海軍の戦争犯罪 誰が航空特攻を主導したか 科学音痴海軍兵学校出身者
特攻怒りと哀しさと
戦艦大和TOP
特攻【海軍の戦争犯罪】特攻の時代と特攻隊員の遺書。
海軍【戦争犯罪】源田 実は人命軽視の超国賊。
天一号【菊水作戦】と米軍艦艇の損害。  昭和20年4月6〜7日。
逃亡【逃亡と無能】陸海軍エリートたち。
逃亡【元山航空隊】司令であったのに敗戦確実と知るや兵を置き去りに逃亡。
汚辱【最も下劣】戦争の歴史に消えない汚点を残した帝国海軍。
強制【名誉の戦死】への道程。
 特攻は作戦にあらず用兵にあらず。  特攻 悲しき歴史
山本親雄
【山本親雄】
昭和19年2月の段階で、海軍省軍務局岡敬純,海軍大臣兼務軍令部長嶋田繁太郎(S20/2/21付),伊藤整一軍令部次長,中沢佑軍令部第一部長,山本親雄(ちかお)第一課長ら軍政、軍令トップは必死特攻兵器「回天」の試作命令を出した。 彼らは戦後詭弁を弄したりダンマリを決め込む。中沢佑はこともあろうに特攻は大西瀧次郎が言い出しっぺとシラを切る。
昭和19年 (1844)に入り戦局の態勢挽回が絶望的になった3月
海軍省軍務局は人間魚雷3基試作を支持した。
強制した戦死(特攻)に息を吹き込んだ卑劣漢ら
黒島亀人 軍令部 第二部長(軍備担当) 黒島亀人 (任期 1943/7/19〜1945/5/26)
1944年(昭和19年)4月4日、特攻兵器に対する要望(作戦上急速実現を要する兵器)。
(イ)体当り戦闘機。 爆装零戦で特攻実現。
(ロ)小型にして飛行機における戦闘機の如き潜水艦。 海龍(海竜)全長17.28m  昭和19年6月・完成224隻、乗員2人で実現。
(ハ)走行爆破艇 艇首に一屯(爆薬)以内。 震洋1型として全長5.1m 昭和19年5月製造。
 この時期、この男をこのポストに付けたことが日本の不幸であった。 この部局に、第三課(軍備・兵器)と第四課(出動・動員)があった。第三課が考え出した兵器は漫画チックで話にならないものばかりであった。 結局彼が率いる部局は特攻兵器製造に狂奔する。
 昭和18年(1943)9月18日 - アメリカ機動部隊がギルバート諸島を空襲。この時、零式艦上戦闘機の強敵となる F6F が戦場に出現する。 零戦神話はずるずると崩れて行く。 F6F に対抗するためではなかったが、昭和18年4月に次期戦闘機「烈風」の試作が始まる。国力の無さが災いする。 戦局が守勢に傾くや、軍令部第二部は局地戦闘機に熱を入れる。雷電、紫電、紫電改などの量産と特攻兵器量産に血眼になる。
震洋艇
ベニア板で造られていた。これも絶対死前提である。人の命を屁とも思わない武器を考案した黒島亀人を海軍機関学校卒者は悪く言わない。 機関科は海軍内での地位もステータスも高くなく、どんなに彼らが有能でも駆逐艦の艦長にさえなれなかった。そんな彼らに分け隔てなく接したという。 現在の我々からみれば黒島亀人はとんでもない犯罪者だが海軍という蛸壺社会ではどうも黒島は善人だったようだ。 すなわち、海軍そのものが常識の通用しない社会だったように思える。
海軍で秘密裏に行った㊀〜㊈金物研究     下劣で戦争犯罪組織だった海軍
金物 潜航艇 →特殊潜航艇『甲標的』『甲標的丁型蛟龍』として量産、蛟龍の実戦参加なし。
金物 対空攻撃用兵器。
金物 可潜魚雷艇(S金物,SS金物)小型特殊潜水艇『海龍』として試作・量産,実戦参加なし。
金物 動力付き特攻艇 水上特攻艇ベニヤ板艇『震洋』として量産・実戦使用。
金物 自走爆雷。
金物 人間魚雷 『回天』として量産・実戦使用。
 肝心のエンジンは光工廠で製造していた。海軍の工員だろうと招集されたので1945年(昭和20年)に入ると動員学徒(現在の中学1〜3年生,女子含む)が製造した。 設計図があるので一応形はそれらしき格好をしていたがほとんど始動しなかった。この頃になると工作用の切削油も なくなり、程なく製造は中止された。  『日本空襲の記録 七 (中国・四国)』
 魚雷の命でもある慣性式爆発尖は欠陥品でもあった。魚雷航走中に爆発する事例が相次いだ。この爆発尖改造工事が海軍光工廠水雷部精密工場に舞い込んだ。 指示された仕様通りに主任以下全員泊まり込みで生産に当たったり指定された納期に間に合わせたがその改善爆発尖が精密工場に舞い戻されてきた。
  −出典:回想の譜 光海軍工廠−
 この回想の譜には驚くべき内容が記されている。爆弾に尾翼をつけない爆弾の製造が指示された。動員された学徒工員は気付く。これは特攻用爆弾だから尾翼の必要がないと。  嗚呼ー。
金物 電探。
金物 電探防止。
金物 特攻部隊用兵器。
 よく見ると漫画チックな兵器のオンパレードである。自ら秀才と信じていた輩のおつむがこの程度である。   この期におよんで金物電探(レーダー)は笑止千万。昭和14年(1939)春、伊藤庸二技術中佐から、年度研究項目として電探実験が提案された。この提案に対して軍令部,海軍省軍務局,艦政本部の合同会議で軍令部は『左様な消極的防御兵器は海軍に必要ない』そのような暇と金があれば攻撃兵器に力を入れろ! と声高な調子でまくし立てた。この時期、海のものとも山のものともつかない電探を「防御兵器」と断定した。 実験もせずナゼ防御兵器と断定できたのだろうか??
 戦後異口同音に米軍の電子兵器(レーダー)に敗けた。 いかにも自分(用兵側)に責任がなく、開発を担当する艦政本部や航空本部(空技廠)などの怠慢に責任を転嫁した。
当時(昭和14年)の各長官・及びTOP
  • 海軍省軍務局 井上成美(期間 S12.10.20〜S14.10.17) 海軍の良識派?
  • 艦政本部長 塩沢幸一(期間 S14.1.27〜S14.8.29) 後任は豊田貞次郎
  • 軍令部長 伏見宮博恭王(期間 S8.10.1〜S16.4.8) 最悪の人物だった。昭和14年別人だったら歴史は変わった?
  • 軍令部次長 古賀峯一(期間 S12.12.1〜S14.10.20) 一番戦争を知らない部類にはいるなァー
  • 軍令部第一部長〔作戦〕宇垣 纏(期間 S13.12.15〜S16.4.9) バカだったから航空特攻にのめり込んだ?
  • 軍令部第二部長〔軍備〕三川軍一(期間 S12.11.15〜S14.11.14) 記憶力だけ確かで洞察力はパーか?
     この連中に洞察力が備わっていなかった。 行け行けドンドン。六バカ提督。 固定観念にとらわれず、スケールの大きさが備わってない最右翼? 先見性の無さは確定。  井上成美は海軍切っての良識派?? レーダー開発を封じ込めるのが良識派の職掌だったのだろう。
  • 昭和17年(1842)ミッドウェイ作戦途次猛烈な濃霧に見舞われ、戦艦陸奥に試験的に搭載されていた電探の有効性は同艦から上申されていた。
    これら金物と呼ばれた兵器の開発運用がこの戦争をなんと醜悪で愚劣なものとしたことか。
    航空特攻は、日本海海戦(日露戦争)の成功体験を墨守し築きあげた砲術系の終焉を意味していた。戦艦では 中佐クラスが砲術長だったが、その指揮下に少佐クラスなどが発令所,測的所,各砲塔,弾庫,弾薬庫などに配置されていた。 戦艦では1発の弾丸発射に何百人もの組織ピラミッドを構成していたのだ。
    ところが、爆装零戦は一人で、これら何百人もの組織ピラミッドに勝った。  これほどのパロディーがあろうか。
    山本五十六存命中の黒島亀人は、山本の右腕として作戦を担当した。  作戦は精緻であったと伝えられている。  その一つは、北緯50゚ (キスカ・アッツ島)付近の寒冷地と南緯10゚ までの広範囲な平面に将兵をばらまいた。  攻撃する米軍は、その任意の対日戦で痛打を浴びせることの出来る一点を狙えばよかった。  この広大な面に彼は将棋の駒に相当する艦艇を将兵を、米国に挑発されながら指していた。  作戦家として有能だったかも知れないが、対米戦争に勝つ戦略を持ち合わしていたという彼に関する 詳伝を筆者は見ていない。 当然ながら、戦略なき者に戦術があるわけがない。という図式になってしまう。
    緯度の開きが60゚(北緯50゚ 南緯10゚) に及ぶ状況で、ハイドロカーボン(hydro-carbon)の性能が戦いの帰趨を制する時代 になっていたことを、この男は果たして知っていたのであろうか?。  海軍が使用する兵器のあらゆる機器類に潤滑油を使わざるを得ないが、 この広緯度をカバーする潤滑油は存在しなかった。  原油系物質でエンジンオイルを製造するとなれば、パラフィン系が優れているが、 この作戦屋は果たして知っていたのか?。それを知らなかったのであれば、帝国海軍は米国と戦争すべきではなかった。
    (ニ)自走大爆雷。
    (ホ)大威力魚雷 一人搭乗 回天1型として14.75m 昭和19年8月正式に兵器化。
    この要望が黒島亀人より提出された。 更にもう一人立役者がいた。軍令部第一部長(作戦担当) 中沢 佑(任期 1943/6/14〜1944/12/4) 卑怯にも戦後講演などで、 特攻は大西瀧治郎が進めた言い張った。 ちなみに、軍令部 第三部長(情報担当)大野竹二。 第四部長(通信担当)も黒島亀人だった。
    それまで極秘に特攻自爆装置として先の試案研究がなされている。
    中沢 佑
    嘘を信じるな!
    昭和19年(1844)10月初旬、第一航空艦隊司令長官大西瀧治郎が任地比島に出発する直前、航空特攻を切り出し、軍令部もしぶじふ追認した。など戯言が膾炙している。 必死兵器の回天を8月に正式兵器として採用しながら、戦後自決した大西瀧治郎に一人に責任をおっ被せている。 海軍トップエリートとされた人間は、個々の人間の尊厳を踏みにじった大罪人で犯罪者である。 この小項は戦艦大和沖縄水上特攻から筆を起こした。 大和は壮図空しく挫折した。  すなわち、大和が沈没した昭和20年4月7日をもって帝国海軍は壊滅した。 この壊滅した日以降執拗に?に航空特攻を行った真意を問いたい。 また問う権利がある。

    1944年(昭和19年)7月までに、船舶喪失4,822,344 トン に達した。 数字的にこの段階で戦勢挽回は不可能であった。 戦後この特攻兵器開発に血道をあげる節目となった、1944年(昭和19年)6月〜7月期を、 旧海軍軍人が出版する書籍の多くに、『背に腹を変えられず』という記述を行う。 絶対必死の人命軽視は何に対して、背に腹を変えられなかったのだろうか?
    人間消耗品計画
    対米戦争に一矢を報い彼をして厭戦気分を醸成し和平に持ち込む。という相手任せのずぼらな目論見を達成するために、 若人(16〜22才)を消耗品にすることを考えついた海軍首脳部は実態を伏せ、予科練習生(予備学生)の大募集を行った。 1944年手持ちの練習機は1,600機あまり、予科練募集総数はこの年11万人強。 この頃政府(軍部首脳)は天皇制を頂点とした国体護持を最終目的にしていた。現在我々は主権在民の憲法下、 国とは国民の総意に基づく主権国家である。当時の国を守るという言葉と現在の国を守るとい言葉は全く異質で同義ではない。 ここを履きちがえないで欲しい。 無知な太平洋戦記物Webサイト管理者が祖国や国民を守るために特攻隊員は散華した。 など戯言をUPしている。当時国とは国体のことであり寡聞にして国民を守るためと記した特攻隊員の遺書を見ていない。 幼児期より絶対天皇制の教育を受けて成長しており国民という概念が理解できなかったものと考えられる。
    また、軍部は国民を守るということは一切その念頭に無かった。国民は天皇の赤子(せきし)であり消耗品であったし、人格を認めてはいない。
    耳障りのよい言葉にだまされてはならない
    痛みを伴う改革
    バラ色の未来がくるかのように、狐目の総理は獅子吼した。痛みの矛先は庶民だった。 政治家も高級官僚も蚊に刺されたほどの痛みさえ感じていない。

    ■ 多様なライフスタイルの提供
    ポマードを塗りたくった総理がこの言葉を囁いた。そして多くの大学教授がそれは素晴らしい人生を拓くと語った。  絶望した若者は秋葉原事件で応えた。 少なくとも更に多くの予備軍が控えているだろう。
    派遣社員を「安い労働力」と割り切る企業経営者、搾取する人材派遣会社、 穴だらけの法律によって、政治家やそれに迎合する学識経験者らは「ライフスタイルの多様化に対応する」という甘い言葉をささやいたが、 それはとりもなおさず加齢という引き返すことのできない人生を切り売りさせることだった。
    ポマード総理誕生まで企業にとって人件費は固定費だった。労働関係諸法の改悪により人件費は変動費に変質した。 特攻隊員と同じく使い捨てとなったのだ。
    ■ 弁護士くずれでいっぱしの政治家もどき
    大阪府。橋○なんとかいう弁護士崩れが、府の財政を改革する!。と叫んだ。 一番の目玉は株式会社でいう社員の賃金カット。経営者のまず行うことは収入の確保。収入の伸長。 これにより損益分岐点は大幅に改善する。賃金カットを行うと確かに効果がありそうだがとんでもないことになる。 人間は感情の動物で人生意気に感じたら100%のものが120%もの力をいくらでも出す。賃金カットは100の力を80にも70にも下げてしまう。  給与が下がれば消費支出(購買力)も下がる。購買力が下がれば消費が沈滞する。よって税収も下がる。下がる下がるの悪循環。
    日本の弁護士の脳みそがこの程度ということを白日にさらした功績は大である。国民栄誉賞でも差し上げようではないか諸君!。 維新の会などとぬかし、憲法に抵触するような府条例をつくりまくろうとしているクソバカ。日本の弁護士はせいぜいこの程度。
    戦国時代。社員を大切にした武将松永弾正久秀は死ぬことを覚悟した。 俺は信長に反旗を翻し死ぬまで戦う!。それを聞いた社員。 社長が死ぬなら俺も戦い抜いて死ぬ。一説には1000人近い人間が社長と行動を共にして果てた。 大阪府。橋○さんが同じ事を叫んだら、何人一緒に死んでくれるだろうか?。社長たる者徳がなければ値打ちなし。 昨今世の中値打ちのない社長が多すぎませんか。グッドウイルの何とか。その他もろもろ。 文明が進歩して物の質は大幅に向上したが、TOPたる人間の質は超インフレ。値段の付けようナシ!

    1944年8月5日
    人間爆雷「伏竜」隊誕生。実際の訓練は3月頃密かに始まっていた。

    人間爆弾 "桜花" 開発小史
    1944年8月16日、桜花開発は、航空技術敞管理下で『日飛』『富士飛』『茅ヶ崎製作所』その他工場で行われた。
    ■ 1944年6月27日、館山海軍航空隊司令岡村基春は軍需省を訪れ体当たり戦法を建議。
    ■ 1944年10月1日、桜花を使用する目的で、721航空隊を新編成。司令岡村基春大佐

      神之池基地に新設。桜花搭乗員は、主として操縦教育課程の者から、桜花が必死の特攻兵器であること
      を知らせず募集した。 訓練を概成した721空は昭和20年3月1日、陸攻二個特設飛行隊(陸攻72機),
      援護戦闘機三個飛行隊(戦闘機107機)の兵力でもって第五航空艦隊に編入された。
      桜花一一型は昭和20年3月末までに750基の生産計画であったが、実際に配備された基数は216基で
      あった。 この部隊に配置させられることは特攻兵になることを意味していた。特攻以外の作戦はない。

    ■ 1944年10月23日、空技敞、相模湾上空でマルダイ部品の投下試験に成功。
    ■ 1944年10月31日、マルダイ部品練習機(桜花K1型)の試験飛行を百里原基地で行う。
    ■ 1944年11月20日、マルダイ部品(桜花11型)の着水時の起爆装置作動テストを鹿島灘で行う。
    この成功を受けて721空は茨城県神之池基地(司令 岡村基春)で錬成訓練開始。
    ■ 1945年1月、鹿島灘で無人投下実験を行う。これで、一連の実験が終了し "桜花11型" 量産体制に入る。
    ■ 1945年3月、実戦投入の結果、桜花11型投下前に母機が撃墜されたことで、より航続距離のある桜花の開発が計画されたのが "桜花22型" である。ジェットエンジン『ツ11型』を後部に装備し、 緊急増速用として4式1号20型火薬ロケットを胴体下部に装着した。
    ■ 1945年8月12日、海軍の非人間冷血漢らは、"桜花22型" の空中投下試験(神之池基地)を行う。 母機銀河から離脱直前ロケット異常噴射のため尾部破損?し錐揉み状態で墜落。
    "桜花22型" 開発と同時進行で "桜花43乙型" の研究開発を行う。それまでの母機懸垂投下方式でなく、海岸近くの山中に軌条を設置し火薬カタパルトから発射し『ネ20型』ターボジェットで敵艦に突入しようとする兵器だった。
    ■ 1945年6月、武山海兵団(横須賀)飛行場で『43型練習機』の射出試験に成功。実戦投入は9月の計画だった。
    世界の海軍にあってこれほど非人間性集団の海軍を筆者は知らない。ロケットで死出の旅に旅出させることを冷静に命令出来る人間(司令)も養成していたのであろうか?。  レシプロ特攻機は、まだエンジン故障で引き返すことが出来た。実際のところ、陸軍特攻機に多くこの事案が発生し生き延びた航空兵が存在したが、 海軍の桜花は一度射出(投下)されると生還は期しがたい。  人間魚雷回天もしかり生還絶無。
    桜花開発に関する出典:『日本海軍史 巻七 第5章航空機 頁484〜』
    なお、人間爆弾桜花開発と運用に関しては、戦史叢書沖縄方面海軍作戦と加藤浩/著 神雷部隊始末記を併せて読まれることをお奨め。
    殉国の至情は大嘘
    海軍は装置と仕組みを先に作成し貴様の戦死は明日になったと命令した。  一度指令すると生き残りを許さなかった。
    特攻を突き詰めると、海軍兵学校や大学校の教育にあった。科学音痴教育の実態はこちら
    人間を消耗品とした狂気・冷血の海軍だった。  また海技研が材料入手困難な状況で開発した、艦載機搭載レーダー[空六号]を取り外して惨敗したマリアナ沖海戦だった。
    別項に譲るが、沖縄突入艦隊二水戦通信兵として、奇跡の海を生き残った16歳の誕生月に海軍に志願入隊した『佐藤義一』は云う。当時の若者は『大義』のために身を投じることに全く違和感はなかった。  一刻も早く『大義』に殉ずる気持ちさえあった。だが現場にあったものは、理由にならない理由での『殴打』の連続であった。 人間をボロクズの如く扱う海軍だった。殴られることで兵が強くなることは、自分の体験からして絶対あり得ない。と断言する。 Imperial Navy の中に、人間的に高い見識と魅力ある人物もいたであろうことは容易に察しがつくが、 彼らの属していた環境は、人間を消耗品として扱った組織であったことも、また消すことの出来ない事実であった。  光輝ある建国以来の海軍が汚辱に満ちた海軍として終焉を迎えた。
    NHKテレビ『ETV特集 城山三郎』(2007/10/5再放映)で、終戦前の大竹海兵団(現:広島県大竹市三井ポリケミカル)で 国の安危を救わんとしてはせ参じた、16〜17歳の少年兵らに、兵団首脳は平然と、 『貴様らは今日から全員伏龍隊員となった』と告げられた。  それは、水中に潜伏し持った棒の先の爆雷を上陸用舟艇に突き刺す隊員だった。 絶対死を意味した。  これほど次から次に人間を消耗品とする武器を考えついた海軍に言葉を失う。
    海軍特攻部長 昭和19年(1944年)9月13日任命 中将 大森仙太郎
    源田 実は第一航空艦隊 司令長官  大西瀧治郎比島到着前に一通の電文(1944/10/13)を起案した。
    神風攻撃隊ノ発表ハ全軍ノ志気高揚竝ニ国民戦意ノ振作ニ至大ノ関係アル処、各攻撃実施ノ都度、 純忠ノ至誠ニ報ヒ攻撃隊名(敷島隊、朝日隊) ヲモ併セ適当ノ時期ニ発表ノコトニ取計ヒ度・・・・・
    人間爆弾『桜花』の命名も源田である。
    すなわち、特攻部長を決め、特攻隊名まで決めて人間爆弾となる人選を行った。そして突入は関大尉10月25日。 航空機による艦船突入は機そのものの脆弱性で打撃力は低い考えられていた。 戦歴の結果はそのとおりとなり人的被害のみ膨らんだ。人間も動物であり、死が必然となる環境にさらされると、 厭戦気分がみなぎる経過をたどり、組織的としての命脈は尽きる。
    源田起案の電文『戦史叢書海軍捷号作戦<2> P108』 『昭和史1926〜1945半藤一利/著』
    【写真が語る『特攻』伝説】(原勝洋:著 2006/11/25発行 KKベストセラーズ)P286でこの電文は特攻が成功した10月26日と記述する。
    戦史叢書『海軍捷号作戦<2>フィリピン沖海戦』P108 に記載されているのは、 航空特攻が初期の戦果を挙げた場合の発表時期と、その場合攻撃隊名も忘れず発表されたいという指令であり、電文起案と発信は別の問題である。ちなみに、大西瀧治郎中将の予定は10月8日10:35 東京(羽田)発, 12日比島到着の予定であった。電文起案は10月13日である。 戦史叢書も書くように、特攻成功の場合に攻撃隊名まで主務者との打合せがすんでいた。更に、現地に赴く大西に零戦150機の準備を源田は約束した。 よって人類史上最悪の作戦を物心両面で支えたのが源田 実である。 戦後のうのうと空幕長となり、こともあろうに参議院議員にまでなってしまった。
    時系列的には、
  • 昭和19年(1944)10月5?日 大西、航空特攻について軍令部*1とすり合わせを行う。 これは、戦後中澤 佑が言いふらしたことで、保阪正康(ノンフィクション作家)はこれを否定している。
  • 昭和19年(1944)10月13日 源田 実による特攻隊名決定電文起案と特攻部長任命。
  • 昭和19年(1944)10月17日 大西瀧治郎マニラ一航艦司令部着。
  • 昭和19年(1944)10月18日 捷一号作戦発動。
  • 昭和19年(1944)10月19日 特別攻撃隊を編成する旨搭乗員に説明。
  • 昭和19年(1944)10月20日 深夜 01:00 過ぎ 神風特別攻撃隊発令。特攻機13,直掩機13。
                  敷島、大和、朝日、山桜隊。
  • 昭和19年(1944)10月20日 15:00 すぎ一航艦司令長官。猪口参謀、門司副官を同道。"神風特攻隊" 命名訓示。
  • 昭和19年(1944)10月20日 マバラカット飛行場。夕日の中を特攻機発進。 敵を見ず帰還。
  • 昭和19年(1944)10月20日 20:00 寺岡謹平前長官引継ぎ。 大西瀧治郎一航艦司令長官就任。
  • 昭和19年(1944)10月21日 特攻出撃の久納好孚(こうふ)中尉*2レイテ東方出撃未帰還。
  • 昭和19年(1944)10月24日 左足骨折入院中の201空山本栄大佐*3従兵に抱えられ特攻隊員の前に現れる。
  • 昭和19年(1944)10月25日 06:30 菊水隊(一飛加藤豊文),朝日隊(同上野敬一),特攻機4,直掩機2 ダバオ発進。
                       07:40 護衛空母サンティ,スワニー突入。
  • 昭和19年(1944)10月25日 07:25 過ぎ敷島隊マバラカット発進。 関行男大尉 10:51 セント・ロー突入。
    中澤佑は大西が現れたのは10月5日と話した。 これは否定されている。
    *1 大西瀧治郎は、10月5日軍需省航空兵器総局総務局長から南西方面艦隊司令部附発令を受ける。
    この日大西は旧知の陸軍航空総監菅原道大中将のもとに挨拶(菅原日記・特攻の真実 深堀道義/著 P126)に現れている。
    *2 特攻出撃の久納好孚(中尉愛知・法政大学)は関大尉より先に出撃し未帰還となったが 久納は学徒兵で関行男は兵学校卒。よって海軍は、久納を特攻突入散華としなかった。  だが明らかに久納機は特攻出撃している。最初の特攻は兵学校出身者も源田 実の差し金と思える。 学徒出身者が先に特攻したことを封じ込める(久納機特攻)悪知恵は源田以外に考えられない。 これは、筆者(当Webサイト管理者)の主観。
    現在普通に探せる戦史でも時系列な特攻1号の名誉は、菊水隊の勇士に与えるべきである。
    *3 航空特攻によく見られる写真で1944年10月25日マバラカット飛行場。円陣手前左、防暑服?で松葉杖の後ろ姿は201空司令山本栄大佐。 大佐は19日大西中将に会うため18:00ニコルス飛行場を中島 正(少佐)操縦の零戦に同乗し出発。 直後エンジン故障し、マニラの陸軍飛行場外の畑地に不時着。中島は顔面に軽傷。 山本は左足骨折。 この激励姿を多く玉井副長としているが誤り。撮影は報道班員として はただ1人許された日映カメラマン稲垣浩邦。 なお、10月20日、稲垣がマバラカットで撮影した特攻隊員のフイルムは、その日の内に 大本営報道部宛に送られた。

  • 戦史叢書 海軍捷号作戦 <2> フイリピン作戦による 10月25日の特攻隊
    隊名発基地名発時刻突入時刻特攻機数直掩機数 突入機数合計機数摘要
    山桜ダバオ第106:30 2 204直掩機のみ帰投
    朝日ダバオ第206:30 2 13 敵発見せず帰投
    菊水ダバオ第206:3007:402 11 3  
    敷島マバラカット07:25 10:40 5 42 9直掩2帰投
    大和セブ09:00 11:15 2 2 24  
    合計 1310 23  

    特攻唱道者たち
    中澤 佑,黒島亀人らは海軍で特攻を最初に唱道した。  開発試案に人間爆弾『桜花』は含まれていない。  桜花*4に息を吹き込んだのは、当時軍令部部員だった源田 実である。 特攻に関して、黒島が声を出し、 源田が息を吹き込んで、大西が花を咲かせた。
    ここまで進むと、強制戦死(特攻)に歯止めがかからず、 航空隊司令官や司令らの罪悪感は吹き飛び自らの武勲を誇るためのシステムを構築した。  最初の特攻隊命名者や人間爆弾 "桜花" の名付け親は源田 実(中佐・軍令部,任期 1942/12/10〜1945/12/14)だった。
    大本営陸海軍部は1944年7月、『敵空母及び輸送艦を必殺する』との方針を打ち出した。 この後、大田正一(特務少尉)が "人間ロケット爆弾" を持ち込む。 飛びついたのが源田 実である。
    大西瀧治郎がマニラ第一航空艦隊司令長官*5に着任する前の10月初旬*6、軍令部で、部長及川古志郎,次長伊藤整一(後、第2艦隊司令長官で大和沖縄特攻),山本親雄(1943/1/20〜1944/10/5)軍令部第一部,第1(作戦計画),第2課長(編成)兼務も同席した。
    大西はここでフィリピンを最後の戦いとするためにと条件を付け『航空特攻』を次のように切り出した。 と中澤は云う。だが、 中澤らは、桜花の投下実験や721空の新編など、また人間魚雷回天の製造と、 基地整備及び搭乗員の錬成が行われており、 かつ正式兵器(1944/8)としている。そのような経緯を含め航空特攻を考える必要がある。 及川古志郎軍令部総長も伊藤整一軍令部次長もこれらのことを知らなかったという立場にない。
    また、軍令の実施的最高責任者であった伊藤整一は特攻専門部隊創設を承認した。 源田 実や、黒島亀人。伊藤整一らは大提督とされる山本五十六の信任厚かったと 云われている。それでなかったら、あのミッドウェイ海戦大敗北の要因をつくり出した源田が、軍令部に返り咲ける訳がないであろう。 彼らは山本五十六の申し子だった。 源田のポストは黒島亀人の口添えか?

    *4 "桜花" 特攻専門部隊 721空発足が 1944年10月1日。721空は特攻以外の作戦を行わない専門部隊だった。 ここに配置されることは特攻を意味した。  志願もクソもない部隊である。
    *5 一航艦長官寺岡謹平。 1944年8月7日〜1944年10月19日
    *6 大西の異動(南西方面艦隊司令部附)発令が10月5日。 この日旧知の陸軍菅原道大に会っている。常識的に辞令交付、挨拶の順になるだろう。大西は1944年10月8日10:35 台風通過後羽田発。
     菅原道大は第六航空軍(福岡)司令長官となって陸軍航空特攻を推し進めた。 彼はことある毎に最後の一機で俺も特攻に行く。と送り送り出した。 終戦のその日部下が閣下一機の特攻機が準備出来ました。と告げた。 菅原は、ばかやろう!。これからは奉公の道が違う。 と叫んだ。 打ち首獄門にしてもまだ足らない卑劣漢であった。
    陸軍遠藤三郎中将の日記
    「10月8日(1944年)、日曜日、朝台風後晴れ、六時やや前大西中将より電話あり、天候の都合上出発10時に変更の旨 直接伝えられる。(中略) 九時羽田飛行場に着く。(中略) 10時35分、台風通過を待ちて出発」
    以下大西の発言とされる内容
    『最近の敵は電波兵器を活用し、空中待機の戦闘機をもって、我が航空機を遠距離から捕捉して阻止することが巧妙になったので、 我が方の犠牲者は多くなり攻撃も困難となってきた。 このさい第一線将兵の殉国の至誠に訴えて、必死必殺の体当たり攻撃を敢行するほかに良策はない。  これが大義に徹するところと考えるので、これについて大本営の了解を求めたい。
    勘ぐれば、この第一線将兵発言も大西の発言かどうかもあやしい。 戦後の特攻批判でこのように流布されたことを否定できない。
    指揮官率先で遺書まで残して一式陸攻に搭乗して戦死した有馬正文も海軍は特進させず特攻と認めていない。理由は簡単。彼のような 将官が率先特攻に散華したと認めたら、並み居る将官や大佐、中佐、少佐に至るまで特攻せざるを得ない。 以降特攻は第一線将兵の中で "" は皆無である。
    結論:海軍は戦史まで身内(兵学校)に作為が働く虚飾と欺瞞に満ちた組織である。

    部長及川は承認を与える。結果フィリピンの海や(レイテ沖),陸で(レイテ・ルソン)大敗北を喫したが『陸・海軍機全機特攻』を決定した。 以上は戦史叢書『海軍捷号作戦<2>』P106〜の基礎史料による筆者見解
    かなり前から、城英一郎(1944年6月10月25日戦死),山本親雄らで特攻に関する謀議が あったのかも知れない。おそらく特攻について語らなかったと思えるが山本親雄は、 1980年(昭和55年)11月4日(享年84)まで生きた。
    城英一郎は侍従武官時代の1943年(昭和18年)6月29日に特攻意見書を提出している。
    1944年10月初頭、大西がフィリピンで航空特攻を行うと切り出した席に、 伊藤整一(軍令部次長・1944/11/20付第二艦隊司令長官)も同席していたのである。 1945年4月月頭、大和の沖縄特攻が関係者の口にあがるようになるが、 三田尻沖に結集していた第二水雷戦隊の司令や艦長は成算なき特攻に異論を唱えていた。 4月5日・電令作第603号(13:59)により沖縄特攻を命じられるが長官以下がすんなり受け入れた訳ではない。 4月6日、午後鹿屋出張の帰り、草鹿参謀長が第二艦隊司令部を訪問し、 "一億特攻のさきがけ" と話すと、伊藤長官は『それならわかった』と応えたとされる。それは、航空特攻が切り出されたその席の四人衆に入っていたし、彼は特攻専門部隊神雷部隊創設を推進した一人でもあった。  恐らく伊藤は、この老兵が特攻行くことはあるまいと思ったことであろう。  そして、沖縄突入が決まると伊藤は生きていても仕方がない。とつぶやいたという。

    特攻機搭載爆弾威力・効果判定 人間を消耗品としながら冷静な判定を行った。
    特攻機搭載爆弾の威力判定
     桜花爆  弾
    炸薬量1,300Kg800Kg500Kg250Kg
    威力点
    テ足母機、銃火で簡単に発火する一式陸攻機、また護衛機が足らず成算なし」との反対を押し切って 第五航空艦隊司令長官宇垣 纒*7の“断固出撃すべし”の令により第一神風桜花特別攻撃隊神雷部隊を沖縄攻撃中 の米機動部隊に向けて、桜花実戦部隊として初出撃させた。
    宇垣(海軍)は桜花特攻の威力の前に人命の損耗など眼中になかった。
    宇垣 纒、終戦後私兵特攻の謗りを受けた。
    野中少佐のささやかな抵抗。出撃以降全機だだの一本の電信も発しなかった。
    威    力
     空母巡改空母護衛空母 戦艦巡洋艦
    桜花×210
    桜花×1
    桜花+800Kg
    800Kg×1
     特攻は自然発生的な『憂国の至情の先の志願特攻』であるのなら、なぜ出撃時に佐官以上(死後昇進ではなく)の高級将校が特攻しなかったのか?。  彼らは憂国の至情が無かったのか?。操縦できなくても複座のペアは組めたはずだ。  当時腐るほどいた皇室(含む公家)関係者はなぜ特攻に出なかったのか?
    宇垣 纏 *7 宇垣は軍令部第一部長(S13.12.15〜S16.4.10)だったとき三国同盟(1940年(S15年)9月27日)に賛成している。  GF長官山本五十六は宇垣のバカが賛成しやがったと冷たく接し、その宇垣が1941年(S16)8月1日付でGF参謀長に就任したが、 ハワイ奇襲作戦もロクに相談しなかったと伝えられている。
    第1航空艦隊司令長官が小沢治三郎だったらハワイやミッドウェイなど、その戦史は少し違ったものになったであろう。小沢の半年先任が南雲忠一。
    公刊戦史も特攻は志願が前提で出撃命令した。としている。ならば志願しなかった佐官以上の幹部クラスは殉国の至情がまったく無く、 そのような人物が『殉国の至情に基づく特攻志願』を継続的、計画的に行った説明が必要だろう。 何度も云うが、複座、三座機で同乗は出来たはずだ。
    作戦を立案する高級参謀ら一度テ足一式陸攻機に添乗し、戦闘海域まで実際に出撃し桜花射出が可能なのか体験すべきであった。
    いくら特攻で死ぬ気になっても、死ぬまでは生きており、必然的に恐怖心と自己防衛本能が働く。その人間たる人間性を否定し、 特攻システムを構築した人物を戦後国民は検証し断罪すべきであった。  また国家の装置としての軍隊だったので当然国の責任として、戦時中に国民に対して行われた非人間性を検証し断罪すべきでもあった。
    続き 海軍の戦争犯罪 源田 実は人命軽視の超国賊
    参考図書等
    戦史叢書 海軍捷号作戦 朝雲新聞社
    戦史叢書 沖縄方面海軍作戦 朝雲新聞社
    特攻の真実 深堀道義 原書房
    特攻と日本人 保阪正康 講談社

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