元山航空隊司令青木泰二郎(海兵41期) 航空特攻予備学生の墓場
空母赤城艦長青木泰二郎が生還したミッドウェイの戦い
江田島の兵学校を卒業すると兵籍は海軍省に属した。予備学生(大学卒業者)もこれに準じたが、叩き上げの海軍士官を特務士官と呼び彼らの兵籍は各鎮守府に属した。海軍兵学校生徒懲戒規則に
「下士卒,雇員,傭人,商人等に対し妄りに談話をなし、又之と戯れたるとき」は懲罰又は免生(生徒罷免)に処す。

海兵出身者にとって予科練出身者はもともと民間人であった予備学生は蔑視の対象であり消耗品でもありえた。ここに踏み込まなかったなら海軍軍人の本質に迫れない。 海軍階級別特攻戦死者数はこちら。

元山航空隊は予備学生の墓場と云われた。 司令は青木泰二郎 敗戦確実と知るや一部の部下と家族を連れて元山から脱走した。
彼らは学業半ばで国難を救わんとしてペンを捨てたが、『貴様の戦死は明日になった』と 冷厳と告げられた。  彼らは、生きた証しと意味を求め苦悩し、生き残る者達に優しさ溢れる書簡を残した。
彼らの笑顔を再び見ることはかなわなかったが、特攻で殺すことより、 生きて活躍させたとき、国家に大きく貢献できたであろうことは容易に察しがつく。  元山空の青木司令にとって、彼らは構成員の何分の一かも知れないが、 その家族にとっては全てを失ったことになる。 また国家にとっても多くを失った。

非人道的特攻作戦の責任について。 青木にその全責任はない。 現場の責任者として、そこが練習航空隊だったしても、学徒兵に限定し特攻させたこの真意に対する説明責任が存在する。

ペリー来航以来、西欧列強に互そうと営々と努力した先達の後に海軍兵学校教育を受けた青木泰二郎がいた。彼の行為は属人的だったのか?。  軍令部作戦課(第一課)課長中澤 佑も戦後特攻は大西瀧治郎の発案だと強弁した。 国費でまかなわれた海軍兵学校や大学校教育で人間として一番大切なものを置き忘れた教育がされたのかも知れない。  敵前逃亡にも等しい青木泰二郎が戦後年金を受領し生を貪っていたとしたら、返還を要求すべきだ。 彼のような者に年金受給資格はさらさらない。 青木泰二郎は沈黙を守り通し昭和37年(1960)11月71歳でこの世をさった。彼により春秋を奪われた若者の3.5倍も長生きした。

兵学校出身海軍軍人の醜悪さは、学徒兵の純真さを隠れ蓑にし、いたずらに特攻を美化したことに尽きる。  この元山空の悲劇はそのまま海軍の恥の部分であろう。 ここまで、徹底して学徒兵をおとしめた海軍とは一体どんな組織だったのか。
特攻が強制でなく、殉国の至情に基づく志願であるなら、この元山空の兵学校出身者は、 卑怯にも殉国の至情もクソもなく、兵籍に身を置いたことになる。 予備学生らのように学業半ばで特攻に志願した者に比べたら人間のクズが兵学校出身者だった証明にもなる。 またおかしなことに、 他の航空隊で普通に見られる兵曹クラスはたったの1名なのだ。

元山空では兵学校出身者は征空隊として特攻から除かれている。学徒兵で征空隊として残ったのは土方敏夫中尉(予備13期)のみである。  更に征空隊には新鋭の零戦52型丙があてがわれた。 特攻機は零戦21型である。

出身が確認できる元山空特攻隊46人中にたった2人の兵学校出身者なのだ。 これが作為でなくてなんであろう。   軍艦艦長が艦と運命を共にする必要は更々無いと思うが、青木泰二郎がミッドウェイ海戦空母赤城の艦長だったことを思えば これまた、言葉を失う。 青木泰二郎一人を失ったほうが、日本の国益にかなったはずだ。

元山空(朝鮮・練習航空隊)青木司令は1942年6月、今時大戦のターニングポイントとなったミッドウェイ海戦における機動部隊旗艦空母赤城の艦長だった。 沈没・撃沈された艦長で唯一生還した。 たった2発の爆弾で機関全損航行不能となり6月7日02:00第四駆逐隊四隻の魚雷で処分された。この第四駆逐隊の有賀幸作司令こそ沖縄水上特攻旗艦大和の艦長なのだ。 彼は栄光の巨大戦艦大和の艦長であり、自らは元山練習航空隊の一司令であった。 起死回生名誉挽回の気持ちが青木になかったと言い切れるであろうか?。
軍事力を担う人的資源は、戦争や戦闘に勝利する資源である。戦争に絶対死を求めた国家は人類史上例を見ない。この日本はその意味で最低・最悪の狂気組織だった。
この頁は予備学生(学徒兵)のみ殉国の至情を求め、 兵学校出身者は殉国の至情がなかったことを示す頁である。 そして敗戦後特攻を通常攻撃法とした海軍首脳部、用兵運用者(軍令部・連合艦隊・航空隊作戦担当)の誰一人として非人道的作戦に対して責任を取らず認めなかった。 戦争劈頭真珠湾攻撃隊指揮官淵田美津雄は、 天一号作戦における菊水航空特攻作戦を連合艦隊航空参謀として取り仕切ったが、 彼の死後発見された自叙伝にも反省の言葉はない。   真珠湾攻撃総隊長の回想/淵田 美津雄 講談社 ; 2007.12
昭和20年(1945)2月、戦局の逼迫にともない、搭乗員の養成訓練は中止された。元山空では教官・教員の戦力化が進められ戦爆特攻隊・七生隊と制空隊が編成され、4月3日鹿屋に進出した。七生隊を率いたのは小川二郎少佐(海兵64期)。
昭和20年8月11日、元山(朝鮮)空青木司令は、敗戦確実と知るや元山の海軍基地から家族ぐるみで日本に逃亡した。
No4月6日第一 七生隊
階級氏名出身兵装/機種発進時刻
1
  • 大尉
  • 宮武信夫海兵 71爆装零戦21 13:55
    2少尉橋本哲一郎九大
    3松藤大治東京商大
    4河野正男神戸商大
    5田中久士徳島商工14:25
    6吉村信夫東洋大
    7山田興治神奈川師
    8鷲見敏郎大阪商大
    9小林哲夫法大 14:40
    10植木平七郎明大 15:55
    11本庄  巌
    12久保田博
    布告99号関係4隊46機出撃。突入45機。帰還1機(注)
      4月12日第二 七生隊
    13
  • 中尉
  • 田中 海兵 72爆装零戦21 13:04
      |  
    13:28
    14少尉原田愛文明大
    15千原達郎京大
    16久保忠弘
    17中尉成田和孝日大
    18少尉林 市造京大
    19肥後朝太郎台北大
    20野村克己京城大
    21岡部平一台北大
    22鈴木 弘立命館大
    23宮崎信夫九大
    24田中公三日大
    25木村司郎早大
    26竹口  正法大
    27手塚和夫立大
    28吉尾  啓東亜大
    29工藤紀正 東大
    19機出撃。突入17機。帰還2機。
     4月16日 第三 七生隊
    30
  • 少尉
  • 町田俊三九大  
    31奥田良雄大阪商専爆装零戦2107:03
    32山田  章日大
    布告106関係3隊20機出撃。突入10機。帰還10機。
     4月16日 第四 七生隊
    33
  • 少尉
  • 石橋石雄明大 爆装零戦2108:09
    34山岡正瑞高野山大
    35西川要三岐阜師07:58
    36名古屋徹蔵慶大07:59
    37江口昌男東大
    38樫本弘明高野山大08:00
    39根岸達郎早大08:07
    40山本雅省関大08:10
    41大石 太松山高商09:44
    12機出撃。突入9機。帰還3機。
     4月29日 第五 七生隊
    42
  • 少尉
  • 晦日 進名古屋高工14:18
    43土井定義中大爆装零戦2114:17
    44北村徳太郎日大14:19
    45森丘哲四郎東京農大
    (注) 森丘哲四郎は4月6日帰還の1機である。
     この日6機出撃。突入4機。帰還2機。
     5月11日 第六 七生隊(721空306戦)
    この日3機出撃。2機引返す。1機未帰還。戦後生還が判明。
     5月11日 第七 七生隊(721空306戦)
    46
  • 飛長
  • 上月寅男 爆装零戦07:03
    布告112号6隊37機出撃。突入26機。帰還11機。
     5月14日 第八 七生隊(721空306戦)
    47
  • 中尉
  • 藤田卓郎拓殖大爆装零戦06:25
    48一飛曹橋本貞好 
    49二飛曹荒木一英 
    布告113 3隊28機出撃 七生隊3機出撃。3機突入。
    出典:特別攻撃隊の記録 海軍編 押尾一彦
    戦史叢書 沖縄方面海軍作戦 附表第2 特攻で未帰還機がない場合は除かれている。よって第六七生隊は5月4日から開始された菊水5号作戦で突入したのであろう。 元山航空隊は練習隊であったから十航艦隷下第十二聯合航空隊であったが、沖縄戦から五航艦の指揮下に組み入れられた。 よって、五航艦(司令長官宇垣纏)721航空隊(司令岡村基春)の命令を受けたので、公刊戦史で該当を探したがそれらしき記載は、5月4日爆戦21(721空)沖縄方面哨戒艦艇攻撃があった。 この隊の答えは意外なところにあった。2009年11月に刊行された神雷部隊始末記頁522,松橋泰夫丙飛16期一飛曹戦後生還が判明。布告取り消し。
  • 印は指揮官機
    戦史叢書 沖縄方面海軍作戦頁721〜特攻隊隊名、隊員名一覧表があるが、第六 七生隊の名簿が見あたらない。
    GF電令作567号で十航艦基地航空隊八隊は鹿屋、串良、第一国分に進出を命じられた。元山空は筑波空と同じく鹿屋に進出。
    特攻強気の宇垣に任せていたら残存航空機を全部使い切る(磨り潰す)ことをおそれ、菊水4号作戦前に十航艦への指揮権(4月18日付)を解いた。 これにより宇垣纏の指揮権範囲は狭められた。
    ところが動き出した歯車はとまらない。元山空七生隊の特攻は続く。
  • 1944年10月下旬捷一号作戦から帝国海軍の航空特攻が開始されたが米海軍最大の厄日は1945年4月6日天一号作戦での航空特攻菊水一号作戦であった。 損害は1日で34隻にも及んだ。 この日以降沖縄海域の天候が不順で航空特攻は散発的であったが、天候が回復した4月12日が次の米海軍にとっての厄日だった。 戦艦アイダホ、テネシーが損傷し更に駆逐艦1隻が沈み、10隻が損傷を受けた。 前衛にレーダーピケット艦を配置したが そのレーダーピケット艦に多く特攻を仕掛けた。 総体的に特攻戦果が低調だったのは制空隊を欠いたこととピケット艦の対空砲火、敵邀撃機、機動部隊制空隊、機動部隊対空砲火の洗礼を受けたことによる。
    米陸軍B−29は当初より戦略爆撃を行うための機種だったが、航空特攻にウンザリしていた海軍の要請により九州にある陸海軍の 航空基地を4月21日早朝より空爆した。海軍では宇佐・出水、笠の原などに損害を与えた。おそらくこの爆撃により搭乗機を失われた特攻隊予備員も少なからず居たことであろう。 その面では命救われた。また、都市無差別爆撃の手が少しだけ緩んだ。
    前述したように特攻機察知のため哨戒活動を行ったレーダーピケット艦乗組員には過酷な任務であった。 特攻隊員の多くは米艦艇を始めて目にした者も多い。 特攻機で突入後帰還した者は皆無だったので、 艦艇を見誤らないなどの教訓を伝えるものは絶無だった。 これらの艦艇で特攻に対する恐怖から多くの戦闘疲労者を出している。 すなわち任務に堪えられない者が輩出された。
    沖縄作戦(天1号作戦)で米陸海軍の戦死者は 12,281 人だったがその内、 US Navy4,907 人で実に 40% に達した。その大半は特攻機によるものであった。 特攻により九州・四国沖縄海域で13隻の空母が損傷し、戦艦8隻が損害を受けたが、最も多く損害を出したのは駆逐艦で67隻を数える。
    出典:沖縄・台湾硫黄島方面陸軍航空作戦 P620 及び付表六

    「海軍特別攻撃隊」(奥宮正武著 出版者 朝日ソノラマ 出版年 1980/09)当時中佐もその著書で「自らの意志で、特攻に参加した背景には」日本の国民性があった。 などと、とんでもない発言をしている。
    元山青木司令の下、前述の46人もの特攻死が確認できるが、海兵出身はたったの2人。 わずか4%に過ぎない。  恣意以外の何ものでもない。奥宮正武のいう「自らの意志で、特攻に参加」 であれば、海軍兵学校出身者は「自らの意志で特攻に不参加」であり、 人間としてのクズが海兵出身者ということになる。  奥宮正武のような海軍兵学校出身者は自らが犯した犯罪行為を言葉遊びで糊塗しようとさえしているように見受けられる。
    また、2007年9月4日に亡くなった陸軍瀬島龍三(最終位中佐)は、 戦後伊藤忠商事に入社、戦後賠償に関わる援助ビジネスに関与し、 伊藤忠会長にまで昇りつめた。退社後,中曽根内閣の臨時教育審議会委員や臨時行政改革推進審議会会長も引き受けた。「特攻は自然発生的なもの」で、 特攻作戦に関する上官の責任など、一切ありえないとの立場をとった。
    瀬島の理論だと、特攻は航空兵が国家管理の航空機と爆弾を盗み出し、自らが勝手に突入したことになる。 すなわち特攻出撃した若者は瀬島からみれば薄汚い犯罪者だったのだ。 陸軍の特攻に振武隊がある。この部隊に編成されることは特攻を意味する。この編成も自然発生的だというのだろうか。
    瀬島龍三存命中にも、幾多の出版物や,機体不具合で生還した搭乗員(陸軍)からも、特攻は強制されたもの、若しくは拒否出来ない状況で指名された。との発言が多くよせられている。 瀬島は自らの心に特攻についてしてやましいと思うころがあるから、自分をごまかすためにも上官の責任はないとの発言になったのであろう。
    幾山河 /瀬島龍三回想録 /瀬島龍三/著 /産経新聞ニュ-スサ-ビス , 1995.9.
    大東亜戦争の実相/瀬島龍三/著 PHP研究所 1998.7
    元大本営参謀の太平洋戦争 /瀬島龍三インタビュ-/ 東京新聞出版局 , 1995.5
    幾山河 /瀬島竜三回想録 /瀬島龍三/著 /産経新聞ニュ-スサ-ビス , 1995.9.
    幾山河で特攻の自然発生説を唱えている。であるならば、それを阻むのが人間としての良心ではなかろうか。誰がどのように言い逃れようとも、特攻が常道の作戦では無いのだから。
    瀬島がどう語ろうとも、国民を消耗品化したことは消しがたい事実であり、阻むべき政治責任は誰が取るのか?  これについて、卑怯な瀬島は自著で片言隻語述べていない。
    文春文庫「瀬島龍三 参謀の昭和史」保坂正康著 一読をお奨めする。
    下司の勘ぐりだが、兵学校出身者2人。大尉宮武信夫と中尉田中は、学徒兵と分け隔て無く接した人物ではなかったのか。 青木司令ならやりそうな気がしてきた。
    多くの国民は、戦後の繁栄の礎となった、あのような 崇高な精神に至った若者が日本に存在したという事実に誇りと感謝と畏敬さえ 感じるとともに、責任逃れに終始し安穏と生を偸(ぬす)んだ一握りの責任ある 立場だった人間を決して許さず忘れない!

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    太平洋戦争取材班
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