第一章  海軍人間魚雷回天開発小史  歴史編
人間魚雷回天
戦艦大和TOP
第二章 【開発小史 技術・機能編】 一人では乗りこなせない欠陥兵器。
                       また後進・停止が出来ない最悪な兵器。
第三章 【運用編】 回天はその誕生から許されざる兵器であった。
            また隊員の募集も詐欺師・ペテン師的な方法だった。
第四章【回天戦の実態】 
第五章【搭乗員の戦死と投入潜水艦】 
結果からみると労多くして益少なかった回天戦をいくら追いつめられたいえ、斯くも強引に輸送用に開発した潜水艦や寿命が尽きかけた昭和5年(1930)に製造したクソボロ潜水艦まで使用し人殺し的作戦を進めたのか。? 彼らは潜水艦が特別な兵器という思い込みがあったことを窺う資料がある。
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内閣情報局『週報238号』昭和16年4月30日号。太平洋問題特集「通商破壊戦と船舶保護・海軍省」以下、
最近の潜水艦や飛行機の著しい進歩は、とりわけ通商破壊戦にすばらしい威力を発揮している。 −中略− 特に潜水艦のもつ独特な性能として制空権制海権に関係なく、敵の監視を潜(くぐ)つて自由に水中を横行独歩することは敵商船にとつてこれほど恐ろしいものはない。
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潜水艦に対する彼らの認識は、制海権や制空権に関係なく、横行独歩できると信じていたのである。


情報局(じょうほうきょく)は、1940年12月6日に発足。国際関係が悪化をたどるなか、 各省庁にまだがる情報事務を統合して設置された日本の内閣直属の機関。  初代総裁(局長)伊藤 述史(いとう のぶふみ)
太平洋戦争開始直前のこの時期、海軍の軍人らは、潜水艦は制空、制海権に関係なく横行独歩できる兵器とみなしていたことが窺える。彼らは水中に潜んだ潜水艦を発見する航空機や測的兵器。制圧攻撃兵器を開発していなかったことで、 敵対する諸国もそのような兵器を持っていないという思いこみ解釈していたのである。 実際に戦争が始まると、哨戒機に油垂れ流し日本潜水艦は昼間簡単に発見され、夜間は艦艇の測的兵器(レーダー・ソナー)でこれまた簡単に発見され、 ヘッジボッグで制圧されている。自分が持っていないものは相手も持っていない。と至極物事を単純化していたのであろう。
戦後になって、米軍資料と照らしたとき、回天戦実績が僅少だったことを知ってもなお、いや米軍が情報を隠している。と疑心暗鬼だったと伝えられいるのも潜水艦が横行独歩できる特別な兵器という思い込みのなせる業かも知れない。
著名な戦史家 S.M Morison は、その著書で日本が終戦をむえたとき、その対潜装備は開戦時とおなじだった。非常に正確に作動する爆雷も、航空機搭載用爆弾ももたなかったのである。彼らは敵潜水艦に損害を与える爆雷を、どこに投下するかという主に数学的な方法を解決できなかった。日本は対潜攻撃法を手中にできず、そして米潜水艦を攻撃したときは、いつでも撃沈したとひとりよがりに考えていた。

 海軍最年少駆逐艦天津風艦長森田友幸はその著書で対潜索敵訓練など一度もしなかった。と書くように昭和16年(1941)当時の海軍は将兵も技術者も対潜哨戒用航空機(レーダー搭載)が出現したり、潜没潜水艦探索のソナー(SONAR)や、ソノブイ(SONO-Buoy)など、科学技術の発展などその頭の片隅にさえ思い描けなかったと考えられる。
 レイテ沖海戦の前日、昭和19年(1944)10月26日早朝パラワン島沖を対潜警戒序列で航行(18kt)する第二艦隊第一戦隊(戦艦3,重巡6,軽巡1,駆逐8)のど真ん中に忍びよった米潜により摩耶は轟沈、愛宕は間もなく沈み、高雄は大破した。そのような戦訓があるにも係わらず、戦艦大和出撃に際し、豊後水道までの海域で大和を敵艦にみたて駆逐艦による強襲雷撃訓練をしている。 海軍の戦歴を読みながら、海軍は「身の程知らず」のクソバカらが戦ったことがうかがい知れる。言い換えれば海軍兵学校の教育が時代遅れの陳腐な教育だったのであろう。
 無謀とも思える回天戦は彼ら(海軍)の技術力(兵器)と思考方法を考えなかったなら理解しがたい。S.M Morison がいうように、救いがたい感情に支配されていたことが分かる。
 本章では人間の尊厳を踏みにじる愚劣で最悪な兵器にどのような組織がそして誰が関与したかを出来るだけ解き明かしたい。 回天戦そのものが敵の対潜能力を無視しては成り立たないと素人目でもハッキリしている。 また人間の使い捨て戦法では戦訓からその効果的襲撃法を改善する糸口さえない。当時の帝国海軍の対潜能力は低く潜水艦への爆雷攻撃は目算と勘に頼っていた。 日米の対潜能力はこの時期懸絶していたのである。 また魚雷の爆発尖に問題を抱えていた。   早発はこちらでも。

山口県平生町阿多田交流館展示 映画「出口のない海」で使われた回天
回 天 兵 器 略 史
昭和18年
(1943)
12月28日機関科黒木、兵科仁科上京。海軍省軍務局吉松田守中佐を訪問。回天兵器図面提示。 のち、軍務局第一課長山本善雄大佐へ面接。
山本は最期の軍務局長(S20/11/17〜11/30)。在任僅か十三日
昭和19年
(1944)
2月21日頃黒木、仁科再度上京。人間魚雷による停泊艦艇攻撃法の採用を吉松田守中佐に進言。 軍令部に連絡するとともに吉松は軍務局第一課長山本善雄大佐に上申。
2月26日軍務局第一課長山本善雄大佐、呉工廠水雷部に㊅兵器3基試作を命ず。
当時の呉海軍工廠長水戸由彦(中将)
6月7日 ㊅兵器試作完成。
7月8日 軍令部総長嶋田繁太郎大将参内奇襲兵器出現し、訓練研究養成等の組織として
第一特別基地隊を設置、呉鎮守府部隊に編入したいと言上(天皇に言上)。
天皇は人の絶対死を容認した。馬鹿なことはヤメロとは一切おっしゃらなかった。
7月10日 第一特別基地隊を開設。最初の司令長官は長井満。
7月21日 軍令部総長よりGF長官宛大海指431号にて特攻兵器を含む作戦立案を指示。
7月下旬 ㊅兵器2基完成。 合計3基となる。
8月1日 海軍大臣決裁。㊅兵器を正式兵器と定め「回天一型」と命名。
軍令部は回天130基生産を要求。
8月5日 伊41潜艦長板倉光馬少佐を「回天戦力化担当・水雷参謀」を命ず。
8月24日 海軍省人事局ほか「回天搭乗員選抜等に関する件」申進。
その募集は欺瞞に満ちたものであった。絶対死ぬと伝えるな。家族にも連絡させるな。
人の子の命を虫けら同然に扱った。国を守るために死んでくれ。愛するものを守るために死ね。など片言隻語もない。
周南市回天記念館(公的組織)はウソ八百を掲げている。当時の犯罪の片棒を担いでいると断言せざるを得ない。公的機関だけに恥ずかしい。
8月31日 「特殊兵器(回天)に充当すべき予備学生の選抜並びに教育に関する件」申進。
回天開発小史
海軍首脳部がまだ特攻兵器を考えてもいなかった昭和18年(1943)秋、機関科の大尉が水中特攻兵器を考え具申したが容れられなかった。   すなわち、
潜水艦戦の経験のない機関課大尉の発案
潜水艦が魚雷発射圏内に接敵出来ないという現実に疎い機関課出身者の発案を窮鼠となった用兵首脳部が兵器化した。 九三式酸素魚雷の欠陥には目をつぶり*1実戦に投入したがその思惑どおりに展開することはなかった。
彼(黒木博司)は狂信的ともいえる平泉澄(ひらいずみきよし・東京帝大教授,皇国史観の代表的歴史家)学派の信奉者を自認していた。 彼が育った時代、
巷には
「五族協和」  〔日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人〕
「王道楽土」  〔1932年、満州国建国の際の理念〕
「精神作興」  〔精神を奮い起こすこと〕
「暴支膺懲」  〔暴虐な支那(中国)を懲らしめよ〕
「一億一心」  〔大御心を仰いで一億人が一つの心を持つ〕
「枢軸」
「生存圏」
「大東亜共栄圏」 〔日本を盟主とする共存共栄の新たな国際秩序〕
「八紘一宇」  〔天下をひとつの家のようにする〕
「国民総武装」
「鬼畜米英」

という言葉が満ちあふれていた。
昭和19年(1844)に入り戦局の態勢挽回が絶望的になった3月、海軍省軍務局は人間魚雷3基試作を支持した。
当時の海軍省軍務局長 岡 敬純 (Oka Takazumi) S15/10/15〜S19/7/18
■海軍省軍務局長
岡 敬純 経歴 S15/10/15〜S19/7/18  在任中回天試作化始まる。  この間少将から中将
   海軍次官 S19/7/18〜S19/8/5
   鎮海警備府司令長官 S19/8/5〜S19/9/9   鎮海に左遷されや、がて予備役となる。
   極東軍事裁判 終身禁固。
続く軍務局長
多田武雄 (Tada Takeo ) S19/8/1〜S20/5/14 後海軍次官で敗戦。
保科善四郎 (Hoshina Zenshiro) S20/5/15〜S20/11/16
山本善雄 (Yamamoto Yoshio) S20/11/17〜S20/11/30
■海軍省人事局長(隊員の募集)
水戸寿(少将) S18/6/15〜S20/5/6  水戸は多田武雄の後を受けて敗戦後の海軍次官。
■海軍省教育局長(隊員の募集)
高木惣吉(少将 S19/3/1〜S20/5/5) 彼も詐欺師ペテン師の類であった。

当時の軍令部TOP
■部長 嶋田繁太郎 (S19/2/21〜S19/8/2)  海軍大臣兼務 (S16/10/18〜S19/7/16)
■次長 伊藤整一 S16/9/1〜S19/12/22   第二艦隊司令長官として転出。沖縄水上特攻で戦死。
  〃  塚原二四三 S19/3/1〜S19/7/29  一時期次長二人制があった。塚原は航空本部長兼務。
                             S19/9/15付 横須賀鎮守府長官として転出。

■第一部長 中沢 佑 S18/6/15〜S19/12/5  作戦
■第二部長 黒島亀人 S18/7/19〜S20/5/27  艦船・航空機及び兵器の選定整備部局。
軍政機関も軍令機関も総ぐるみで殺人兵器の開発が進められたことが判明する。
このような人間たちが死の兵器を製造させた。その搭乗員募集は当時の人事局長水戸寿、教育局長高木惣吉が申達した隊員募集要綱は欺瞞に満ちたものであった。 海軍日米主戦派が敗戦必死の現況を挽回せんと企み人間を消耗品とする兵器を採用したことになる。 極東軍事裁判にかけるまでもなく日本人による法廷で裁きたくなった。
回天戦を実行する第六艦隊(潜水艦部隊・於:司令部 筑紫丸〔呉在泊〕)
司令長官 高木武雄 S17/3/17〜S19/7/9
 〃     三輪茂義 S19/7/10〜S20/4/30  前職潜水艦部長
 〃     醍醐忠重 S20/5/1〜  戊辰の役、奥羽鎮撫総督府参謀醍醐忠敬の末裔。B級戦犯として刑死。
参謀長   仁科宏造 S18/11/15〜S19/12/20
 〃     佐々木半九 S19/12/21〜
参謀     鳥巣建之助  回天作戦面を実際に取り仕切った。
第六艦隊での独自作戦は出来なかった。連合艦隊の指揮下であり、回天戦実施時の連合艦隊司令長官は豊田副武。
同参謀長は草鹿竜之介。当時の連合艦隊司令部面々
海軍省軍務局と軍令部
1.1944年2月26日 海軍省軍務局第一課吉松田守中佐はその上司山本善雄(兵47・第1課長*2)と協議し、 密かに呉海軍工廠魚雷実験部に試作を命じた。
  −−海軍省軍務局第一課は人間魚雷3基の試作を呉海軍工廠魚雷実験部長に指示−−
  呉海軍工廠長 水戸由彦(S18/9/15〜S20/5/1・中将)
2.7月のはじめ頃試作三基が完成。 搭乗航走を行う。
3.1944年7月10日 人間魚雷回天試作完成を受け第一特別基地隊(司令長官長井 満少将)が直ちに編成された。  第一特別基地司令部で航走実験が行われ、のち軍令部員を含めた兵器採用可否の審議が行われた。  長井満(少将)も回天兵器化に熱心であった。
  −有人航走は開発者黒木博司,仁科関夫。実験は大入魚雷射場。
  実験航行は1号艇に黒木が乗った。エンジン始動回天は動き出す。白い航跡が海中を走った。
  約5分して前方の海面に回天はポッカリ浮かんだ。観覧者から「浮いた」「浮上」と一斉に叫び声が起こった。
  引き続き仁科乗艇の2号機が発進した。観覧者の乗っている高速艇の前方八百メートルにこれもポッカリと
  浮いた。 後にも先にもたったこの2回の試験航行で生産が開始された。
早速討会議が開催された。その検討事項及び任務等は
(1)呉鎮守府部隊(人間魚雷工作庁)に編入
(2)奇襲兵器全般の研究
(3)特攻隊員の募集と養成
参加した組織・機関
海軍省軍務局、軍令部、潜水艦部、艦政本部等の中央関係者。 第六艦隊参謀(潜水艦運用艦隊)、司令、潜水艦長、潜水学校教官、呉工廠関係者、黒木大尉、仁科中尉。 設計・試作責任者渡辺技術大佐から㊅金物の要目説明がなされた。
4.7月下旬 乗員脱出装置の検討など行うも製作不可能とし海軍大臣の正式兵器として決裁を仰いだ。
  ― 人間魚雷回天の名付け親は後に特攻部長となる大森仙太郎
5.昭和19年(1944)8月1日 海軍大臣 米内光政 S19/7/22〜 正式兵器として許可。
   米内光政が最終決定を下したが着任して間がない。計画は嶋田繁太郎(S16/10/18〜S19/7/16)のとき
   からである。  一方米内光政は和平論者とみなされているが果たして如何。
6.昭和19年8月2日〜3日 呉において潜水艦関係者が会同した。表向きは潜水艦被害防止研究会だったが、軍令部主導による試作兵器実戦使用の「踏絵」会議だった。 この会議で若手潜水艦長は新兵器(回天)での作戦を開始すべきだと言及した。 彼らは場の空気に反応した。
7.昭和19年8月3日 ㊅ 金物(マル六金物)は正式兵器とされ『回天』と命名された。
  ― 月末までに130基の回天生産を関係各所に軍令部は指示 ―
    この時期に搭乗員の募集が行われたと考えられる。
8.昭和19年9月5日 山口県徳山市大津島基地にて試作魚雷にて訓練開始。
  翌6日午後の訓練で開発者黒木博司殉職。 同じく開発者仁科関夫の日記。
  ― 回天隊員よ大義の存する所黒木あり。 訓練、訓練回天の道は只一条、一刻も早く大元帥閣下の御心を安んじ奉るにあり、
 彼ら兵学校や機関学校士官は国民を守ることなど念頭になかった。国対護持。天皇制を頂点とした体制を守ることにあった。 そして上層部は学徒兵(予備学生)を磨り潰そうとした。  敗戦が確実視されるなかで戦後の主導権を海軍兵学校や機関学校出身者で握ろうとしたと下司の勘ぐりをしたくなる。

黒木のいう大義は何であったのか分からない。但し戦争を始める時の大義は自存自衛,大東亜新秩序建設であった。
9.昭和19年9月13日 特攻部を創設し初代特攻部長任命。 大森仙太郎(中将)。
やましき沈黙。
昭和19年10月、ルソン第1航空艦隊司令長官として赴任した大西滝治郎が特攻を始めたかのように喧伝するが、 その実は、敗戦につぐ敗戦を糊塗するがごとく軍政・軍令一体となって特攻兵器開発に狂奔する。
10.9月26日 までに回天32基完成。
軍令部の動き
11.9月27日 軍令部第一課員中佐藤森康夫は呉に出張し上司中澤 佑に次の報告を行った。
軍令部第一課藤森中佐は回天の命中率は75%と考えられる。この海軍大学校を卒業した秀才は何をもって命中率75%程度と考えたのであろうか?
昭和18年後半から米軍の対潜水艦発見・制圧能力は高くなり、かつ帝国海軍の潜水艦は猛烈な騒音発生器であった。よって泊地で回天を射出できる距離に侵入することは覚束ない情況であった。このことはやがて直ぐに判明する。 筆者は藤森中佐の見通しの甘さが追求されその責を問われたという記録を見ていない。このような無責任で甘い見通しは我々の通弊として戦後幾たびか国の事業、地方の事業で繰り返された。
その後、回天戦を実戦で展開しかつ戦闘海域(硫黄島/千早隊),沖縄島周辺(多々良隊)に出撃した回天搭載潜水艦は次々に撃沈された。

12.9月29日 残り17基の回天はこの日までに完成。
13.10月2日 までに出撃予定部隊が完成回天を受領。
14.10月5日 第六艦隊(潜水艦運用艦隊)はこの日までに受領。
15.10月12日 までに出撃準備を行う。
潜水艦回天搭載設備工事
  • 9月27日 伊36、伊41
  • 9月28日 伊44、伊46
  • 9月29日 伊26
  • 9月30日 伊38、伊45、伊54

    16.出撃見込み
  • 10月7日、10月13日、10月13日 各2隻。合計6隻。

    攻撃目標
  • ブラウン又はマーシャル泊地 2隻
  • アドミラルティー諸島
  • マリアナ又はパラオ
    17.11月3日 この日を回天戦作戦時機に設定(明治天皇誕生日・明治節)
    潜水艦部隊は第6艦隊と呼ばれた。 回天発足当時の司令長官 ■三輪茂義(中将)
  • 回天諸元
    全長 14.75m
    全重量 8,300Kg
    軸馬力 550馬力。 一般的な路線バス軸馬力 230馬力程度。
    速力 30Kt/23km  20kt/43km  10kt/78km
    爆薬 1,550kg  九三式酸素魚雷爆薬 500kg。 ただし米軍はトルペックス爆薬を使用していたのでトルペックス爆薬の三分の1程度の威力。 直径 1m 乗員は座った姿勢で操縦。身動き取れない狭さだった。 夜半回天戦用意で乗組み黎明出撃まで約6時間そのような暗い室内でただ一人座り続けた。発狂してもおかしくない兵器だった。

    表−1 回天訓練基地と開所日
    開隊月日訓練開始基地名所在地
    1944年
    (昭和19年)
    9月1日9月5日大津島 山口県徳山市大津島
    11月25日12月1日山口県光市光井
    1945年
    (昭和20年)
    3月1日4月17日平生山口県熊毛郡平生
    4月25日 5月23日大神大分県日出町深江
    回天開発小史
    1944年2月26日、海軍省軍務局第一課は人間魚雷3基の試作を呉海軍工廠魚雷実験部長に指示。
    7月初旬試作機完成。隊員募集を行う。
    7月25日人間が搭乗し試運転を行う。
    8月3日、正式兵器として採用。月末まで130基の生産指示。
    9月5日、山口県徳山市大津島基地にて試作魚雷にて訓練開始。
    開発はあわただしいものだった
    大津島では開発者の一人がすぐに殉職する。回天の敵追尾は目視であった。潜望鏡(特眼鏡)は1mであった。 出撃時に潜水艦から目標までの諸元が与えられる。後はジャイロに連動した縦舵機によって潜行進出する。回天の速度と潜水艦から切り離された経過時間で航行 距離を知る。いよいよ目標に近づいたところで露頂(海面に現れる)し特眼鏡で改めて敵(的・目標物)視認する。 高さ1mの潜望鏡で視認できる距離は
    視認距離の求め方計算式
    視認距離 : L1(km) =116.34×(√ho(m)+√ht(m))
    L1は水平線上の最大視認距離、ho は水面からの眼高。ht は目標の高さ。
    ho(特眼鏡)= 1.0m
    目標の高さ= 10m として計算しても
    視認距離≒4.84Km これだけ先の目標しか視認し得ない。

    参考までに人間が直立した場合の水平線の求め方は
    L1=√(R+x)2−R2
    数値(R=6400・地球の半径、 X=0.0015・目の高さ1.5m )を代入してL1=4.38Km
    先の回天での視認距離計算は波の高さ(波高)を度外視している。波高が2mもあれば 海の水しか見ることが出来ない。波長の谷に入ったら更に悲劇的である。
    米潜水艦で普通装備の夜間潜望鏡でもなかったから、真夜中の回天戦は目標を捉えることは 不可能であり、黎明か薄暮又は月齢が10〜16程度でなければ遠距離の目標を視認出来なかったはずである。
    回天について調べても判明しなかったこと。
    (1) 特眼鏡すなわち小型の潜望鏡である。筒鏡内の結露防止対策とレンズくもり止め(防湿)対策である。 寒い日に眼鏡を掛けたままラーメンを食べることを想像して頂けたらよい。すなわち何も見えない。
    見えない!=目標を捉えられない。と同義である。
    (2) 一人のオペレーターで波涛高い大洋での潜望鏡深度1mを保持できる装置の有無について書いたものが見つからなかった。通常魚雷の飛び出しは多く報告されている。 水面に飛び出した途端敵に発見されるだろう。

    *1 (1)エンジンが始動しない欠陥 (2)筒内爆発の危惧 (3)逆回転不可能な推進器 (4) 爆発尖の不具合
    エンジンが始動しないことを冷走といった。 実戦でも度々発生している。よってその作戦で出撃の機会なく生還。
    筒内爆発も訓練中にこれまた度々発生している。実戦でも発生したと考えられる。

    *2 山本善雄 任期(昭和17年7月14日〜昭和20年7月10日) 最終官職軍務局長

    犯罪組織海軍予備学生は蔑視の対象であり消耗品。航空特攻予備学生の墓場
    日本軍の名誉ではなく汚辱。 なぜ、今、戦争責任の検証か。読売新聞主筆 渡邉恒雄
    狂気海軍、九四式水上偵察機特攻 渡邉恒雄 「下劣で戦争犯罪組織と化した海軍」
    人間魚雷回天人間の尊厳を踏みにじる愚劣で最悪な兵器 人間魚雷回天開発小史 歴史編
    兵器としての回天は非常に扱い難い兵器だった。回天開発小史 技術・機能編
    権力はそれが奉仕する目的に必要な限り許される。人間魚雷回天開発小史 運用編
    昭和19年(1944)ウルシー,パラオ,グアム 回天特攻展開期 泊地攻撃
    昭和20年(1945)硫黄島(2月)〜沖縄海域(3〜5月) 回天特攻 戦闘海域出撃期
    昭和20年(1945)6月〜敗戦まで 回天特攻洋上襲撃期
    大廈(たいか)の傾復は一木をもって支うる能わず。 回天戦の実態 悲しい戦果
    敵も知らず自分も知らず。 回天搭乗員の戦死と投入潜水艦
    敵ノ油断ニ依頼セザルヲ得ザルモノニシテ 回天特別攻撃隊 誇大戦果はなぜ ?
    昭和20年8月18日 橋口 寛の自決 回天平生基地
    航空特攻世界の海軍にあって最も下劣で戦争犯罪組織 特攻の時代と特攻隊員の遺書を考える
    海軍大臣兼務軍令部長嶋田繁太郎,伊藤整一軍令部次長, 誰が航空特攻を主導したか
    我儘言った僕ですが、いまこそ征きます。 海軍の戦争犯罪 源田実は人命軽視の超国賊
    強制された名誉の戦死への道程 大和水上特攻と連携した航空特攻と米軍艦艇の損害
    自らの意志で特攻に不参加 海兵出身者 航空特攻、逃亡と無能な陸海エリートたち

    当頁の参考資料
    「特攻回天戦」  小灘利春+片岡紀明著  戦史叢書「潜水艦史」 朝雲新聞社  戦史叢書「沖縄方面海軍戦史」 朝雲新聞社  「回天記念館」 回天(基地)を保存する会  「語り継ぐ回天」  小川 宣  「人間魚雷」  鳥巣建之助  「日本海軍史 第七巻」  財海軍歴史保存会

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