橋口 寛の自決 回天平生基地


山口県平生町阿多田交流館展示 映画「出口のない海」で使われた回天


1945年8月18日未明自決
橋口 寛 1940年12月海軍兵学校(72期)入学。日華事変以降就業年限は4年から3年に短縮されたが 72期から2年10カ月に短縮された。73期(1941年12月)は更に短縮され2年4カ月となった。 橋口は戦争中盤の1943年9月に卒業した。
彼は指導力があったのであろう回天操縦の教官役であった。戦友が次から次に出撃し再び還らぬ現状から自責の念に駆られたのか出撃許容嘆願書(血書)が回天大津島基地に保存されている。 この非人間的兵器を生産し、作戦を組み立て、若者を駆り立てた人間は誰一人 自責の念にとらわれて自決などしていないというのに。
橋口 寛遺影
【阿多田記念館遺影複写】
橋口寛の絶筆となった自啓録は現在、山口県熊毛郡平生町大字佐賀3900-14 阿多田交流館(平生回天基地資料展示)にある。 生き残ってしまったという自責の念が自らの命を絶つ選択を選ばせたのであろう。

真一文字に結んだ口は彼の意思の強さを表す。澄んだ瞳は彼の人格を表す。 この薩摩男児は、あの堕落しきった帝国海軍の良心をただ一人で具現する。


 橋口 寛は敵艦との距離500mで浮上し、最高速度30ktで突入する方法を編み出したという。この方法なら回天の欠点をカバーする。約32秒後に敵艦に激突する。 ただし、回天が浮上するということは、当時の米軍の対潜能力(ソノブイ)からして母艦は確実に発見されたであろう。 よってこの攻撃法は回天隊員には受け入れられたにしても、潜水艦側に受け入れられなかったと考えられる。 回天の進行方向に潜水艦が存在することを暴露すことになり、 たちまち反撃されることは必定である。 米軍のソノブイによる撃沈はこちら。
この浮上襲撃法も回天の速度が30Ktであり、おのずと低速な輸送船相手の戦いに限定されるだろう。
目標艦艇追跡は相手の速度の1.5倍は必要。
 実態をひとつ。沖縄戦回天多々良隊伊56潜(1945/3/31出撃)は1945年4月18日沖縄東方230Km
(26-42N,130-38E)で軽空母パタン所属機のソノブイ攻撃で撃沈された。 また、伊44潜(1945/4/3出撃)は南大東島南174Km、沖縄那覇方位120.5゚,距離422Kmの洋上で護衛空母ツラギ所属機によつて撃沈された。 多々良隊出撃4潜のうち2潜が撃沈された。このように米軍の対潜作戦は緻密であった。
参考までに伊47潜は故障で内地帰還。伊58潜は沖縄西方海面に進出したが米軍の警戒厳重なため接敵できず帰還した。 回天白昼の強襲は母艦側(潜水艦の喪失)が行わなかったであろうし、泊地潜入は不可能に近く、洋上襲撃も、黎明及び月齢たのみだった。月齢がよくても 荒天であれば襲撃できなかったので、海軍首脳の皮算用とは裏腹に、戦果は望むべくもなかった。
隊員に見敵必殺の意気込みがあったとしても、天候に大きく左右される兵器を造り運用すべきではなかった。兵器は全天候、リアルタイム運用が必須助条件である。 わたしたちゃー、夜明け前の波静かで、雨も降らず、風も吹かず、あんたが油断して寝込んでいるときとしか戦争しませんのでそのつもりでお願いします。が人間魚雷回天であった。  カチカチ山の船を造る程度の海軍だったからこの程度のものであろう。貧すれば鈍するか。

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太平洋戦争取材班
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