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| 戻る 海防艦 進む 暗号に無頓着な参謀ら |
遠く南の海に、ひたすら無事を祈る母や父,妻や子の祈りは届かなかった ・・・・・・
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大東亜戦争戦訓調査資料 昭和20年10月9日提出。 野村直邦(海軍大将)提出 (東條英機内閣の海軍大臣・嶋田繁太郎の後任)〔1945年(昭和20)5月1日〜 軍事参議官兼大本営海運総監部総監〕 第二項、開戦前及開戦後ニ於ケル広義戦備ノ不徹底 (ハ) 持久戦二対スル努力不足セシコト 後方二於テハ第第一段作戦ノ戦果二酔フテ恰モ戦後経営ニ移レルガ如ク錯覚シ我ノ最大弱点タル海上補給ノ維持増強ニ対スル事前対策ヲ怠リ敵潜ノ活動激化及敵航空機対策共二徹底ヲ欠キ海上輸送力急二逓減シテ補給作戦二大破綻ヲ生ズルニ立至レリ 敗戦直後まとめられた戦訓調査資料である。太平洋を戦場とする以上、南太平洋、西太平洋に点在する島嶼争奪。及びインドシナ、ボルネオ、フィリピンなど可及的速やかに兵員・物資等の輸送手段としての船舶は絶対条件である。 また占領した地域から得られる資源を海上輸送しなければならないということは小学校1年生程度でもわかる話でもある。ところが、ここのところの重大性に全く気づくこともなく太平洋戦争を帝国海軍は戦った。 昭和20年(1945)に入ると子供はひもじさに泣き、親は飢えと空襲におびえた。やはりその元凶は帝国海軍にあった。チャント反省出来るのに対策を欠いた組織とは日本人にとって何だったのか。 |
米内光政大臣の奉答文草稿(戦後の施策等を天皇から聞かれたときに備えた草稿)今回ノ戦争ガ斯クモ悲惨ナ結果二立到リマシタコトハ固ヨリ私共軍人ガ無力デアツタ結果デアリマスガ其ノ他熟ヲ考ヘマスト最モ根本的ナ原因ハ・・・・〔中略〕 総テノ方面ガ薄ツペラデ、間ニ合セデ、極メテ合理性二乏シク、非能率的デアツタト思ヒマス。一言ニシテ申シマスレバ国民ノ科学的ノ教養訓練ガ足ラナカッタト考ヘルノデアリマス。・・・・〔中略〕 戦争卜云フ一大試練二会ツテ総テノ欠陥ガ明ルミニ出タノデアリマス。之デハ戦力ノ発揮ガ出来ヌノガ当然デアリマシテ勝利ガ得ラレナカッタノモ極メテ自然デアルト思フノデアリマス。 米内光政海軍大臣は、戦いに負けたのは、まず軍人が無力であった。と認めたが、その負けた根幹は国民の科学的教養訓練が足らなかった。と天皇に答えるつもりだった。国民ではなく、海軍兵学校と大学校教育が科学的教育を行わず、空威張りで張り子の虎ほどの力量も備わらなかった養成機関であった。 また、この国民がバカと気付いたのは、戦いの最中なのか? それとも結果として気が付いたのか? どちらにしろ、究極の責任転嫁を行っている。米内光政は水からガソリンが出来ると信じた超お馬鹿さんの一人なのだ。自分のことを棚に上げ、国民をコケにした奉答文案であることか。 彼の論理で突き進めると、非合理の究極である特攻作戦を行わせたのも国民の「科学的ノ教養」がなかった。との論法も成り立つ。 |
| T.はじめに |
開戦前日本は600万総トンの船舶を保持 帝国海軍は近代戦に不可欠な補給に関してまるで理解していなかった。戦争遂行に必要不可欠と考えた節もない誠に不思議な軍隊だった。そのくせプライドだけは高く、海軍少尉になると公共交通機関に市民(二等車)と同じ客車に乗ることを禁じ、庶民と交わることを禁じた。
このような、いびつな集団に軍馬、軍犬以下の処遇に甘んじ苛烈な戦場に裸同然で戦わされたのが船員らであった。兵士は歓呼の声に送られて墳墓の地を後にしたが、
船員は軍の機密保持の名目のもと隠密行動をとらされた。家族も特高警察の監視下に置かれ目に見えない重圧が加えられた。そのように本来味方である国民には厳しい目を向けたが、敵(米英)にはお甘でサービス満点で 愚鈍 な輸送(還送)作戦を行った。
昭和16年(1941)4月、艦政本部は海軍省軍務局から非公式に次のような要請を受けた。 「戦争遂行のために輸送船を建造する必要があると考えられるが、戦争一年目に40万総トン、二年目に60万総トン、三年目に80万総トン、四年目以降は戦争の推移より決定する。」 すなわち、これだけの船舶が建造可能なのかという問いかけであった。 日本政府は既存の民間造船所における建造能力を把握しきれず、 手っ取り早く軍艦建造を行っていた艦政本部に問うたのであった。艦政本部は「特別の努力を行えば、軍務局の要求数量の建造は可能と答えた。」 これも鉄鉱石などの資源が船舶によって確実に日本に届けられたとしての話である。船腹量が企画院が必要と思っていた300万総トンが確保されたことは開戦以来一度もなかったのでそのスタートから戦争継続の大前提が崩れていた。 | |||||||||||||||||||||||||||
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| 実態は戦争による輸送船の損失がどの程度になるのか、海軍のどの部局も本気で研究せず、船団護衛の必要性を全く認識していなかった。その後策定された軍備拡張計画も船舶建造ばかり優先し、船団護衛はなおざりにされた。 | |||||||||||||||||||||||||||
| @.開戦前の船舶徴用区分 |
| 区分 | 陸軍(A) | 海軍(B) | 民需(C) | 合 計 | ||||
| 船種 | 貨物船 | 油槽船 | 貨物船 | 油槽船 | 貨物船 | 油槽船 | 貨物船 | 油槽船 |
| 隻数 | 438 | 10 | 459 | 52 | 1,733 | 44 | 2,630 | 106 |
| トン数 | 2,136,764 | 13,480 | 1,410,782 | 322,890 | 2,351,354 | 148,730 | 5,898,900 | 485,100 |
| 船腹率 | 36.2 | 2.8 | 23.9 | 66.6 | 39.9 | 30.6 | 100 | 100 |
| 出典:日本商船隊戦時遭難史(100総トン以上) | ||||||||
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開戦前に合意した徴用船舶区分は上図であった、鈴木企画院総裁は最低でも民需用として300万総トン(配分は250万総トン)必要と強調し、戦勢の推移により速やかに解傭(かいよう・徴用解放)を行う旨の折衷案で妥協したが、
この民需用300総トンは守られることはなかった。戦う前から国力の衰微と負け戦は予見できた。 旧軍(陸海軍)の将軍,提督・幕僚たちの救いがたい欠陥・欠落思考は、兵力の数(武器は竹槍でも可),艦船,大砲,戦車(ブリキ同然でも),航空機の数さえ揃えば戦力になると考えたことである。これらを動かす燃料とその品質,兵力のパワーを発揮するための弾薬,整備施設, 医療体制(熱帯地方の風土病),補給能力などを勘案し作戦と占領範囲(攻勢終末点)を考えなかったことにある。 すなわち、軍令部黒島亀人に象徴される天才的作戦屋が作戦計画をたてれば不敗と思った点にあった。 陸軍でもガダルカナル戦最中、中央より作戦参謀の辻政信が現地に入ったことで、辻さんが来た!。ならばこの戦は勝った!とのウワサ話がそれを象徴しているように思える。 旧軍の教育機関は、バカ大将とバカ提督を育てるところだったつくづく思う。そろってバカ(知識はあったが?)だったとも思えないし、一体何が欠落していのだろうか? 表−1はその船舶減少推移である。昭和19年からは、惰性で戦いを続けたことがご理解頂けると思う。 |
| U.戦前の船舶保護への認識 |
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船舶保護の認識が全く欠けていた。と戦史からくみ取れるが、実は大いに認識していたのである。 内閣情報局『週報238号』昭和16年4月30日号。太平洋問題特集「通商破壊戦と船舶保護・海軍省」以下、 |
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近代戦は長期持久戦となり、長期間に亘る通商破壊戦が展開される。長期持久戦を行うには、多量の戦時物資を確保することが肝要であり、通商保護の手段としてとられる方法は「集団護衛制度」であり、速力のほぼ同じような商船を一纏めにして商船団を組織し、その周囲を駆逐艦あるいは航空機等が護衛し海上を航行する。
一旦緩急の場合、わが海軍の統合的戦術の威力と全将兵の士気と訓練の旺盛、充実さに至っては正に(将にを使っていない)完璧の備えである。
歯の浮くようなウソパチな文言であることか。驚くと云うよりは呆れ果てその批判する言葉さえ出てこない。 統合的戦術の威力など、全く存在しなかったことがその後判明する。敵潜を発見する装備も潜水艦に打撃を与える数学的問題さえ解決出来ずに、ひたすら無謀な航海を船員に課した。 帝国海軍では「必勝の信念」と「大和魂」 が最高で、かつ究極の武器だった。 また、資源さえ確保すれば、戦争は勝ったも同然と考えていた。 実際のところ輸送船が撃沈されるのは稀(まれ)なことで運が悪いだけだと信じていた。 |
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@.ハード・ソフト面(対潜対策)でも万全の備えをしていると戦前豪語していた海軍で、
作戦上必要に迫られた、敵地上陸島嶼作戦では艦隊の一部として、対潜水艦対策上水雷戦隊が輸送船保護の任に当たったが、 継戦に必要欠くべからずだった資源還送商船への保護活動は、二義的にされ、昭和18年(1943)11月まで、商船保護部局は存在しなかった。 よって、海軍省が戦前提示していた「集団護衛制度」は単に言葉遊びの画餅であった。 著名な戦史家 S.M Morison は、日本海軍は戦争を始めた時の兵器をそのまま敗戦まで使い続けた。と手厳しい。 |
| 実際のところ、商船保護の専門部局は海軍に存在しなかった。軍令部第1部第2課防備班が片手間に担当した。 |
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A.対潜戦力の不備
護衛艦艇は海防艦が主力であり、他に駆潜艇、掃海艇などが使用された。商船の損害が戦前の想定を超え海防艦の建艦を急いだが、 低速護衛艦となり、敵潜水艦に追いかけ回される羽目に陥った。 B.対潜戦備の不備 昭和19年(1944)まで海防艦は電探を装備して貰えなかった。潜水艦での被害が急増し二号二型水上艦艇見張用電探をやっと取り付けて貰えた。 だが、対空用電探が装着されることはなかった。 その見張り用レーダーも寄せ集めの部品で製造されたから稼働率は50%程度であった。 海上輸送船団護衛に使われた海防艦や駆潜艇の対空、対潜兵器に見るべきものはなく、自艦の防衛さえ不可能だった。 そのような艦艇で輸送船団護衛がつとまるはずもなかった。 C.対潜攻撃兵器の不備 潜水艦位置を測定探知する水中探信儀を装備していなかったので、 爆雷攻撃は目算と勘に頼る他なく撃沈の戦果を挙げることは稀であった。 そして、攻撃したときは、撃沈したと信じていた。 |
| 米軍は1943年(昭和18年)以降、魚雷用トルペックス爆薬、夜間潜望鏡、昼間用電池魚雷、アクティブソナー、機雷探知用FMソナー、 無音水深測深儀、敵味方識別装置(IFF*2)、マイクロ波SJレーダー(対艦・対空)、 前方投射式爆雷発射機(Mk10)など次々と新兵器を戦場に投入していたので、 駆逐艦は手も足も出なかった。 森田友幸:著『25歳の艦長海戦記(駆逐艦「天津風」かく戦えり)』(光人社2000年)で森田は駆逐艦による潜水艦攻撃方法を全く教えられたこともなく、 水中聴音機は12ノット(22.2Km)以上では使用出来なかったし、いたずらにそのあたりに爆雷を投下するだけだった。 よって敵潜に有効な潜水艦探索方法を保持していないことを暴露するだけだった。と書く。すなわち、 潜水艦は爆雷投下で恐れをなして退散するものと信じていたのだ。 米潜水艦は、日本海軍の実態を知り抜いていたから、商船団を発見すると、味方潜水艦と、相互に無線連絡をしながら獲物を分け合い、魚雷攻撃のタイミングさえ交信していた。商船通信長はその恐怖の交信を傍受する。ワン,ツウー,スリー,フォー,おおよそ6数えたら魚雷が発射され、それが我船に向けられたものか、背筋の凍る時間を待ったと伝えられている。 このような攻撃が夜間に行われたから、魚雷を目視にたよる商船にとってなすすべを持たなかった。 |
| U−(1) 大艦巨砲の幻想に酔う |
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日本の開戦決意の戦略は、欧米列強の植民地とされている南方の資源地帯を占領し、そこを要塞化し、占領した島嶼と日本とを船のかけ橋で結び、長期不敗の態勢を確立するとしていた。 これは、単なる思惑であり、夢想したに過ぎない。昭和16年春、海軍軍令部は、対南方作戦の図上演習を行った。その結果は、 「石油の全面禁輸にあえば、すみやかに立ち上がり、蘭印の石油を入手し、かつ搬送せねば戦争継続は出来ない」と結論付けた。そして石油確保はあっけないほど簡単に入手した。 陸海軍とも長期不敗の態勢の第一歩は確立されたと有頂天になった。 日本本土への架け橋となる船舶保護の中身は誠にお粗末で護衛を担当する部局は存在しなかった。開戦時に保有していた護衛に使える艦艇は、海防艦4隻と駆潜艇が25隻だけである。しかも担当する中央部局はなく、門司からシンガホール(当時は昭南)間の護衛は、佐世保鎮守府、鎮海要港部(昭和18年〜高雄警備府)、馬公警備府(台湾に属する島嶼)、その次には南遣艦隊が引継いだ。 帰路はその逆であった。それらの部局が護衛を担当したので、1ヶ月以上の滞船が発生したこともあった。 石油の一滴は血の一滴! と叫ばれたが、陸軍が入手した石油地帯で海軍傭船に石油が搭載された例は、パレンバンの現場の現場支廠長の独断で行われた黒潮丸一隻にとどまった。この中村支廠長は本廠よりこっぴどく叱責を受けた。 『今後、ドラム缶一本たりといえども、許可なくして海軍への給油はまかりならぬ』〔石油より見た大東亜戦争(十川透/著)〕 陸軍は海軍がタンカーを根こそぎ押さえていることに我慢がならなかったのである。 みてきたように、海上護衛の重要性は十分すぎるほど認識していながら、なぜ実際のところ海軍は商船護衛を考えなかったということに、明確に応えた書物を筆者は知らない。資源地帯からの還送船舶の護衛を本気で取り組んでいたなら、あそこまで無惨に、完膚なき負け方しなかったはずと筆者は考える。 |
| U−(2) 日本軍の体質? テク音痴 |
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太平洋戦争(1941〜1945)上陸作戦にあたって、輸送船+上陸用舟艇方式を日米とも採用した。
上陸用舟艇の実用化は米国より先んじたが、
日本軍は、慶応4年戊辰戦争で山田顕義、白井小助コンビが新潟太夫浜敵前上陸時に編み出したこの橋頭堡方式から一歩も進歩せず太平洋戦争を戦った。
よって米航空機により海岸に集積した物資は空爆され、継戦が不可能となり、玉砕という全滅を繰り返した。
戦訓、戦訓と云いながら戦訓に学んだことは一度もなく、次々と拠点と船舶を失った。
太平洋を戦場としたにも係わらずシーレーンの防衛を考えた艦船(艦隊)構成ではなかった。
対潜能力は低く、護衛空母構想もなく、徴用した輸送船を次々と喪失した。
上陸用舟艇の着想は早く大発、小発という舟艇を建造し実用化したが、輸送船からの揚貨能力が低く(物資輸送用水陸両用カーゴが実用化域に達しなかった)、征空隊なき中、空襲され船舶を喪失した。
実態は慶応4年(1868)の状態と1Cm程の進歩もなかつた。
日本はこの何千トンという物資をひたすら古代エジプト人がピラミッド建設を行ったときと同じ人力に頼って浜辺より移動させた。 何しろ、当時日本に自動車は144,000台しか無かったから、海軍士官でも戦後米軍のジープを初めて知る有様であった。 ちなみに現在、自動車は5,600万台程度ある。 輸送船を撃沈(潜水艦の雷撃、空爆)されてもされても戦訓に学ばず損失を増大させた。 戦争終盤に入ると兵科別輸送は途上の消耗で不可能となり、とりあえず兵員を多量に輸送する方式に切りかえられた。これだと沈没を免れた船舶乗兵員だけ戦力になり得たが、 今度は携帯する武器や装備がなく、兵科も限定され戦力になりえずフィリピンの山野を糧食もなく逃避行するのみとなった。 攻撃は最大の防御などと「ほざいた」が輸送船を攻撃する米潜水艦を攻撃することもできず、輸送船を護衛する海防艦や駆逐艦も雷撃により喪失した。 すなわち防御も攻撃も出来なかった。 航空機による対潜用ソノブイは実用化されず、かつ、水中聴音機の性能も劣悪、米潜の跳梁を防ぐことは不可能であった。 科学技術(ハードウェア)の進歩を軽ろんじ、硬直教育(ソフトウェア)を受けた兵学校出の俊秀?が考えた先が「人間魚雷」であった。 その人間魚雷とて最大30ノットしか出せなかった。 屠殺者の群れと恐れられた米第58機動部隊の空母群(空母16隻)は速力30ノットであった。 自明の理で30ノットでは30ノットを襲えない。 また、それを戦域まで運搬する日本の潜水艦は、 ブリキのバケツを棍棒で叩きながら進む状態で静謐性は全く備わっていなかった。また、回天そのものも水深70m程度の水圧にしか耐えられなかった。 昭和20年(1945)5月、山口県光海軍工廠内の回天四型工作隊は解散された。 製造したもののそれを戦域まで運ぶ潜水艦の燃料が枯渇した。 最後の出撃は昭和20年(1945)8月16日 回天特別攻撃隊「神州隊」/平生基地発イ159(昭和5年建造オンボロ艦)である。 帰投は18日。 敗戦3日後である。 その間に殉職・戦没した者は145名に及ぶ。海軍兵学校出身者はたかだか19名。13%にしか過ぎない。 これは、ましな方で航空特攻の兵学校出身者は2%強である。 回天についての出典:「回天記念館概要・収蔵目録」 回天(基地)を保存する会/発行 太平洋戦争中、訪独した伊号潜水艦が5隻 (伊30、伊8、伊34、伊29、伊52) いたが、 ドイツは伊号に全く興味を示さなかったという。 逆に、よくもまあーこんな割れバケツを叩くような騒音発生潜水艦で到達できたものだと感心したという。 最後に派遣された伊52はお粗末な電子兵器での到着は不可能であり、大西洋の真ん中でドイツ潜水艦 (U530) よりレーダー逆探知装置を受け取った。 その伊52も夜間対潜用ソノブイからの信号により音響追尾魚雷(マ−ク24) により撃沈(1944/06/24 02:12)された。(独技術習得のため七人の民間技術者が乗艦) 広大な太平洋での戦いは補給が全てである。日本軍は伝統的に輸送(輜重、しちょう)を軽ろんじた。 海軍でも主として学徒兵を主計課員とし兵学校出身者と微妙な差別を行った。 戦闘艦には優秀者という「根拠無き神話」がまかり通っていた。 広大な海域の島嶼に人間が生きるために必要な物資と、戦力を維持するために必要な資源と、病み傷ついたときの医薬品。 さらに日本本土の生産拠点に必要な物質を海上輸送しなければならない。 また船舶の修理と乗員の交替・休養など諸般のことを考えれば「あほのポンタ」が務まる訳がない。 それでも軍艦で大砲を撃つ担当と運輸科員(輜重)とでは「見えなく差別された高く厚い壁」があった。
機会があればぜひ読んで頂きたい。昭和19年(1944)3月、海軍省教育局が徴用船員向けの小冊子「船員ニ告グ」である。 大和魂・武士道精神の発揮。
金剛精神の発揮が輸送効率につながる。また「心眼で見張れ」と述べている。 時代錯誤も甚だしく読みながら腹が立ってくる。
米軍は大きく違い太平洋戦争が始まるや兵学校での成績最優者を次から次に運輸本部に配置し、一方では戦時標準設計船(輸送カーゴ、2,712隻 1944万総トン)を造り就航させた。
また、橋頭堡を築くと集積した物資は機械化車輌移動(水陸両用カーゴや車輌)で瞬く間に分散させた。
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太平洋戦争における日本商船隊の総決算 開戦時+建造船舶 4,225隻 1,021万総トン 戦時喪失 3,129隻 883万総トン 敗戦後運行可能船舶 588隻 79万総トン |
| ここまで、読んで頂くと戦争中盤から海上護衛総司令部参謀だった大井篤が優秀だったという幻想を消し去ってくれるはずだ。 |
| V.商船保護部局の参謀 |
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「海上護衛参謀の回想 大井篤:著 S50.9.30発行 原書房」で、
海上護衛隊参謀大井篤は「太平洋戦争という民族的悲劇は決して天災ではなく、
全く人災だつた。」と言い切る。 輸送船の安全が、日本の国力維持に欠かせない非常に重要なことであるという認識が全く欠落していた。 そこまで言い切る、大井 篤 はどうだったのであろうか? のちほど彼ら参謀連の無能ぶりを述べる。 |
| @.戦艦大和出撃に関する商船保護部局の参謀 |
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*大和出撃の真夜中〔昭和20年(1945)4月6日(0001)〕番電の内容を事前に教えられた人物がいる。
海上護衛総司令部に所属した作戦参謀大井 篤大佐である。彼の回想録に海軍の中に、「海上護衛」と「艦隊決戦」の二鼎立方針が示された。
よって海軍省に1部局。海上護衛総司令部。連合艦隊にも護衛部があった。
大和特攻が絡むので、少し長いが護衛隊の名誉のためにも、ここに引用する。以下回想録より
当時護衛総司令部で計算したところでは、北支航路にフルに船団を動かして、大陸物資の緊急輸送を実施するとなると、護衛部隊用として、1カ月に約7,000トンの重油がいるという勘定だった。 もっとも、この7,000トンの油の要求は、朝鮮海峡方面の哨戒を厳重にして、 潜水艦が日本海にはいるのを防ぐための作戦をもり込んでのものだったが、 この作戦は当然必要なものだった。もし、敵潜が日本海に躍り込み、日本海内でも護衛が必要になったら、 7,000トンやそこらの油どころのさわぎではない。 それだから、7,000トンは護衛側から見れば最小限の要求だった。 ところが、当時は、日本全体として航空燃料も非常に不足であったが、 重油の方はなお一層窮屈になっていた。護衛用だけに月7,000トンも取られるということは、 海軍の台所として、耐えられぬ負担であった。しかし、海軍省の燃料当局者には護衛の重要性を認識している人が多かった。彼らは二つ返事で承諾した。これが4月4日頃のことだった。 4月6日、東京ではいやに冷える日であったが、桜はチラホラ咲きかけていた。 護衛総司令部は前年11月24日以来、目黒の海軍大学校に移転していたが、 同じ建物に軍令部の通信諜報班も同居だった。その班員の一人 (天野盛高大佐) が総司令部の参謀室にやってきて「今、軍令部に行ったら、きいたんですが、 戦艦大和で沖縄に突入作戦をやるそうですよ。」と参謀の一人(大井篤大佐)に耳うちすると、 そそくさと出て行った。それから間もな海軍省(軍務局員藤田正路大佐) から電話が総司令部にかかってきた。 「この間、重油を7,000トンやると約束したんだが、あれは駄目になったよ。 大和が沖縄に突入するからどうしても4,000トンやらなけりやいけないことになったんだ。 だから、3,000トンしか護衛総隊には渡せないことになったわけだ。しかし、 えらいことになったな。大和は特攻だってよ。片道だけの燃料しかもって行かないんだそうだ」 電話についた護衛総司令部の参謀(大井)はビックリした。先程は「大和の突入」ときいても 他人ごとのように聞き流したのであるが、7,000トンの重油が3,000トンに減らされるとなると、 これは一大事である。北支航路の護衛計画はご破算である。まして、朝鮮海峡の対潜哨戒はろくなことはできなくなる。そう思うと反射的に、 大和の特攻突入そのものが、実に不合理きわまる腹立たしいものに考えられてきた。 瀬戸内海西部から沖縄までは約六百海里(約1,100キロ)の航程である。 どんな高速で走っても、約一昼夜の長い間、敵の有力な航空攻撃にさらされる。 レイテ海戦の前シブヤン海に消えた姉妹艦武蔵の例から見ても、100%途中で撃沈されるだろう。 しかし、もっとハッキリしたことを聞かなければ司令長官や参謀長に報告のしようもない ので、連合艦総司令部との直通電話のハンドルをまわした。 連合艦隊司令部にも護衛担任参謀(立花 止大佐)がいたが、彼が電話に出た。 「大和部隊の出動のことですか?そのことで、いまちょうど、 あなたのところに命令を伝えようとしているところでした」といって、先方からスラスラと説明をはじめた。 豊後水道から九州の南端までの対潜掃討をやってくれとか、 大隅海峡の機雷はどうなっているかを知らせてくれとか、いろんなことも言った。しかし、きいている方では ますます馬鹿らしくなってきた。 「しかし、沖縄に行って46センチ砲を撃ちまくると力んでみても、 そんなところにつくまでに撃沈されてしまうにきまっているじゃないですか」 その公算も大いにあるんですが、ねらいはほかにもあるらしいんです。 航空部隊にばかり特攻をやらせて、水上部隊が手をこまねいてみているわけにはゆかないという 気持ちが大いにあるようです。(中略)それでこういう訓示が出されることになっています。 短いから全文を読んでみましょう」 |
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「・・・・・・ここに海上特攻隊を編成し、壮烈無比の突入作戦を命じたるは、
帝国海軍力をこの一戦に結集し、光輝ある帝国海軍水上部隊の伝統を発揚するとともに、
その栄光を後昆(ごうこん,後世の人)に伝えんとするに外ならず」という句が出てきた。 しかもこれが訓示全文の要点になっている。海上護衛参謀(大井)は、先程からむかっ腹が立って仕様がなかったが、 この文句をきいてカッとなった。「国をあげての戦争に、水上部隊の伝統が何だ。水上部隊の栄光が何だ。馬鹿野郎」そうどなりつけるように言って、 ガチャンと受話器をかけた。 |
| W.開戦前想定と戦時船舶喪失の実態 |
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| 戦時船舶喪失の実態 100トン以上の鋼船の総トン数 (単位:千トン) | ||||||
| 年 度 | 損失予想 | 新造その他増 | 喪失・その他減 | 差引増減 | 年末保有量 | 指 数 |
| 開戦時 | − | − | − | 6,384 | 100 | |
| 1941年度(昭和16年) | − | 44 | 52 | −7 | 6,378 | 99 |
| 1942年度(昭和17年) | 960 | 662 | 1,096 | −434 | 5,943 | 93 |
| 1943年度(昭和18年) | 1,690 | 1,067 | 2,066 | −999 | 4,944 | 77 |
| 1944年度(昭和19年) | 3,920 | 1,735 | 4,115 | −2,380 | 2,564 | 40 |
| 1945年度(昭和20年) | 465 | 1,562 | −1,037 | 1,527 | 24 | |
| 昭和19年に入ると、敗戦は決定的であった。すなわち開戦決意の際、企画院総裁は国力維持には最低民需船300万総トンは必要不可欠と陸海軍に要請していた。昭和18年を〆てみると500万総トンを割り込んだ。 |
| 昭和16年(1941)末、日本の船腹量は638.4万総トンを保有していた。開戦前の大本営政府連絡会議で鈴木企画院総裁は国力維持のために300万総トン必要であると強調した。現在と違い当時主食の米さえ輸入に頼っていた。 企画院と陸海軍との協定に基づき初期進攻作戦のため陸軍徴傭船(A船)215万総トン。海軍徴傭船(B船)173.4万総トン。 差し引くと民需用(C船)は250万総トンとなり、この状態で推移すれば産業の衰退を招く。 すなわち、初期作戦が終了すれば、陸海軍傭船を解傭しC船(民需)に戻す。と約束され開戦に踏み切ったが、海軍が遠くラバウル、ガダルカナル島などへの進出により解傭どころか、損失が増大し軍はその穴埋めとして民需用船を差出だすことを強要。 そのことが物的国力の急激な衰微を招いた。粗製乱造の戦時標準船が 1,036 隻(264万トン)製造されたが1トン製造するごとに3トン撃沈された。また戦時標準船の船速は8ノット程度で、上部構造物には木材が多用された。またスクリューは鉄で作られていた。 |
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マリアナ沖海戦の前(1944年6月19日〜20日)最前線では、
潜水艦をやっつける兵器を作ってくれとの悲鳴に似た要望があがる。 だがテク音痴の老人兵学校出身者らは無視し続けた。
その真実はこちら
◆出典:海軍省軍務局『大東亜戦争中ニ於ケル我物的国力ト海軍戦備推移ニ関スル説明資料』より作成。 ◆1942年までの損失見込みが順調に推移したことで、政府と統帥部は南方資源還送に自信過剰となり本格的防衛に配慮しなかった。 米国と戦端を開くかどうかの瀬戸際海軍が提出した損失船舶見積もりはこちら
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以下、戦史叢書「海軍捷号作戦<1>」 1944年7月5日大本営は海軍次官、軍令部次長名で次ぎの電報を発した。 一、敵潜水艦による船舶喪失は憂慮すべき状態なり。対潜艦艇の沈没は駆逐艦10隻、海防艦2隻なり。(1944/06実績) 二、前月に続き(1944/05)敵潜出現回数益々増加す。(1944/05 413回 1944/06 462回) 三、夜間に比し昼間の被襲撃多し。昼間 53% 夜間 47% 四、水測兵器での探知は28回で、全出現回数の10%である。 五、被襲撃船75隻中、被害は51隻に及ぶ。 六、敵潜の集団攻撃による被害多し。 注)米潜の作戦行動は潜水艦3隻で運用された。 七、敵潜と在支敵空軍との共同動作具体化せり。 八、認定せる敵撃沈数は15隻にして躍進的傾向を示さず。 この通達で連合艦隊は潜水艦狩り名人部隊を発足させ、連合艦隊指揮下に組み入れた。これは船団護衛に使うのではなく、艦隊行動における対潜部隊であった。 軍令部第12課、十川潔中佐の回想で、海上護衛だと志気に影響するので連合艦隊の一戦隊ということにした。 |
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| 米 側 | 日本側 | ||
| 年月(日) | 摘 要 | 年月(日) | 摘 要 |
| 18年 年初 | 日本商船暗号解読 | 18年11月15日 | 海上護衛総司令発足 |
| 18年11月 | ソナーを配備 | 19年5月末 | 護衛艦の被害甚大 |
| 19年1月 | 電池魚雷実戦配備 | 19年7月 | 掃討隊の編成 |
| 19年5月 | 主目標護衛艦に指向 | 19年8月1日 | 特設対潜訓練隊の編成 |
| 19年8月 | 就役潜水艦140隻に達す | 19年8月20日 | 31戦隊の編成(対潜部隊) |
| 海軍次官、軍令部次長が発したこの通達で対潜部隊が編成されるはずだったが、 実際に計画通り編成されず有名無実に終わった。 海軍には、船団護衛に対する認識と熱意が全く備わっていなかった。 この通達は、マリアナ沖海戦が惨敗に終わったほぼ20日後のことである。 この海戦に使う燃料にも事欠いた海軍は、陸軍に泣きついて頁岩油を融通して貰っていた。 これもひとえに海上護衛を忘れた海軍の招来したことであり、それでも彼らはかけ声ばかりであった。 米潜水艦に怖いものは一切無かった。 彼らは日本軍が有効な対潜兵器や水測兵器を持っていないことを知り抜いていたのである。 |
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注) 戦史叢書『海上護衛戦』頁354 会敵率の計算違いをしている。同書で9月 27÷29×100 93.1% 正しくは 29÷27×100 107.4%。 同書遭難隻数小数点は潜水艦と航空機によるもの。 |
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表−4 『日本商船隊戦時遭難史』〔海上労働協会/偏〕と表−5 戦史叢書『海上護衛戦』の遭難隻数が微妙に違う。〔海上労働協会/偏〕は概ね総トン数を100トン以上で記述しており一方『海上護衛戦』は総トン数500トン以上とされている。
当然〔海上労働協会/偏〕の隻数が多くなりそうだが、雷撃による損失について月によって『海上護衛戦』が多くなっている。この期間の累計損失隻数も多い。 |
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〔表−5〕 8月〜10月 会敵率が100%を超えている。では海上護衛総司令部は何をやっていたのか? 高雄(台湾)〜マニラ(比島・ルソン島)に航路帯を設定した。通れば必ずやられる。普通の頭ならおかしい? と思うはずだが、 同書頁354で「敵潜水艦の活動活発化とも関連し、船団航路における会敵率は、本期間に入ると急激に増加した。−中略− これにつれて当然船舶の被害も増加し、当隊担任航路の被害も、ようやく軽視し得ない状況を示すようになったのである。」 とすまし顔で書いている。 海上護衛総司令部大井篤作戦参謀は何をしていたのか?。 戦史叢書 「海軍捷号作戦<1>」 昭和19年(1944)7月5日の時点で、潜水艦による襲撃は 昼間 が多い。と指摘している。 のべつ昼間が悪天候ということでもないであろうから、潜水艦が商船を発見できるのであれば、護衛艦からも潜水艦が見えるはずである。この点に関してはレーダーの有無と関係ない。 ただし、人間の眼ん球は中心視である。すなわち注意していないものは見えない。という特性を持つ。当然一人の視界も限られる。一方米軍が装備していた警戒レーダーはPPI方式で一旦船影を捉えるとその部分を注視すれば見逃すことは少ない。 いずれにしても、昼間であればレーダーが無くても双方が視認できるということに変わりはない。 護衛総司令部作戦参謀として 1.なぜ昼間でも易々と襲撃を受けるようになったのか? 2.襲撃回避のために有益な手段,方法はないのか? 会社経営でもそうだが、損失が増えれば何がその要因や原因になっているのか、普通に考える。ところが戦史叢書「海上護衛戦」を読んでもこれを考えた節がない。 よほどの荒天でもない限り、敵味方双方とも視認できるはずである。次の式は視認計算式である。 |
視認距離 : L1(km) =113.137×(√ho(km)+√ht(km))
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L1は水平線上の最大視認距離、ho は水面からの眼高。ht は目標の高さ。 眼高としての水平線の求め方 L1=√(R+x)2−R2 数値(R=6400・地球の半径、 X=0.0015・目の高さ1.5m )を代入してL1=4.38Km |
| 注) 水平線の求め方計算は地球の半径を単純に6,400km とした。赤道半径と極半径は赤道半径が大きい。地球の円周を単純に40,000kmで計算すると 40,000km÷3.14(円周率)÷2 = 6.369.42km(地球半径) となる。 水平線は 4.37km である。 前述の視認距離計算の係数は 113.137 は 地球の半径 6,400Km とした。 ちなみに地球半径を 6.369.42km とすれば係数は ≒ 112.87 となる。 |
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視認計算は、船舶の高さ、敵潜の高さを代入すればよい。肉眼であろうがレーダーであろうが、地球が丸いために水平線下のものは見えない。よって昼間であれば敵味方共条件は全く同一である。 敵潜水艦発見,制圧できる有効な兵器を持っていないということはバカな参謀でも知っていたはずであり、 なぜかくも多くの敵が商船団の前に現れるのであろうか程度のことは最低でも考えなければ参謀の資格さえない。 ところが戦史叢書をいくら読んでもその程度のことさえ考究していない。 例えば日本商船の墓場といわれたバシー海峡(台湾〜ルソン島)幅は350Km。ほどもある。見張りにレーダーを使うにしろ目視によろうが万全な監視下に置こうとすれば一列線10隻程度配備しなければならない。 単純に海峡監視で10隻配備したとしても、交替10隻、休養10隻。は必要だろう。いくら物量豊富な米国でもこの海峡監視のみにそれほど割いたとも思えない。 南方から日本への海上ルートとして台湾海峡もあり、また、ベトナム〜マニラ間の南シナ海は 1,250Km と途方もなく広い。 戦史叢書「海上護衛戦」で対潜水艦戦が効果を上げなかった要因として。 | |
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1項、この護衛艦艇を山ほど増やしても、敵潜発見水測兵器も有効的な制圧兵器も保持していない、若しくは開発していなかった以上、護衛艦の犠牲が増すだけだったはずだ。
2項にいたっては何おか云わんや!である。俺たち(海軍兵学校)は頑張ったが、お前たち(商船学校)がだめだった。との総括をしている。 海軍兵学校出身者で戦った太平洋戦争。なぜあのようの無様な負け方をしたのか??。 進め! 進め!と旗を振って捨て身で敵艦に突入したのは、これまた海軍兵学校出身者ではなく学徒兵だった。 |
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