海軍の戦争犯罪 源田 実は人命軽視の超国賊
海軍の戦争犯罪 大森仙太郎特攻部長選任 源田実は素早く乗った。   進む 海軍の非人間性+戦争犯罪
特攻、この非道な作戦
 陸海軍あわせて 5,845人、航空特攻で 3,948人が死ぬことを強制された。 一人ひとりに両親があり、兄弟・姉妹があり、妻や子があったと思う。一人ひとりに、喜びがあり、希望があり、弾けるような命があったはずだ。そしてなによりも生きていた。 海軍の特攻 4,156人、そのうち士官はたったの 116人2.79%しか記録されていない。戦争が彼らの命を虫けら同然に扱ったのではない。海軍という組織が彼らの命をボロ屑の如く弄んだに過ぎない。 組織はそれだけでは何もしない。その組織を動かしている人間がいる。 その最右翼が源田実であり、真珠湾航空攻撃飛行隊長だった淵田美津雄らであった。
 昭和20年4月7日、海軍に残っていた戦艦大和以下、僅かな艦隊が坊之岬南西海上で潰えた。既に海軍の名に値しない組織であり、沖縄の地上戦も断末魔を迎えんとしていた。
 5月26日日本軍守備隊が壊滅し、陸軍参謀本部は沖縄諸島方面での継戦を断念した。沖縄戦は戦う意味さえなくなった。 そのような情況にもかかわらず、海軍軍令部はなお戦闘に固執し、白菊という練習機まで投入して菊水作戦を継続した。
 昭和20年5月24日、海軍串良航空基地に徳島空白菊機上練習機14機が列べられた。串良から沖縄まで約600Km。白菊はこの海域まで5時間飛行しなければたどり着けない。
 昭和20年7月29日、台湾の新竹基地から宜蘭基地を経由して、石垣島へ。 石垣島から宮古島へと移動した属に赤トンボといわれた陳腐な複葉機五機が飛び立ち帰らぬ人となった。
源田 実は第一航空艦隊 司令長官大西瀧治郎宛に
  彼が比島到着するより前に一通の電文(1944/10/13)を起案した。
神風攻撃隊ノ発表ハ全軍ノ志気高揚竝ニ国民戦意ノ振作ニ至大ノ関係アル処、各攻撃実施ノ都度、 純忠ノ至誠ニ報ヒ攻撃隊名(敷島隊、朝日隊) ヲモ併セ適当ノ時期ニ発表ノコトニ取計ヒ度・・・・・
神風特別攻撃隊の隊名とその発表について注文をつけた。当時源田は軍令部の航空作戦参謀であった。
この電文の文言に軍令部が考えていた意図が読み取れる。すなわち、この捨て身の特攻が成功しなくても、発表のしたかによっては国民の戦意鼓舞に大いに役立つ。これにより、彼らは戦争に勝つことよりも戦争を続けることに意味を見いだしていたといえよう。 若者の死を自らの栄達につなげようとしていたようにも見える。

淵田美津雄
昭和20年4月6日から始まる最大の航空特攻は真珠湾攻撃飛行隊長だった淵田美津雄が取り仕切った。 4月2日GF参謀長草鹿龍之介,艦隊参謀三上作夫と同道した。淵田の死後遺稿が発見され『真珠湾攻撃総隊長の回想 講談社;2007/12』として刊行されたが航空特攻を取り仕切りながら謝罪と反省の言葉はない。 特攻は冷静に誰が考えても用兵にあらず作戦にあらず!。 非人道的なもので犯罪行為であり企図した者たちは犯罪者であろう。

田実は人命軽視の超国賊。戦後事もあろうに日本を焦土とした非人道的都市無差別爆撃を指揮したカーチス・E・ルメイに国家最高の勲章授与を推進した。     大ほら吹き源田司令第343空撃墜機数のウソ
源田 実 源田最大の大罪はこちら。   海軍の戦争裁判(B,C級)総数はこちら
あの惨敗を喫したミッドウェイ海戦の大敗は源田の進言による。 この第一機動部隊はもっぱら源田艦隊と呼ばれるほどのさばっていた。
防衛庁(省)防衛図書館 昭和18年(1943)5月3日付タイトルは「戦訓二依ル戦闘機用法ノ研究」
「戦闘機ト雖(いえど)モ将来機ニ対シテハ防御ヲ考慮スルヲ要ス。 空戦ニ於イテ戦闘機ノ被撃墜機ノ大半ハ火災ニ依ルモノナリ。故ニ火災ヲ防止スルヲ得バ、 現状ヲ以テシテ戦闘機ノ戦闘能力ハ脅威的ニ向上スルコト些(いささ)カノ疑念ナキ所ニシテ、以下 略」
現場は一撃で火災の発生する機体とそれによるパイロットの搊失に悲痛な声を上げた。 現場の声を無視することも出来ないので、早速技術検討会が開催された。その会議に源田 実(当時中佐)がいた。 「がたがた現場は云うな、大和魂をもって腕をあげる訓練を繰り返そう」 更に1機でも多く製造し前線に届けるべし!。と大演説を始めた。 会議場はしらけ以降海軍で火災消火装置+防弾構造を施した機体の製造と研究がなされることはなかった。 腕をあげるための訓練用ガソリンも枯渇した。 攻撃優先,防御軽視の海軍において、全体としてとりあげる機運さえなかったのが本音であろう。  この件以前の1942年6年5日ミッドウェイ海戦の大敗北の元兇は彼だった。
航空潤滑油も枯渇し航空機も粗悪品だらけとなり、概ね25%程度(4機に1機)は機器が故障し本来の目的を達し 得ないまでになった。
* 1944年3月完成の零戦52型乙に至って胴体タンクに自動消火装置と乗員保護防弾ガラスを装備した。
  1944年末に製造を始めた丙で乗員保護防弾鋼板取付。並びに胴体内タンクを内袋式防弾タンクとした。
  だが、エンジン出力が同一だったことで速力低下等を招き、不評で取外すケースが多かったという。

参照: [エレクトロニクスが戦場を制す]所載 NHK取材班/編(H6/1/10発行)
戦闘詳報12号(第732海軍航空隊)
 (イ)飛行機ノ性能、特ニ火力及ビ防禦(ぼうぎょ)(主トシテ火災防止)ニ於イテ甚ダシク劣ルコト。
  ここでも悲痛な現場の声があがるが、海軍首脳部は取りあげもしなかった。
マリアナ沖海戦
現場の声無視の、その付けを直ぐに支払わされることになる。昭和19年(1944)6月19日から マリアナ諸島沖とパラオ諸島沖で第58任務部隊と海軍の第三艦隊 第一機動部隊が激突した。小沢治三郎中将は、日本海軍の艦載機の特徴である航続距離の長さを活かし、 アメリカ艦載機の作戦圏外から攻撃部隊を送り出すという独自の戦法(アウトレンジ戦法)を採用した。 しかしながら、レーダーを活用した防空システム(空戦誘導システム)による戦闘機の迎撃、 また近接信管(VT信管)を搭載した対空砲弾の増強などにより、日本海軍の攻撃隊は大半が阻止された。人間を研究したこともない海軍高官は、 パイロットの緊張がどの程度長時間保持できるかも知らず、米撃滅確実との皮算用ばかりしていた。 源田 実提言の大和魂は科学技術の前に吹き飛んだ。
源田 実がいう大和魂の先に航空特攻があったは大嘘。 航空特攻の嚆矢は大西瀧治郎とされているが彼は現場の司令官で特攻主導の首魁は軍令部次長の伊藤整一であり、航空作戦参謀の源田 実らであった。 菊水作戦頃に入ると、特攻機パイロットの技量は低く、出撃・実線経験も積んでいなかったため、 初めて目にした米軍小型艦艇を大型艦艇と見誤ってか小型艦艇に多く特攻した。
源田のいう『大和魂の先に航空特攻』があった。という話は、外道の作戦をこれにより正当化しようとしたに過ぎない。たんなる弁解である。 正々堂々とした作戦なら、大和魂もクソもなく胸を張れるではないか。戦後特攻死を命じた、または編成した司令、飛行長などの自己正当化が目立つ。すなわち特攻隊員を責めてくれるな。
1944年10月台湾沖航空戦での過大戦果報告も同じ 写真(左):1944年11月25日,空母「エセックス」に突入する艦爆「彗星」;Photographed by Lt. Comdr. Earl Colgrove, USNR. U. S. Navy Photo. 「彗星・2座」は爆弾搭載量500キロで、全備重量4.5トンの急降下爆撃機。
<= 揚力を高めるためか主翼フラップは大角度である。
搭乗員の練度と特攻機の有効性
日本の特攻機搭乗員たちは、燃料不足のため、大型艦艇を目標に攻撃訓練することも、 十分な燃料で飛行訓練をすることもできなかった。特攻隊の世話をした知覧高等女学校勤労女子学生の日記には、 特攻機の故障、不調の話が何回も出てくる。(知覧は陸軍基地)
空母や戦艦を捜索して,敵の警戒網を突破し特攻することは,旧式な中古機に乗った 未熟な搭乗員には不可能に近かった。(練習機の白菊まで特攻に使われた)
航空機は3トン以上あるが、剛体ではなく、突入速度も時速500-680km程度にすぎない。高空から自由落下する剛体の爆弾や砲弾は高速であるが、 急降下する飛行機に縛り付けられた爆弾は低速で、衝撃力は小さい。
戦艦ミズーリ突入零戦 米軍大型艦艇に、特攻機が命中しても、沈没することは少なかった。 寄木細工のように軽く華奢なジュラルミンの航空機は、体当たりしても、 鋼鉄の艦船に大打撃を与えられなかった。左舷側に特攻を受けた米戦艦ミズーリはその部分の フレーム159~165の間3mほどが少し凹んだのみ。なぜか爆弾が爆発しなかった。 そして、 日本側に見せつけるためか、そのままの状態で東京湾での降伏調印式に使われた。
「君は6時間後に死ぬ」という本が人気('06/05)だが、「君は6時間後に死ね」と命じられた若者がせめて自分の死に意味を見いだそうとして、もがき苦しんだ先に「俺は君のために死んでゆく」があった。 どこかの国の首都の知事が一人ではしゃぎ、若き特攻兵を母親代わりに世話をしたとかいう女性の銅像を建てようと躍起。その女性、出来ない相談かもしれないが、複座に忍び込んで特攻はしなかった。 彼女の銅像建立より、あの非人間的な特攻を誰と誰が推進したのか、千年程度消えない碑に名前を刻み建立すべきだ!。 それこそ人権に反するテ・・。 笑止千万却下!。
彼女の銅像を建てるより先に犯罪組織帝国海軍の責任を検証すべきと小生は考える。
沖縄戦(1945/04/01)に入るや菊水作戦の名の下に志願で入隊した青少年 (現在の高校1年生程度) を司令の武勲を誇るための人間爆弾とした。軍統帥部は若者を単なる消耗品とし、練習機「白菊」まで特攻機として使われ16歳から25歳の青少年たち52人が不条理な死を命ぜられた。
この程度の航空機での特攻が有効であるかどうかというテスト(若者の命)に使ったと戦後の戦史にある。 自分の子供をテストで殺せるのか!。海軍上層部に深い憤りを覚える。 白菊の最初の特攻は1945年5月24日(鹿屋・高知空)が最初。 特攻隊の司令たちは、一機一艦を屠ると取らぬ狸の皮算用ばかりしていた。生を断ち切られる若者の無念さと、残された肉親の深い嘆きと悲しみを、思い遣る心さえ持ち合わせない卑劣漢や冷血漢らであった。
これらの若者を死に追いやった加害者と、被害者の若者が同じ靖国神社に祭られることを筆者は許さない!
戦艦「大和」の46センチ砲弾1発の重量は1.46トン、炸薬は36Kg、砲弾速2,826km/h (秒速785m) であるのに対して、特攻機1機は、爆弾250-500Kg、全備重量3.1~4.5トンと大和主砲の2倊の重量がある。 しかし、特攻機の突入速度は600Km/Hr程度と遅く,  機体は剛体でないため、艦船に命中したとき壊れてしまい、破壊・衝撃力は、 砲弾や投下された爆弾よりも遥かに小さい。戦艦大和の46センチ主砲弾よりも大きく重い特攻機と搭載する爆弾が艦船に命中しても、大和主砲よりも、爆弾投下によるよりも、破壊力は小さなものだった。
「白菊21型」固定脚 5座 搭載爆弾30Kg×2発, 巡航速度176Km, 重量2,644Kg。
後続距離350浬(648Km) 鹿屋から飛び立ち喜界島南方海域で敵を発見できなかったら何所にも戻れなかった。
前掲の写真は1945年4月11日12:30すぎ鹿屋発進の第五建武隊四区隊13機の内1機が 14:43 ミズーリ右舷後部120° より接近し激突した。すでに爆弾は装着されていなかった。突入は石井兼吉二飛曹(3番機・丙17)か石野節雄二飛曹(4番機特乙1)とされている。 さらに絞り込んで99パーセントの確率で石野二飛曹(19歳)だという。 決め手はミズーリに残った13mm機銃だという。 爆装していなかったので操縦者の上半身が甲板に残された。 遺体は水兵三人の不寝番をつけ医務室に安置された。 翌4月12日09:00「ミズーリ」艦上ではキャラハン艦長以下多数の乗組員により、米海軍葬礼の五発の弔銃が発射され水葬された。
キャラハン艦長は突入を受け、冷めやらぬ興奮状態の乗組員に 「この日本のパイロットは我々と同じ軍人である。 生きている時は敵であっても、今は違う。烈しい対空砲火や直衛戦闘機の執拗な攻撃をかい潜って、 ここまで接近してきたパイロットの勇気と技量は、同じ武人として称賛に値する。 よってこのパイロットに敬意を表し明朝水葬にする」と告げた。
伝えられる、キャラハン艦長の人間愛と、卑劣な Imperial Navy 首脳部のどちらに、あなたは人間としての暖かみを感じるだろうか。
詳しくは「戦艦ミズーリに突入した零戦・加知 晃/著・2005年5月21日発行 光人社」ご参照下さい。
二十歳や一九歳で命を絶ったこの両士に深い哀悼の誠を捧げる。 更に、中澤黒島源田を許さない!。
源田は戦後も饒舌だった。再軍備の中で航空自衛隊空幕長にまで登りつめた。そして参議院議員となる。 あの捷一号作戦で全艦隊を囮艦隊として、見事その損な役割をこなした寡黙の提督小沢治三郎はひっそりと生きた。 法螺を吹きまくり、ミッドウェイ海戦の大敗北を引き起こし、更に、航空特攻を推し進め、戦後特攻のことを聞くと、その饒舌は消え憮然とした態度だったと伝えられている。
源田は国賊。民族の恥。
空幕長に登りつめた源田は、こともあろうに米戦略爆撃機で都市無差別(市民殺傷)爆撃と非人道兵器である原子爆弾投下を指揮したカーチス・E・ルメィに日本国最高の勲章授与を働きかけ実現させた。 民族をこれほどコケにした人間を源田以外に筆者は知らない。
-- 潤滑油について --
海軍は燃料と潤滑油のほぼすべてを米国からの輸入に頼っていた。南部仏印進駐(1941/7)による米国の禁輸と軋轢が強まる中で、急きょ潤滑油の開発と製造が開始された。  実際のところ、どの程度のグレードと特性を持った潤滑油を生産し供給できたのか「海軍燃料史」を読んでも判然としなかった。 内燃機用潤滑油でも ガソリンエンジンとディーゼルエンジンで同一性状のものは使えない。軸受け潤滑などまた別の性状でなければならない。海軍が誇った九三式酸素魚雷も、敗戦前には製造できなくなり、一世代前の魚雷に逆戻りしている。 熟練工(徴兵)の不足と潤滑油の問題があったと考えられる。兵器は戦争中でも進歩するものだが、 退歩した若しくは逆戻りした軍隊は、 人類に戦争が始まって以来日本海軍が軍事史上でも希有の例かもしれない。
特攻機も多くエンジン不調でひき換えすか、不時着している(25%程度)。 これも潤滑油にその問題の要因があったような気がしている。当然日本国内と熱帯で同一の潤滑油は使えない。  国内製造潤滑油が本当に使えるようになったのは、石油民族系 I社 が1980年代にリリースした10W-30(テン・ダブリュ・30)の潤滑油からだった。  当時の日本国内で夏冬通期で使える潤滑油が始めて出現した。それ以前は、冬は冬用、夏は夏用の潤滑油に交換する必要があった。  また駆動軸のプロペラシャフトにも潤滑油注入ニップルが付けてあり定期的に補油する必要もあった。  当然のことながらトランスミッション(変速機)やデフレンシャル機構(側輪の駆動)の潤滑油も定期交換が必要だった。 ではなぜ最近の車輌は女子供でも乗れるようになったのか。 それはひとえに潤滑油の進歩による。 おそらく、多くの女性ドライバーがエェーそんなところに油が必要なの?知らなかったー。の声が聞こえそうである。
魚雷が逆戻りした考えられる理由は二つ
熟練工員が徴用で生産現場から去り、もう一つは高純度の潤滑油が枯渇した。
近代戦は、兵隊が鉄砲を撃つだけでは戦えなくなっていた。  現在も掃いて捨てるほどの戦記ものWebサイトがあり、 艦隊決戦だの航空戦だの勇まし限りだが、潤滑油と兵器の相関について書いたものを見ない。 航空機に防御構造が無いだけでなく、エンジン不調(工作精度+潤滑油)により、現場のモチベーションの低下なども見過ごされない問題だったはずだ。  潤滑油 ここで。  航空燃料と潤滑油 こちら。
 ■ 海軍燃料史にみる航空機潤滑油   国内生産の状況,徳山・四日市燃料廠
1、 徳山工場溶剤抽出法(第三海軍燃料廠)
 第1抽出工場 試運転終了 昭和15年10月
 液体プロパンを用い脱瀝青(アスファルト分を除く事)及脱蝋し液体プロパン及石炭酸クレゾールを用い抽出の上真空蒸留、白土処理を行うもの
 第2抽出工場 試運転終了 昭和17年6月
 第1抽出工場と同力量、同形式であるが、脱蝋方式をプロパン脱蝋に代わりバリゾール式脱蝋方式を採用し、作業工程は脱瀝青(アスファルト分を除く事)、抽出脱蝋の順序とす。
 真空精製装置 試運転終了 昭和15年3月
 (他に廃航空鉱油、廃混合航空鉱油及廃カストル油(ひまし油)処理装置の作業系統もある)
 運転成績
(1) 国内始めての120番航空鉱油の生産に成功した。
(2) 昭和16年春頃より製品の出荷を開始し、緒戦の要望に応えた。
(3) 終戦迄の製品総生産量は約10,000竏に達し、大東亜戦争における海軍鉱油の推定消費量の凡そ60%を賄った。
(4) 本装置で生産の航空鉱油には添加剤を使用しなかった。

2、 四日市工場溶剤抽出法(第二海軍燃料廠)
 第1装置(グーブロ式真空蒸留装置)
 第2装置(脱瀝青(アスファルト分を除く)、抽出)徳山工場参照
 第3装置(脱蝋)
 第4装置(白土精製)
 運転成績
(1)昭和18年10月完成した。
(3)年原油80,000竏処理し、2,000竏の航空潤滑油を生産(実数は上明)。
(4)廃航空潤滑油も再生。
3、 四日市工場合成潤滑油製造(第二海軍燃料廠)
 本法は精汗蝋又は粗蝋を気相熱分解してモノオレフィンを作り、これを塩化アルミニウム触媒の存在下において接触重合することにより航空潤滑油を合成するもので、バリックパパン第百二燃料廠の装置に改良を加え設計し、昭和18年5月起工、19年4月完成した。
 年粗蝋20,000竏処理し、航空潤滑油4,000竏を生産(実数は上明)。

海軍燃料史には次の記述がある。
潤滑油添加剤  航空発動機の馬力の増大に伴い潤滑油は次第に高温高圧を受ける様になり、これらの苛酷条件の下に粘度、粘度指数、安定度、炭化分、凝固点等の各性質に対する要求を一種類の油を以て同時に充たすことは困難であるから単に要求する性質を向上する添加剤が必要となった。昭和15年より航空潤滑油の酸化防止剤と油性向上剤の研究が行われ、酸化防止剤としてはトリクレジルホスファイトとトリクレジルホスフェートの混合物は天然鉱油に対し実用された。
この記述で見る限り開戦直前にはじめて国内生産による航空機用潤滑油が製造でき、国内使用量の60%で残りは米国から輸入しストックのあった潤滑油で戦ったことが判明する。 その後の熾烈な航空戦で潤滑油の枯渇?が始まったのか?第二海燃(四日市)で航空機用潤滑油が製造できるようになるのが昭和18年(1943)10月、開戦2年目を迎える段階である。 ご存じのように昭和19年(1944)に入ると占領した南方からの原油還送が上可能となり、かつ南方原油は必ずしも潤滑油製造には適していなかった。
海軍燃料史で120番航空潤滑油の性状について記述されていないし、航空潤滑油に「ひまし油《が使われたであろうことが推察できる。ひまし油は現在普通に使われている自動車用潤滑油より、 高い粘度を有しその使用によって高出力が得られたとも思えない。
 ■ 徳山海軍燃料史にみる航空潤滑油生産データ       (同誌単位:バレルをKLに直す)
単位/年昭和16年昭和17年昭和18年昭和19年昭和20年
生産量(KL)4,006.80 12,036.30 7,075.50 4,134.00 863.37 28,115.97
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元山航空隊 航空特攻 予備学生の墓場   航空特攻 逃亡と無能な陸海エリートたち   なぜ、今、戦争責任の検証か。渡邉恒雄   渡邉恒雄(讀賣新聞・主筆) 下劣で戦争犯罪組織と化した海軍

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