世界の海軍にあって最も下劣 なぜ、今、戦争責任の検証か。渡邉恒雄(読売新聞・主筆)
世界の海軍にあって最も下劣で戦争犯罪組織と化した海軍をほかに知らない。
渡邉恒雄(読売新聞・主筆)氏は、 『人間を物体としての兵器と化した軍部当事者の非人間性は、日本軍の名誉ではなく 汚辱だと思わざるを得ない』と言い切る。 これを誰が否定しえようか。
中央公論 2006年10月号に掲載された、渡邉恒雄 (読売新聞グループ本社代表取締役会長・主筆) 1926年東京都生まれ。東京大学文学部哲学科卒業。読売新聞社入社後、政治部記者、ワシントン支局長、解説部長、政治部長、編集局総務、論説委員長などを経て社長。日本新聞協会会長。2004年に現職。著書に 『ポピュリズム批判』など。
『なぜ、今、戦争責任の検証か』の部分をここに掲げる。 以下、氏は
『昭和戦争』に自らの手で決着を付けよう。
日本はいまだに歴史問題で外交に躓いている。なぜか。 その理由の一つに、戦後60年以上たっても自分たちで戦争責任の検証ができてい ないことがあるのではないかとする。

◆ 私の軍隊体験
私は、戦争末期に東京大学入学直後赤紙召集で徴兵された昭和戦争最後の最下級兵士、つまり陸軍二等兵として、非条理な軍組織の中にいた。 一階級上の兵でも上官であり、理由もなく、気まぐれで、二等兵を殴った。 三食は茶碗一杯の高梁(こうりゃん)飯と味のない味噌汁であった。味がなかった理由は、革の上靴(スリッパ)で毎日顔を殴られた結果、口内の粘膜が切れて、味覚を失っていたからであろう。この野蛮性は、全国、どこの師団、連隊、中隊、小隊、内務班(兵営内で下士官の指揮する陸軍の最小単位の集団)でも共通する、訓練という名のリンチ公認から発するものだった。 人間が犬馬以下に扱われる社会が軍隊だった。これが、各戦地で兵士を大量に無駄死にさせた人命軽視の基本的観念でもあった。 『軍人勅諭』『戦陣訓』は、こうした人命軽視や野蛮行為の“教典”として悪用された。 私は、相模湾から上陸作戦をする米軍を遊撃するのを目的とした10サンチ榴弾砲中隊に属する兵であった。しかし、8月15日時点で、この砲兵中隊には一発の実弾もなく、木製の模倣弾で演習をしていた。それどころか、小銃も、兵の吊る『ゴボー剣』と称する短剣も、ほとんどなかった。砲兵部隊というけれど、竹槍部隊と同じであった。
◆ 反軍学生時代
敗戦直前に一度あった外泊の時、旧制高校時代の下級生がわが家に集まった。その時、ポツダム宣言の全内容を読み、原爆という人類史上かってない恐ろしい爆弾が投下されたことや、一、二カ月で敗戦に至るだろうとの情報を得た。 私の在学していた旧制東京高校の同級生には、たまたま真崎甚三郎陸軍大将の弟である真崎勝次海軍少将の息子さんや、田中隆吉陸軍省兵務局長の子息、井上準之助・元蔵相の孫といった人々がいたし、後輩に国会議員の子息もいた。 こういう諸君から得たわけではないが、各方面から敗戦情報が入ってきていた。学生仲間にも、『勝ち組』と『負け組』がいて、それなりの対立があったことも事実であるが、大勢は反軍思想の持ち主であったと思う。 旧制中学・高校時代から、軍国主義教育の先端に立った配属将校による乱暴な訓練を強いられ、さらには特高憲兵による強圧統制下で読書の自由もなかった。マルクス主義関係の文献(主として岩波文庫)は、高校の寮生活でも、バケツの下とかベッドの下などに隠し持っていた。特高、憲兵は、マルクス主義文献を持っているだけで逮捕したものだ。 高校時代の『勤労動員』で、軍需工場で働かされていた時、長刀をぶら下げて工場を闊歩する憲兵に、態度が悪いとして一入の同級の親友が、路上でメッタ打ちに殴られた。それを目前にしながら、身体を張って立ちはだかり助けることができなかったことを、私は今でも恥じている。助けに出たら、私も殴打され、蹴飛ばされ、血まみれになっていただろうが。 もちろん、私は自らの軍隊生活の中から発した恨みや怒りで、戦争責任を論証しようというのではない。前記のような野蛮性、非人間性は、特に陸軍にあってはかなり普遍的であって、そのような精神的土壌から無謀な作戦が生まれたと思うからだ。ただ、将校、下士官の一部には、人格が高く、人間性もあり、兵の信望を集めた人々がいたことも事実である。
◆ 非人間的特攻作戦
軍の非人間的作戦の中で、今でも許せないのは、特攻作戦である。学生時代、私たちが徴用されたのは、特攻機製造の鉄工場であった。そこで一個不良品を作れぱ、一人の徴兵された学生の命を救えると思って、鋳型に流し込む溶けた鉄の中に、ひそかに石ころを投げ込んだこともある。もちろん見つかれば、重罪とされたであろう。 私は、新兵の二等兵だったから、特攻機に乗せられることなどはなく助かったが、私より一年か二年上級の学生たちの多数が、この特攻で死んだはずだ。 生還不可能の無謀な作戦のはしりは、パールハーバーにおいて特殊潜航艇で自爆した九人の若い将兵たちで、『九軍神』とされ二階級特進した。新聞は、全員写真入り、一面トップで報道、賞賛した。当時、中学生だった私は、この自爆行為を称賛する気にはなれず、軍の非情さに対する反発と、死んだ若い将校たちへの同情の入り混じった不思議な思いで記事を読んだ。その記憶は今も鮮烈に甦る。 さすがに、海軍内には、その後、特攻作戦に対して人道的抵抗からの反対もあり、一時中止したが、ミッドウェイとガダルカナルの大敗以来、再び陸海軍の双方の将校レベルから、体当たり特攻作戦の上申が始まった。
◆ 誰が『特攻』を推進したのか
本格的航空特攻隊編制の命令を最初に出したのは、大西瀧治郎中将だと言われる。大西中将は、敗戦後自宅で割腹し、介錯を拒み、一五時間のたうち回って苦しみ死んだ。 しかし、彼は当初、非人間的特攻作戦に慎重であったようだ。彼は幕僚たちの提議したこの残虐非道な作戦を決するまで一年あまり躊躇し、実行にあたっては、『これは統率の外道である』と自認して語っている。また『特攻に狎れるな』とも述べており、この非道な作戦に心中抵抗があったことがわかる。とはいえ、ついにこの作戦を隊員に指示した時の訓話の内容は、超精神的皇国史観で貫かれ、理性のかけらもなかった。 人間そのものを兵器として使用する特攻作戦が立案されたのは、大西の決断する一年あまり前(四三年八月)のことで、推進者は海軍軍令部の黒島亀人第二部長、中沢佑作戦部長らであった。大西は彼らの進言を一年あまり抑えた。サイパンが陥落して敗戦が決定的になってから、ついに及川古志郎軍令部総長に提議した。及川大将は『涙を飲んで申し出を承認する。しかし、あくまで命令だけはしないでくれ』と語ったという。 この大西が主導し、軍令部が従ったとするのは、中沢が戦後語った責任回避のための作り話だという説もある。多数の青年将兵を特攻で殺した立案者の中沢は、戦後生き残り、講演などで特攻作戦は大西の決定であり、軍中央は考えていなかったと述べている。 一応、『志願』の形をとって実行した特攻の第一号は、フィリピン作戦での、関行男大尉の率いる特攻部隊であった。特攻を命じた上官に対し、関大尉は、『体当たりせずとも、爆撃で戦果をあげうる』と反論したが、結局命に服したという。関大尉もその功により、『軍神』とされ、二階級特進をした。 特攻隊の編制は、形式的には志願で始まったが、間接的強制、そして実質的な命令に進んだ。その結果、未来ある若い学生出身の下級将校たちが、肉弾となって意味もなく殺された。 特攻はあの戦争の美談ではなく、残虐な自爆強制の記録である。イスラム原理主義者の自爆は宗教上の妄信や、指導者のマインドコントロールによる自発的自爆だが、『特攻』はほとんどが実質的には『命令と強制』であった点で、イスラム・テロリストのケースとはまったく違う。 悪い意味で合理的な計算に立ち、こういう非道、外道の作戦を考え、実行した軍の参謀や司令官、さらには、人間を物体としての兵器と化した軍部当事者の非人間性は、日本軍の名誉ではなく 汚辱だと思わざるを得ない。
黒島亀人,中澤佑コンビは1944年8月人間魚雷回天を正式兵器化した。同年9月、徳山において基地整備隊員と錬成に着手。
海軍は関の特攻に先立ち1944年9月13日、大森仙太郎を特攻部長に任命。一元管理した。大西瀧治郎着任前に特攻隊名を決定している。
一般的には、特攻一号は関 行男大尉(兵学校出身者)を嚆矢とするが、関より4日早い10月21日に久納 好孚(くのう こうふ)第一次神風特別攻撃隊『大和隊』隊長として出撃未帰還となった。 彼は学徒兵で源田 實の意に叶わなかった。 少なくとも 学徒兵では"見せ金" としての値打ちがなかったのだ。

◆ 『桜花』特攻の発明者は
特攻作戦も初期には一定の“戦果”を上げたが、直ちに米軍も対抗策を強化した。特攻の標的とされる戦艦はレーダーで特攻機を捕捉し、対空砲火を強化し、戦艦(空母、巡洋艦等も同様)の上空には、 グラマン等新鋭戦闘機が迎撃態勢をとっていたから、特攻機は目標に近づく前に、次々に撃墜された。そこで費用対効果を考えて発案された究極の“新兵器”が、人間爆弾『桜花』と入間魚雷『回天』である。 『桜花』は、プロペラも脚もない人間爆弾そのものだ。『一式陸上攻撃機』を母機として吊るされて、出撃した。 前部に1200キログラムの炸薬が装填され、後部には三本の火薬ロケットが装備されている。小さな翼がついているが、人間一人が搭乗したこのグライダーのようなロケット滑空機は、もはや飛行機ではない。体当たり専用の人間爆弾である。目標に達する前に切り離し、母機は航空機節約のため帰還する。 しかし帰還能力がない人間ロケットたる桜花乗員は確実に死ぬ。さらに、通常積載量の二倍になる約二トンの重い子機『桜花』をぶら下げた母機『一式陸攻』は、飛行能力が低下するから、 目標に達する前に母機・子機もろとも撃墜された。55機が出撃し、 米艦に命中したのは2機だけで、ほかは全滅した。この“新兵器”も作戦上ほとんど何の効果もなかった。 敗戦直前のこの“新兵器”を『桜花』と名づけたのは、特攻推進者の一人、 源田 實中佐であって、桜花とともに死んだ特攻隊は『神雷隊』と呼ばれた。戦果としては、駆逐艦一隻撃沈しただけで、当初の目標だった空母や戦艦に対しては、 命中ゼロ。 『桜花』の命名者源田中佐は戦後生き残り、自衛隊の空幕長を経て、参議院議員として栄華を享受している。 この桜花特攻を発案し、上申し、実現させたのは、大田正一少尉であった。 大田は兵士上がりのノンキヤリアの下級将校でパイロットでもない技術士官であった。 彼は、このような無謀な『非人道的新兵器』を作った『功労者』として、当時の新聞には賞賛的に報道された(たとえば1945年5月31日付『北海道新聞』)。彼はまもなく中尉に昇進している。 このようにして、多数の若者を、生還絶対不可能な兵器によって殺した大田は、終戦直後、八月十八日に、茨城県の海軍神ノ池飛行場から、ゼロ式複座練習戦闘機で、鹿島灘の沖合に向け飛び立った。遺書まで残していた。 見た者は、桜花特攻推進の責任をとって、自爆すべく飛び立ったと思ったようだ。ところが、彼は反転北上した。金華山沖の洋上に着水し、北海道の漁船に救われ、 上陸した。にもかかわらず、彼は『航空殉職』とされ、一階級特進して『海軍大尉』となり。『戸籍抹消済』となっていたのである。 逃亡後、彼は、はじめは戦犯に指定されることを恐れ、さらに戸籍がないので定職につけず、各地を転々としながらも、二人の子供まで作っている。 対ソ密貿易をはじめ、闇屋のような商売を続けながら、一時、消息を絶ったが、実は1994年まで生き延びていた。 これが、あの戦争中の日本軍の野蛮な制度、組織、思想、道徳観の裏側の真実を示す適例である。 このことは、秦郁彦氏の『昭和史の謎を追う』上巻(文春文庫)にくわしく書かれている。また『大田少尉』の名は、『特攻』について書かれた複数の書に 『桜花』の発案者として明記されている。それにしても、徹底的に大田の戦後の行動を追跡した秦氏の執念には驚かされるし、 また学者として事実をここまで調査し、検証した秦氏の努力を賞賛したいと思う。 大田の行為は、非道徳的であり、追及されるべきは戦争責任というよりは、非人間的な戦争犯罪だと思う。大西中将は、責任をとって割腹した。大田は巧妙に逃げて生きながらえた。 『桜花』を発明、使用を推進した大田は、下級将校とはいえ、二十歳前後の若者を多数死地に追い込んだ。その責任は許されるものだろうか。彼の進言通り桜花特攻を承認し、 賞賛さえした軍の上層部も、この非人間的、犯罪的行為の共犯者というべきだ。 』回天』も同様な特攻兵器であったが、多くの『特攻』に関する書籍に詳述されているので、ここでは省く。
大田正一 山口県熊毛郡室津村(現・上関町)出身。
◆ 『玉砕』の非人間性
特攻とともに、東条が陸軍大臣時代に作った『戦陣訓』の『生きて虜囚の辱しめを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ』という思想から生じた『玉砕』作戦も、あまりにも非人間的かつ非科学的であった。 軍事作戦上、勝ち目がゼロな戦争で玉砕するよりは、捕虜になったほうが、米軍に与える損失は大きかったろうに。米軍は、原則としては捕虜をまず殺すことはないから、食料を与えるだろう。 そのための糧秣輸送には経費がかかるし、人手もいる。むしろ米軍にとって負担増となったであろう。にもかかわらず、大本営は、アッツ島で全員自決せよとの命令を出し、最初の大量玉砕を強いて、これを美談とした。 当時、政府もマスコミも『鬼畜米英』と言っていたが、玉砕、特攻こそ、陸海軍最高首脳と幕僚たちの、前線の将兵に対する鬼畜の行為であった。 日本の政府、軍首脳および幕僚たちは、無謀な昭和戦争で、軍人、民間人を含めると300万人余りの日本国民を死に至らしめた。特攻、玉砕による死者はその5パーセント前後に過ぎないかもしれない。しかし、 特攻、玉砕を強いた陸海軍の野蛮性を実証する重要な事実であると確信する。 この非人間的野蛮な作戦は、沖縄、インパールを含めたアジア・太平洋各地で形を変えて実行されていたのである。 若い将兵たちは『被害者』であって、彼らを死地に追いやる作戦を立案し、実行した軍首脳と幕僚たちは『加害者』である。その差は峻別しなければならない。  加害者と被害者を同じ場所に祀って、同様に追悼、顕彰することは不条理ではないか。
◆ 植民地解放戦争ではなかった
この戦争は、欧米からアジアの植民地を解放することを大義とした戦争だったと言えるだろうか。アジアの植民地解放のためと言うなら、日本自身、朝鮮半島と台湾という完全な植民地を保有し、また満州を事実上、植民地化しようとしていたことをどう説明するのか。とうてい、 満州事変から日米戦争に至る昭和戦争について植民地解放を大義とした戦争と言うことはできないと思う。 以上、日本の戦争責任についての考えを述べてきたが、米国および旧ソ連についても次のことを問いたい。
◆ 米軍の無差別大量殺人作戦を問う
B29によって非戦闘員、民間人を何十万人と無差別爆撃し、焼夷弾で焼き殺したこと、および、あれ以来、二度と使われず、国際的にその使用が厳に否定されている原爆二発を二つの都市に投下し、多くの民間人を、その後遺症による死を含めて殺傷した。今日、中東紛争等で何十人という規模でも民間人の殺傷は、激しく非難されているが、米国民はこの無差別大量殺人作戦をどう考えているのであろうか。 もとより、日米戦争は、日本軍のパールハーバー奇襲によって始まったものであり、敗戦後、国際法上の処理は、東京裁判の諸判決によって一応終了している。しかしながら我々が日本側の罪科を認めた以上、道徳的、哲学的に考えてあの無差別大量殺人の責任は全部日本側にのみ帰せられるのであろうか−−と問う歴史検証上の権利はあると考える。特に『ハル・ノート』によって、意図的に日本を対米開戦に追い込んだと思われる点に私は疑念を感じるが、それは今後の課題として残し、ここでは深く論じない。
◆ ソ連の戦争犯罪
次に、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して、日本軍に全面攻撃を開始し、日本が8月15日に無条件降伏した後も9月まで戦争行為を続け、約60万人をシベリア等に拉致して、強制労働を課し、その結果5万数千人を死に至らしめた。このスターリン独裁下のソ連の行為は、明らかに戦争犯罪ではないか。 降伏後も、千島列島を次々に侵略、日本の固有領土たる国後、択捉、特に北海道に近接する歯舞、色丹までも占領し、自国の領土とした。あわよくば、北海道をも侵略して属領としようとしたスターリンの意図は否定できない。 プーチンのロシアは、『スターリンのソ連』の非道をどう認識しているのか。もしスターリンの世界観と戦争謀略を否定するなら、日本固有の北方領土を返還すべきではないか。私は『スターリンのソ連』とプーチンのロシアを別個のものと認識している。 スターリンのソ連は解体されたが、米国は原爆を投下したエノラ・ゲイ機を今でも博物館に陳列している。原爆投下について、当時、陸軍長官であったスティムソンは、『もし原爆を投下していなかったら、日本本土上陸作戦で100万人の米兵が死んでいたはずだ』と弁明している。また、エノラ・ゲイの機長ティベッツ大佐は、 『原爆投下のおかげで、結果的には米兵だけでなく、数千万人の日本人を救うことになったはずだ』と言ったことがある。
敗戦後ソ連は推定 57万5千人もの将兵を捕らえ強制労働に従事させた。陸軍参謀瀬島龍三もソ連に11年間抑留されたが、この将兵への抑留疑惑がつきまとっている。 抑留将兵の最後の釈放は1956年10月だったが、無事故国の土を踏めた者は 453,849 人だった。 その差10 万人余がシベリヤの凍土で非業の死を遂げた。
いつ帰るか分からない凍土で将兵が唄った『異国の丘』は戦後NHKのど自慢で歌われ、その後大ヒットする。歌はこちらで。 
作曲家の吉田正も抑留者の一人であった。 シベリアの凍土で消えかかる命がこの歌で救われた。 北方四島国際法に照らし不法占拠問題と、ソ連(現ロシア)シベリヤ抑留の悲劇は、民族が続く限り糾弾し続けなくてはならない。 この抑留に瀬島龍三がこれに一枚荷担した疑惑は消えない。

◆ トルーマンの想像力欠如か
こうした弁明の一方で、スターリンとトルーマンの駆け引き説がある。卜ルーマンは、満州、朝鮮のみならず、北海道まで侵略し、 属領化しようとするスターリンの野望を阻止するため、原爆投下で日本の降伏を早め、ソ連の侵略を阻止したのだという説である。 それは想定できない作戦でもない。原爆二発投下されても、陸海軍の強硬派は、本土決戦を主張していた。天皇聖断により、やっとポツダム宣言を受諾した。 敗戦必至の状況下で、終戦を使命として登場したはずの鈴木貫太郎首相が、『ポツダム宣言を黙殺し、戦争を継続する』との発言をしたのは、軍部のテロを恐れたためかもしれないが、その間の優柔不断さが原爆投下を招いたとも言える。
さまざまな理由や経過はあろうが、トルーマンたちには、原爆投下がもたらす、非戦闘員に対する非人間的な残酷さへの想像力がいささか欠けていたのではあるまいか。 原爆製造の基礎理論となるアインシュタインの相対性理論を解説したデイヴィッド・ボグニス著『E=mc2』(早川書房刊・184ページ)によると、当時の米統合参謀本部のレーヒー議長やルメイ戦略爆撃部隊司令官も『原爆を使う必要がなかった』 と述べたという。アイゼンハワー元帥も『自軍の安全のためなら何千という敵をなんのためらいもなく殺すのに、原爆を使用することには強硬に反対した』。その理由の『第一は、日本は降伏する準備ができていたので、あんな恐ろしい兵器で攻撃する必要がなかった。第二に、アメリカを原爆の最初の使用国にしたくなかったからだ』と言っている。 さらに同書によると、原爆の開発・製作者オッペンハイマー博士は、日本の降伏条件に『天皇の保護』を入れることを支持したという。『国体護持』を継戦の理由とした軍部の本土決戦派も、『天皇の保護』つまり『国体の護持』が認められれば、もっと早く降伏に同意していたであろう。 当時、国体護持ということは天皇制の維持を意味した。米側の言った『天皇の保護』ということは、戦争裁判の対象とせず、天皇の地位を守ること、言い換えれば天皇制の維持、日本側の言う『国体の護持』となり、ポツダム宣言受諾の名分となったわけだ。ポツダム宣言受諾を鈴木首相や軍首脳が国体護持の保証がないとして引きのばしたために、二発の原爆を投下されたのだから、この仮定は非現実的でない。 また、自国民の殺害という点では、スターリンは『粛清』の名のもとに、2,000万人の自国民を殺したし、中国の毛沢東は『大躍進』運動で、2,000万人以上の餓死者を出し、『文革』によって、過労、飢餓等により40万ないし100万人を死なせている。こうした事実は、ロシアや中国でも人道の名において検証してもらいたいものだ。
◆ 天皇の戦争責任は
次に天皇の戦争責任について言っておきたい。 明治憲法上、天皇は無答責であったが、統帥権は天皇に直接帰属し、内閣の輔弼の対象外であった。 したがって、統帥の最高権力者として、法的形式的には天皇に責任があるとも言える。 しかし、歴史の実態から見て、天皇は外界から隔離されて宮中にあり、 内大臣を通じなければ自由に政府や軍の幹部にも会えなかったし、 謁見した政府が軍首脳も真実の状況を伝えることはほとんどなかったと思われる。それでも、 張作霖事件、二・二六事件では御決断の効果もあった。だが、昭和戦争のほとんどの局面に関しては、 正確な情報を知り得ず、限られた情報源から判断せざるを得なかったのではないか。 終戦時、近衛師団が皇居に乱入し、天皇を拉致、隔離し、また終戦詔勅の録音盤を暴力で奪取し、 降伏という天皇聖断を阻止しようとした。反乱軍のテロの恐怖は、天皇個人の側近に及んだ。事実、 鈴木首相の家は焼かれたし、8月15日未明、近衛師団の将校によって、 森赳近衛師団長は殺害されてしまったのだ。  昭和戦争の多くの局面で、天皇に国政を左右し、国運を決する判断と軍部に対する下命を求めることは、 不可能であった。率直に言って、昭和戦争の時代天皇には統帥の最高権力者としての能力は奪われ、 または保有し得なかったことは間違いない。したがって、昭和天皇の責任を間うのは、妥当性を欠くし、 一方、終戦と戦後の混乱を収束したその国民的人気と徳望と努力は十分評価される。 よって、我々の検証では天皇の戦争責任を闘わないこととした。
渡邊恒雄氏のこの論拠、すなわち正確な情報*1を知り得ず、限られた情報源から判断を前提に話すと、場合によったら 殺人の共犯者も無罪となる。 天皇の位置付けが内政法理論的どのようになっていたのか?。
大日本帝国憲法(明治憲法)
1.統治権の総攬(そうらん*2)者 (第四条)
2.宣戦・講話の締結者 (第十一条)
3.天皇は立憲君主であり、国務大臣の補弼(ほひつ*3) (第五十五条) をどの局面でも受けていた。
立憲君主制の法治国家だった。天皇個人のテロの恐怖から無問責論を展開すると収拾が付かなくなる。

*1 渡邊氏は、「〜得なかったのではないか」と疑問符的に書いているが、実際は統帥最高責任者だったので、逐一情況は報告された。参謀総長、軍令部部長。 陸海軍武官は常駐していたし、自軍の損害は非常に正確に伝わっている。 陸軍参謀総長だった杉山 元は、『今日天ちゃんから怒られた』と周囲に洩らしている。
*2 一手に掌握すること。
*3 天皇の行為としてなされ、或いはなされざれるへきことについて進言すること。
◆ おわりに
我々、新聞界の責任についても語る必要がある。その責任は重大だったと言わざるを得ない。 読売、朝日をはじめ、 新聞界の実力者がA級戦犯容疑者として逮捕されたが、ことごとく不起訴となっている。 戦争批判をすれば、停刊、廃刊、筆者の拘束という、軍・警察の権力の統制下にあった。東条により懲罰召集され、 戦地に送られた毎日新聞の新名(しんみょう)丈夫記者の例もある。 しかし、満州事変、日中戦争の初期の段階から、各新聞が声を合わせて、勇気を持って政府、軍への批判を展開していれば、 あの戦争は防げたかも知れない。この責任も大きなものがある。 さて、私たちの戦争責任検証を、一部の極右思想家*4たちによって単なる 自虐史観ととられるのは、納得できない。 当時の政府、軍の非を明らかにしたうえでなければ、ことの道理から諸隣国の日本非難に応答できないではないか。 また、金正日の蛮行やサダム・フセインの独裁と、隣国侵攻等の好戦的心理の解明にも、昭和戦争の責任検証は役立つだろう。 『読売新聞』の一年間にわたる戦争責任検証報道の前半部分はすでに中央公論新社から刊行されているが、その後半部分は、まもなく単行本『検証・戦争責任 U』 として出版され、かつ年内に英訳版も出される。諸外国の指導者たちにも贈りたいし、 特に金正日にもし英語力があるなら、読んでもらいたいと思う。英語力がないなら、 日本語版を、拉致、抑留している日本人被害者に翻訳してもらえばよい。 軍国主義独裁者の犯罪とその末路について、ぜひとも金正日に学んでもらいたいものだ。
--- 以上読売新聞主筆 渡邊恒夫氏『なぜ、今、戦争責任の検証か』終わり ---
*4 中曽根康弘元首相は東京裁判史観は『自虐史観』である。また上智大学渡部昇一は暗黒裁判と云っている。  中曽根康弘は海軍主計課短期現役志願6期生であった。
A級戦犯問題は日本で裁くべきであった。B,C級裁判に該当する例として、戦略爆撃機における都市無差別爆撃の実行者が撃墜されその乗員が国際法理に照らして保護される立場にはない。
戦争責任の精算について
極東軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯、BC級戦犯が訴追されたが、A級戦犯訴追の経過を見ると、明らかに昭和天皇の戦争責任について回避している。 いきおい矛先は陸軍首脳に向けられた。BC級戦犯についても、正統な裁判だったのかという疑問符を各識者が提起している。  これも単なる、提起の提起で終わっているところに問題がある。すなわち、本気で正面から我々は取り組もうとしなかった。  国内的にも国際的にも未決済で今日に至っている。 ここに政治の枢要にある者たちが、先の大戦の責任についてあいまいな態度をとり続けている原因になっている。  それは、国内的に決裁しなければならなかった問題を先送りでうやむやしてきた結果なのだ。
昨年(2007年)も、久間某大臣が、『原爆しかたがなかった』発言で国会が紛糾したが、昭和天皇さえ『原爆しかたがなかった』と独白しているのだ。  国会議員が喋ると大問題で、昭和天皇はなぜ免責なのだろうか?

海軍の戦犯と起訴人員5,700人にも及ぶ戦犯はこちら
2007年8月15日の読売新聞社説  (社説末尾のみ)
静謐な追悼の日となるように
 『読売新聞は、東京裁判の『戦犯』概念とは距離を置きながら、 日本の政治・軍事指導者の『昭和戦争』の戦争責任について検証し、昨年(2006年)8月に最終報告をまとめた。
 その結果、特定された戦争責任の中には、昭和天皇が名指しで靖国神社に合祀されたことを批判した2人の『A級戦犯』、 松岡洋右外相と白鳥敏夫駐イタリア大使も含まれる。
 2人は国際情勢を見誤り、日独伊三国同盟の締結を強力に推進し、 日本と米英両国の関係を決定的に悪化させた。このことが、対米英開戦の道を開く大きな要因となった。
 東条英機首相をはじめとする『A級戦犯』の多くが、日本を無謀な戦争へと導き、 日本国民に塗炭の苦しみをもたらした『A級戦争責任』と重なることは間違いない。
 彼らの引き起こした戦争が、東アジアの人々に、様々な惨害をもたらしたことも確かだろう。
 こうした経緯を考えれば、靖国神社が天皇参拝を復活させようと望むなら『A級戦犯』を分祀するしかあるまい。
 しかし、
靖国神社が神道の教学上、どうしても分祀できないということであれば、 それも宗教法人としての固有の選択である。その選択に政府が関与することは、憲法の政教分離の原則に違反することにもなろう。
 ただ、こうした靖国のあり方、新たな国立追悼施設建立、あるいは千鳥ヶ淵戦没墓苑の拡充などについての広がりを避けがたい
ものにすることになるのではないか。
中央紙で『読売』『産経』新聞といえば、右派に属する。 慰安婦問題の論調も軍が関与した事実は『記録にない』などとし硬派の論調に終始する。
歴史の暗部を見据えて(渡邊恒雄)
『自存自衛』を唱えながら、戦線を拡大し南はニューギニアから南太平洋の島嶼*5に何百万という兵員をばらまいた。 彼らは上陸と同時に補給路を断たれ、ほとんどの兵はジャングルの中で飢え斃死にした。 戦後、彼らの内で祖国の土を踏めたものは1割程度という。 靖国神社はこの多くの野たれ死にした兵士を『英霊』と呼び、『御遺徳を顕彰』するとする "社是" には見逃すことのできない、 戦争を美化する作為と欺瞞がある。 あれだけの兵士を無意味な餓死という死に追いやった戦争 発起と戦争指導上の責任の所在は『英霊』という呼び方からは浮かび上がってこない。  兵士たちにずさん極まりない作戦を強いた軍中枢部を恨んで空腹のうちに息を引き取った彼らを "英霊" と呼ぶ欺瞞を許してはならない。 誰が、あれ程の無意味な死を強制した責任の追及を放棄したのか。今からでも遅くはないこの問題をキチント検証することが、国際貢献が叫ばれる今こそ我々に課せられた最大の課題であろう。
当Webサイト閲覧者の方へ。もし、少しの時間がとれるなら『魂鎮への道 無意味な死から問う責任 飯田 進/著 不二出版 1997/04』 を読んで頂きたい。 共通認識にたち、靖国の問題を論じたい。
肉親が祭神にもなっていない小林某なる人物が「新ゴーマニズムなんとか靖国論」なる本でしきり煽っている。 危険な兆候を憂慮する。欺されてはならない。
*5 日本軍は太平洋の島嶼25に守備隊を配置した。 実際米軍が上陸占領した島は10島である。 残りの島に放置された人間は16万人。彼らのうち4万人近くは、米軍と戦うことなく飢えと 栄養失調と病気で死亡した。 なお輸送途次、輸送船で撃沈され戦没した陸軍関係者は17万6千人に及ぶという。 これが、米国との開戦を決めるとき、海軍軍令部永野修身総長が戦争だから『多少の損害』は あるでしょう。の答えだった。 彼には17万6千人が少しだったのだ。  『大本営参謀の情報戦記 堀栄三/著 文春文庫 1996.5』
米軍が上陸占領した島 (順不動)
@ガダルカナル Aタラワ Bマキン Cクエゼリン Dエニュタク Eアンガウル Fペリリュー Gグアム 
Hテニアン Iサイパン  トラック島は大空襲を受けたものの占領されず終戦を迎えた。 
硫黄島は日本領土で除く


太平洋戦争取材班
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