の為、派遣せられる草鹿竜之介参謀長に強いて随行(疑1)を願い、 4月2日柱島碇泊中(疑2)の軍艦大和に至る。 機関参謀松岡茂少佐(機42期)に「今回の出撃の為の燃料補給は自分が行なう」との了解を取りつけ直ちに呉鎮守府に行く。 機関参謀今井和夫中佐(機35期)に会い天号作戦決定迄の経緯を述べ,往復燃料搭載の事を懇請せる処、 往復燃料を補給する。
(1) 片道分は帳簿外重油とす(タンク底の重油在庫は報告し非ず。之を集めれば約5万竏の在庫あり)。
(2) 補給命令では片道分の重油搭載を発令したが緊急搭載で積み過ぎた余分を油パージに吸い取ろうとしたが出撃に間に合わずその儘にした(疑3)」とする事に快諾を得, 呉鎮先任参謀井上憲一大佐,参謀副長小山敏明大佐,参謀長橋本象造少将の承認を得る。 直ち大和に帰艦し松岡参謀・先任参謀山本硲二大佐にその旨報告非常に喜ばれる。
燃料料搭載量は合計約10,500竏で大和4,000竏,2sd(第二水雷戦隊)矢矧1,300竏 駆逐艦(冬月,涼月,磯風,浜風,雪風,朝霜,初霜,霞)は各艦共満載である。
本件は正式に残った文書は全然なく戦後刊行せられた幾多の戦記書にも「片道航海」「無情の海軍」との謗を受けているが事実は以上の通りである。生き残る唯一の証人として以上の事実を銘記する次第である。
* 元連合艦隊参謀,軍令部員,軍需局員,海軍大佐

筆者による補注と小林手記全文である。この発表に至る経緯は、吉田満著「戦艦大和ノ最期」などで、 「片道燃料」など非情な海軍の謗りをうけている現状を知友千治松彌太郎(伊17潜で真珠湾攻撃に参加。 軍医、徳山医師会長)に相談。千治松氏の助言を入れ「水交誌」に寄稿。 小林氏は戦後出光興産に入社。徳山市議会議長などを歴任。 この件、出典:千治松彌太郎自分史「マニラの落日,非売品」頁129〜。 山口県内図書館所蔵 県立図書館・周南市立図書館の二館。
(注)
小生が小林儀作手記にこだわり、格闘した結論は「簿外処理」「出撃指揮官所定」の 根回しをおこなったということに到達するまで、'07年7月から4カ月半かかったが、 「戦艦大和発見(悲劇の航跡を追って)三井俊二/著 昭和57年(1982年)9月1日発行・日本放送出版協会」頁223 でいとも簡単に喋っていた。千治松氏も結局欺されたことになる。
戦艦大和発見(悲劇の航跡を追って)三井俊二/著 頁223
小林儀作氏の話
『結局特攻命令が出たが、華々しく出撃させてやりたい。帳簿外の重油、なんぼ持っているか、タンクの底にもかなり残っている。 だから片道燃料をつめ、後の半分は帳簿外で処理する。問われたら、半分積もうと思ったが積み過ぎた。吸い取ろうと思ったら出撃になった。と答えよ。そう言った。』

小林儀作の妙案は、GFが呉鎮守府に余分な燃料をなぜ積んでしまったのかと詰問された場合には、
1.緊急搭載で積み過てしまった。
2.積み過ぎた油を降ろそうとしたが、出撃時間に間に合わないのでそのままにした。
そして、それでもGFが問題にしたら
3. 片道分は簿外重油で在庫計上している重油は積んでいません。と報告しろ。

小林儀作は草鹿参謀長らと強いて同行し
(疑1) 彼は4月2日, やがて始まる菊水作戦打合せで鹿屋に向かう草鹿参謀長、 作戦甲参謀の三上作夫中佐(水上部隊作戦担当)、航空甲参謀淵田美津雄大佐らと徳山まで同行したと手記で述べている。 ...
だが、公刊戦史沖縄方面海軍作戦を読む限り、4月2日の段階で大和以下の残存艦隊を沖縄島に突入させる決定はされていない。 だが小林儀作はあたかも 突入が決定されたような表現をしている。
疑問ついでに、三上作夫らは鹿屋で航空特攻菊水作戦(作戦は4月6日から展開)の打ち合わせ(会議は4月3日から行われた) が済んだ段階頃、電話で大和水上特攻の話を聞き、その説得のため徳山沖(4月6日14:00過ぎ頃・戦史叢書沖縄方面海軍作戦頁631上段)に水上機で飛来している。 この面から考えてもこの小林儀作氏の話全体が信じがたい。連合艦隊の参謀長と参謀たちが大和水上特攻を知らず、途中まで同行した機関参謀のみが今回の作戦を知っていたことになる。
水上部隊作戦担当連合艦隊参謀三上作夫は戦後の回想で 「4月5日までは、海上特攻隊を編成することについて少しも考えていなかった。草鹿参謀長とともに鹿屋にあって、日吉から海上特攻隊の電話を聞いて全く寝耳に水のことで驚いた。」と書いている。
だが、あわただしく出撃を敢行した第一遊撃部隊の行動から、なにがしかの工作は窺える。
当Webサイト訪問者はご存じと思うが、軍令部も連合艦隊も 3月26日・電令作第581号により、【一航戦(大和)、二水戦、三十一戦隊、十一水戦(稼働全力)ハ出撃準備ヲ完成シ内海西部ニ待機スベシ】という命令を受領した。  これは沖縄来攻が必死の情勢の中で航空特攻を有利にするために、九州西方海上に残存艦艇を遊弋させ、 それにより米機動部隊を北に引上げ南九州各地の航空基地からの航空特攻を有利に展開しようとするものだった。ところがこれも3月27日の関門海峡機雷封鎖で再考を迫られることになってしまった。 だが、これは水上部隊の用兵の問題であり作戦構想に基づき全軍は着々と戦闘準備や配置に付こうとしていた。
第六艦隊隷下回天特攻多々良隊は伊47(3月29日・大津島)を皮切りに伊53(3月30日・大津島 同日触雷し変更される)伊58(4月1日・光)、伊43潜の代替として伊44(4月3日・大津島)などがそれぞれ回天4基を搭載し沖縄海域に向かった。
よってこれらの状況から、小林儀作機関参謀の戦艦大和訪問は3月28日の線が濃厚である。 それでないと、連合艦隊参謀長や作戦担当三上作夫らが大和水上特攻の話を全く知らず、途中まで同乗した小林儀作のみ 大和水上特攻を知っていたことになり不自然である。もしこの大和の燃料の件が4月2日のことであるなら、戦後の三上作夫の話がこれまたデタラメということになる。
4月2日のことであるなら、あの機雷原を避けて内火艇で往復できたとは考えられない。
三上作夫の回想 戦史叢書沖縄方面海軍作戦 P627
小林儀作はその手記で戦艦大和訪問を甲(兜)島沖だと書く
(疑2) 4月2日柱島碇泊中の軍艦大和に至る。は三田尻の記憶違いか。 記憶違いでないなら、大和訪問日は、3月28日となる。この日午後からは岩国市沖甲(かぶと)島沖に停泊した。 甲島と書いてかぶとじまと読む。ときに、兜島とあるが間違い。どの方向から眺めても戦国武将の兜に似ることからこの名になったと伝えられている。
この手記は戦後20年近くたってはじめて発表された。戦艦大和を訪れた日を4月2日としているが、大和在泊位置は三田尻沖である。小林は、まず戦艦大和を訪れ、 出撃燃料について斯く斯く云々(かくかくしかじか)したい。と第二艦隊機関参謀の松岡少佐、先任参謀山本大佐に開陳し、のち、 高速艇を仕立ててもらい呉で必要な 打ち合わせを行って再び大和にとって返したと書いている。
小林儀作機関参謀は
1)連合艦隊司令部より最初に大和を飛行艇で訪れたと書いている。また、菊水航空特攻打合せで鹿屋に赴く連合艦隊参謀長らと途中の徳山まで同乗した。とも書いている。
2)そして、大和より高速艇で呉に向かっている。
3)呉から再び大和に向かった。
4)彼は、そのまま出撃していないので大和から本土に渡らなければならない。
三田尻沖から呉まで最短距離を航行しても片道120Km(65浬)もある。高速艇が何ノット出せたのか判らないが往復を考えたら相当の時間が必要である。 米軍の機雷投下大和封じ込め作戦は着々と進められており、4月2日であれば、三田尻沖から呉までの海域は非常に危険を伴う航行である。

戦艦大和は 3月28日 17:30 呉を発進。その夜は岩国沖甲(兜)島に仮泊した。 すでに作戦に必要な燃料・弾薬は補充し終わっていた。 大和副長能村次郎はその著書「慟哭の海」で大和は呉を発つとき在泊巡洋艦などの燃料を大和に補給し満載(6,300t)であったと。と書いている。

この機雷投下はこの「呉空襲」Webサイト
同Webサイトの投下作戦海域図はこちら
  1) 3/30 米軍作戦番号 Missions 49
下関海峡・呉・広島・佐世保海域に94機、825個の機雷が投下された。
2) 4/01 Missions 52
呉海域に6機、48個の機雷が投下された。
3) 4/02 Missions 53
呉,広島に10機78個の機雷が投下された。
4月2日の昼間に三田尻沖から安全に呉までたどり着けたとも考えられない。  その実、 4月3日少尉候補生が呉より大和・矢矧着任のため連絡艇でJR宮島駅に向かったが、 引率士官は触雷の危険を承知せよ。と伝えている。このような危険な海域を240Kmも航行するのは疑問である。 ここは小林が言う甲島沖停泊の大和が正しいだろう。ここからなら(甲島・かぶとじま)倉橋島と東能美島を隔てる早瀬瀬戸を通り 呉まで片道28Km程度である。 それだと3月28日に大和を訪問したことになる。この段階なら柱島沖海域の機雷封鎖は完了していない。 昭和20年(1945)3月27日から開始されたStarvation (飢餓; 餓死)作戦の全容はこちら
  
Missions 49Missions 52 の機雷投下作戦は沖縄支援作戦の一環として実行され、かつ戦艦大和と他の艦艇を切り離す作戦でもあった。 上、左は投下海面。右はB-29搭乗員の証言から得られた機雷大きさ別を表す符号。
この図面の補注に4月1日第一戦隊が高度25,000ft.(7,620m) から投下したとある。 出典は【写真が語る・日本空襲】工藤洋三・奥住喜重編著
同書お取り寄せは最寄りの本屋さんか直接ご本人さん 【写真が語る・日本空襲】 こちらへ
また、直接、工藤教授に E-mail。宛先は ykudo@bronze.ocn.ne.jp
燃料枯渇の現状から沖縄に向かうのであれば2,000トン程度の燃料になるであろうから、 現状余分に積み過ぎている油は降ろすことになる。 その場合、1項、出撃時間「指揮官所定」の許可が出たなら、出撃時刻を早めなさい。 そのようにすることで、 「 燃料片道分の命令を指示した(呉鎮の立場)が余分に積み過ぎてしまった。 そこで抜き取ろうとした(第二艦隊の立場)が、 出撃時間に間に合わなくなり(出撃を指揮官所定と命令したGFの立場)、 の三者とも顔が立ちます。 その根回しは小林が行います。という内容と思える。
  早速GFより第二艦隊に命令が入る。
4月5日 電令作第606号(14:46) GF発 宛、第一遊撃部隊(第二艦隊)
「6日朝、燃料2,000トン補給スベシ」この命令を受領した大和は 5日夕刻から燃料移載(駆逐艦への給油)の準備に入った。  続いて、
GF電令作第607号(15:00) 戦史叢書(公刊戦史)「沖縄方面海軍作戦 頁628」はこの電令を611号としている。
「海上特攻隊ハYマイナス1日黎明時豊後水道を出撃Y日黎明時沖縄西方海面ニ突入、敵水上艦艇竝ニ輸送船団ヲ攻撃撃滅スベシ。Y日ヲ8日トス」
具体的な沖縄突入命令を受領する。 この命令を受けた第二艦隊は早速意見具申を行った。
4月6日 08:27 GF電令611が着信する。
1.出撃兵力および出撃時機は貴要望通り了解。
2.ただし、燃料はGF機密〇五一四四六(04/05 14:46)番電通り二〇〇〇屯以下
すでに、余分な燃料を降ろさないことで根回しが出来ており、第二艦隊は出撃に向けて大回転を行う。 すなわち、「出撃は指揮官所定」を逆手にとった対応を行った。 結果は、豊後水道黎明出撃の8時間前倒し出撃となった。
参考までに、同じく小林儀作手記は、「回想の日本海軍 原書房」P214〜218 水交会編 1981年12月号掲載」にも 掲載されている。ここでは、沖縄までの燃料消費量計算までされている。 大和の燃料4,000トンと当事者しか 知り得ない数字が記載されているのだ。(大和副長能村次郎氏が「慟哭の海」で既発表)
よって触雷の心配もなく安全に航行できた日は3月28日,29日に限定される。このような経緯から出撃燃料に関する話は3月28日説としたい。 防衛省戦史室に小林儀作大佐の出張承認願か復命書が残っておれば解明できるであろう。
出撃直前の大和の燃料補給を手押しポンプで搭載したなどという戯言Webサイトが目立つ。 GFの命令は4月6日から補給せよ!だった。 第三海軍燃料敞(山口県・徳山)に大和が着岸できる桟橋はない。 石油ストーブに灯油を補給する感覚で記事を書いている。何千トンもの高粘度の缶用重油(現在のC重油相当)を石油ストーブポンプで補給するとしたら何万年もの搭載時間を要するだろう。  それらの手押しポンプで燃料補給したとWebサイトで公開されている方は、ガソリンスタンドでマイカーが燃料補給する給油機の毎分給油量をご存じなのか?
大和が着岸できる桟橋が無い以上燃料搭載作業は次の方法となる。 燃料敞桟橋→燃料運貨船。 燃料運貨船→戦艦大和。 同量×2回。 たとえ2,000トンでも 4,000トン分の作業量となるのだ。
「天一号作戦」が発令される前、軍令部としては、大和をどのように使うにせよ、 燃料の確保が絶対条件だった。ましてや、沖縄特攻に使うにしても燃料の確保こそが、 大和以下の出撃を命じられた乗組員を最低限納得させられる。よって、 この重油残量調査は早くに始められたと考えられる。 残余の重油があることがわかり呉もしくは、柱島泊地から三田尻沖移動の発動となり、また、佐世保に回航し、 そこから適宜残存艦艇で陽動出撃を行い、それにより米機動部隊を誘引、 そこに航空特攻作戦を行うがことが考えられていた。そして事態は急に動き出す。 3月26日、米軍慶良間列島上陸。天一号作戦が発令された。


小林儀作氏は「重巡矢矧」としている。本当は「軽巡矢矧」
*1 当時の連合艦隊内部で戦艦大和の作戦的使用にに関し、「日本海軍の名誉」しか念頭になかったことに驚愕する。 軍隊は国家のシステムであり、当然軍隊は国家に絶対奉仕を求められる。海軍のエリート達には、国家の名誉より 海軍の名誉が優先されたことを如実に物語る。
*2 手記中、若手参謀の多くは「燃料を片道しか与えないとは武人の情に非ず」 とこんな浪花節的思考の持ち主らが戦争を指導していた事実に愕然とする。 戦時にあって 連合艦隊司令部は国家経営の一翼を担う。 浪花節だから海軍は国家を破滅に導かせたのであろう。
(疑3) 小林儀作による第二艦隊首脳部への常識的なアドバイスは、天号作戦発令の中で沖縄に向かえという命令を 受領したら、誰が考えても沖縄島突入は最短経路での進撃を考えるだろう。 その場合に突入日時に合わせた出撃時間も指定されたら、
1.出撃時刻を「指揮官所定」とする。
2.41駆逐隊(冬月・涼月)を加える。
以上の具申を行えということだった。 と筆者は推測する。

GFが当初描いていた沖縄突入駆逐艦は磯風・雪風・浜風(17dg),響,霞(7dgのち21dg)である。

* 豊後水道黎明出撃だと徳山を翌7日 00:00 頃出撃すれば、豊後水道黎明(04:00頃・艦速20Kt)となる。
注)戦史叢書(公刊戦史)沖縄方面海軍作戦(頁628)の04-05 15:00 番電を電令作611号としている。 これは間違いで前後の電令から電令作607号である。

「回想の日本海軍」にみる燃料計算 (水交会編 原書房 S56.12月号掲載)
大和の航続力について
(1)公試速力(153,550馬力で)27.46節(50.86km/Hr)
(2)航続力=27節(50km/Hr)で3,500浬(6,482km) 16節で10,000浬(18,520km) 別資料に16節で7,200浬(13,334km)
(3)重油搭載量(満載で?)6,300トン
(4)内海西部から沖縄本島までの距離は、機密第3号別図航路Tであれば、豊後水道出口から517浬(957km)
  九州南部→沖縄の直距離363浬(672km)である。

小林儀作の次の記述は意味深である。現在残されいる機密第3号別図航路Tの豊後水道出口から沖縄島残波岬までの片道は約517浬。 往復で1,030浬程度である。 よって当初からGFの心づもりは突入行程は航路Tだった可能性がる。


出典:戦史叢書・沖縄,台湾硫黄島方面陸軍航空作戦付図


(5)出撃時の燃料搭載量4,000トン
 沖縄に向け出撃が下令されるまでの間、燃料保有量が全くの「零」ではなかったが、出撃前には 4,000トン(満載量の56%)に補給されていた。全航程を最大戦速使用(後続距離は三分の一)として計算すると、
7,200浬×0.3×0.56=1,200浬(2,222km・燃費 0.56km/トン)となり、沖縄に十分往復できることになる。
56%としているが、満タンが6,300トンなら63%強になる。
大和の作戦計画の航程は、(戦史叢書「沖縄方面海軍作戦」),当然日本測地系と考えられる
世界測地系変更は2002年(平成14年)4月1日〜
(1)第1回頭点 31°12′N,128°15′E
(2)第2回頭点 28°12′N,126°41′E
この航程で内海西部(徳山沖)から沖縄残波岬沖まで 実際の出撃コース(部隊命令作第三号第二航路)で660浬(1222.8km)(小林儀作は480浬(889km),ほぼ沖縄直行距離。)
九州南部→沖縄の直距離(佐多岬沖186.8°578km) ちなみに、九州南部(大隅半島先14.5Km。方位208°5′)→沖縄の直距離437浬(810km)

大和作戦計画の航程による所要時間はこちら
GFが提示した作戦命令(豊後水道黎明、沖縄島黎明突入)による進撃路所要時間はこちら
機密第一遊撃部隊命令作第三号別図、各地点回頭位置とコース図はこちら
タンク底の重油在庫は報告し非ず。之を集めれば約5万竏の在庫あり。これも話オーパー。 日本海軍燃料史で徳山海軍燃料敞で7,000KL重油タンク36基。 その内16基は撤去されていた。
  昭和19年以降、航空機用ガソリンが逼迫し、その蒸留装置を製造するためと鉄材転用のためか? 16基が解体撤去され 松根油蒸留工場が建設され、1945年2月から製造を開始した。よって徳山に限ると7,000KL×20基。 呉にも貯油量全体数量は解析されており、その内缶用重油タンクは55基である。 松根油の実態はこちら
徳山に限ると重油タンク1基あたり2,500KL。 呉を加えて除してもタンク1基あたり667KLとなる。 667KLはドラム缶換算で3,333本。 この数字は簿外重油の域を超えている。
徳山海軍燃料廠史にみる重油
昭和二十年四月六日の燃料廠の日誌によると、この時点における重油の残量は、1万5,000トンと記録されており、日本全体の残量の3 分の1 という状況であった。又、地下タンクの底の方には、約200トンの底油が残っていた。これは、普通のポンプでは届かず、手押しポンプでしか汲み出せないものであった。 海軍残量はこちら
この重油1万5,000トンは重油全量でディーゼル用重油(現在のA重油,1号重油),更に比重の大きなB重油(2号重油),缶用重油(ボイラー用外燃機)を含めた数字で詳細(内訳)は不明。
米軍撮影徳山燃料敞
「写真が語る山口県の空襲」所載 1945/5/10 米軍撮影徳山燃料敞  同書販売店はこちら
出光徳山の西桟橋(写真の製品桟橋)として使っているものが当時の海軍が使用していた製品桟橋だという。 徳山海軍燃料廠史頁421 重油槽係だった渡辺謙一は毎時180トンポンプ4基。75トンポンプ2基。輸入用の陸揚げは船のポンプで製品の積出しは工場のポンプで行い、離着桟は総務部が担当した。 と書いている。写真の横幅約 2.0 Km 程度である。固形品桟橋部分は日本ゼオン(株)である。
4月6日、燃料搭載命令を受けた31戦隊旗艦花月の山根真樹生当時航海長は現在の中央桟橋。当時の原油桟橋に接岸した。と筆者の問い合わせに答えている。
すなわち、燃料廠桟橋に着桟した残りの艦艇は、21駆逐隊の 初霜・朝霜である。
※筆者注
期 別卒業年月年号・年
海兵機関西暦年月
44 25 1916年11月大正5年
46 27 1918年11月大正7年
48 29 1920年7月大正9年
50 31 1922年6月大正11年
52 33 1924年7月大正13年
54 35 1926年3月大正15年
56 37 1928年3月昭和3年
58 39 1930年11月昭和5年
60 41 1932年11月昭和7年
62 43 1934年11月昭和9年
64 45 1937年3月昭和12年
66 47 1938年9月昭和13年
68 49 1940年8月昭和15年
69 51 1941年3月昭和16年
小林儀作手記はここに掲載したもののほか、 「回想の日本海軍」(水交会編 原書房 昭和56年12月号)にも発表している。なお単体本として「回想の日本海軍」1982年(昭和60年)11月30日 第1刷 水交会編がある。 表現が違う部分もあるが内容、大筋は全く同一である。氏は、戦後出光興産に入社し同社社員の身分で徳山市議会(現周南市)議長を務めた。 氏のご子息は現在北海道札幌市北区に住し、ご自宅に発表原稿などの有無を問い合わせたが無いとのご返事を頂戴した。('07年7月)
機関科50周年は昭和49年(1974)と思われる。  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』で、海軍機関学校は関東大震災で校舎が全焼したため、一時期江田島の海軍兵学校の校舎を借りて教育が行われた。 海軍兵学校の52期から55期まで、海軍機関学校の33期から36期までの生徒が同じ地で教育を受けて関係を深めた。  よって、大正13年(1924年)7月海軍兵学校卒業(52期)と機関科(33期)は同一となる。52期兵学校で淵田 美津雄、源田 実は同期で終戦時大佐。 同じく小林も大佐だった。

(注)
1.随番艦艇燃料補給日は4月6日で4日はありえない。花月戦時日誌、第二水雷戦隊戦時日誌などで確認できる。
2.本部庁舎屋上で戦艦大和が見えたような記述をしているが大和停泊海域は米軍撮影で 33-57-06,04 N 131-44-18,83 E であり、 当時の海軍燃料廠本部庁舎(日本海軍燃料史・上,頁700)はほぼ出光徳山製油所本館の場所である。この建物位置から大和停泊位置を望見しても粭島(すくもじま)が障害となって見えない。本部庁舎と粭島と大和写真撮影位置と結んだ線上の島高さは56mである。
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船団護衛をおろそかにした海軍の下でのヒ86船団の悲劇   開戦時存在した日本海軍四隻の海防艦諸元及び最後の態様   資源還送の護衛を考えなかった海軍は1945年、すでに戦争を継続する油がなかった。
船舶喪失と海上護衛参謀の回想

第二奇兵隊取材班
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