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| 船舶喪失と海上護衛総司令部参謀 進む 海防艦 |
遠く南の海に、ひたすら無事を祈る母や父,妻や子の祈りは届かなかった ・・・・・・
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| X.会敵率100%以上、敵暗号解読の疑念なし! |
| 海 | 軍は敵信を傍受し、暗号を解析し、作戦に活用する組織を持たなかった。傍受通信から敵の意図を探る程度で、それも通信参謀の片手間仕事である。 |
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帝国海軍は電波を発すること、音波(ソナー)を発すること極度に忌避した。だが、作戦に名を借りた輸送船舶の航行位置などご丁寧にも毎正午発信することを義務付けた。それが解読される危険性にも気づかずに・・・・ 戦争終期、敵潜は3隻で1チームを構成していたから、獲物(護衛艦・輸送船)を分配(撃沈)するために、魚雷発射のタイミングなど平文で平気で相互に無線交信していた。この英語でのやり取りを聴取した輸送船通信長の悲鳴にも似た記録は随所に残されている。 本来輸送船を護衛するからには、対空火器,対潜兵器は必須だったが極めて弱体だった。またこれら護衛艦(一等駆逐艦含む)乗組員も対空戦闘,対潜戦闘などの訓練も行き届かず(兵器を持たないので当然だが)技量も低かった。 東郷元帥の末裔らは、あのバルチック艦隊撃滅に貢献した、水雷艇,駆逐艦の用途を敵大艦隊への先遣攻撃に使うことのみが頭を支配し、夜襲魚雷訓練ばかりを行わせていた。 出航後会敵率100%以上。 君は信じられるか?? 参謀たちは何をしていたのか・・・ 海上護衛総司令部参謀大井篤の著書に戦史叢書と同一表題の「海上護衛戦」があるが、昭和18年(1943)に入って、船団使用のS暗号,米軍呼称『マルコード』が解読されている懸念を示した記述はない。海上護衛総司令部が開設された年初(昭和18年)米軍は船舶通信暗号の解読に成功していた。 輸送船団統括司令部からは輸送作戦ごとに、船団出発地。船団到着地。航行速度,船団構成,護衛艦。正午位置(緯度・経度)を無線連絡していた。米潜はその経過地点で待伏せしていたのである。 大井篤はこれに全く気付いていないし、そのような疑念・懸念(暗号解読)も感じていないように見える。その最大の証拠は開戦から敗戦まで一貫して同一の商船暗号を使っていたことでわかる。 先述した、 | ||
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参謀に一番必要なものは現状の分析力・洞察力と対応力と柔軟な思考であろう。敵の出方を知り、勝つための対応を考え次の作戦に反映する。会敵率100%以上など、
誰が考えても不思議だと気付き?そうだが、これに気付いていない。戦史叢書「海上護衛戦」で参謀長島本久五郎,主席参謀後藤光太郎,作戦参謀大井 篤らが名を連ねる。
雁首だけはそろったが、海上輸送を担う商船とその航路に何が生起しているのか?知ろうとしていないように思える。陸軍もそうだが海軍お前もかと云いたくなるほど、その能力を疑いたくなる。
すんわち、彼らに"力(riki)"が付くおおよその言葉が備わっていない。すなわち、洞察力・分析力・理解力・思考力・想像力・対応力などなどが欠落しているように見える。
彼らに、新規な着想力や構想力、対応力を求めるのは酷かも知れない。
最初の海上護衛総司令長官は、第3次近衞内閣内閣で海軍大臣に就任した及川古志郎で、のち軍令部総長となった人物である。
ご承知の如く、特攻に許可を与えた人間でもある。馬鹿な提督の下に馬鹿な参謀が集まったとは云わないが、無頓着、無気力、無研究、無思考者がよくも集まったものだと感心する。
どこか、全海軍に大きな陥穽があったのであろう。 実際敵信を傍受し分析する部署、暗号解析する部署は海軍は持たなかった。 すでに、「あ」号作戦参加の呂41潜水艦から暗号漏洩の懸念が伝えられていたが、愚鈍・鈍感海軍は一貫して同一の暗号書を使用した。 あ号作戦以前、あの大敗北を喫したミッドウェイ海戦の後、使用暗号書が変更された。理由は重巡三隈が戦場に放置され、誰もその最期を見届けなかったことによる。そのようなことには疑心暗鬼だったが、味方潜水艦からの情報や、現実目の前に起きている事象(会敵率100%以上)には無頓着だった。 |
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Imperial Navy の船舶用運行暗号〔S暗号〕の解読は戦用D暗号解読が優先され、1943年(昭和18)に解読できるようになった。同年春には撃沈した日本船舶より暗号書を入手し、解読大きく貢献した。大井篤は戦後戦史家の暗号解読可否の問いかけに「暗号が解読されている疑いが濃厚だったが、ひどい手不足のため、対策を立てるまでにいたらなかった」と回答したとされる。
海軍内部でもが暗号解読されているのか等を調べる組織はなかった。軍令部第三部第五課と軍令部長に直属する特務班が別々に通信解析を行っている。 暗号漏れの危惧について一番関係ありそうな組織として第三部第五課の中に丙班N組がある。海上護衛総司令部作戦参謀とすれば、敵潜の動向は、 軍令部第三部第五課丙班N組の仕事であり、俺たちゃー知っちゃイネー。だったのかも知れない。 『手不足?』 島嶼や各出先、各艦隊、各航空隊など西太平洋の広汎に地域に点在する部隊の暗号を期限を限って変更する作業は大変だったかもしれないが、船団主要航路はせいぜい50航路程度で各港警備府を通じた対策を施すのに、ひどい手不足はあるまい。暗号解読に気付かなかったことへの弁解に聞こえてならない。 護衛艦艇は戦用暗号のD暗号であったから、こちらもとっくに解読されていた。 いわゆる海軍甲事件(山本五十六搭乗機撃墜)でも調査委員会で「わが企図の諜知は、山本長官行動予定の電報を解読せねば不可能なり」と結論付けている。いずれにしてもこと暗号に関してさしたる関心を示していないことは確かである。 海軍のD暗号の大部分は解読(海軍乙事件・暗号書紛失)されたが、陸軍の暗号は硫黄島の戦いまでかなりの部分がベールに包まれていた。昭和20年(1945)3月19日午前5時頃、洞窟に投げ込まれた手榴弾が爆発した直後、一人の男が脱出し捕虜となった。 名は坂本泰三。捕虜となった坂本は日本陸軍の特別諜報部隊と使用機器、暗号書、乱数表、計算表とそれぞれの組合わせと仕組みを話した。そして暗号表は年1回。乱数表と計算表は30日程度で変更されることを喋った。 ただし、この頃には陸軍の暗号解読で作戦に効果を発揮する段階を過ぎていた。残るは沖縄と、本土攻略だけが残っていた。 一方帝国陸軍は、海軍ほど暗号を多用しなかった。重要な作戦は伝書使が軍司令部に届ける習慣だったことで重要な機密漏れは起こらなかった。米軍は近代軍隊とはほど遠い戦術を墨守(バンザイ突撃・海軍も一緒だが)する陸軍を脅威とは感じなかった面も否めない。 ガダルカナル島で戦死した陸軍士官が機密書類を携え、かつ取扱いが杜撰だったことを見抜いていた節がある。 国内では特高・憲兵隊を使い国民を疑いの目で監視したが、自らの内部は海軍同様情報管理は無様であった。すなわち、帝国陸軍と戦えさえすれば、その戦死体から垂涎の的情報を取ることが早道と考えたのであろう。 ご承知のように列国海軍は潜水艦に対しては別の暗号を使っていた。捕獲される可能性があったからによる。ただしImperial Navyは同一のものを使用していた。 文書の整理を能率化するための装置としてIBM作表機があったが、日本には第一生命と明治生命に一台ずつしかなかったという。その使用をめぐっても陸海軍が奪い合ったと伝えられている。海軍上層部は米海軍暗号解読をあきらめて、通信解析によって敵の企図を探る方向に転換してしまった。軍令部第四部特務班に別室が設けられ暗号解読にあたったが開戦時士官20人,予備仕官47人程度の陣容だったという。 第三部(情報)第五課も同じようなことをしていたが、彼らが解析した情報も第一部(作戦)の連中は活用しなかったと伝えられている。すなわち、海軍通弊とも感じる誇大戦果は、それを専門に担当する情報参謀を配置しなかったことに起因する。陸海軍に共通しているが、情報に関する教育はどのレベルの軍学校にも存在しない。還送物資が日本に到着しなくなり、政府は『足りぬ足りぬは工夫が足りぬ』というスローガンを掲げたが、 これはこの戦争を主導した軍部に属した連中の『足りぬ足りぬは"おつむ"が足りぬ』でもあった。 すなわち、陸海軍大学校の教育システムを構築した連中の情報やテクノロジーに関しての"おつむ"(頭脳)が江戸時代のお庭番程度であったという証左でもある。 彼らに、近代戦の何たるかを考える頭脳が無かったのだから負けるべくして負けたというべきであろう。 暗号解読でも日本の陸海軍は全く連携せず、米暗号解読も敗戦時同程度だったという。レーダーも共同で開発しなかったから、セクト主義は当時も現在の省庁もまったく変わっていない。味方も関係部署が違えば敵。指揮者なきオーケストラ。江戸時代のお庭番から脱却できなかった。これは一人大井篤の責任ではないかもしれない。もう一つ軍隊が官僚化していたのであろう。戦訓,戦訓と叫びながら戦訓が活かされなかった、いや活かさなかったのは陸海軍に共通していたように思える。 敵情を知る。という努力が列強軍隊と比べ著しく欠落していたといってよい。あの天王山と呼ばれていたレイテ沖栗田艦隊にも、在比島基地航空隊の第一航空艦隊(大西瀧治郎)や第二航空艦隊(福留繁)も偵察から得られた情報を海上部隊に与えた節はない。当時の軍令部作戦課はどのような総合的作戦指導をしたのか、なぜかおバカさんの集まりだったような気がする。 このおバカさんらは、艦隊作戦室などで戦場のビジュアル化をしなかった。広大な海空で戦われる近代戦を視覚的に認識できる簡便な方法さえ思い付かなかった。作戦室には単に海図が貼ってあるだけだったという。 ましてや偵察写真の解析など男の役務でなかったのかも知れない。双眼鏡は何に使うのか? この基本の基の字を理解していなかったのだろう。 情報収集に執念燃やす米国と、情報垂れ流しに漫然無策の日本海軍と際だった戦争でもあった。 詳しくは『トレイシー』 日本兵捕虜秘密尋問所 中田整一著 2010/4/15 発行(講談社) 読者は、工藤洋三著『写真が語る山口県の空襲』か『写真が語る日本空襲』を一読して欲しい。写真偵察機 F-13 に搭載されているカメラ群に度肝を抜かれるはずだ。このような機材を日本軍は開発する必要も感じなかったはずである。戦略的にもいや戦術的にも写真偵察が使われなかったに違いない。戦記を沢山出版している光人社にそのたぐいのもの(出版物)が無いことでもおおよその見当が付く。 一説によると、Imperial Navy は昭和19年(1944)9月まで専任の情報参謀がいなかったという。それまでは通信参謀の片手間仕事で、情報業務のみを補佐する下士官兵も配置されなかったとも伝えられている。中央が敵暗号解読に匙を投げていたのでムベなるかな。 「暗号戦争〔デーヴィッド・カーン著/訳秦郁彦・関野英夫〕」頁305によると『日本陸軍の暗号は、開戦直前期に実施した大巾な改善による技術的向上と、アメリカ側が海軍暗号に対する熱意を注がなかったこともあって、最後まで破られなかった。』 帝国海軍は、暗号が戦略・戦術の面に多大な影響を及ぼすとの考えに至らなかったのであろう。戦(いくさ)にゃ運・不運がつきものさ。出たとこ勝負さ。だったのかも知れない。 陸軍暗号の防諜解読の必要を米軍・豪軍は感じなかったかも。実は前線に沢山の作戦関係機密文書が持ち込まれ、それを捕獲すれば作戦の全体像が絞ることが出来たのだから。 また、敵情分析(日本陸軍)から西太平洋海域には全陸軍兵力の18%程度だったことを知り抜いていたのかもしれない。 じゃあの膨大な212万人の陸軍兵力の多くはどこに居ったのか? 驚いちゃいけません。支那、満州、朝鮮なのだ。実に135万人。64%は戦争の局外に張り付いていた。これホントの話。 たった18%程度の兵力で米英と陸軍は戦おうとした。これも海軍同様超おバカさんたち。である。しかもその多くは明治に誕生した三八式歩兵銃を持たされていた。 |
| 戦史叢書の総括で 1.商船学校出身の護衛艦長及び一般乗員の素質,技量等の低下。 2.絶対的護衛艦艇の不足 |
| としているが、みてきたような無神経さであれば、 勇猛果敢最優秀兵学校卒業者を護衛艦艦長に充てたとしても結果は同一だったと考えられる。なにしろ対潜制圧兵器を保持せず、エレクトロニクス技術に大きな開きがあったのだから。 |
| 大 | 井 篤海上護衛総司令部作戦参謀は海軍に入って以来本気で仕事をしていたのか疑わざるを得ない。海兵51期、海軍少佐のとき海軍大学校甲種学生34期(30人:昭和9年11月1日から2年間)として学んだ。 |
| 卒業すると駐在武官として米国に派遣される。米国こそ今回の戦いで主敵となった国である。また合理的,科学的な思考を好む国民性がある。 そのような国に対して、商船暗号は開戦から一貫して同一暗号。その上輸送船長の自主性を認めず統制を掛け、毎正午位置を通信させ、更に航路帯まで設定させた。これなど利敵行為と決めつけても過言ではない。また、米国で本気で軍務についていたとは信じられない。 彼の作戦は不合理極まるものだったのである。 |
| @.航路帯設定の悲劇 |
![]() 〔図−1〕 駒宮真七郎/著【船舶砲兵】裏表紙 |
| 海上護衛総司令部主導で進められた航路帯の被害が一目瞭然である。南シナ海にまんべんなく損害船は発生していない。要港周辺に多く損害が発生するのはしかたないにしても、 ベトナム沖を航路帯に指定したことで潜水艦の待ち伏せに遭ったことは想像に難くない。 |
| 〔図−1〕 中国が近年、ベトナムを武力で追い出した南沙諸島。シンガポールからこの沖合(南沙諸島)を経て台湾海峡を抜け、済州島を目指し北進すると下関(門司)への最短路で 2,540 浬である。 |
![]() 〔図−2〕 大井篤/著【海上護衛戦】より |
| 〔図−1〕 からシンガポール〜日本への最短路に不思議と撃沈された潜水艦は少ない。リサーチ不足だが、一旦ベトナム,サンジャクに立ちよるか、マニラに立ち寄ったことがうかがえる。 優秀船だと原速12Kt(ノット)で航行できたので直進したなら9日間で日本(門司)に到着する。警戒航行のジクザグ航行しても+2日程度であろう。 時間が短ければ攻撃を受ける時間も少く被害も軽減されると考えられるが、海軍が余計な容喙(輸送船への自主権否定)をしたことで商船の損害が増えたのかもしれない。 米軍は商船暗号解読以前にも経験則でベトナム沖で待っておれば日本船に出会う確立が大きくなることを知ったに違いない。日本陸海軍は総じて教条的で柔軟性に欠けていたので損害が増えた可能性を否定できない。 陸海軍ともダメ参謀に振り回され、輸送任務にあたった船員や、貨物船に箱詰めされた将兵が無惨にも亡くなった。 |
| A.暗号筒抜け 参謀達の無能怠慢のあげく |
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『日米開戦勝算なし 副題太平洋戦争の敗因』 NHK取材班/偏 H7/5/25初版 頁163〜 日本軍の輸送船は、船の数、出発地や目的地、航路や特定の地点の通過時刻などを無電で連絡を入れることを命令されていた。 この暗号をわれわれは『マル・コード』と呼んでいた。 『マル・コード』は特殊な四ケタの暗号で、 一回解読のパターンを覚えてしまうと非常に簡単な暗号だった。 あんなに沢山沈められたのに、輸送船暗号のコードを日本軍は終戦まで一度も変えなかった。米軍はたとえ解読されなくても半年毎に暗号を変えていた。 日本軍の無電は、 船名,出発地,予定航路,目的地,途中の一日ごとの正午位置,船速,ときには積荷の中身まではっきりと示されている。 情報は敵に筒抜けであった。なんとも情報統制に甘かった軍隊(帝国海軍)である。海上護衛司令部作戦参謀大井 篤のいう、 「太平洋戦争という民族的悲劇は決して天災ではなく、全く人災だつた。」 全く同感。あのようなバカ参謀養成海軍大学校だったのだから。 敵潜水艦長は仲間内で冗談めかして、やァー今回は貰った情報より30分違ったぞ! と語ったと伝えられている。 |
| B.バカ参謀達による墓標なき男たち。 〔戦没千名以上の船舶〕 |
| No | 年・月・日 | 傭船 | 船 名 | トン数 | 船主 | 原因 | 沈没場所 | 船員数 | 便・兵員数 | 合 計 |
| 1 | 18/03/02 | A | 大井川丸 | 6,494 | 東洋海運 | 空爆 | ダンピール海峡 | 78 | 1,151 | 1,229 |
| 2 | 18/03/02 | A | 帝洋丸 | 6,801 | 帝国船舶 | 空爆 | ニューギニアラエ東方 | 18 | 1,897 | 1,915 |
| 3 | 19/02/19 | A | 大敬丸 | 4,500 | 大阪商船 | 空爆 | 台湾海峡 | 43 | 1,616 | 1,659 |
| 4 | 19/12/11 | A | たすまにあ丸 | 4,106 | 岡田商店 | 空爆 | レイテ島パロンポン西方 | 48 | 1,149 | 1,197 |
| 5 | 20/01/09 | A | 久川丸 | 6,886 | 川崎汽船 | 空爆 | 台湾西岸安平沖 | 86 | 2,201 | 2,287 |
| その他による損害 | ||||||||||
| 1 | 19/08/09 | B | 興新丸 | 6,530 | 岡田商船 | 爆発 | 石垣島北方 | 28 | 1,104 | 1,132 |
| 昭和17年〜 潜水艦による喪失 | ||||||||||
| 1 | 17/05/08 | A | 大洋丸 | 14,457 | 東亜海運 | 雷撃 | 男女群島女島 | 157 | 662 | 819 |
| 昭和18年〜 潜水艦による喪失 | ||||||||||
| 1 | 18/02/08 | B | 龍田丸 | 16,978 | 日本郵船 | 雷撃 | 御蔵島当方 | 198 | 1,283 | 1,481 |
| 2 | 18/04/28 | B | 鎌倉丸 | 17,526 | 日本郵船 | 雷撃 | 比島付近 | 176 | 2,000 | 2,176 |
| 3 | 18/09/30 | A | 前橋丸 | 7,005 | 南洋海運 | 雷撃 | パラオ東南東 | 48 | 1,402 | 1,450 |
| 4 | 18/10/08 | A | 大日丸 | 5,813 | 板谷商船 | 雷撃 | ルソン島 | 64 | 2,025 | 2,089 |
| 5 | 18/10/22 | B | 粟田丸 | 7,397 | 日本郵船 | 雷撃 | 琉球那覇沖 | 不明 | 1,310 | 1,310 |
| 昭和19年〜 潜水艦による喪失 | ||||||||||
| 1 | 19/01/16 | A | 丁抹丸 | 5,809 | 白洋汽船 | 雷撃 | 台湾東方海域 | 31 | 1,673 | 1,704 |
| 2 | 19/01/31 | B | 靖国丸* | 11,933 | 日本郵船 | 雷撃 | トラック環礁北西 | 300 | 888 | 1,188 |
| 3 | 19/02/08 | A | りま丸 | 6,989 | 日本郵船 | 雷撃 | 薩摩半島南西 | 56 | 2,709 | 2,765 |
| 4 | 19/02/23 | B | 香洋丸 | 5,471 | 東洋汽船 | 雷撃 | 鳥島南西 | 34 | 1,080 | 1,114 |
| 5 | 19/02/25 | A | 隆西丸 | 4,805 | 中村汽船 | 雷撃 | ボルネオ東岸 | 31 | 4,968 | 4,999 |
| 6 | 19/03/01 | A | 崎戸丸 | 9,245 | 日本郵船 | 雷撃 | 大東島南南東 | 52 | 2,423 | 2,475 |
| 7 | 19/03/16 | A | 日連丸 | 5,460 | 日産汽船 | 雷撃 | 釧路南東海上 | 76 | 1,858 | 1,934 |
| 8 | 19/04/26 | A | 吉田丸#1 | 5,425 | 山下汽船 | 雷撃 | リンガエン湾 | 63 | 2,588 | 2,651 |
| 9 | 19/06/29 | A | 富山丸 | 7,089 | 西太平洋漁業 | 雷撃 | 徳之島北東 | 70 | 3,633 | 3,703 |
| 10 | 19/06/30 | C | 日錦丸 | 5,705 | 日産汽船 | 雷撃 | 黄海 | 69 | 3,150 | 3,219 |
| 11 | 19/07/12 | A | 日蘭丸 | 6,503 | 南洋海運 | 雷撃 | ルソン島北東 | 15 | 1,245 | 1,260 |
| 12 | 19/07/31 | A | 吉野丸 | 8,990 | 日本郵船 | 雷撃 | ルソン島北方30浬 | 35 | 2,460 | 2,495 |
| 13 | 19/07/31 | A | 扶桑丸 | 8,195 | 大阪商船 | 雷撃 | ルソン島北方30浬 | 22 | 1,362 | 1,384 |
| 14 | 19/08/04 | A | 光州丸 | 2,295 | 朝鮮郵船 | 雷撃 | マカッサル海 | 25 | 1,514 | 1,539 |
| 15 | 19/08/18 | C | 帝亜丸 (ヒ71) | 17,537 | 帝国船舶 | 雷撃 | ルソン海峡 | 53 | 2,601 | 2,654 |
| 16 | 19/08/19 | A | 玉津丸 (ヒ71) | 9,589 | 大阪商船 | 雷撃 | ルソン島ボヘアダー岬 | 132 | 4,623 | 4,755 |
| 17 | 19/08/22 | A | 対馬丸 | 6,754 | 日本郵船 | 雷撃 | トカラ列島 | 24 | 1,505 | 1,529 |
| 18 | 19/09/09 | B | 豊岡丸 | 7,097 | 鏑木汽船 | 雷撃 | ルソン海峡 | 9 | 1,036 | 1,045 |
| 19 | 19/09/18 | A | 順陽丸 | 5,065 | 馬場商事 | 雷撃 | スマトラ西岸 | 7 | 2,908 | 2,915 |
| 20 | 19/10/02 | A | 津山丸 | 6,962 | 日本郵船 | 雷撃 | ガランピ南東60浬 | 73 | 1,211 | 1,284 |
| 21 | 19/10/18 | A | あらびや丸 | 9,480 | 大阪商船 | 雷撃 | マニラ湾西方 | 39 | 1,708 | 1,747 |
| 22 | 19/10/18 | A | 白根山丸 | 4,739 | 三井船舶 | 雷撃 | マニラ湾西方 | 63 | 1,365 | 1,428 |
| 23 | 19/10/18 | C | 白鹿丸 | 8,152 | 辰馬汽船 | 雷撃 | マニラ湾西方 | 30 | 1,156 | 1,186 |
| 24 | 19/10/25 | B | 白陽丸 | 5,742 | 大阪商船 | 雷撃 | 千島列島 | 113 | 1,338 | 1,451 |
| 25 | 19/10/26 | C | 大彰丸 | 6,886 | 大阪商船 | 雷撃 | ルソン海峡 | 45 | 1,557 | 1,602 |
| 26 | 19/10/26 | C | 大博丸 | 6,886 | 大阪商船 | 雷撃 | ルソン海峡 | 3 | 1,557 | 1,560 |
| 27 | 19/10/26 | C | 泰洋丸 | 4,168 | 東海汽船 | 雷撃 | ルソン海峡 | 13 | 2,217 | 2,230 |
| 28 | 19/11/10 | B | 護国丸 | 10,438 | 大阪商船 | 雷撃 | 長崎生月島北西 | 61 | 939 | 1,000 |
| 29 | 19/11/15 | A | あきつ丸(ヒ81) | 9,186 | 日本海運 | 雷撃 | 五島沖 | 67 | 2,233 | 2,300 |
| 30 | 19/11/17 | A | 麻耶山丸(ヒ81) | 9,433 | 三井船舶 | 雷撃 | 済州島西方 | 56 | 3,381 | 3,437 |
| 31 | 19/11/17 | A C | 江戸川丸 | 6,968 | 日本郵船 | 雷撃 | 済州島西方 | 70 | 2,043 | 2,113 |
| 32 | 19/12/07 | C | 仁洋丸 | 6,862 | 東洋汽船 | 雷撃 | ルソン島北岸 | 44 | 1,427 | 1,471 |
| 33 | 19/12/07 | C | 福洋丸 | 5,463 | 東洋汽船 | 雷撃 | ルソン島北岸 | 94 | 979 | 1,073 |
| 34 | 19/12/23 | C | 乾瑞丸 | 4,156 | 乾汽船 | 雷撃 | サンフェルナンド北方 | 37 | 1,502 | 1,539 |
| 昭和20年〜 潜水艦による喪失 | ||||||||||
| 1 | 20/01/25 | A | 馬来丸 | 4,556 | 八馬汽船 | 雷撃 | 薩摩半島南東 | 37 | 1,539 | 1,576 |
| 2 | 20/01/29 | A | くらいど丸 | 5,497 | 南洋海運 | 雷撃 | 台湾海峡 | 61 | 1,099 | 1,160 |
| 3 | 20/03/19 | B | 筥崎丸 | 10,413 | 日本郵船 | 雷撃 | 揚子江河口北 | 139 | 979 | 1,118 |
| 4 | 20/04/01 | C | 阿波丸 | 11,249 | 日本郵船 | 雷撃 | 台湾海峡 | 148 | 1,900 | 2,048 |
| 5 | 20/08/08 | C | 羅津丸 | 5,462 | 大連汽船 | 雷撃 | 羅津南東72浬 | 35 | 1,151 | 1,186 |
| 宮本三夫著「太平洋戦争 喪われた日本の記録」より | 合 計 | 3,119 | 92,643 | 95,762 | ||||||
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宮本三夫著「太平洋戦争 喪われた日本の記録」によると沈没隻数 3,605 隻 9,046,932 総トン 人命被害総計 203,026 人 に及ぶという。
数字は単なる統計上だが、その一人ひとりに無事を祈り、帰りを待ちわびる両親や兄弟、妻や子がいたはずである。 昭和19年も中盤に入ると船舶の被害はうなぎ登りに増加している。敵潜水艦活動の活発化の結果だから仕方がななど、のほほんとしては居れなかったはずだ。 参謀職にある者は、ステータスも俸給も役得も他より恵まれていたはずである。ましてや貨物船の急造蚕棚式ベッドに寝た経験もないはずだ。 現在も存続している海運会社の戦時遭難史を読むと日本というバカ国家とその官僚たちには、ほとほと呆れる。 船員は一朝一夕に育たない専門職と思えるが、バカ丁寧に徴兵を掛けている。公平であるかも知れないが、戦力として人材を考えたときに、船員に三八歩兵銃を持たすのと、現職に留めるのとどちらが得策か配慮すべきであったと思う。 大洋丸について 前掲の表は、殉難者が千人を超える船を表にしたが、特筆すべき大洋丸について書く。昭和17年5月8日、長崎県男女群島女島南南西で撃沈された大洋丸(旅客船) 原籍は日本郵船であったが東亜海運に貸船中の遭難。この船には南方占領地における石油を含む資源開発担当者(そのほとんどが三菱の社員)を運ぶ途中であった。 この船には、乗組員263人,軍人34人,民間人1010人が乗り組んでいた。民間人の大部は鉱山開発,油田開発技術者であった。出港の翌夜北緯30度45分,東経127度40分のところで撃沈された。鹿児島坊ノ岬方位257度距離135浬でほぼ戦艦大和が死闘を演じた位置である。 さすがに、この遭難は隠しきれず早々に発表し大規模な捜索体制が組まれたが、連日の大時化で捜索活動は大きく制約された。戦勝気分に浮かれている軍部や、 内実について、何も知らされていない国民には、今時大戦の前途の暗雲を予感させる遭難となった。 ※大洋丸の沈没により南方資源開発に大きな打撃を与えた。 昭和20年3月19日に沈没した筥崎丸(10,413・日本郵船)の雷撃された場所は水深15mであった。態様は雷撃沈没だが、実際は擱座同様である。この程度の水深だから全没の恐れはなかつたのだが、便乗者らにパニックが起きたことで犠牲者が増えている。そういう船員も総員165人のうち、救助された者は26人にとどまる。
国策変更に伴う阿波丸の悲劇 膨大な輸送船を沈められたことで慌てた政府は「南方石油資源の内地還送は考慮せず」と、戦争決意を翻す物動基本方針を発令し、国内油井の再開発を決定。
しかし、南方油田開発のため国内の作井機(さくせいき)は現産地へ技術員ともども持ち出され、また派遣されていた。
政府はこれら、帝国石油社員,昭和電工社員を含む約450人の技術者を帰国させることにした。
この帰国者の中に竹内新平大東亜省次官、山田芳十郎外務省調査局長、小川剛太郎ビルマ政府最高顧問も含まれていた。彼らは、他にも乗船希望者の多かった阿波丸に優先的に乗船が許可された。阿波丸は戦時安全航行が国際法的に保障されていた戦時救恤(きゅうじゅつ・Vessels furnished with a safe-conduct or a licence)船であった。阿波丸は昭和20年(1945)3月28日10:00、昭南(シンガポール)を離れた。救恤船を示す緑十字のマークが電灯で浮き上がり、船室は消灯されることもなかった。 途中米飛行艇や浮上している敵潜にも遭遇したが、順調な航海を続け4月1日夜、台湾海峡に近づいた。22:30 米潜*から発射された魚雷3発により、瞬時にして沈没。生存者は魚雷を放った敵潜にたった一人救助された司厨員下田勘太郎のみであった。実際この船に何人乗っていたのか乗組員数(149人)以外、詳しいことは何一つわかっていない。詳しくは日本郵船戦時遭難史をご参照下さい。 これら、乗組員も、技術者も国策に翻弄され、また、護衛をないがしろにした帝国海軍の無策のつけを理不尽も身をもって払わされた。この阿波丸はレイテ沖攻防戦の始まる直前、後述するヒ71船団の基準船(先頭中心船)となっている。この時は撃沈を免れた。 また、この日は米軍が沖縄本島に上陸を開始日でもあった。戦艦大和は三田尻沖に結集もしていた。 大洋丸,阿波丸沈没等による石油関係技術者戦病死者数ははっきりしていないが帝国石油編さん資料・その2で1,650人。この石油技術者の南方派遣は国内石油精製装置の放棄と同じであった。敵潜により石油還送が絶たれ、国内での石油産業復旧の試みは、阿波丸遭難でその目論見は挫折した。 場当たり的な政治政策について過去も現在もあらゆる面で相通じる。日本人は根本的に戦前の残映を引きずっているのだろうか? * 米潜水艦はクイーン・フィッシュ。艦長は Charles E. Loughlin。 |
| Y.護衛兵力(艦艇・航空機等)の不足? |
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「戦史叢書 海上護衛戦」で 対潜水艦対策が実効を挙げなかった要因として「護衛兵力(艦艇・航空機等)の不足」としているのでヒ71船団の例を示す。 比島が風雲急を告げた昭和19年8月上旬この船団は編成された。この船団は優速でなる15隻(後、1隻被雷離脱)の油槽艦,油槽船,貨客物船で構成され、護衛として商船春日丸を改造した航空母艦大鷹,駆逐艦2,海防艦5, 乗船者総数(第26師団の一部,独混56旅団,歩兵第13連隊)5,483人を乗せて8月10日早朝伊万里湾を出撃。台湾までは順調な航海を続けた。 8月17日、台湾高雄警備隊から海防艦4,駆逐艦1が新たに船団護衛に加わった。8月18日早朝バシー海峡にさしかかった途端、05:24 突如帝洋丸(日東汽船・9,849トン)が大爆発を起こした。 特空母大鷹以下13隻の護衛がありながら早朝潜水艦からの雷撃を受けたのだ。 ルソン島北端までたどり着いたところで海上は大時化となり夕闇が迫った。船団は警戒しながら16ノツトに増速し比島ラオアグ沖に差しかかった。その折り、一番船阿波丸から「船団ハ敵潜ニ包囲サレツツアリ」の信号を発した。 まず血祭りにあげられたのが空母大鷹(22:30頃 被雷)。22:48 全く反撃も出来ずあっけなく沈没。 次の悲運は帝亜丸(帝国汽船・17,537トン,貨客船,23:12)に訪れた。 日付は19日となり阿波丸(日本郵船),能代丸(日本郵船)が同時に被雷。03:20 給油艦速吸沈没(03:20),04:30 玉津丸(大阪商船),05:10 帝洋丸(日東汽船)が相次いで沈没した。 この惨状の後始末として海防艦佐渡,松崎,日振が現場に残り二日間にわたり対潜掃討を行った後、マニラに向かったが22日05:00頃、マニラ湾口で突如雷撃を受け3隻とも撃沈された。この一連の米潜の攻撃で 2,685名乗兵員・船員が戦死した。 攻撃に参加した米潜は、ラッシャー(Rasher, SS-269),ブルーフィッシュ (Bluefish, SS-222),レッドフィッシュ (Redfish, SS-395) の三隻であった。米側は一隻の損害も出していない。 当時、最高の護衛艦隊で船団を構成したにもかかわらず惨憺たる被害を被った。戦史叢書でいう護衛兵力(艦艇・航空機等)の不足でないことは論を待たない。 |
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(注) 警戒を発したのは護衛艦でなく阿波丸である。同船の前方には護衛艦佐渡,その後ろに平戸,その右には択捉が占位していた。
今回の輸送船護衛の任についた、特空母大鷹、駆逐艦夕凪,朝風,藤波の艦長は商船大学校卒だったとでも云うのであろうか。 |
| あまりにも多くの輸送船を喪失したことで、陸海軍別傭船は破綻したので陸海軍合同で配船する大本営海運総監部を昭和20年5月1日に発足させた。 最初からこのようにしておけば、戦いの趨勢はかなり違ったものになったことであろう。 |
| Y.商船隊の喪失と継戦能力喪失はイクオール |
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