電子工学で完敗した海軍兵学校・大学校出身者とその音痴ぶり
渡邉恒雄(読売新聞・主筆)氏は、世界の海軍にあって最も下劣で戦争犯罪組織と化した海軍をほかに知らない。 「人間を物体としての兵器と化した軍部当事者の非人間性は、日本軍の名誉ではなく汚辱だと思わざるを得ない」

やっと開発した航空機用レーダーを取り外して惨敗したバカども。   出典:エレクトロニクスが戦いを制す
米戦闘指揮所の座標ボード
舞台:マリアナ沖海戦 昭和19年(1944)6月19〜20日
この朝、日米ほぼ同時に機動部隊を発見した。米航空機航続距離圏外から攻撃隊を発艦させた第一機動部隊の面々は、 「我勝てり」と笑みさえうかべ攻撃隊の発する電信を待っていた。攻撃隊を待ち受けていたものは、 空戦管制システム*1を構築していた、米空母発艦のF6F戦闘機*2だった。 次々と撃墜され、辛うじて米艦隊に到達した艦攻、艦爆はVT信管の洗礼を浴びて潰え、 わずか数発の至近弾を落としただけであった。攻撃発進機326機中230機とパイロットを失った。 おまけに、米潜の攻撃で空母大鳳を失い、空母翔鶴も潜水艦カヴァラにより撃沈されてしまった。

<=米戦闘指揮所の座標ボード

左はマリアナ沖海戦前に実戦配備された空母レキシントの戦闘情報センターのレーダースクリーン
この海戦は、マリアナ諸島沖とパラオ諸島沖で第58任務部隊と海軍の第一機動部隊(第三艦隊)が激突した。  小沢治三郎中将は、日本海軍の艦載機の特徴である航続距離の長さを活かし、アメリカ艦載機の航続作戦圏外から攻撃部隊を送り出すという独自の戦法(アウトレンジ戦法)を採用した。 しかしながら、レーダーを活用した防空 SYSTEM による戦闘機の迎撃、また近接信管(VT信管)付き対空砲弾の増強などにより、 日本海軍の攻撃隊は大半が阻止された。  戦闘概況はこちら
人間を研究したこともない海軍高官は、パイロットの緊張がどの程度長時間保持できるかも知らず、 米撃滅確実との皮算用ばかりしていた。 大嘘つき源田 實提言の大和魂は科学技術の前に吹き飛んだ。
敵機動部隊への航空攻撃はそれぞれ艦上から指揮と支援が行われたがハイテク兵器とレーダー活用による通信体制の懸絶が明暗を分けた。  米は、翌20日 17:00 日本艦隊を発見し、戦闘機85機、急降下爆撃機77機、 雷撃機54機の計216機が Imperial Fleet (帝国艦隊)に襲いかかった。 Imperial Fleet 側も二号一型*3の対空見張用レーダーで敵をとらえ75機の迎撃戦闘機を発進させたが、 圧倒的戦力の前になすすべもなかった。
一航戦第一次攻撃隊は、
08:05 旗艦上空を発進。
08:45 味方前衛隊(第2艦隊)の上空を通過。その際、味方艦艇より砲撃を受け、 日頃あまり当たりもしない対空砲が味方機に命中した。そして彗星2機が撃墜された。  更に悪いことにこの味方対空砲火回避のため2度と編隊を組めずバラバラに敵艦めがけて突入した。
10:53 から米戦闘機約40機と空戦に入った。
10:45 攻撃隊指揮官(垂井 明少佐)より「我突撃ス」の電報を発したが戦果は確認出来なかった。 全機未帰還だった。
一方、米のレーダーが攻撃隊の機影を捉えたのは
10:30 (グアム時間,日本時間 09:30) で距離は200Km。当時の機速から100Km前方で敵機を捉えたら対処できた。  旗艦空母レキシントンの空戦管制官は、迎撃のF6F戦闘機に高度4,200mを指示。待ちかまえていると日本機は我々の下方 600〜800m をさも撃ち落として下さいという絶好の攻撃高度差で進んできた。
マリアナ沖海戦に参加した航空隊は601空,653空,654空の三航空隊だった。653空は3月に編成されたばかりの航空隊でタウイタウイ泊地に進出し錬成を行う予定だったが、泊地を一歩出ると米潜が待ち受け全く訓練が実施出来なかった。 米軍は、Imperial Navy が望遠鏡に毛が生えた程度と軽蔑していた防御兵器のレーダーをフルに使い攻撃隊が米艦隊に襲いかかる前にそのほとんどを撃墜してしまった。
海戦の結果
日本側
沈没 空母大鳳(6/19 08:10 米潜被雷) 翔鶴(6/19 11:20 米潜被雷) 飛鷹(ひよう・6/19 19:32 航空雷撃)
航空機損失 439機中 395機 (89.98%,別に92.0%) 水上機31機損失(72.00%)
空母 隼鷹(直撃弾2)・瑞鶴(直撃弾1)・千代田(直撃弾1)・榛名・摩耶損傷
給油艦 速吸小破
油槽船 玄洋丸(駆逐艦卯月処分)・清洋丸(駆逐艦雪風処分) いずれも第二補給部隊所属
兵員損失 2,451人

米側
空母 バンカーヒル ワスプ小破
戦艦 1損傷
重巡 1 〃
兵員損失 111人

迎撃戦を戦った米戦闘詳報は、
一、敵機は組織的防御法を知らない。 戦闘機は雷撃機を援護する様子もなく逃げ回った。
二、戦闘機の大部分は戦闘の局外を飛行し、雷撃機は防御隊形を維持する熱意を欠き、分散した。
三、敵は軽業師のような芸はできるが、航空戦をまったくしらないらしい。

戦藻録
戦艦大和に座乗する第一戦隊宇垣纏司令官は日記「戦藻録」に、 『愈々(いよいよ)待望の乾坤一擲(けんこんいってき)の勝負とはなれり。 パラオ方面よりも決戦場は遙に我に有利にして(敵は)一度足かけたる以上絶縁すること至難にして次々と好餌は蒐(あつま)り来りて我が手中に入らん。 一層奮励努力すべきなり』
宇垣は『好餌は蒐り来りて我が手中』に入った。 すなわち今回の戦いは勝ったという見通しを述べている。だが実際の戦闘の結果は、我が航空隊こそがF6Fのそれこそ好餌となった。
だが、多くの戦史の類がマリアナ沖海戦の敗因として(戦史叢書も例外にあらず)航空兵力の錬度不足にもかかわらずアウトレンジ戦法を行ったことを挙げている。
一航艦、二航艦、三航艦や旗艦大和に乗っていた兵学校優秀者だった航空参謀らも、 アウトレンジ戦法こそが驕敵米艦隊に勝利できる唯一の途と認識していたはずである。

一航艦、空母瑞鶴乗組み技術士官立石行男は、我が耳を疑った。 航空参謀は、前路索敵機天山から「空六号」電探 を降ろせと指示し雷装出撃に切りかえさせた。索敵の目となるはずのレーダー降ろせの命令を唖然として聞き、「当時の参謀(兵科)に科学的思考」がなかったと言い切る。
電探による索敵で敵を発見して始めて攻撃成功につながることさえ考え及ばなかった。 そして、壊滅的敗北を喫した帝国海軍は再び機動艦隊を編成できなかったとともに、 基地航空隊から発せられる最新装備(見張用レーダー*4)の現地配備の補給線は絶たれ、また新兵器開発の余力さえ失われていた。 突き詰めると、彼我の工業力差とか、運用力差・戦術の稚拙などと総括できるものではなく、 その根幹に柔軟な発想と科学的教育を置き忘れた海軍兵学校と大学校教育の問題があった。
当時の立石行男
6月20日 16:15 時索敵機は米艦隊(空母2)を350浬(648km)先に発見。 17:00 米艦夜間攻撃のため一航戦は、 前路索敵機天山1機、彗星 2機。 17:25 攻撃隊天山7機が空母瑞鶴*5から発進した。 敵空母到達時刻は 20:00 頃と予想された。  前路索敵用天山には航空機から海上の艦隊を 発見するために「空六号*6」の電波探信義が搭載されていた。  ところが用兵側のバカ参謀*7どもはわざわざこの電探を 取外させ、魚雷*8を積んで出撃させた。夜にかかる攻撃が想定されながら、夜間の索敵の目を取り外したのである。
この先発3機は、エンジン不調で1機引き返し(18:25)、残りは未帰還となった。次に発艦した攻撃隊は予定地点に達したが敵発見に至らず、 3機未帰還、4機は帰着後不時着水。全く戦果はあげられなかった。
航空参謀のバカどもは、夜間攻撃になるという前提条件がありながら、この時期においてもなお科学の目より人間の目を信じていたのである。 天山攻撃機は 敵を発見することなく暗い夜をさまよい出撃機の一部(4機)が空しく帰還(全機不時着水)した。 海軍技術士官(一般大学出身者)が 苦心惨憺し製作した機上レーダーも兵学校出のバカどもには単なる無用の長物だったのだ。 米側は日本機のその状況をつぶさに観察していた。
海戦の概況はこちら
戦史叢書「マリアナ沖海戦(防衛庁防衛研究所戦史室/著 1968年発行)」P587下段にこの出撃の記述があるが 機上レーダー「空六号」を取り外したバカのことを全く触れていない。 「ドキュメント海軍技術研究所(中川靖造/著)」P197に 【電探はずせ】 の記述が書いてあるのでぜひ一読を。 なお、立石行男は1955年5月に「電探かく戦えり」を土曜通信社刊『今日の話題』で発表しており、 当然防衛庁防衛研究所も参謀か飛行長のおバカさんは知っていたはずだが、身内贔屓(ひいき)で公刊戦書には書けなかったものと思える。
同日(20日)、豊田副武連合艦隊司令官は敗北を認め小沢艦隊に帰還を命じた。
24日、東條英機参謀総長、嶋田繁太郎軍令部長は、天皇にサイパン島の奪還は困難となり「絶対国防圏」放棄を 上奏した。
これにより、昭和19年(1944)7月18日東條内閣引責崩壊。クソバカ小磯国昭組閣 1944年(昭和19年)7月22日〜1945年(昭和20年)4月7日。

電探射撃の恐怖
昭和17年(1942)10月12日 21:30 ソロモン諸島サボ島沖。
第六戦隊重巡「青葉」「衣笠」「古鷹」と駆逐艦2隻。ガダルカナルアンダーソン飛行場砲撃のため南下を続けていた。 南方特有のスコールを抜け、サボ島西側の作戦海域に進路を向けた。すると前方の漆黒の闇から砲弾が青葉に集中した。 青葉は味方艦艇からの誤射と勘違いし"ワレアオバ","ワレアオバ"と信号を送りながら回避行動を行うも砲弾は相変わらず降りそそぎ30数発が艦体を貫ぬき大破沈没した。 黒い眼の玉の優秀性を信じて疑わなかった Imperial Fleet の乗組員はそれが電探射撃によるものとは思ってもいなかった。
この電探こそ、英国の技術援助で完成したマグネトロンを使った水上射撃用電探(レーセオン社製GSI1型) とは知るよしもなかった。米艦隊は既存のVHF波電探からより高機能なマイクロ波(SHF)電探に切りかえていたのである。 1カ月後に起こった第三次ソロモン沖海戦で、米艦艇も大きな損害を受けたものの、 海軍が得意中の得意と思っていた夜戦で戦艦比叡を失い、翌日14日には戦艦霧島が集中砲火を浴び自沈して果てた。 「攻撃優先」「先制と集中」も電波の目には叶わなかったのである。
ことの重大性に少しは目覚めた艦政本部は、電探の開発を急がせ暫くして、 完成したのがマイクロ波「二号二型(ラッパ型導波管アンテナ)」水上見張用電探だった。  海軍の開発運用したレーダーはこちら。
※ サボ島沖の敗北は前線将兵に衝撃を与えた。これからは、夜戦は出来んゾ!。
電波兵器に関する諸問題点
@.開発上の問題点
(1) 昭和19年(1944)4月20日に電波本部(大川内伝七中将)が創設されるまで、航空機搭載電波兵器は航空技術廠兵器部の中の電気部(上部組織:海軍航空本部が担当し実用化試験は横須賀航空隊・空技廠で生産装備は空技廠及び各航空廠で行った。 航空機以外は技術研究所電気研究部(上部組織:海軍艦政本部で行い、その実用化・生産・装備は艦政本部第三部、各工廠で行った。この両者で人的交流,研究成果の交換や情報交換は戦前も戦中も行われなかった。 当然原材料・資材の分配もされていない。
(2)航空機搭載のIFF(敵味方識別装置)も、空技廠と艦政本部の組織の壁に阻まれ研究開発さえ進まなかった。
(3)民間、学界から技術動員された研究者のほとんどが艦政本部技術研究所に取られた。
A.管理上の問題点
(1)技術動員の不徹底。少ない電波関係研究者・技術者を徒に分散させた。
(2)動員された技術者の活用につてい、研究体制・配員計画が不十分で開発研究のマネジメントが存在しなかった。
(3)研究開発者と技術者が混同され、研究開発者が前線で装置の設置と運用についてまで指導を行わせた。

海軍には専門バカは掃いて捨てるほど居たが、マネジメントを行える人材が絶無であった。
航本、艦本など肩書きを与えるために、屋上屋を重ねたことで、非能率、非効率な化け物組織を自らが作り上げた。
戦後、海軍士官の多くが、今次の戦いの敗因は電探による。とまくし立てたが、 現在も続く縦割り行政的弊害が電探開発・配備の根幹に存在した。ここで電探が米軍と同程度であったとしても、太平洋戦争はやはり米国に適わなかったであろう。
(1)艦艇・航空機の量産能力が懸絶
(2)航空機の高性能化技術が懸絶
(3)対潜兵器の技術が懸絶
(4)土木建設機械力の差による飛行場建設能力が懸絶
(5)船舶揚搭設備と船舶有効利用(陸軍と海軍の連携)力が懸絶
(6)陸海軍協同作戦能力の懸絶
このように、数え上げればきりがなくなる。突き詰めると技術力も立ち後れたが、人的資源も後継者養成(航空機搭乗員)教育法も不適切であった。
後日譚
海技研の技術者は、米軍装備の電探について全容を知っていた訳ではない。 1945年(昭和20年)9月降伏調印式のため東京湾に米艦艇が入ってきたとき、 艦橋頂部に日本と同様のアンテナを目撃する。

艦爆「彗星」11型,21型,12型,33型がある。33型は不調だったエンジンを 金星62型に換装した。総生産台数2,157機。
*1 マリアナ沖海戦で出現した米軍の空戦管制SYSTEM
CIC SYSTEM (Conbat Infomation Center ・ 戦闘情報センター)。 このシステムは米海軍調査研究所(通称:NRL)が開発したシステムであった。 これは、単一のレーダーだけではなくさまざまな機能のレーダーを組み合わせ、その情報を総合し戦闘支援活用する。
空母の各種レーダーアンテナ 対空見張用SKレーダー(水平方向探知)
対空見張用SCレーダー(水平方向探知)
SMレーダー(敵攻撃機の高度を探知)
SGレーダー(島嶼・海上の艦船を探知)
FDレーダー(ドプラー効果による機速測定用)
対空射撃用Mark11(高角砲連動目標自動追尾射撃管制) が搭載されていた。
 それぞれのレーダーで把握した、敵の動きが戦闘司令室に集められ、即座に迎撃のための作戦命令を発することができた。  このCICシステムの中核となった装置がPPI(円形モニター画面・Plain Position Indicator) である。  これにより、地形を含めた360度の中に敵、味方の位置を映しだせ戦術的に絶大な効果を発揮した。よって 味方迎撃機は艦隊から最短でも50Km離れた空域で戦闘を行うことができた。
そして、防御兵器としての見張用レーダーだけでは 敵味方の識別は不可能だった。 そこで考えられたのが、レーダー照射波を浴びると別の信号を発進する装置が考案された。 敵味方識別装置(IFF)である。 レーダーそのものは、 連合国にしろ同盟国にしろ大差(海技研に対して1940年にマイクロ波レーダーの研究中止を命令)があった状態で戦争状態に突入していない。  防御兵器に対する柔軟な思考と使い方。研究開発、実戦応用の熱意と努力の違いだった。  連合国側はハードのノウハウを共有したに過ぎない。 
*2 F6F戦闘機 最高速度:594km/時 航続距離:1750km  米は高度測定・方向探知レーダー(CXBLレーダー 80〜128Kmの探知能力)を活用し 艦上から空戦管制を行った。 なお、対空警戒レーダーとしてSK,SCレーダーなどがあった。
*3 二号一型電探VHF方式 航空機探知能力高度3千メートルで55Km 真空管54本。 重量840Kg
艦橋櫓檣(ろしょう)(遠距離探知のため)に大きなレーダーアンテナを取り付けるので、女性の髪に取り付ける簪(かんざし)のようで格好悪いとか、トップヘビーなるなどの難癖をつけた。
マリアナ沖海戦で巡洋艦羽黒にはオートダイン受信機(再生検波受信機)を持つ二号二型改1マイクロ波(近距離・ 3GHZ〜30GHZ) 電探が搭載され、操作員(准士官)の優秀さとあいまって艦隊の前衛で敵の動静を察知し、それを各艦に知らせた。  それを知った軍令部は大至急この電探装備を急いだが、落日が分秒に迫った時期だった。
*4 注)
「真相・戦艦大和ノ最後 原勝洋/著 KKベストセラーズ」頁161以下、大和装備の電探呼称を間違えている。
−例− 頁162
対空見張りと水上見張りに使用された一号電波探信儀二型(誤り。この型番は陸上設置)、そして対水上見張り専門の二号電波探信儀二型(正しい)、そして対空見張り用 一号電波探信儀三型(正確には三式一号三型のことと思える)
帝国海軍は戦場のビジュアル化に興味を示さなかった
 海上戦闘という刻々変化する戦場把握には可視化が必須と考えるが、全く興味を示した風がない。 連合軍のようにレーダースクリーンのPPI(Plan Position Indicator )方式を作れなかったが、 大戦初期の英国はAスコープ(オシログラフに反射波形が表示)だったけど、地図もしくは海図の上に敵味方の艦隊や編隊を色分けし駒を動かすビジュアル化を行っていた。
 帝国海軍はこの程度の知恵も持ち合わせていなかった。 航空機の出現で高速化した戦場把握はいくら指揮官参謀が優秀だったとしても不可能だったはずだから、 少しは知恵を働かしてもよさそうだがそれさえ実行していない。これなど、資源や工作機械がないなどで済まない問題である。 指揮官や参謀の頭(本人だけが描ける)だけで複数の艦艇を有機的・三次元的に把握できるはずもないし、意思の疎通も図れなかったと思える。
 レイテ沖栗田艦隊も初期英国が行った駒方式を行っていさえすればあのような混乱と撤退は起こらなかったと思える。日本軍全体に云える通弊だが相互に状況を連絡しあう、 若しくは統合して指揮する仕組みを構築できなかった。比島にあった第一航空艦隊や第二航空艦隊も自ら取得した敵状を他部隊共通の情報として役立てていない。 GFの戦場指揮もそこまでの配慮と知恵を出してもいない。すなわち、源平合戦の頃の思考(やぁーやぁー我こそは)で戦ったと断言せざるを得ない。
 誰の目にも敗戦が濃厚となり、生活物資の配給品は遅配,欠配となり国民の飢渇が濃厚となったころ、 国民を鼓舞する「足りぬ足りぬは工夫が足りぬ」というスローガンが掲げられたが、「足りにぬ足りぬ」は海軍大学校や海軍兵学校卒業生らの知恵とおつむが足りなかった。

*5 組織は、第一機動部隊・第三艦隊所属第一航空戦隊となる。一航戦には空母大鳳,翔鶴,瑞鶴。
*6 「空六号」機上電探(レーダー) 別名「H−6」,波長2m 出力6KW  重量150Kg。昭和18年(1943)から実用化。 ただし、この電探も真空管に問題があったと伝えられている。 天山のような小型機の振動にフィラメントが耐えられなかったのであろう。  この機種の改善は敗戦まで進展しなかった。
米側の空母では、日本の攻撃隊は、我が艦隊の上を何度も旋回していた。厚い積層雲(2,000m以下)に阻まれ我々を発見できなかったらしい。 幸い、少数の爆弾を海に落として飛び去った。 これも日本機にレーダーがついていなかったからだと思う。  後の、大和沖縄突入作戦で、米機の機上レーダー装備で有効な反撃さえ出来なかった。  当時の天候は雲量10 雲底は1,000〜2,000m。 多くの米機が雲から現れたときには攻撃体制にあった。と生還者は書いている。
*7 参謀には、参謀長の下に参謀副長、先任参謀そして主務別に
作戦参謀,航空甲参謀,航空乙参謀,砲術参謀,戦務参謀,水雷参謀,航海参謀,情報参謀,機関参謀。
その他専門職として
気象長,暗号長,艦隊機関長,艦隊軍医長,艦隊主計長。が存在した。
バカ共を列挙すると、一航戦の上部組織、第一機動部隊には参謀長 古村啓蔵, 長井純隆,大前敏一,青木 武,有馬高泰,石黒 進,山野井實夫,赤尾俊二,辻本 毅, 田中正臣,肥後武雄,石田外喜夫らであった。 参謀副官は山下雅夫。  その内戦史叢書で航空参謀と思われるのは田中正臣である。 田中はその戦いの回想で、マリアナ沖海戦の敗因として、 航空隊の訓練不足を挙げている。 それは敗戦の要因であって 真因ではない。 用兵参謀の科学音痴がレーダーの有効性を認識していなかった。
なお、訓練不足の原因は、空母がタウイタウイ泊地から外洋(米潜のため)に出ることが出来なかったことによる。  この後に及んでと云いたくなるが、艦船搭載用見張り電探(レーダー)の無線封止がやっと解除され対空警戒に使用され出した。  これは、橋本宙二技術大佐が、電探活用により米艦載機の奇襲防止に使うべきを力説し、兵科参謀がやっと 同意したことによる。 それは、1944年(昭和19年)5月のことであった。 これほど兵学校教育は柔軟思考皆無・科学思考が出来ない人間養成機関だった。
夜間雷撃に活用すべき、天山搭載レーダーを取り外せと指示した 空母瑞鶴飛行長、ならびに第三艦隊・第一航戦の航空参謀の官職姓名は誰だったのか『戦史叢書(公刊戦史) マリアナ沖海戦』は伝えていない。
*8 電探と魚雷同時搭載は重量の関係で不可能だった。 機上電探「空六号」重量 150kg。
京大工学部電気科出身。佐世保海軍工廠から海軍技術研究所に転属(1943年2月)。 1943年8月トラック島の第二艦隊司令部に転属。研究所から始めて現場(実戦)に出て驚いたことは、電探装置 そのものが、現場の過酷な使用条件を加味することなく、製造されていたことで不具合が続発した。すなわち、 用兵側の無理解(電探防御兵器で卑怯者が使う道具)で研究者も過酷な使用条件を知らず改善がなされなかったことによる。
それは、実戦訓練を受けていない海技研の技術者を軍艦に乗せることを好まなかったことに起因した。
レーダーに関してこのWebは分かりやすく詳しい。

水からガソリンの件は徳山大学総合研究所に全文が掲載してある。

[technology] 内の各 htm ファイル
沖縄突入艦から除かれていた対空駆逐艦秋月型 specification,矢矧など  旧 Imperial Navy のバカどもが最終的に行き着いたコンクリート船   巨象は虚像だったImperial Navy   マリアナ沖海戦真の敗因 (日本海軍に存在した防御軽視の大弊害)   伊52 模倣国家日本の縮図   期待と結果が無惨に食いちがった戦闘の経過   マリアナ沖海戦参加艦艇   水から航空ガソリンが出来ると信じたバカ。   電探の重要性を帝国海軍軍令部が真から気づいたとき   日本海軍の製作した電探 レーダー   艦上攻撃機天山 ・ 艦上爆撃機 彗星   犬の遠吠え思想だった大和搭載主砲

[参考文献]
日本海軍燃料史 燃料懇話会/編 原書房 1972年
徳山海軍燃料敞史 脇 英夫/〔ほか〕共著 徳山大学総合経済研究所 1989年3月
エレクトロニクスが戦いを制す NHK取材班/編 角川書店 1994年1月
ドキュメント海軍技術研究所 中川靖造/著 日本経済新聞社 1987年6月
戦史叢書 マリアナ沖海戦 防衛庁防衛研究所戦史室/著 朝雲新聞社 1968年2月

第二奇兵隊取材班
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