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| 大和水上特攻に呼応した陸軍第22振武隊 | ||||||
| 役種 | 出撃日 | クラス | 氏 名 | 期 別 | 原所属部隊 | 摘 要 |
| 現 | 04/03 | 中尉 | 藤山二典 | 56 | 明教飛師 | 知覧 4/3 沖縄攻撃進航中、発動機不良 徳之島不時着。着陸後銃撃死 |
| 〃 | 04/03 | 少尉 | 前田光彦 | 57 | 〃 | 知覧 4/3 離陸失敗重傷 福岡第二陸軍病院入院 |
| 予 | 04/03 | 〃 | 伊東信夫 | 特操1 | 〃 | 知覧 4/3 発動機故障海上不時着 |
| 記録で藤山二典,伊東信夫少尉は特攻死となっている。〔年表太平洋全史頁601〕 | ||||||
| 〃 | 04/06 | 〃 | 西長武志 | 特操1 | 〃 | 4/6 15:30 知覧発 沖縄突入 |
| 〃 | 04/06 | 〃 | 立川美亀太 | 〃 | 〃 | 4/6 知覧発 沖縄突入か? |
| 〃 | 04/07 | 〃 | 大貫健一郎 | 〃 | 〃 | 4/7 徳之島不時着 5/28 在福岡 |
| 〃 | 04/07 | 〃 | 大上 弘 | 〃 | 〃 | 4/7 知覧発 |
| 記録で大上 弘少尉は特攻死となっている。〔年表太平洋全史頁609〕 | ||||||
| 〃 | 04/07 | 〃 | 島津 等 | 〃 | 〃 | 4/7 徳之島不時着 5/28 在福岡 |
| 〃 | 04/07 | 〃 | 柄澤嘉則 | 〃 | 〃 | 4/7 徳之島不時着 5/28 在福岡 |
| 〃 | **/** | 〃 | 井上立智 | 〃 | 〃 | 4/7 徳之島不時着 5/28 在福岡 |
| 〃 | **/** | 〃 | 竹下重之 | 幹9 | 〃 | 喜界島 5/28 在福岡 |
| 現 | 04/11 | 〃 | 柴田秋蔵 | 57 | 〃 | 4/11 0530 徳之島単機出撃行方不明 |
| −以上は一式戦隼があたえられている。明教飛師は、明野教育飛行師団の略 確認出来る最後の出撃は柴田秋蔵少尉の4月11日である。 | ||||||
| * 特操とは特別操縦見習士官の略。大学及び工専卒業若しくは在学。 | ||||||
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昭和20年4月6日 確認出来る陸軍航空特攻隊名 第22振武隊・第43振武隊・第44振武隊・第62振武隊・第73振武隊・第1特別振武隊・誠第36飛行隊・誠第37飛行隊・誠第38飛行隊。 |
![]() ![]() 【振武寮を伝える読売新聞】 |
► 1944年12月8日、開戦4年目の大詔奉戴日(天皇による開戦宣言日)に敵機動部隊本土来襲の情報に備えて、第20振武隊が柏原飛行場(千葉県東葛飾郡田中村・現:柏市柏の葉)で編成された。
それがやがて向かえる沖縄戦の陸軍特攻第一号(突入日〔04/01〕,隼・山本秋彦)となった。続く12日に第22振武隊(藤山二典隊長)が編成された。
この隊は航空士官学校出身3人、幹部候補生出身1人、特別操縦見習士官8人で構成された。
この隊は全員将校で一式戦闘機V型(隼)で北伊勢飛行場(鈴鹿市広瀬町・明野陸軍飛行学校の分教場)で特訓を始めた。 ► 第22振武隊は1944年12月22日に航空機4機で編成された。 編成されたこの部隊は大分海軍航空隊(大分県大分市)で艦船突入訓練法を教習した。その時の隊員は藤山二典中尉を長として15人である。錬成終了後所属基地に戻ったが、翌年3月下旬沖縄に戦雲が漂う気配濃厚となり、25日に9機が防府飛行場(山口県防府市・現空自北基地)に進出し翌26日残りの2機が主隊に追従した。 |
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► 陸軍第六航空軍は1945年(昭和20年)3月10日司令部を東京から福岡高等女学校(福岡県福岡市)を接収し、そこへ移転。沖縄戦の指揮をとった。 第六航空軍は3月20日午前0時をもって、天一号作戦(南西諸島方面作戦)準備令により海軍の連合艦隊司令長官の指揮下に入った。陸軍から海軍特攻の最前線である鹿屋第五航空艦隊に参謀副長少将青木喬が派遣され共同作戦にあたった。
これにより、艦隊攻撃は海軍。輸送船攻撃は陸軍が担当することになる。 沖縄戦の態勢が決まった5月末に連合艦隊の指揮下から離れた。 ► 一式戦闘機V型は最新鋭のはずだった。また運用する側はそのように認識していた。 3月26日米軍が慶良間に上陸するや、これに特攻をかけるために知覧(鹿児島県)に空輸された。 ところが最新鋭のはずの隼は全機エンジンが不調だった。修理しなければ使えないので知覧航空分廠で修理しようとしたが、そこには一式戦V型機を修理できる整備員はおらず急遽小月(山口県下関市)分廠に整備員を迎えに行った。徹夜の修理で12機のうち7機が出撃可能となったものの作戦変更を迫られた。 4月3日になってやっと3機出撃となり、5日に2機、6日に2機と、第22振武隊は三回に分かれて出撃する予定だった。 |
| なんとかエンジンが動くようになったので、搭乗員が整備員にエンジンオイルは何を入れた? と聞き、整備員は鉱物油です。と答えると、それはだめだ全部抜き換えて ひまし油 を注入せよと命じている。 |
| 4月3日15:30 出撃予定の内機体故障で大貫健一郎、立川美亀太、西長武志、大上 弘が出撃出来なかった。残った搭乗員は4月5日に出撃が決まったが立川、西長両少尉機のエンジン故障は直らなかった。 |
![]() 〔一式戦隼。250Kg爆弾を搭載し突入させたた〕 |
第22振武隊は一式戦(隼)を渡されている。上表にみるようにエンジン不調が続出し一度に全機出撃はかなわなかった。現場(知覧)では一式戦を整備できる整備士がおらず、小月分廠(山口県下関市)で修理をした。 もはや、この時期陸軍は戦う態勢さえ構築できていない。 |
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この時期になると部品の精度と耐久性が著しく低下し使い物になる機体は少なかった。
故障や事故続きで第22振武隊は記録で見る限り3回に分けて出撃している。 第22振武隊の第二次航空特攻は菊水作戦が開始された4月6日である。その前日5日午後知覧に菅原軍司令官と幕僚が訓辞のために現れた。その情景を生き残った大貫健一郎さんは『お前たちは、生きながらの神である。日本の国を救うのは、お前たち以外にない。一命を投げ出していさぎよく死んでくれ。お前たちのことは畏くも上聞に達するようにする。軍司令官も参謀も、最後の一機で突っ込む覚悟だ。お前たちだけ見殺しはしない!』 と叫んだ。 陸軍も海軍と同様、大学程度の学力を有する者を特別見習操縦士官(特操)とした。航空特攻の多くがこの特操出身だった。絶望的戦局のなかで、人や資材を使い捨てにする戦法ではやがて破局をもたらす。勝てない戦いを推し進める狂気の集団は最早国民にとって凶器であった。 陸軍の膨脹主義(侵略的体質)が工業資源の禁輸をもたらし、つまるところ自存自衛,新大東亜秩序の建設という大義を掲げたが、若人が特攻死を行えば、この時期彼らが掲げた大義が完遂できたと考えた上で人の死を弄んだのか?。 戦艦大和が沈み海軍は海上戦力を喪失し海軍でなくなった。陸軍と海軍は国家の暴力装置として車の両輪である。片輪が失われた状態で戦いを継続する意義は奈辺にあったのか。 |
![]() ![]() 特攻機に使用された固定脚の、左九九式襲撃機と、右九八式直協偵察機 |
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陸軍特攻について海軍ほど多くの出版物はない。戦史叢書でも沖縄方面航空特攻作戦でも詳細を調べようすれば絶望的である。唯一か「陸軍航空特別攻撃隊史(生田惇/著 ビジネス社 S52/12/20発行)」があるが、年表太平洋戦争全史などと整合がとれない部分がある。前述同書は陸軍航空機性能についても過大である。
九九式襲撃機にしろ九八式直協偵察機にしろ固定脚である。九八式にいたっては巡航速度は200Km/Hr程度で新幹線より遅い。 概観的に第○○振武隊だが、第○特別振武隊のように特別が付けば、四式戦(疾風)などの新鋭機が投入されている。
陸軍は、特攻失敗(不時着帰還)者を福岡県福岡市中央区薬院4丁目14番1号九電記念体育館(旧福岡女学院)に収容した。 画像赤丸地点が振武寮である。 ![]() |
![]() 【倉澤清忠】 |
振武寮に収容された大貫健一郎(神奈川県葉山町)さんの戦後談。1945年4月7日。沖縄近海の米艦隊に向かって飛び立った後、
グラマン戦闘機に撃たれて不時着。5月28日、生き残った27人と一緒に福岡女学院に置かれた第6航空軍司令部に戻った。 中庭に整列すると、
いきなり、司令官(菅原道大)の罵声を浴びた。 『軍の面汚しが。貴様たちが生きて帰ってきたために何人の米兵が生きたと思うのか!』
また参謀(倉澤清忠少佐・作戦及び編成)からは『よく恥ずかしげもなく飯が食えるな!』と殴打された。 |
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島津 等さんも不時着生還。戦後岡山市で歯科医を開業。振武寮で屈辱の日々を送っている。 振武寮について、林えいだい/著『陸軍特攻・振武寮』(東方出版、2007)に詳しい。
なおこの事実は読売新聞西部版(2008/2/9)に掲載されている。この記事ご希望の方メール頂ければ差し上げます。 |
![]() 【福岡女学院百年史掲載】 |
![]() 【菅原道大】 |
陸軍にしろ海軍にしろ若者の命がボロ切れのごとく扱われ故障などで不時着し帰還した隊員に侮蔑の言葉が待っていた。 徳之島に不時着した隊員らの収容に訪れた97式重爆「呑龍」で福岡蓆田飛行場(板付飛行場)に帰還した。 待ち受けていたのは第六航空軍菅原道大の罵声だった。 更に倉澤参謀の罵声が一時間にわたって続いた。 天号作戦に入ると特攻陸軍機の25%は帰還した。 主として米軍征空隊の待ち伏せや、エンジントラブルによる。 旧特攻隊員の報復を恐れた倉澤は80歳まで護身用のピストルを持ち歩き、家では軍刀を手放さなかったという。 |
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そのようにしてまで護身に徹する背景が陸軍航空特攻の全てを物語る。
倉澤は、命が惜しい者が特攻を志願しなければよい。とうそぶいた。その当人が老残の身でありながら命を惜しんでいる。 林えいだい著 『陸軍特攻・振武寮 』(東方出版、2007年) |
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最後の一機で突入すると叫んだ陸軍第六航空軍の幕僚らは |
終戦のその日、閣下(菅原道大)一機の特攻機の準備が出来ましたと伝えた。 じろりと見据えた菅原は今日から奉公の先が違う。とヌケヌケと答えた。と伝えられている。
陸軍にしろ海軍しろ若者にのみ犠牲を求め彼らは全く痛痒を感じず、恥ずかしいとも思っていない。何度も書くが、第六艦隊回天戦を作戦参謀として取り仕切った鳥巣健之助は「海軍反省会」で謝罪の言葉一つ発していない。人間として最低の男でありクズである。 信じるに足りる特攻戦死者はこちら
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| 第六航空軍の参謀らは、知覧からの特攻出撃に近在の女学生(知覧高等女学校・現在の中学校3年生)らに罪深い任務を与えた。少女らしく「なでしこ隊」と名付けた。 隊員の身の回りの雑用、特攻出撃で爛漫桜の小枝をうち振らせた。 彼女らの耳から爆音が消え静寂が戻ったとき、彼らが寝泊まりした兵舎に出撃した特攻兵の姿はなかった。 出撃を見送らされた赤羽礼子は手記を残す。 十五の心に耐え難い苦痛を戦後も引きずった。 |
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