石油精製技術で完敗した Imperial Navy

潤滑油について   海軍松根油   軍需局木山正義氏について   陸軍松根油
海軍燃料廠
神奈川県横浜市 第一海軍燃料廠 研究の中核施設。 精製・製油装置を有せず。
三重県四日市市 第二海軍燃料廠 精製・製油,合成部,整合部。抽出油全般及び潤滑油製造。
山口県徳山市   第三海軍燃料廠 精製・製油,化成部。黒油系(60%),航空ガソリン(30%),潤滑油の一部製造。
福岡県糟屋郡   第四海軍燃料廠 和炭生産。ボタの乾留
朝鮮平安南道平譲府 第五海軍燃料廠 無煙炭生産。練炭生産。ボタの乾留
台湾高雄州高雄市 第六海軍燃料廠 精製・製油,合成部。白油系製造。
野村直邦(海軍大将)提出   東條英機内閣の海軍大臣
1945年(昭和20)5月1日〜 軍事参議官兼大本営海運総監部総監
大東亜戦争戦訓調査資料 昭和20年10月9日提出。
近代戦ハ前線ニ於ケル戦闘ト後方ニ於ケル生産補給トノ二本建ナル性格ヲ悟ラザルニ起因シ無理解ナル兵力動員ニ依リ熟練ナル労務ヲ枯渇シ生産力ヲ甚シク阻害低下セリ

-- 日本が到達できなかった石油精製技術 --
ガソリン製造は、ウイリアム・バートンによって熱分解法が開発されて、良質な軽質油の製造が開始された。 それによって得られるガソリンに四アルキル鉛(四塩化エチル・猛毒)を加えることで87オクタンを92程度に高めることが出来た。  日本では、練習機によるパイロット養成には87オクタン価ガソリンが使われたが、 航揮枯渇の情況で訓練は大きな制約を受けることになった。
そのような状態では歴戦の数少ないパイロット以外は、離着陸がかろうじて出来る程度の錬成度しか望めなかった。  また、第三海軍燃料敞(徳山)でも四アルキル鉛添加作業による多くの鉛中毒者を輩出している。
第三海軍燃料敞で高オクタン価ガソリン製造のために、 九八式と呼ばれた水素添加装置の巨大なコンクリート建物が敗戦後も放置されていたが順調に運転したという資料を探せ出せなかった。  あの水添装置は87オクタン価ガソリンを92オクタン価ガソリンにする程度の装置であろう。  100オクタン価ガソリンが製造不能の状況下で、航空機エンジン開発技術者は、一時的高出力発揮の手段として、 水+エタノール噴射を試みるが機構の複雑化。すなわち各気筒に均質な噴射プランジャー製造不能で実用化にほど遠かった。
中島飛行機が試作開発していた海軍名「誉」、陸軍名「ハ45」は、 空技敞和田敞長より「最も高級な材料、燃料、潤滑油」での試作(1940年9月15日試作命令)を命ぜられが1942年に入ると、100オクタン価のガソリンは供給できない。と通告されている。  出典「悲劇の発動機『誉』前間孝則 草思社」

1944年(昭和19年)9月には水素添加装置を完成し、オクタン価92の航空機用ガソリンの試験的な製造に成功したが本格的な操業までは至っていない。
フランス人化学者ユージン・フードリー(Houdry)とサン石油が開発した接触分解法で容易に100オクタン価ガソリンが得られた。 これによってメッサーシュミットの87オクタン価ガソリン使用のドイツ戦闘機は英スピットファイヤー戦闘機が 使用する100オクタンガソリンの敵ではなかった。
* ガソリンのように直接的兵器でもない代物も戦勢を大きく左右した。 航空機エンジン開発・航空機燃料開発・ 空気過給器・高純度潤滑油など、ハイドロカーボン時代の戦争は一国の運命を左右した。
日本でのハイオクタンガソリンの商業プラント化は1960年代である。石油の流動接触分解(FCC : Fluid Catalyst Cracking)装置が造られ 実現する。  FCCについてはこちら

戦後米軍による陸軍機四式戦疾風のオクタン価別速度
140100 9080
690Km 640Km630Km 570Km/td>
0-10 -70
0%98.4%89.1%
%はオクタン価100を基準とした。
上表にみられるように高圧縮率航空機エンジンではオクタン価により性能面で開きが出てくる。 オクタン価100と80オクタン程度では時速70Km の速度差となる。こうなると上昇力では比較にならない差が発生するはずだ。 時に、政府要人や将軍,提督が軍用機に乗ることがあったそうだが、80オクタン程度でも飛行できるから、ハイオクタン製造技術を意に介さなかったと伝えられている。 日本では、海軍第三燃料廠に九八式水添装置が稼働していたが、その性能をフルに発揮出来なかったと伝えられている。初期南方から運ばれた原油には蝋分が多く含まれ、脱蝋のため多くの労力を割かれたという。
九八式水添装置は粗油を高温高圧下で水添・加鉛してオクタン価を92にするものであった。 国内工業力ではこの高温高圧に耐える特殊鋼の製造がネックとなった。
このようにオクタン価などどうでもよさそうなものが、航空機の空戦能力を大きく左右した。零戦,彗星,紫電改や陸軍機疾風のように世界に誇る性能(カタロク値)だったが、低質なガソリンではその性能を遺憾なく発揮することは不可能であった。
当時のオクタン価はこちら
* ガソリンのように直接的兵器でもない代物も戦勢を大きく左右した。 航空機エンジン開発・航空機燃料開発・空気過給器・高純度潤滑油など、ハイドロカーボン時代の戦争は一国の運命を左右した。
-- 潤滑油について --
海軍は燃料と潤滑油のほぼすべてを米国からの輸入に頼っていた。南部仏印進駐(1941/7)による米国の禁輸と軋轢が強まる中で、急きょ潤滑油の開発と製造が開始された。  実際のところ、どの程度のグレードと特性を持った潤滑油が生産し供給されたのか「海軍燃料史」を読んでも判然としなかった。  徳山海軍燃料廠史頁293に第三海軍(徳山)燃料廠史に「開戦当初は(精製に)カナダ原油を使したが、その後南方原油を使用するようになったが蝋分(パラフィン)を含むため脱蝋装置が必要となり、 昭和18年(1943)に蝋濾過器つくられた。」 このことから、海燃では南方原油から高品位の潤滑油をつくれなくなってしまったことを示唆する。  内燃機用潤滑油でもガソリンエンジンとディーゼルエンジンで同一性状のものは使えない。軸受け潤滑などまた別の性状でなければならない。海軍が誇った九三式酸素魚雷も、敗戦前には製造できなくなり、一世代前の魚雷に逆戻りしている。 熟練工(徴兵)の不足と潤滑油の問題があったと考えられる。兵器は戦争中でも進歩するものだが、 退歩した軍隊は、人類に戦争が始まって以来日本海軍が軍事史上でも希有の例かもしれない。
特攻機も多くエンジン不調でひき換えすか、不時着している(25%程度)。 これも潤滑油にその問題の要因があったような気がしている。当然日本国内と熱帯で同一の潤滑油は使えない。  国内製造潤滑油が本当に使えるようになったのは、石油民族系 I社 が 1980年代にリリースした 10W-30(テン・ダブリュ・30)の潤滑油からだった。 当時の日本国内で夏冬通期で使える潤滑油が始めて出現した。それ以前は、冬は冬用、夏は夏用の潤滑油に交換する必要があった。  また駆動軸のプロペラシャフトにも潤滑油注入ニップルが付けてあり定期的に補油する必要もあった。 当然のことながらトランスミッション(変速機)や デフレンシャル機構(側輪の駆動)の潤滑油も定期交換が必要だった。 ではなぜ最近の車輌は女子供でも乗れるようになったのか。それはひとえに潤滑油の進歩による。  おそらく、多くの女性ドライバーがエェーそんなところに油が必要なの?知らなかったー。の声が聞こえそうである。
 魚雷が逆戻りした考えられる理由は二つ
1.ベテラン工員が徴兵で生産現場から去り 2.高純度の各種潤滑油が枯渇した。 近代戦は、兵隊が鉄砲を撃つだけでは戦えなくなっていた。  現在も掃いて捨てるほどの戦記ものWebサイトがあり、 艦隊決戦だの航空戦だの勇まし限りだが、潤滑油と兵器の相関について書いたものを見ない。 航空機に防御構造が無いだけでなく、エンジン不調(工作精度+潤滑油)により、現場のモチベーションの低下なども見過ごされない問題だったはずだ。  潤滑油 ここで。  航空燃料と潤滑油 こちら。
開戦前、潤滑油は米国から全面的に輸入していた。
徳山海軍燃料廠史年表に
昭和15年(1940年)、日本石油、フルフラール法による高級潤滑油を製造。(航空用を意図したが、戦車用にとどまる)とあるので海軍燃料廠で高品位航空潤滑油が製造できたか怪しい。

松根油について
当時海軍省軍事局で燃料戦配備を担当した海軍大学校,帝大応用学科を卒業した木山正義は平成11年9月13日海上幕僚監部の講演で松根油の大増産計画とアルコール燃料の大増産計画を行い、松根油の航空燃料実用化は完了していた。と述べている。現在の技術をしても分子量の大きな炭化水素を分子量を小さくし高オクタン価にする技術は並大抵ではない。
またアルコールは全国の醸造所を傘下に組織化を図ったと述べている。エチルアルコールはC25OHである。 この分子量で航空発動機が動かせ、航空機による戦闘活動が出来ると信じていたとしたなら海軍大学校も当時の帝国大学もそのおつむの程度が知れる。バカの三乗である。
徳山燃料敞 <= 左の写真は戦後撮影された廃墟となった徳山燃料敞。 写真奥にコンクリート製の巨大な九八式と呼ばれた 水素添加装置の建物が見える。日本海軍燃料史で航空ガソリン生産能力は日量 80,000リットル。
手前は松根油精製工場である。
徳山工業高等専門学校工藤洋三教授らの松根油抽出実験で得られた成分は
原材料:松の根 15Kg 抽出液体 10Kg 内訳(油 4.52リットル 44.2% )
成分:C2032 ジテンペル類 46%     C1016 モノテンペル類 45%     C1514 セスキテンペル類 7%
その他 2%   この分析は出光興産徳山製油所が行っている。 工藤洋三教授の松根油抽出実験はこちら。 分子量の大きな炭化水素を分子量の小さい炭化水素に分解しなければ使えない。試験プラントで精製に成功したらしいが、 ハイオクタン化の壁が立ち塞がる。石油からでも92オクタン価程度しか製造出来なかったので、高い圧縮率エンジンを搭載する航空機に使用できる燃料にはほど遠かったはずだ。
徳山海軍燃料廠史に昭和14年(1939年開戦2年前)軽油を水添分解して、92オクタン価ガソリンを得るための九八式分解水添装置が完成。 この年92オクタン価を得るけれども、能力は計画に達しなかった。
統計的に信じるに足る資料として徳山海軍燃料廠史頁334に九八式水素添加装置で生産された昭和20年4月で航空ガソリン64,000バーレル(10,176KL),その内1%しか92オクタン価を超えるのものは生産できなかった。とあるので僅か10KLである。 艦攻天山は満タンにすると1.2KL入ったので85機程度の生産量である。
この水添装置も、第二海燃四日市と第三海燃徳山に各1基。すなわち日本に2基のみであった。そのからしても、すでに戦いの結末は見えているようなものであった。
日本でハイオクタン価ガソリンが製造できなかったのは必ずしも石油技術者の怠慢ではない。
軽・灯油を高温高圧下で水添・加鉛しオクタン価92以上を得る九八式水添装置で可能だったし、実際に製造していた。当時この製造技術は諸外国に劣るものではない。 ならばなぜ多量に生産出来なかったのか?。それは冶金技術が立ち後れていたからである。すなわち水素添加用反応塔に要求される特殊鋼に要求される鋼材は(1)摂氏500度以上の耐熱性。(2)水素の鉄材に及ぼす炭化作用に耐えるもの。 (3)塩酸の浸蝕に耐えるもの。(4)硫化水素の浸蝕に耐えるもの。そしてその製作には(1)軟鋼,(2)クローム・モリブデン鋼,(クローム18%およびニッケル8%の合金鋼)を必要とした。このような特殊鋼を製造生産できなかった技術者に問題があった。 中島飛行機が生産した当時の世界水準以上の発動機"誉"が目標としていた性能を発揮出来なかった理由がハイオクタンガソリンであったように、テクノロジーは一つが突出しても限界があった。
ただし、当時でもハイオクタンガソリンが製造できるフ−ドリ−接触分解法が知られていたので、米国では昭和17年(1942)にはこの接触分解法が取り入れられ、100オクタン価ガソリンが多量に生産されだした。
―日本における戦争と石油頁32―

徳山海軍燃料廠史にみる松根油                                単位:KL
1月2月3月4月5月6月7月8月合計
松根油 0 150 200 400 300 5002,0031,502 5,055
出典:徳山海軍燃料廠史 PBレポート(米国政府が委託・収集・発行する)

徳山海軍燃料廠史
著者   : 脇英夫・大西昭生・兼重宗和・冨吉繁貴
発行所 : 徳山大学総合経済研究所
発行年 : 1989年3月
前出の木山正義元軍需局員の廠史序文を次に掲載する。なお、同史松根油の項記述者は脇英夫である。
序     文
 明治の黎明と共に創設された日本海軍は、我が国近代化の先駆をなし、日清、日露の両役に大勝を博し、 第一次世界大戦後、世界第三位の海軍大国となりました。
 日本海軍の急速な増強に伴い、海軍燃料界も又、日本国内最大の燃料需要家として、明治、大正、 昭和の三代に亘り、燃料の生産、技術、政策等各般に亘り、指導的役割を果してまいりましたが、その中枢的存在は、 徳山海軍燃料廠でありました。
 昭和十六年十二月、燃料部門から見た場合、全く理解に苦しむあの大東亜戦争に突入、我が軍の勇戦空しく、 三年有余にして鉾を納むるの巳むなきに至りました。而して我が海軍は、 創設以来僅かに八十年の短命を以て亡び、海軍燃料界も又、落日の海軍と、その運命を倶にしました。
 あれから四十有余年、爾来今日まで、日本海軍は、内外の歴史研究家の研究対象となり、戦史、教育、制度、 人物等各方面に亘る、研究論文が発表されました。  このような中にあって、今回、徳山大学総合経済研究所が前例の尠(すく)ない、 燃料廠を中心とした『徳山海軍燃料廠史』という、優れた研究論文を編纂刊行されたことほ、洵(まこと)に意義深いものがあると存じます。
 思うに、さきの大戦により日本海軍は消滅しましたが、永年に亘り培われた技術と精神は、あの終戦直後の混 乱を克服して、各方面に開花いたしました。
 中でも海軍燃料界の数千の技術者連は、戦後の産業、行政、教育等、各方面に参画し、 日本の再建並に興隆に計り知れない貢献をいたしました。
 而して是等多くの技術者連の揺藍の地が徳山海軍燃料廠であることに思いを致すとき、 旧海軍の一人として本史の編纂刊行に限りない感慨を禁じ得ません。
 恐らく本史は今後戦史研究者の必読の書となるばかりでなく、 産学協同に関する貴重な資料となるでありましょう。
 此処に本史の研究編纂に当られました脇先生をはじめ関係諸先生方に対し真心より深甚の敬意を表する次第であります。
昭和六十三年五月                                   木山正義(サイン)
( )内読みは筆者による。

『日本海軍燃料史』には、「…一部航空揮発油の生産を見たが、 一般に使用される段階に至らなかった。」とのみ記されていて、 松根航空揮発油の品質や、それが実用化されたとする記述はどこにも発見できない。 さきに引用したコーヘン教授著書には、 「…それも実際に飛行機に実用した形跡はなかた。 合衆国陸軍が試験的にジープで使ってみると、数日にしてエンジンがとまって使い物にならなかった。
 筆者(脇英夫)がみることができた日本人の著書で、 松根油について触れたものは、 大抵右のコーヘン著書に依って述べている。しかし以上は事実であったとしても、 この一事で全体を推測することは危険ではなかろうか。
 木山正義元軍需局員は、この間題に関する筆者(脇英夫)よりの質問に次のとおり答えられた。
 「五〇〇竏生産したが、使用不能であったとの話があるようですが、 燃料油を航空機に使用する迄には色々なテストが必要であり、 テストが完了するまでは燃料そのものの改質は勿論のこと、エンジンの調整も必要です。 乃ち当時はテスト中であったと判断されます。 (中略)米軍がジープに使って駄目であったという事は真実でしょう。 然しそれは、たまたまそうゆう事があったと解釈するのが適当と思います。
 最後に海軍省軍需局が松根油より生産した燃料を航空機に使用するのは、 昭和二十年第三、四半期よりと予定して居た事を申し上げます。……」

 松根油航空揮発油を使用すれば、その情報を当然知る立場にあった当時軍需局第二課員が、 実際飛行機に使用したとの情報を得ていないとすれば、ほかにわれわれは知る手段があるのであろうか。
 要するに松根油航空揮発油を燃料として飛んだ飛行機は、一機もなかったと理解するほかない。 仮にもしあったとすれば、それはテスト飛行で戦闘には使用されなかったというほかはない。
 昭和十九年秋から敗戟の日迄、「戦闘機をとばせる松根油を造ろう。」と奉仕労働を呼びかけて、 航空揮発油は生産できたが、それで飛行機は飛ばなかったというのでは、国民として到底納得できる話ではないが、 それも不合理な戦争のためということになる。
 朝日新聞も国民を煽った『取ろう松脂(まつやに)、決戦の燃料へ、簡単に出来る良質油 本土致るところに宝庫あり』(昭和20年8月4日)
この記述出典:徳山海軍燃料廠史 頁325

昭和六十三年(1988年)発刊の徳山海軍燃料廠史で航空機での実用運転は行っていないと述べながら、 11年後平成11年(1999年)9月13日の講演で航空燃料実用化はほぼ完了と講演した。 木山氏はこの11年間密かに松根油で航空機実用試験をおこなっていたのであろう。この頁閲覧者で木山氏が確かに松根油抽出による航空機用ガソリンで飛行実験していた。という情報をお聞きかお持ちの方一報をお願い致します。
木山氏がいう昭和二十年(1945年)第三、四半期より実際に松根油を使用するとしている9月以降には既にこれを精製する海軍燃料廠は爆撃で消滅して存在しない。
その現実を踏まえて海上幕僚監部で講話したのならこれまた氏の頭を疑ってしまう。海軍大学校も海軍機関学校卒もその場限りのテキトーなことを教えたに違いない。
よしんば、木山氏の計画通りだとすると毎日125万人動員しなければならない。
海軍機関学校同窓会木山正義名誉会長白寿記念同窓会に書かれている内容は、徳山大学研究叢書「徳山海軍燃料廠史」と明らかに矛盾する。
徳山爆撃 5月10日、松根油装置被害僅少4日後再開約500KL精製?。 四日市爆撃 6月18日壊滅

陸軍・松根油について
〔陸軍燃料廠史 技術偏・満州偏〕頁85〜86
標題:膠質土(こうしつど・端的には鹿沼土)による松根油の接触分解
この陸燃史で松根油の抽出方法については書かれていない。松根油からの軽質油を得る仕組みだけである。よって 徳山工業高等専門学校工藤教授の抽出実験を踏まえて書かざるを得ない。
1.陸燃史では長野県産取込油で黒色不透明、特有の臭気を有し比重は0.910,酸価62〜71,水分2〜3%
2.教授の実験では15Kgの松根から10Kgの液体を抽出,その内油分は4.52リットル。
先の比重を当てはめると9.1リットル原液から4.52リットル抽出できることになる。では陸軍はこの原油(松根油)からどのように松根油の処理を行ったのか簡潔に記す。
1)松根油1KL+膠質土200Kgを加え接触蒸留処理。釜残油700Kgを得た。
2)釜残油を乾留すると400リットルの蒸留油を抽出。内訳:機械油原料200リットル。揮発油40リットル。灯軽油100リットル。
3)抜頭油*1 450Kgに膠質土を加え灯軽油(100リットル)を接触分解。
4)分解油440リットルと分解ガス60立米を生成。
5)分解油440リットル+揮発油(40リットル)を整留すると比重0.92の灯軽油191リットルと比重0.87の航空揮発油289リットルを生成。*2

工藤教授の松根油実験で得られたデータを当てはめると1000リットル(ドラム缶5本分)の松根油を得るためには30トン(大型トラック約3台分)の松根乾留作業と約420〜430リットルの抜頭油*3を加えてやっと比重0.87の航空揮発油289リットルを得られるに過ぎない。 海軍最後の艦上攻撃機(当時、世界トップクラス)天山の燃料タンクは1200リットル(ドラム缶6本分)だったので、125トン分の松根が必要となる計算である。たった1機の燃料で大型トラック12.5台。努力に比し得られる成果は少ない。 蟷螂の斧的行為ではなかろうか。そのような松根を運ぶ車両そのものが無かったから、 多量の松根は人力か牛馬であろう。また効率的に運ぶ道路網さえ整備されていない。 参考までに、国道1号線(東京〜大阪)が全通したのは1962年(昭和37年)で、 車両も昭和20年(1945)の軍・民間合わせて全国の台数は 144,400台でしかなかった。 それ以前の昭和16年石油を使う営業用タクシー,バスを含めた自動車の運行は全部廃止された。またガソリン在庫を食い延ばす措置としてガソリンに20%のアルコール混入を命じる法律が公布*4された。 現在は車は5,600万台ほどもある。 海軍省軍需局の木山正義氏は、このような情況であることに全く触れず、 航空機用のガソリンがあればあたかも戦争が継続できるがごとき講演を行っている。民間の力(山野に生えている松の抜根及び樹脂採取)なくして本事業はなしえないにも係わらず往事の情況も語らず、海自幕僚監部で元気振っている。噴飯を通り越して呆れる。 海兵,海大,海軍機関学校も大法螺吹き養成所だったのか??。 もし語るとすれば、あの松根油活用手段は無益で国土荒廃をもたらす弊害が大きかった。と語って欲しかった。

陸燃史のこの項執筆者は陸軍燃料研究所で航空燃料に係わった大和田健次氏である。陸軍戦備に間に合ったとは書かれていない。この後に及んでも官僚化の壁は抜きがたく陸軍・海軍二本立てで研究を行っていた。 また、同書でエンジンに大敵である酸価抜き処理をどのように行ったのか、また松根油から抽出した?された航空揮発油のオクタン価について書かれていない。海軍軍需局木山正義も肝心なオクタン価、利得された松根油の比重等に全く触れていない。彼の海上幕僚監部の講話でも松根油から航空ガソリンが抽出出来た!出来た!のオンパレードのみで性状など話していないから、 松根油に関して陸軍データを信じたくなる。結局松根油で高圧縮飛行機エンジンの燃料にほど遠いものであったことは確かだろう。エンジンが駆動することが、そのまま戦闘が可能。ということには繋がらない。潤滑油も燃料にも増して大きなそして大切な要素なのである。


陸軍の得られた松根油の分留性状
分留量(vol %)  比重
    1.9    ほとんど水
    1.4     0.854
    5.6     0.886
    21.3     0.895
    22.4     0.909
    13.0     0.942
    7.1     0.982
現在一般的にGSで販売されているガソリンの比重は0.75程度である。上記の比重から更に軽質なガソリンを生成することは素人目にも不可能に思える。 どのような改質手段を講ずれば、軽質かつハイオクタン価ガソリン(分子量の少ない)が木山正義氏が云う如く生成できたのであろうか?
*1 〔抜頭油〕常圧残油のこと。原油を常圧蒸留装置で処理して、ガス、ガソリン留分、 灯油留分および軽油
   留分を留出させた残りの油
*2 〔生成した油の比重〕比重0.92 現在ではC重油クラス。比重0.87は現在の軽油クラス。
   ディーゼル機関に使用。すなわち大型トラックの燃料。
*3 抜頭油を得るためには、原油を蒸留しなければならない。その原油が陸海軍ともほとんど無かった。
*3 政府は昭和13年4月1日『揮発油及びアルコール混用法』公布。昭和16年10%,順次引き上げられ
   最終値は20%。

内燃機関とオクタン価,セタン価,引火点や潤滑油について西村株式会社の説明が簡潔です。

 海軍燃料廠の石油製品生産量     昭和20年4〜8月                          単位:KL
原油処理量航空揮発油一般揮発油灯軽油 ディーゼル油重油 航空潤滑油一般潤滑油
11,001 3,550 200 4,601 0 10,221 1,402 1,060
 第2,第3及び第6燃料廠の合計値
 陸軍燃料廠の石油製品生産量     昭和20年1〜6月                          単位:KL
原油処理量航空揮発油 一般揮発油灯油 軽質軽油重質軽油航空潤滑油 一般潤滑油
0 1,704 204 0 05,305 200 501
 岩国,四平街(満州),錦西(中国遼寧省)合計値
上表出典:日本における石油と戦争〔石油評論社〕
海・陸軍とも原油処理量に比べ製品量が大きいのは半製品が原油と混和もしくは半製品で製品化が図られたことによる。
国内の民間石油精製施設 ( )内は製油精製所及び事業所 出典:日本における石油と戦争〔石油評論社〕
日本石油(柏崎・横浜・北海道・長岡・川崎・鶴見・新潟・下松・東京)
丸善石油(横浜・大阪・船町・今福・大阪〔東洋石油〕・松山・和歌山)
昭和石油(川崎・海南・彦島・関屋・東京・平沢・新潟)
大協石油(新津・新潟・東京・四日市)
興亜石油(麻里布・横浜)
日本鉱業(船川)
東亜燃料鉱業(和歌山・清水)
海軍国内精製施設
第1海軍燃料敞(横浜鎮守府管内・神奈川県大船)
第2海軍燃料敞(横浜鎮守府管内・三重県四日市)
第3海軍燃料敞(呉鎮守府管内・山口県徳山市)
第4海軍燃料敞(佐世保鎮守府管内・福岡県糟屋郡) 筑豊石炭集積地(コールセンター)
石油精製主力は、第二,第三燃料敞で第二は軽質油,第三は重質油を製造した。両敞での精製能力は 「戦略爆撃調査団」報告で、日量35,000バレル(1バレル=159リットル),月産17万KLである。
* ミッドウェイ海戦で全艦艇が使用した燃料は60万KLと伝えられており、 国内燃料敞がフル稼働しても3.5カ月分に相当する。第一次世界大戦以降ハイドロカーボン時代が出現するが、 艦隊行動での燃料補給能力は作戦を左右する情況が出来した。
海軍国外精製施設
第5海軍燃料敞(鎮海警備府管内・朝鮮平安南道平壌府)
第6海軍燃料敞(高雄警備府管内・台湾高雄州・高雄市)
第百一燃料敞(ボルネオ島,サマリンダ・タラカン)
第百二燃料敞(ボルネオ島,バリックパパン) 海軍占領時徹底的に破壊されていた。
国内外の石油精製設備でどのような性状の潤滑油製品が製造されたのか、詳細な内容はよく知られていない。


第二奇兵隊取材班
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