第三章  海軍人間魚雷回天開発小史 募集許されざる方法。 運用編
人間魚雷回天
戦艦大和TOP
開発小史歴史編 用兵側の詐欺師・ペテン師らは人間の尊厳を踏みにじる兵器の開発に着手した。
技術・機能編 一人では乗りこなせない欠陥兵器。また人間が操縦する兵器で後進・停止が出来ない最悪な兵器だった。
大平正芳語録   【総理大臣 1978年(昭和53年)12月7日 - 1980年(昭和55年)6月12日】
 『権力はそれが奉仕する目的に必要な限り許されものであり、その目的に必要な限度において許されるものである。』
 回天はその誕生から許されざる兵器であり、回天搭乗員募集も許されざる方法であった。
特殊兵器要員に充当すべき海軍予備学生の選抜並に教育等に関する件 申進
機密第三号−62
起案 昭和19年8月20日
発令 昭和19年8月21日
   発:海軍省人事局長・海軍省教育局長
     発令者 海軍省人事局長 水戸 寿(少将 S18/6/15〜S20/5/7)
           海軍省教育局長 高木惣吉(少将 S19/3/1〜S20/5/5)
   宛:横須賀鎮守府参謀長・呉鎮守府参謀長
【予備学生に対する募集】 要旨
昭和一九年八月二〇日起案  八月三一日発布
海人三機密第三号の六二
昭和十九年八月三十日
  特殊兵器要員に充当すべき海軍予備学生の選抜並に教育等に関する件申進
 臨時魚雷艇訓練所に於いて教育中の第四期海軍予備学生並に第一期予備生徒より ㊅ 兵器搭乗員及甲標的艇長適任者各五〇名を選抜し之が教育は第一特別基地隊に於て実施のことに定められ候条左記に依り処理相成度
 追而志願者の募集選抜に当りは兵器の性能用法等に触れざることは勿論家族等とも連絡せしめざる等特に機密保持に関し可然配慮相成度
 −選抜要領,選抜者の入庁,教育− 略
別紙
 志願者募集に当り説明要旨
一、今や敵の反撃は随所に熾烈を極め戦局は急激に緊迫真に皇国の興廃を決するの秋至れりと謂うべし
  此の秋に当り我が海軍に於ては有力なる特殊兵器をも使用し此の驕敵を粉砕し国防の重責を全うせんとす
  右特殊兵器は挺進肉薄一撃必殺を期するものにしてその性能上特に危険を伴うものなるが故に、諸子の如き元気溌剌且攻撃精神特に旺盛なるものたるを要す
二、項 略
三、本兵器の搭乗員となりたる者の身分待遇は凡て航空機搭乗員と同格又は夫れ以上に取扱はる
備考 兵器名は示さざるを要す
 この文書にはこれが「自爆兵器」だとは一言も述べていない。また言ってはならないとしている。もちろん「特攻兵器」だと一言も伝えるなと言っている。
ペテン師・詐欺師組織だった海軍
 隊員募集に際し、青年らにこれが自爆の特攻兵器だと伝えるな! また家族にも一切連絡させるな! と付記している。海軍兵学校、大学校卒業者はこの時点で人命をもてあそぶヤクザな詐欺師,ペテン師だった。  戦後非公開を前提に旧帝国海軍の蒼々たるメンバーが敗戦の原因を語り合った証言録が「海軍反省会 PHP研究所 2009/8/19発行」で種々語られているが、純真な青年を欺いて特攻隊員を募集したことなどの反省の弁は一切ない。
彼らはやましきがゆえに沈黙している。  特攻での全戦死者数はこちら
【甲種飛行予科練習生に対する募集】  予科練・甲十三期生 高塚篤著
発令者に「航空本部総務長」があった。としている。
   航空本部長は塚原二四三 中将(少将 S17/12/1〜S19/9/14)
 八月二十七日朝から(司令)森本少将 (注1) の顔は曇っていた。 この甲十三期生は錬成なれば九月頃には台湾、フイリッピンで次の飛行錬成に入る予定であった。 そこに 「㊅ 兵器要員選抜に関する件」を伝えよとの命令が入った。 水中特攻兵器(回天・海竜・咬竜)搭乗員百名を志願させよというものだった。  ただし森本司令は「志願者募集に当り説明要旨」を棒読みにした後言葉を続けた。声が涙で途切れながら「せっかく航空機搭乗員を志して来た諸子に対し、航空機以外の募集を行うののは、 本官として、誠にしのびない。できうれば今すぐにでも飛練に行かせたい。戦局は全く予断を許さなくなって来ている。かかる特攻兵器が開発されたのも当然の趨勢と思う。 
−−以下略−−

 森本司令の良心は海軍が秘密にせよと云っている兵器についてそれは生還絶無の特攻兵器だと言わしめた。 滋賀空はこれを最後として回天要員の募集は行われなかった。もちろん森本司令はその後解任さてしまった。

(注1) 森本少将が、滋賀海軍航空隊司令に着任したのは昭和19年8月15日。
いかなる組織であろうとも、上司と部下には揺るぎない信頼関係と、助け合える仲間が居る。という条件の下、組織として最大の力を発揮する。よく戦友愛を聞く。命を託し会える最高の仲間なのだ。 特攻はこの上下の関係に不信と憎悪を持ち込んだ。 第六艦隊(潜水艦部隊)作戦参謀鳥巣健之助は、出撃した潜水艦の乗組員に「お前たちは死んでこい」戦果はこちらで作る。と罵倒した。 ただし、特攻隊員募集と特攻兵器開発製造及び特攻部隊の編成や作戦について鳥巣健之助だけを責められない。 陸軍第六航空軍で航空特攻作戦を立案した倉澤清忠は、戦果は二の次、お前たちは死んでこい!と獅子吼した。
この上下,同僚間の信頼関係を断ち切ると日本人で構成されている組織はどのようになるのか。過去の例から、パソコンなど製造販売していたF士通。米国式経営を取り入れるとして、社員全ての貢献度を点数評価する制度を導入した。点数を付ける側の点数は誰が付けるのか? また働き具合をどのように点数化するのか? 相互不信を招き、業績は急降下数千人規模の人員整理を余儀なくされた。日本人を使うには欧米式の一見合理主義に見える制度は馴染まない。絶対的平等が我々の感情を支配していることを忘れてはならない。


適任者選抜
(1)海軍水雷学校長・臨時魚雷艇訓練所長をして適任者を選抜せしむ。
 ■ 海軍水雷学校長 大森仙太郎(S18/11/25〜S20/8/10)
 海軍省TOPは汚れ役を全て大森仙太郎にやらせたのか? 水雷学校は各鎮守府の隷下であった。
 高木惣吉は早期終戦派と云われているが、回天搭乗員に予備学生(学徒兵)を充当し磨り潰そうとしたとしか思われない。このような背景があって元山航空隊青木泰次郎司令の下で航空特攻を予備学生の墓場としたのであろう。
また、当の予備学生らもこのような起案がされているなど知るよしもなかったことであろう。

回天は洋上襲撃に対応していなかった!
菊水隊(イ36・イ37・イ47 S19/11/8・回天12基),金剛隊(イ56・イ47・イ36・イ53・イ58 S19/12/21〜S20/1/9・回天24基)
千早隊(イ368・イ370・イ44 S20/2/20〜S20/2/22・回天14基)
千早隊3艦は散々たる結果であった。硫黄島海域に向かうも敵哨戒線を突破できず伊368,伊370を失った。 伊44号は敵制圧下回天射出点に達することが出来ずに帰還した。回天搭乗員 土居秀夫・亥角泰彦・館脇孝治・菅原彦五生還。  彼らを連れ帰った潜水艦長に用兵側は罵声を浴びせた。そして更迭されられた。
神武隊(イ58・イ36 S20/3/1〜S20/3/2・回天8基)
千早隊の失敗にも懲りず硫黄島海域に派遣された。敵制圧下進退きわまった2艦に作戦命令が示達された。
多々良隊(イ47・イ56・イ58・イ44 S20/3/29〜S20/4/3・回天20基)
千早隊、神武隊の失敗にも懲りず今度は沖縄海域(多々良隊)に派遣された。伊56と伊44が未帰還となった。残る2艦も満身創痍で帰還した。 2月23日伊44潜で生還した土居秀夫・亥角泰彦・館脇孝治・菅原彦五の四名はこの出撃で艦もろとも撃沈(S20/4/17)され戦死した。
天武隊(イ47・イ36 S20/4/22・回天12基)この隊から泊地攻撃・戦闘海域出撃が変更され補給線襲撃方法に転換された。回天2基故障で生還 新海菊雄、横田寛。

おそらく視認不可能だったはずだ。眼高1m 波高2m 物理的に波に対して平行でかつ波長頂点に達しなければ相手が見えないはずである。 ただし、回天で出撃した誰一人生還していないので、戦訓を得る方法がなかった。 よって有効な攻撃法さえ編み出し得ない。 このようなマッチ(点火用具)に等しい人命軽視の兵器はない。  2007年Hという法務大臣が誕生し断続的に13人死刑執行を行った。 一部のマスコミは死神と書き立てた。
波高2m程度の海上では視認距離に上図のような物理的大前提があったので、回天戦は泊地進入強襲での運用を企図するものだった。
洋上決戦兵器ではなく、敵の寝込みを襲う兵器でそれ以上でもそれ以下でもなかった。 「回天」 は戦勢を挽回できる兵器ではなかったし限界があった。 このことは回天隊員の刻苦努力とは全く関係ないことでもあった。
振武隊(イ367・回天5基)
沖縄東方洋上に派遣された。千葉三郎・小野正明発進戦死。3基故障のため生還 藤田克己・吉留文夫・岡田純
轟隊(イ165・回天2基)
大型潜水艦のやり繰りが付かず艦齢10年の二線級潜水艦が投入された。回天2基しか搭載出来なかった。6月27日撃沈された。

用兵者の思惑どおり回天は戦果を挙げ得なかった
T.Imperial Navy (帝国海軍)
 1)母艦となる潜水艦静謐性が全く備わっていなかった。 大騒音潜水艦だと知ったのは昭和17年8月のことである。
 2)回天戦開始時点で母艦にシュノーケル(潜行のままでの空気取入れ装置)が備わっていなかった。
夜間8時間程度浮上し充電(蓄電池・潜航動力源)する必要があった。昼間16時間で毎時3ノットで航行しても敵への接近は 90Km 程度である。 技術的進化から全く置き去りにされていた帝国海軍潜水艦部隊であった。
 3)回天の洋上使用は気象・海象に大きく制扼され、1日24時間の中で襲撃は黎明時に限定された。
 4)回天の接敵法は目視以外の方法が備わっていなかった。対物レンズに波涛飛沫が付着すれば視認性は
   阻害された。 また特眼鏡内の温度変化に伴うくもり止め防止機構が備わっていない。
   これは寒い日眼鏡を掛けたままラーメンを食すに似ていた。まったく前が見えなかった。
   回天隊員は一度母艦から離れたら最後全員戦死したので兵器の改善の糸口さえつかめなかった。
 5)魚雷の爆発尖通称2号爆発尖早発問題が解決されていなかった。

U.連合国
 1)潜水艦発見兵器は現在に通用する装置(ソノブイ)を開発運用した。
 2)航空機による磁気探知も日本の数倍の性能を有していた。
   日本の磁探は高度10m 以下での飛行を要した。東海という航空機がこれにあたった。
   1944年(昭和19年)潜水艦は32艦就役したが同年57隻喪失した。「戦史叢書 沖縄方面海軍作戦 P76」
   事故沈没2隻を除く。1944年4月4日トラック島伊169。 6月13日伊予灘伊33。

V.趨勢・戦勢・その他
 1)連合国の対潜防御は完成度が高く、泊地はもちろん洋上での接敵は不可能になった。
 2)回天1型は敗戦まで約420基製造された。
 3)第一次隊員士官42,下士官兵50。   第二次士官210,下士官兵800 採用した。
 4)硫黄島攻防戦(1945/2)で回天千早隊3潜水艦を派遣したが、2艦は未帰還となった。

W.回天戦を行う潜水艦長らは
 1)現行回天搭乗員の伎倆(ぎりょう)は洋上襲撃での成果を期待できない。
 2)現有潜水艦の性能、装備で警戒厳重な敵の洋上泊地に進入し、回天攻撃を加えることは無謀である。
   と具申したが、取り上げられることは無かった。


X.運用組織第6艦隊(潜水艦部隊・先遣部隊と呼ばれた)では
 1)海軍が置かれている現状戦況から哨戒艇に遭遇した位で引き返すとは言語同断。
   哨戒のシステム化と探知・対潜兵器ヘッジホッグを知らなかったのであろう。
   また、帰還するなとまで云われた。戦果は俺たち後方の者が作るとうそぶいた。
 2)出撃する潜水艦長に回天戦は人間が乗っていると思うな。射程10Kmの魚雷を発射するつもりで取り組めと檄を飛ばした。
第六艦隊での独自作戦は出来なかった。連合艦隊の指揮下であり、回天戦実施時の連合艦隊司令長官は豊田副武。同参謀長は草鹿竜之介。 当時の連合艦隊司令部当時の面々
回天戦が始まると、実際に回天戦を命じる駆逐艦長の懊悩は続く。ところが本来被害者的立場の第六艦隊司令部員は己の武勲を誇ることに狂奔する。 最早若者の強制死を阻む障壁は無くなった。回天戦の実質的実行者鳥巣建之助は勢い付く。戦後も鳥巣のやましき沈黙は続き饒舌だった。
回天戦を実行する第六艦隊(潜水艦部隊・於:司令部 筑紫丸〔呉在泊〕)
司令長官 三輪茂義 S19/7/10〜S20/4/30  前職潜水艦部長
 〃     醍醐忠重 S20/5/1〜  戊辰の役、奥羽鎮撫総督府参謀醍醐忠敬の末裔。戦犯として刑死。
参謀長   仁科宏造 S18/11/15〜S19/12/20
 〃     佐々木半九 S19/12/21〜
参謀     鳥巣建之助  回天作戦面を実際に取り仕切った。

戦後米損害で確認できる戦果
大型タンカー1隻。駆逐艦1隻。 計2隻撃沈。駆逐艦1隻、LST 1隻、輸送船1隻撃破。
日本側の戦果発表
空母2,戦艦3,巡洋艦11,特設空母1,水上機母艦1,駆逐艦5,輸送船23,合計46隻撃沈。 79基*1発進させているので命中率は58.2%である。  戦後の照合で回天命中率は6.3%。
なぜこれほど甚だしい日米の戦果の違いがでたのであろうか? 実際回天が戦場に出現した日以降、撃沈された 米空母は1隻も存在しない。
回天は射角表と秒時計で目標への接近を知る。だが最終的には露頂し特眼鏡(1m)に波浪がかからないようにして目標を視認 しなければならない。
魚雷発射の大前提がある。迎角発射である。追尾角発射では命中はおぼつかない。好例はレイテ沖海戦第十水雷戦隊が追尾距離13Kmで魚雷を 発射した。第十戦隊は命中を報告したが、戦後の米側記録で1発も命中していない。これについて戦史叢書捷号作戦編者も魚雷をこの距離で発射することこそバカげていると手厳しい。
A.射角  B.方位角  C.照準角  D.射進角  d.照準距離  S.的(敵)速  V.雷速
sinA=S/V*sinB により射進角を求め操縦する。 敵の方位角を正しく測定(途中で少しでも変進するとパー)することが大前提である。的(敵)速が変化なく変進もなく、 距離15,000mで回天を発射したとする。射進角がたった1度間違っても目標到達まで260mもずれるのだ。よって途中で露頂し(このとき教科書では3Kt・5.6Km) 的(敵)速、照準距離を目測で求めなければならない。人間の脳というアナログコンピータで処理すれば的中はほとんど不可能であろう。あなたがもし500m程度の直線道路で対向車(500m先)の車両速度と 自己車両の速度から、何秒後に衝突するか求めるに似ている。
よって初期運用は泊地停船中をねらうことにしている。 戦争中であり簡単に泊地内に潜入できなかったし、何しろ回天は後進もできなかった。その上回転半径も大きく旋回角90度変えるだけでも45秒程度必要だった。 また後進は全く不可能であり、簡単な漁網でも回天の進入は防げた。環礁内の狭水道を抜けるためのランドマークも示されず、ただ命を捨ててこいだった。
更に魚雷爆発尖は最後まで改善されなかったので早発が起こりえた。おそらく母艦側は回天射出と時間から 爆発があれば、射出時の目標が沈んだと報告したのであろう。たとえそれが直近の早発であっても撃沈!となったと思う。  おそらく回天搭乗員は現在我々が簡単に知ることが魚雷爆発尖の不調は知らされていなかった。  また射出した母艦側は確実に何分か前には生きていた人間の命が失われた現実の中で戦果無しでは耐えられなかったであろう。  一人のオペレーターでトリム(ツリム)を取りながら直進さえ難しい回天であったから、過大な戦果が挙がると期待した作戦運用者の頭脳が常軌を逸している。
作戦運用者はこの兵器に戦勢挽回の切り札と取らぬ狸の皮算用をした。爆薬が1.5トンだ、1発で沈まない軍艦はない。彼らの思考は単純である。 第一人間が自らの死に向かって正しい計算を行い、不完全な兵器を操れないという思考が欠落していた。戦後の米側照合で見事にこれを証明した。
日本軍が使用していた爆薬(炸薬)は米軍と比較し低威力品だった。実態はこちら
*1 1945年12月玄作戦伊53潜コッソル水道襲撃で回天1基射出後すぐに爆発。これを除くと79基の発進。
米側は潜水艦搭載の対空・対艦用レーダーをフルに使用したが、帝国海軍は電波を出すことを蛇蝎のごとく嫌った。 末期には仮称2号2型レーダーを搭載したが滅多に動作させていない。当然回天射出距離でこれらの電波兵器で探索と沈没検証など行われなかったことであろう。 またこのレーダーの保守点検は大変でおおよそ50%程度の稼働率だった。詳しくはこちらで
劣悪な装備・装置で勇戦奮闘した第六艦隊の諸士には頭が下がるが、何しろ欠陥兵器(当人たちは知らない)で戦ったのだから、戦果もレーダー確認などでの検証は行わなかったものと考えられる。 潜水艦の戦果報告で爆発音を聞いた!。 黒煙が天に冲するをみた!などがあるが、 黒煙を見たのは露頂しての肉眼視認ではなく潜望鏡だろうから、不鮮明でも写真撮影など動かぬ証拠でもって戦果報告をさせるべきであろう。 戦後戦勝国米国の情報開示情況から、往時の記録まで改竄する必要はなく、 日本側の過大戦果報告だったと信じざるを得ない。

先遣部隊(第六艦隊出先機関・基地側)は泊地攻撃は警戒厳重であり回天戦を強行すればいたずらに母艦の損失を招くとし、洋上待機襲撃法を具申した。 一方連合艦隊司令部は回天潜望鏡(倍率6倍特眼鏡・1m)では波涛高い洋上においての運用は困難との見方だった。  回天はその構造上泊地という波静かな場所で使う機能しか備わっていなかった。 瀬戸内の波静かな訓練しか経験しない回天隊員に波高が例え2m程度(洋上では凪に相当する)であっても 襲撃途中で露頂し敵艦の的速、方位、進行方向を割り出すことは不可能であったことであろう。 初回の玄作戦の成功。米軍はまさかこの様な無謀な潜水特攻兵器で攻撃をうけることを想定していなかったと思える。 続いて第一回玄作戦に味を占めたのか、第二次玄作戦が実行された。
 1944年12月21日以降出撃の金剛隊(潜6・回天24基)の攻撃(泊地攻撃は不可能)を最後に回天戦はやめるべきだった。
帝国海軍は同じ手を何度も指している。最初だからある程度成功するのであって、柳の下に「どじよう」はいつもいない。
  -- 戦史叢書「沖縄方面海軍戦史 頁656ほか --」

日本の空襲七 中国・四国編 昭和20年(1945年)に入ると93式魚雷のエンジン製造は全く不可能であった。と現場でこの製造に 携わった学徒の手記が掲載されているし、日本海軍史でも製造魚雷エンジン推移からも伺える。
続き 回天搭乗員の戦死と投入潜水艦

伊44潜川口源兵衛艦長(兵66期)は闘志不足として更迭された。 新任増沢清司艦長(兵65期)は沖縄戦多々良隊で出撃し撃沈された。
伊44潜は1945年2月22日回天4基搭載して硫黄島海域に向かった。米索敵機は潜水艦を求めて常時哨戒飛行を行っており、たちまち発見された。爆雷攻撃をなんとかやり過ごし2昼夜近く潜行を続けやっとのおもいで危機を脱した。  当時の米軍の対潜システムは完璧であり、作戦海域150浬圏で浮上しようものならたちまち哨戒機に発見された。 このような情況で伊44潜は回天戦不可能と判断した。 この旨電報を発したが、先遣部隊(第六艦隊)は不着(実際は無視か?)とした。一方聯合艦隊は作戦変更で帰投を命じた。 早速査問会議(名称は研究会)で艦長更迭。

先進国潜水艦が普通に備えていたシュノーケルはい。

戦史叢書潜水艦史で以上のような概況を記しているが多く言葉を濁している。

小灘利春+片岡紀明著「特攻回天戦」P176〜によると先遣部隊(第六艦隊)鳥巣建之助(58期・中佐)参謀は艦長に向かって「卑怯未練」と罵倒。"潜水艦は沈んでこい。戦果は俺たちで作る。"
Imperial Navy という蛸壺社会で参謀職は一応頭が良い人物が就任したと伝えられている。  多くの部隊で(全海軍部隊)でこの手の参謀がウソ(虚)戦果を計上し競いあったのであろう。 天皇もとんでもない臣下を持ったものである。
これらの大嘘戦果に気づいたのは1945年5月頃(回想の譜 光海軍工廠・前:妹尾知之工廠長回顧談)のことであった。  Imperial Navy の敵は鬼畜米英でなく獅子身中にあった。 彼らは天皇と国民を欺せば連合国に勝てると思っていたに違いない。

阿多田交流館
この館に1945年8月18日自決した中尉橋口寛(21)の絶筆が保管されている。高杉晋作の
後れても 後れても又 卿(君)達に誓ひしことば
われ忘れめや われ忘れめや

その前頁には大津(徳山大津島基地)秋愴
光(光基地)狂嵐 佐賀(平生基地)月明と書く。
これはそのまま基地の空気であったのか。 人間を消耗品とする回天はこの前途ある若者に重き軛(くびき)を課した。

伝えられる国家公務員の堕落を聞くとき、ひたむきだった若者につい涙する。

橋口 寛自啓録
阿多田交流館展示 橋口 寛自啓録
Imperial Navy (帝国海軍)で一人を失うことは何十万分の1だが、家族にとっては全てを失う。
高杉晋作の詩は慶応元年8月6日、馬関桜山招魂場祭事で詠まれた。「後れても後れても君たちに誓ひし言を吾れめや」

第二章 回天開発小史 技術・機能編  第四章 回天戦の実態 悲しい戦果

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元山航空隊予備学生の墓場   特攻の時代と特攻隊員の遺書を考える   誰が航空特攻を主導したか 科学音痴海軍兵学校出身者   海軍の戦争犯罪 源田 實は人命軽視の超国賊   海軍の非人間性+戦争犯罪 大和水上特攻作戦と連携   航空特攻 逃亡と無能な陸海エリートたち   なぜ、今、戦争責任の検証か。渡邉恒雄   渡邉恒雄(讀賣新聞・主筆) 下劣で戦争犯罪組織と化した海軍   菊水作戦と第六航空軍 陸軍第22振武隊   人間魚雷回天特別攻撃隊   回天搭乗員の戦死と投入潜水艦   人間魚雷回天特別攻撃隊の悲しい戦果   人間魚雷誇大戦果はなぜ?

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