第四章 回天戦の実態 人間魚雷回天特別攻撃隊の悲しい戦果
大廈(たいか)の傾復
戦艦大和TOP
一木を以て支うる能わず。一将功成らずして万骨枯るる。 前途有為の若者を消耗品とした回天戦は空しい結果に終わった。 多くの若人に死ぬことを命じた将星は痛痒を感じず、また戦後に反省の言葉さえ発せず徒(いたずら)に生を貪った。
昭和20年(1945年)6月4日、伊36潜は6基の回天を搭載して大津島を離れた。 その1基に池渕信夫(24)がいた。彼には妻があった。
『お母様もすでに覚悟はして下さったことと信じますが、特攻隊員の母として強く生きて下さい。(中略)信夫の身は再びお母さんのもとに帰ります。いつまでもお母さんの心の中に生きて行きます。(中略) 許して下さい、お母さん。黙って別れたあの夜の切ない思い。(中略) 我儘言った僕ですが、いまこそ征きます。 ・・・ さらばお母さん、お達者で。
昭和の前半は狂気の時代だったにせよ、誰がこのような暴走を許したのか。 激しい憤りの中につい涙する。 母の悲しみ、はらからの哀しみ。 1944年10月、万に一つ勝利の展望を持ち得ないあの時期に Imperial Navy は人間の尊厳を踏みにじり暴走した。 その首魁は水上特攻艦隊長官伊藤整一であり、源田実らであった。
この両名は有能な提督であり有能な指揮官では決してなかった。 筆者は彼らを英雄視する者たちを認めないし許さない。 生と死の葛藤に煩悶懊悩し無念の死を若者は強制された。
昭和20年に入ると万に一つの勝ち目はなかった。ましてや池渕信夫が出撃したこの時期無条件降伏は秒読みに入る。

知られている資料から予備学生,予科練生に対する絶対死兵器回天搭乗員募集は欺瞞に満ちたものであり犯罪に相当する。戦後この人倫にもとる回天製造と特攻死を命じたものが一切その責任を負わなかったし、取らされもしなかった。 このような無責任体質は現代の政治家や官僚にも通じる。日本人の組織の病弊だろう。
このような非道な作戦に殉じた若者の御霊やすかれと祈る。


山口県平生町阿多田交流館展示 映画「出口のない海」で使われた回天

回天隊員80人の命と引換えの悲しい戦果
 
No投入隻数隊名攻撃指向攻撃艦戦 果
艦船種
隻数状態
13 菊水泊地攻撃伊47?タンカー1 撃沈
26 金剛不明揚陸艇 1
輸送艦 2
3撃沈
撃破
33 千早戦闘海域    
42 神武    
54 多々良    
62 天武    
71 振武戦闘海域伊367駆逐艦1 撃破
84 (轟)洋上襲撃    
96 多聞洋上襲撃伊53駆逐艦2撃沈
撃破
伊58駆逐艦 1 撃破
101 神州洋上襲撃    
 32     8 
多々良隊伊53内海西部触雷を除いた数。

回天戦実績
投入
隻数
出撃
回数
潜水艦沈没
損傷隻数
損傷
損耗率
出撃
回天基数
射出
回天基数
回天
射出率
敵撃沈
損傷隻数
撃沈破率
17331030.031488054.05810.0
沈没 イ37,イ48,イ368,イ370,イ56,イ44,イ361,イ165 8艦。 損傷 イ47,イ53 二艦 イ53 多々良隊として出撃予定を含む。 この艦の消息について「戦史叢書潜水艦史」及び「戦史叢書沖縄方面海軍作戦」を注意深く読むと出てくる。
戦後米国艦艇の損害が確認できる隻数
大型タンカー1隻(ミシンネワ・1944/11/20)。駆逐艦1隻(アンダーヒル・1945/7/27)。歩兵揚陸艇LCI-600撃沈(1945/1/12)。 計3隻撃沈。駆逐艦2隻(小破,R.V.ジョンソン,ロウリー)撃破。 輸送艦2隻撃破(ポンタ・ロス,マザラ)。LST1(225)1隻小破。
菊水隊が殺到したウルシー泊地にはオーストラリヤ艦艇も在泊していた可能性も否定できない。
 回天は全部で420基程度生産する計画であったから、予想出撃回数は約100回となり、上表を当てはめると約30隻の潜水艦を失うだろう。また、回天の不具合で射出不能が 半分程度であったから単純に50%と考えると実績命中率から敵艦船の撃沈破隻数は20隻程度となってしまう。  戦勢を挽回する新兵器として特攻兵器であることを伝えず搭乗員を募集したが、  彼ら若者の命と努力との引き替えを考えると、誠にお寒い回天戦の結果となる。 海軍大学校を出て軍令部に詰めた藤森康夫はやり科学的無能者海軍を代表するような人物である。これも属人的というより海軍の病弊であろう。
 なお、海軍にはすでにこれほどの大作戦を行う重油が存在しなかった。

回天は洋上襲撃に対応していなかった!

 連合艦隊司令部は回天の性能や諸元から波涛高き外洋での回天戦は不可能と見なしていた。波高2mであっても、波長の振幅に伴う波高は山1m、谷1mである。静止出来れば波の山にも上がれるが何しろ停止不可能な代物だった。情況によっては遠距離の的(敵)を視認できない。よって当初泊地攻撃を行った。 まずウルシー泊地(位置 北緯10゜東経140゜付近)に突入。警戒厳重な泊地攻撃に、戦勢を挽回する戦果はなかった。 引き続き硫黄島を巡る戦いが始まるや、この海域に千早隊3艦を派遣。未帰還2という散々たるありさまであった。 大和水上特攻に呼応した天一号作戦以降洋上襲撃法に変更された。
天一号作戦の発動は3月下旬からだった。
「戦史叢書沖縄方面海軍作戦にみる回天隊員の回天操縦習熟度 P355」
  • 本格的に回天操縦訓練に入ったのが1944年9月5日からである。天一号作戦発動で沖縄方面海域に回天を搭載し伊44号が基地大津島を出撃した日は1945年3月28日。 戦史叢書では「この頃の各搭乗員の練度は航行艦船攻撃にはなお訓練の余地が多かったので、停泊艦攻撃を主とさせた。しかし既に泊地進入は困難であることがわかっていたが、戦況と搭乗員の練度からやむなく泊地攻撃としたのである」
    問題点
  • 回天戦は洋上航行艦船襲撃の性能を有していなかった。
  • 米軍の対帝国海軍潜水艦対策は完成の域に達し、泊地に近づけなかった。
  • 回天操縦訓練を始めて7カ月以上経過しているが、洋上襲撃を教えていない以上作戦そのものを中止すべきであった。
  • それまでに、菊水(3)・金剛(5)・千早(3)・神武(2)の作戦で投入された潜水艦13隻、失われた回天隊員38人。喪失潜水艦4隻。
  • 菊水隊 伊37潜未帰還。金剛隊 伊48潜未帰還。千早隊 伊368潜未帰還,伊370潜未帰還。神武隊は指定作戦海域に近づくこともかなわなかった。
  • 出来ない、やれない襲撃は中止すべきであった。 国体護持に奉仕するため集まった若人を戦争勝利に導く人材育成に使うのならいざ知らず、 出来もしないことをヤレ!。死んでこい。おまえ達は消耗品だと送り出すほど精神が腐りきっている帝国海軍だった。
  • 回天の潜望鏡(特眼鏡)は筒内結露防止とレンズ曇りどめ装置が無かった。訓練でもこの点は隊員に不満だった。
  • 平生交流館に展示してある奥本剛氏提供の回天潜望鏡基部である。 対顔レンズは画像の反対側。潜望鏡握把(とって)の材質は木。 どのような機能があるのか目盛りが刻まれている。回転式のハンドルは左右2個。一つはピント合わせで、もう一つは視野角度調整と考えられる。 回天そのものに乾燥空気製造設備が備わっていないので 潜望鏡筒内の結露防止と曇り止めは不可能だったことであろう。 訓練は瀬戸内の浅深度で行われたから実用上でさしたる問題は起きなかったと考えられるが、実戦では回天耐深度の80mまで潜ったから 筒内の結露とレンズ曇り止めが必要だったはずだ。
    回天搭乗員は悲しいかな使い捨てだったから、彼らから実際の襲撃における潜望鏡の実情を聞く機会はなかった。 また襲撃法を改善する手がかりも無かった。
    人命を取らぬ狸の皮算用に使った海軍を擁護する輩が許せない。  回天を扱っている書籍(回天記念会誌を含む)やWebサイトの多くが国のために命を捧げたと常套句的に使っている。これに欺されてはならない。
    21世紀に生きる主権在民の現在、国とは国民の方便であり国民国家である。国があって国民があるのではなく、国民があって国家を形成している。 イスラエルなどその好例であろう。この国の民は二千年来国土を持たなかった。ユダヤ人が集まってイスラエルという国を創りあげた。
    当時の軍部が国といえば国体のことであり、国体とは天皇を頂点とした政治体制のことである。国民は全く出てこない。  実際及川軍令部総長がが天一号作戦開始を上奏(天皇に伝える)を行ったのち、その次第を聞いた連合艦隊司令長官が作戦関係部署に配信した電令は、
    畏レ多キ言葉ヲ拝シ、恐縮ニ堪エズ。臣(天皇の家臣)副武(そえむ・豊田副武)以下全将兵殊死奮戦、誓ッテ聖慮(天皇のご心配)ヲ安ジ奉リ」云々である。 当時の軍隊は国民に奉仕する軍隊ではなく天皇に奉仕する軍隊だったのだ。 これらの事実を隠蔽しを思うなどの詭弁を弄してはならない。

    左は、山口県周南市大津島回天記念館に保存されている、海兵74期中尉松尾秀輔(20歳)の自啓録である。彼は大分県日出町大神基地に配属され、1945年8月25日に自決した。 本音であれ、建前であれ軍籍にある者は 天皇の盾であらねばならなかった。またそのように教育された。

    回天を取り上げた多くのWebサイトで米軍はこの人間魚雷は米軍を恐怖のどん底に陥れた例を第38任務部隊フレデリック・シャーマン少将の言を引いて「我々はいつ爆発するかもしれぬ火薬缶の上に腰を卸しているような感じだった」 と書いているがそれは、言葉の省略から発生している。
    彼の言は、「COMBAT COMMANDER, by AdmiRAL Frederic C.SHERMAN,E.P Dutton & Company,Inc, NEWYORK,1950(戦闘指揮官 提督フレデリック・C・シャーマン)」 の中に記載されている。いわゆるウルシー環礁内の泊地に停泊(1944/11/19・第一次玄作戦・回天菊水隊)しているという条件の中で「その日と翌晩は、いつ発火爆発するかもしれぬ火薬缶の上に腰を卸しているように感じた。休養期間を楽しむどころではなく、洋上のほうが余程安全に感じた。」
    と述べただけである。停泊している以上回避行動も取れない焦燥感を言っただけで、回天戦そのものがとんでもない脅威とは一言も述べてはいない。
    続いて、1944年12月8日連合艦隊司令部は第二次玄作戦を発令した。 潜水艦6隻でウルシー他の目標をねらい24本の回天を射出したが天をめぐらす程の戦果は望むべくもなかった。更に伊48は未帰還だった。この作戦に参加した伊58の戦闘詳報は「敵ノ油断ニ依頼セザルヲ得ザルモノニシテ警戒厳重ナラバ如何トモ為シ難カリシコト明白ナリ」と書いた。 敵の油断以外に回天射出地点に近づけない。と書いているのだ。 伊58は更に続ける。敵作戦海域150浬内(277.8Km)に近づけず200浬(370.04Km)以上で潜水用の蓄電池充電をせざるを得なかった。とも書く。   回天は泊地のような波静かで停泊している艦船を標的にする兵器である以上この作戦で止めるべきであった。 また敵哨戒機に発見されたらそれこそ一巻の終わりだった。航空機から音響追尾魚雷を投下され、その上ソノブイで魚雷と標的潜水艦の推進音をキャッチされ続けた。 ところが一大官僚組織だった帝国海軍は走り出した無謀なこの回天作戦を最早誰も止められなかった。

    戦史叢書「潜水艦史」の編者は怒りを込めて
    このような作戦を指導したのは、米軍の対潜能力に対する認識不足があった。 同書頁427。
    日本の潜水艦は音声の艦内伝達は伝声管であった。 1945年5月8日同盟国ドイツが降伏し、神戸に2隻。スラバヤ、シンガポールに各2隻のUボートが在泊しており、その艦を帝国海軍が領収した。 Uボートで艦内連絡はマイクであることを知る。


    第三章 回天開発小史 運用編・募集  第五章 搭乗員の戦死と投入潜水艦

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