渡邉恒雄(読売新聞・主筆)下劣で戦争犯罪組織と化した海軍
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強制された名誉の戦死への道程
海軍特攻部長 昭和19年(1944)年9月13日任命 中将 大森仙太郎
昭和19年(1944)10月1日 人間爆弾桜花使用の目的をもって721航空隊編成。
昭和19年(1944)10月19日 神風特別攻撃隊を編成。
昭和19年(1944)10月20日 第一航空艦隊司令長官大西瀧治郎着任。
昭和19年(1944)10月21日 以降成功の25日まで特攻出撃を繰り返す。
昭和19年(1944)10月21日 特攻出撃の久納好孚中尉未帰還。
昭和19年(1944)10月25日 発ダバオ 菊水隊(加藤豊文),朝日隊(上野敬一),07:40 護衛空母に突入。
昭和19年(1944)10月25日 発マバラカット 関行男大尉 11:15 米艦突入成功。 大々的報道と全軍布告
世界の海軍にあって最も下劣で戦争犯罪組織と化した海軍をほかに知らない。
渡邉恒雄(読売新聞・主筆)氏は、『人間を物体としての兵器と化した軍部当事者の非人間性は、日本軍の名誉ではなく 汚辱だと思わざるを得ない』と言い切る。 これを誰が否定しえようか。
狂気の海軍は九四式水上偵察機という全時代の複葉機まで特攻に使った。もちろん操縦席は露出で風防はない。 巡航速度は100Kt。JRの新幹線より更に遅い。香川詫間に水上機基地があった。この隊が特攻を命じられた。 4月28日*1(菊水4号作戦)、琴平水心隊と名付けられた少尉安田友彦(予備学生)に率いられた2機は22:30指宿を出撃した。 戦史叢書沖縄方面海軍作戦頁456で水偵8機の特攻を14:15〜16:05行ったとあり、 同頁460で水偵6機引き返す。未帰還2。同附表2で未帰還者数5。が初見である。 3人搭乗できたので1機は2人だった。この隊の悲劇はこれで終わらない。
九四式水上偵察機 5月4日(菊水5号作戦)で琴平水心隊・一魁隊名称で零水偵5機、九四式水偵23機が特攻指名された。 結果両隊で零水偵4、九四式15、搭乗員40人が未帰還となった。この攻撃隊で学徒だった少尉小林三樹太郎は生き残った。 小林らは4機編隊で南下したが小隊長機が燃料不足を起こし編隊全機古仁屋基地に着水した。今度は菊水6号(5月11日)で6機出撃に組み込まれたが、 エンジン不調で離水できずに出撃中止。未帰還2(5人戦死)だった。
不思議なことに附表2でわざわざ出撃しても未帰還機のない場合は本表から除外と断っているのに、 頁495 5月以降の沖縄作戦では水偵6、未帰還2、布告154で掲載されている。
*1 押尾一彦/著特別攻撃隊の記録海軍編頁238 でこれを29日としている。2機5人が突入している。
四国香川詫間航空隊通称零観及び九四式複葉航空機特攻集計
出撃日出撃時刻出撃数突入数帰還機数戦死者数備    考
4/2822:30220 51機2名。1機3名
5/0414:002810922 
05:30-06:00918一魁隊か?
5/1104:006245 
5/2814:0015312 72機2名。1機3名
6/2518:00-19:00102 8 5 1機2名。1機3名
6/2702:0011 01(奄美古仁屋発)
6/2805:3011 03(奄美古仁屋発)
戦死者数61 
小林はここでも生き残った。 やれやれと思ったことだろうが狂気の海軍は彼を許さない。5月27日菊水8号作戦水偵2機の内の1機(23:00〜24:00・別途13機)に組込まれた。 今度は整備員のヘマで給油量を間違え手間取る間に天候悪化し出撃を取り消された。九四水2、零水1機が未帰還特攻不成功と戦史叢書はつれない。
すでに沖縄戦も終盤になり小林は命拾いした。彼は操縦員でもなく単なる突入の相伴役だったが、よく精神に異常を来さなかったものだと感心すると同時に狂気の海軍を見る。 政治は軍部に従属していたからこの様な状況を変えられる人間は天皇しかいない。天皇は最初の特攻を聞いて、そうかよくやった。だから軍部の暴走が始まった。
小林の不可抗力の幸運とは別に、琴平水心隊の悲劇は続く、翌5月28日水偵15(13)機(14:00)が出撃。3機7人が突入。12機が帰還した。この水偵隊の特攻は更に続く。 6月25日水偵10機。突入2機5人戦死。8機帰還。 この28日に12機帰還しているが6月25日水偵10機はこの帰還組であろう。引続き6月27日、28日と1機づつ奄美大島古仁屋から特攻に出されている。 合計12機である。5月28日出撃の帰還機数と符合する。帝国海軍の恥のような航空機で一度指名したら不可抗力であろうと生き残りを許さなかった。
詫間水偵基地に特攻機30機の指令があったのであろう。都合30機が特攻で亡失している。幸運な小林三樹太郎は生き残ったが、彼らに替わる不運な人間がいたはずである。
6月25日琴平水偵隊は10機特攻を出している。続いて6月27日、28日に一機つづ奄美古仁屋から出撃。おそらく25日の出撃でトラブルに見舞われ古仁屋に着水したと考えられる。 戦史でこの両日は雨。この機が九四式なら風防はない。 また、この2機で特攻の予定終了となる。死んでもらわなければ困ったのであろう。戦史に残る名、二飛曹杉田巽、上飛曹竹安末雄、二飛曹中村敦他1名の勇士に心からの哀悼の誠を捧げる。
このように特攻を個別に精査すると、悠久の大義という文言が空々しく聞こえる。多くの若者は生きたかったはずである。30機特攻機を出せ!。30機特攻で亡失。よって予定終了。沖縄戦から菊水航空特攻作戦が開始された。 6月25日以降、複葉機や機上練習機白菊の特攻など、 どのような意味があるのか? さすがにこの日以降附表2で宇垣特攻を除き103機出撃しているが48機も帰還している。 現場もこのおぞましい人間損耗に倦みたのであろう。これに関して戦後も関係者は一切口をつぐんでいる。
もう一つの悲劇を紹介しよう。第12航戦水偵隊である。戦史から
6月21日 23:30 指宿 水偵8機発進。 5機突入 3機帰還。
6月25日 22:30 古仁屋 水偵1機発進。 1機突入。
7月 3日 02:00 古仁屋 水偵1機発進。 1機突入。
差引き1機は特攻しなかったが、6月21日発進した帰還3機の内2機は古仁屋で整備し特攻出撃したものであろう。残った1機の消息について戦史は伝えていない。 この項の記述は[特攻総決算 永沢道雄/著 2004/11/3発行]を参考にしながら戦史叢書沖縄方面海軍作戦で検証した。

戦史叢書沖縄方面海軍作戦頁526 5月27日零水偵11、零観4としているが、附表2集計ではこれを5月28日としている。よって本集計では28日とした。
戦史はまた零水偵の過重搭載(爆弾重量)での離水はさらなる訓練を要するとし、計画的特攻を行おうとすれば潮汐など諸般のことを 考慮しなければならない。と書く。 当然である。この機体ほど特攻に不向きな航空機は存在しない。小林三樹太郎が古仁屋に着水したとき、基地司令はこのような航空機で特攻すれば海軍の恥だと 吐き捨てるように呟いたという。
複葉機での特攻や機上練習機だった白菊の特攻にどんな意味があるのか?  統帥の外道を通り越しもはや作戦ではない。搭乗員養成に使われる機体が単に搭乗員強制殺戮に使われた。このような仕組みと命令した者こそ真の戦争犯罪者である。 最後の水上特攻第二艦隊司令長官伊藤整一は軍令部次長時代に特攻作戦にゴーサインを出している。 人間のクズの一人である。
琴平水心隊にしろ九四式複葉航空機による特攻にしろ海軍兵学校出身者は皆無である。特攻が下からの自然発生的に生まれたというなら、なぜこのような最も特攻に不向きな機体での特攻に兵学校出身者はいないのか説明が必要だろう。 戦後非公開として海軍軍人の反省会が開催され証言録海軍反省会として2009年8月に発刊された。問題提起は野元為輝(兵44期・海大27期、少将)である。昭和19年12月15日以降第903空司令を務めた。証言録頁501 特攻作戦の項。
空中(航空・桜花)、水上(震洋)、水中(回天・伏龍)各特攻隊員の選定は各志願者の熱意と身上調書よってこれを認めるとしても・・・・・以下略
特攻隊員は志願者の熱意だった。としている。ならば兵学校出身者はまさに国が倒れんとしているにも係わらず熱意がなかったことになる。彼らのような人間のクズに年金を与え続けたこを悔やむ。

『特攻からの生還:知られざる特攻隊員の記録 鈴木勘次/著』  同書 頁151
甲飛12期生。1945年(昭和20年)4月17日、出水基地より第八銀河隊として単機出撃。標的を外れ着水。米軍の捕虜となった。 同書より
「いよいよ発進命令が出た。滑走路の飛行機に向かって進む。飛行場の外れにあるわが機は ガゲロウに、ゆらゆらと浮き上がってみえる。飛行機が遠くにあるのが、ありがたかった。遠くにあればあるほど 地上に長くいられる
彼は奇跡の生還を果たした。 遠くにある機体まで歩く命を必死にみつめていた。
彼は、その著書で列機の整備の遅れで待たされたあげく単機出撃としている。公式記録ではこの日出水出撃予定銀河は3機。銀河の乗組員は3人だが全軍布告(布告232)特攻死は2人。

悪夢の墓標:第14期海軍飛行予備学生 杉山幸照 海の歌声;神風特別攻撃隊昭和隊への晩歌
昭和20年(1945年)の春、手折りの紙飛行機のごとく、最も多く特攻機が鹿屋特攻基地から飛ばされた。 野里小学校の仮宿舎の中で、出撃の順番を待つ同期の搭乗員たちの、ひきつった蒼白な顔を、 今でも一人一人克明に思い出すことが出来る。すでに拒否することも許されず、脱走することもできない。
生命あふれる肉体をもちながら、ただ国家のためというだけで、死の順番を待っている若者の心境を、何人が想像し、 理解することが出来るだろうか。
特攻隊員が、現地で特別待遇をうけ、特別の寝食を与えられていたと、想像されている人々が多いのに私は驚く。 特攻隊員の宿舎は、一言でたとえれば、屠殺を待つ牛の群れであり、生き地獄だったと評しても過言ではなかった。
宿舎の屋根は、穴だらけで、雨水が飛び散り、毛布を抱えて、雨を避けながら部屋の片隅にかたまって仮眠する哀れな特攻隊員たちの姿を、人々は想像できるだろうか。
海軍の参謀たちは、すべて兵学校出身者であり、特攻隊員のほとんどはすべては、予備学生と、予科練生である。 海軍では、兵学校出身者以外は、軍人扱いしないばかりでなく、人間としても軽視した。優しさなど一かけら も見せず、ののしり罵倒するだけであった。
予備学生は、軍人精神がまるでなく、飛行技術も未熟だとののしられながら、離陸すらやっとの整備不良の零戦に乗って出撃させられたのである。 そして彼らは特攻兵の宿舎は陰気だとして 寄りつきもしなかったという。 嗚呼・・・・ これが兵学校生徒のなれの果ての実相だった。
杉山氏は真実を語っているであろう。それでなければ兵学校出身者の少ない理由が説明つかない。
意識的作為で兵学校出身者は特攻に行かなかった。兵学校出身者の特攻者を勘ぐるとどこかで上層部と衝突した人たちだったのであろう。 例えば、予備学生や予科錬生と人間的付き合いをした方たちだったのかも知れない。
進む 中央公論 渡辺恒雄氏 "なぜ今 戦争責任か" 抜粋はこちら    人間爆弾桜花開発小史はこちら

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