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開戦時存在した日本海軍四隻の海防艦諸元及び最後の態様
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| 海 | 防艦は、ロンドン条約の結果駆逐艦以上は建艦制限を受けたので、制限外艦艇として海防艦が建造された。 用途は北洋漁業警備だった。はからずもこの艦種が商船護衛の矢面に立たされた。 |
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戦い始まるや、輸送船の沈没が相次ぎその護衛艦艇の首座についた。
だが、対空装備は無きに等しく、対空見張用二式2号1型の電探は装備されていない。
かろうじて昭和19年(1944)に入り米潜水艦の脅威が飛躍的に増加し、これの発見用に2号2型ラッパ管電探が装備されたが、部品を寄せ集めて製造せざるを得ず、
著しく信頼性が低かった(運用実績50%程度)と記録されている。 海軍が開発したレーダーはこちら。 最後まで、潜水艦探知用のソナー(米国呼称)を装備していなかったので、対潜戦は目算と勘にたよる戦いとなった。 |
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本来海防艦は輸送船護衛艦艇として建造されたわけではない。一方駆逐艦(水雷戦隊)は艦隊の一翼を担う艦艇だったから、
輸送船の護衛に戦時急造型駆逐艦(松型)以外を充当した例はない。 損傷した駆逐艦天津風はヒ88J船団に加わったが、
船団護衛でなく随番しての帰還を命ぜられている。水雷戦隊(駆逐艦)に輸送船の護衛をさせるなど連合艦隊がさせなかった。ある頃、護衛要請の話もあったようだが、速力が違いすぎて無理。と断っている。
戦争2年目の1943年(昭和18年)11月15日付で「海上護衛総司令部」をつくるほどの呑気さであった。 戦時中に72隻の海防艦が撃沈されたが、その内38隻が米潜水艦によって沈められた。 |
| S.E.Morisonは、その著書で日本が終戦をむえたとき、その対潜装備は開戦時とおなじだった。非常に正確に作動する爆雷も、航空機搭載用爆弾ももたなかったのである。 彼らは敵潜水艦に損害を与える爆雷を、どこに投下するかという主に数学的な方法を解決できなかった。 日本は対潜攻撃法を手中にできず、そして米潜水艦を攻撃したときは、いつでも撃沈したとひとりよがりに考えていた。 |
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戦史叢書〔海上護衛戦〕にみる記念写真 参謀飾緒(肩章)を付けた者9人 ただし、叢書で参謀名は8人 参謀長 島本久五郎 E 主席参謀 後藤光太郎 作戦参謀 大井 篤 H 戦務参謀 杉田敏三 機関参謀 坂上五郎 〃 由川周吉 航空参謀 江口英二 〃 宮崎 勲 |
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◆ 開戦時存在した四隻の海防艦諸元及び最後の態様 占守(Syumusyu)型(甲型) 長さ 72.5m 幅 9.1m 吃水 3.05m 排水量 1,020トン 速力 19.7Kt(36.5Km/Hr) 出力 4,500馬力 主要兵装 12Cm 単装砲×3 爆雷×18 占守 1940年6月30日竣工(三井造船) 1944年11月25日マニラ湾口で米潜の雷撃で損傷。敗戦時稚内港。 国後 1940年10月3日竣工(鶴見造船) 敗戦時舞鶴。 八丈 1941年3月31日竣工(佐世保) 1945年5月18日 占守島片岡湾で米機の攻撃で大破。敗戦舞鶴で時航行不能状態。 石垣 1941年2月15日竣工(三井造船) 1944年5月31日中部千島松輪島西方で米潜の雷撃を受け沈没。 沈没時死亡者 167人。
![]() 【海防艦 占守】 南方資源輸送のため護衛艦の必要性にやっと気付た海軍は、1943年度計画で 択捉型14隻(甲型),排水量1,020トン, 速力19.7kt, 12cm単装砲×3 「戦時輸送船団史」による甲型の就役隻数は55隻。その内40隻が沈没若しくは損傷した。 御蔵型(乙型)8隻, 排水量1,020トン, 速力19.5kt, 12cm高連×1, 12cm単装砲×1 建造年で見ると,1944年択捉(Etorofu)型1隻、御蔵型(乙型)8隻製造。 鵜来(Ukuru)型(乙型)12隻製造。 |
![]() 【乙型 御蔵】 以上の艦艇は19Kt以上の速度が出せたが、損耗と船団護衛の必要性を認識した海軍は1944年に入ると 船団護衛の必要性を認識したが、こと兵器の質と量についての認識は無きに等しかった。 「丙型 第1〜第235号」 排水量810トン,速力16.5Kt,12cm単装高射砲×2 65隻建造(12隻未成)。 艦番号奇数 就役隻数 53隻 「丁型 第2〜第204号」 排水量900トン,速力17.5Kt,12cm単装高射砲×2 71隻建造(3隻未成)。 艦番号偶数 71隻建造(3隻未成)は「日本海軍史」による。 「戦時輸送船団史」の就役隻数は63隻。 携行している爆雷は「九五式改二」爆雷である。 一番問題は鈍足性で高速船団の護衛は不可能だった。 これらの艦艇の艦長はまず兵学校出身者ではない商船大学校出身者らであった。 彼らは護衛という地味で、過酷な任務に邁進した。生き残った彼らの中で戦後海上保安庁に入庁したものが多かった。 |
![]() 1944年5月、米潜水艦部隊に輸送船団護衛艦優先撃沈対象とする指令が出された。
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| 1943年まで米軍も魚雷の早発、不発の問題を抱えていた。技術者は潜水艦側に責任をなすりつけ、 潜水艦側は技術者不信に陥っていた。ニミッツ太平洋艦隊司令長官の承認により実験。 結局爆発尖に問題ありとなって急速に改善が図られた。この不発の顕著の例として、 1943年(昭和18年)特設油槽艦として活躍していた大洋漁業の捕鯨母船「第三図南丸(19,206総トン)」がトラック島西方海上で米潜ティノーサ(艦長ダスピット・距離800mから発射)から11本の魚雷(MK14型)を受けた。 この攻撃でティノーサは15本の魚雷を放ったが爆発したのはその内1本。 第三図南丸は沈没をまぬかれたので軽巡五十鈴に曳航されトラックに向かった。早速調べたところ、吃水線下に10本の魚雷がまるで花魁のカンザシのように突き刺さったままであったという。 魚雷爆発尖(MK6型起爆尖)の改善がなり、1944年になると米潜は猛威を振るいだす。 日本海軍爆発尖の実態はこちら。 |
昭和19年(1944)8月8日、ヒ71船団15隻(後、1隻永洋丸被雷離脱)は伊万里湾に集結した。8月10日早暁、護衛空母大鷹*3,駆逐艦藤波,夕凪,海防艦平戸,倉橋,御蔵,昭南,
第11号海防艦計8隻(後護衛艦5隻加わる。駆逐艦朝風,海防艦佐渡,択捉,松輪,日振〔ひぶり〕)が護衛しシンガポールに向かった。台湾高雄からバシー海峡を南下、
18日比島(フィリピン)沿岸に達した頃天候急変し風雨波浪強まり視界もまた不良になった。海狼(USS Rasher, SS-269)装備のSJレーダーは、
まず最後尾の大鷹を雷撃,大鷹 22:48 沈没。 沈没時の戦死者747人。大鷹は改装空母だったが、その空母を護衛にした本邦最初の輸送船団も暗夜だろうが荒天だろうが全く関係なくハイテクレーダーの前には単なる少し大きめの標的でしかありえなかった。そして、 23:10 帝亜丸。19日00:30 阿波丸,能代丸。03:20 速吸(給油艦),05:10 帝洋丸が雷撃を受け沈没した。 船団被害後、佐渡,松輪,日振が現場の対潜掃討にあたった。21日をもって掃討を打ち切りマニラに向かったが、 マニラ入港間近の22日05:00ころ米潜の雷撃を受け3隻とも撃沈された。 この襲撃に加わった米潜の損害はなかった。 還送の現場に立たされた輸送船損害実態はこちら。 1943年(昭和18年)当時米軍は、すでに雷撃補助用電探(レーダー),波長60Cm,八木アンテナ。全方向パノラマレーダー,波長10Cm,
回転アンテナ。夜間偵察用レーダーを実戦配備していた。* 帝国海軍は敵からレーダー照射を受けているかを検知する2m波以下の電波探知機を開発していなかった。 ![]() |
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還送輸送船護衛の海防艦の強敵 ◆米軍の魚雷に不発・早発の問題を抱えていたことが、 潜水艦作戦の低迷原因だった。 1943年以降早発問題は解決し、 レーダー、夜間潜望鏡、 魚雷用トルペックス爆薬 (圧力波生成)などの新兵器登場と、 レイテ失陥とともに米陸軍 B-25(ミッチェル)爆撃機の日本船団襲撃で南シナ海の 還送ルートは遮断された。 ![]() 【B-25 は12.7mm 機銃8挺備えていた。その破壊力は海防艦を遙かに凌駕した】 B-25の使用方法は輸送船攻撃とその護衛艦に限られていた。一般的な艦船攻撃はその襲撃方法に特色があった。 超低空で機銃掃射を加えながら、目標手前100m程度の所から爆弾を投下。爆弾の海面スキップで船体舷側に ダメージを与えることを常套手段としていた。よって25mm機銃でも撃墜が可能であった。 |
| 潜水艦探知兵器はこちら。 潜水艦攻撃兵器を調べたが
航空機から投下する「2号爆弾(60Kg・250Kg)」があった。この爆弾の発展型は存在しない。
爆雷関係は1943年「三式一型」炸薬重量100Kgのものがあった。この程度だと直撃しないと撃沈は不可能だとの
現場認識だった。また投射機は英国製をひな型として1943年に「三式投射機二型(投射角50°)を製作した。 これも模倣から発展し独創的なものを本気で研究開発した
痕跡は探せなかった。 Imperial Navy は潜水艦など、もの数ではなく、駆逐艦が走り回れば逃げると本気で考えていた。 また、米国民の自由主義的気質で居住性の悪い潜水艦で乗組員など集まる訳がないと根拠のない考を持っていた。 実際は、食と住に細心の注意を払い、戦闘艦で最も安全で戦死しない任務であったから、 ワンサカ人材が集まった。 * 日本海軍は潜水艦を探知できず、また攻撃兵器の無いことを知り抜いていた。 Imperial Navy 首脳部は、危機感を募らせたが、構想を実現する立場の幕僚と現場も商船護衛など、軍人の役務と考える柔軟性など持ち合わせてはいない。 |
![]() | 水上艦艇対潜兵器「ヘッジホッグ(Mk10)」
は英国が開発し、連合軍すべてが使用した。一度に24発まるで投網を投げるように任意の方向に投射できた。 日本の潜水艦は騒音発生装置付きの感があったので、簡単に潜伏場所を発見されたから絶大な威力を発揮した。 |
| この対潜兵器はソナー*と相まって、日本の潜水艦に壊滅的打撃を与えた。 また、日本の駆逐艦や 輸送船護衛艦は、米潜水艦に対して有効な反撃兵器を持っていなかった。 航空機に対しては射撃で撃退することも可能だったが、潜った潜水艦は全くのワンサイドアタックであり為す術がなかった。 Imperial Navy が大艦巨砲に憂き身をやつした報いを商船大学校出身者で占めていた護衛艦士官が受ける羽目になった。 | ![]() |
![]() * Sonar、ソーナー、ASDICとも呼ばれた。第一次世界大戦中の英国で潜水艦探知調査委員会の頭文字。 連合国は最新テクノロジーを共有し合った。ドイツ潜水艦に苦しめられ英国の開発したものに投射爆雷と細いビームのレーダー(米に提供)。更に高周波(短波)方位探知機(HF/DF,ハフ・ダフ)として知られる装置である。 敵潜水艦が基地に通信を送ると直ちにその位置を突き止めることができた。 一方米国は護衛空母機による哨戒飛行と、PBY(Catalina・カタリナ・海軍,英に提供)飛行艇でも潜水艦探知と撃墜されたパイロット救出の両方を任務としていた。 また護衛専門タイプのDE(Destroyer Escort,英に提供),駆逐艦を多量に建造し哨戒艦とした。参考までに汎用駆逐艦はDD(艦隊型)タイプ。特攻機に襲撃された駆逐艦にこの両タイプが見られる。また掃海駆逐艦(DMS)もある。 US Navy は、電波・音響兵器を駆使し効果的な爆雷攻撃で日本の息の根を止めた。 ![]() |
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戦争終盤追いつめられた Imperial Navy は人間魚雷を戦場に投入したが、哨戒機で探査され、哨戒艇のレーダーやソナーで捕捉され、潜行すればこの爆雷攻撃を受けた。 泊地に潜入せんとした潜水艦は立ち往生する。 現場は悲痛な声を発するも、後方に陣取るバカな幕僚たちは、爆雷の一つや二つ恐れるなど海軍の面汚しと首を切った。
第六艦隊(潜水艦隊)の先任参謀で実戦経験者が配置されたのは1944年(19年)12月佐々木半九郎少将が最初である。 Imperial Navy は潜水艦がどのようなものか、どのような制約を受けるのか、居住性に問題はないのか、必要な攻撃・防御力が備わっているのか、緊急に改善すべき課題は何なのか、まるでテクノロジーと運用に関してまるどド素人が作戦を立案し展開していたように見える。 あの熾烈な戦いで第六艦隊に配属された多くの兵員に心からの敢闘を讃えたい。 亡失した潜水艦はこちら |
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-- 軍部 -- とは 実際に軍を動かし、戦略を決定していた組織を指す。 太平洋戦争下で天皇を頂点とした統帥権の縦軸に隷属していた陸軍参謀本部と海軍軍令部の作戦に係わる連中をいう。 陸海ともトップエリートとされ、陸大,海大の上位5人という暗黙のルールがあった。 ただし、いずれも蛸壺組織であり、社会性、国際性などの広い視野や、人を束ね、ある目的を達成するなどの能力が備わった人物であったわけではない。 また、その成績順は相対評価だったから、前期成績優秀者と今期成績優秀者が同列ではありえなかった。 軍令部組織はこちら。 戦艦大和水上特攻時の軍部に属した人物はこちら。 海軍の組織と軍部。 |
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![]() この空母の配属により第931海軍航空隊が九七式艦攻48機で佐伯に発足する。 では、実戦面で直衛航空機は役だったのか?。 答えはNo。 昼間だけの目視による潜水艦監視であり、 護衛艦には、水中探信儀が装備せず、どこに潜水艦が潜んでいるのか探知のしようもなかった。個艦の敵信傍受にも大きなばらつきがあった。 米潜水艦によって資源還送船が何百隻沈められようが、艦隊決戦に血道をあげている連中は、ついに自らを動かす重油が枯渇しても、輸送船側に、熱意と執拗さがないから、 米潜がのさばっているとの現状認識であった。 |
| 輸送船団護衛空母出現を知った米潜水艦部隊指揮官C・A・ロックウッド中将は、Imperial Navy はバカじゃないかと思ったと述べている。 南方から日本までの航路は、台湾、支那、比島の沿海を航行する。よってここからの航空機で輸送船団を防衛する方法が経済の原則に照らしベストである。 これらの特設空母は、米軍が行っているように、物資及び航空機の輸送に専念させるべきである。 と語っている。 |
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![]() | 基準排水トン 17,830t,水線長 173.70m,最大幅 22.5m,速力 21kt(ノット),搭載機数 27機,兵装 12cm高角砲4基 雲鷹も同様。兵装 12cm高角砲8基。 |
![]() | 雲鷹(Unyo) 1944年8月より船団護衛任務につくが、9月17日ヒ74船団の護衛任務中に米潜バーブ(SS220)の雷撃二本を受け沈没。
ほぼ全員が救助された幸運な例となった。 写真は改装前の日本郵船八幡丸で改装後は雲鷹となった。 海鷹(Kaiyo) 1945年7月24日、海鷹は瀬戸内海において特攻兵器の訓練標的艦として行動していた際、四国佐多岬沖で触雷、 やむなく大分県別府湾岸に擱座。放棄された。 |
![]() | 冲鷹(Chuyo)冲鷹の前身は日本郵船新田丸。 排水量:17,830トン。 全長:180.24m。 飛行甲板:180×23.5m 速力:21ノット 航空機:33機 |
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神鷹(Sinyo) は ヒ81船団10隻を護衛し1944年11月14日06:00 伊万里湾からマニラ・シンガポール方面へ向かった。
船団は玄界灘を接岸航行し上海を目指し航行を続けたが、
17日23:09米潜スペードフィッシュが発射した魚雷6本のうち4本が右舷に命中した。
大量の航揮の爆発により大火災が発生し、魚雷命中後30分で沈没。生存者は全乗組員1,160名中わずか60名であった。 |
| この船団護衛は、神鷹の航空機2機が常時哨戒し、艦船の探信儀を作動させ、 また乗組員の監視体制で万全を期していると考えていた。 だが、米潜はマニラに派遣される歩兵第64連隊と船員を含め2,576人が乗っていた「あきつ丸(9,186総トン)」を15日11:50に雷撃。 攻撃を受け、わずか3分後に沈没。船員,兵員あわせて2,300人が戦死した。 |
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悲劇は更に続く。17日18:15 兵員を満載した「摩耶山丸」に魚雷が命中。瞬時にして沈没。旭師団司令部、
野砲連隊員など3,437人が戦死した。 航空機哨戒も探信儀も人間の眼玉も全く役にただず、
白昼だろうが夜だろうか関係なく米潜の餌食になった。 この船団には、フィリピンに増派される第23(旭)師団師団司令部などの兵員が「あきつ丸」他に分乗していた。結局この師団は輸送途中に壊滅同然となる。 |
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![]() | 松型駆逐艦は1300トンの程度の戦時急造の簡易駆逐艦である。機関出力は1.9万馬力で速力は27.8ノット。 ところが意外に使い勝手がよく、対空、対潜戦闘など何でもそれなりに使えた。 |
| 表−1 |
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-- 詳しくは、「戦時輸送船団史 駒宮真七郎著 出版協同社 S62/10/8発行」等を参照されたい。 一隻で千人以上の戦没者を出した船舶一覧表はこちら |
| 調べて気になったこと 海上自衛隊は、旧海軍の巡洋艦、駆逐艦に相当する「護衛艦」を52隻保有している。艦数だけだと世界第二の海軍力だ。 ところが、先の太平洋戦争の戦訓にある海上護衛の訓練など聞いたこともない。 海上護衛は海上保安庁の 仕事か??。 自衛艦は米艦隊の護衛なのか?と疑いたくなるような日米合同訓練はよく行っている。 まるで米海軍のポチみたい。 お主ら、守る相手違ャーシネーカぇ!。 資源を国外に求めざるを得ない島嶼国家の最優先課題はシーレーン確保の商船隊護衛だ!。 「護衛艦」は米艦隊を守る「護衛艦」か?。 中国海軍の潜水艦は続々増強強化されている。 米軍のポチをやめろ!。 折角防衛省に昇格 したのだから、中国よ来るなら来てみろ、自国商船隊は我々が守ると国民に公言しろ!。 テロとの戦いより更に重要だぞ!。 |
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| 米太平洋艦隊との合同訓練ばかりで、自国輸送船団の護衛という話が全く伝わってこない。先の戦争の反省と をしていないように見える。 | |||||||
[transport] 内の各 htm ファイル 船団護衛をおろそかにした海軍の下でのヒ86船団の悲劇。
真相 大和片道燃料のウソ。小林儀作が大和を沈めた。
資源還送の護衛を考えなかった海軍は1945年、すでに戦争を継続する油がなかった。
船舶喪失と海上護衛参謀の回想。
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