太平洋戦争の敗因は海軍の硬直教育と科学音痴が原因だった。

戦争に勝つためにの第一義は、
戦闘に勝利することである。海戦でも陸戦でも敵にダメージを与える必要がある。敵艦に魚雷を命中させたり、砲弾や爆弾を命中させることは純然たる自然科学の分野である。 的中そのものに運や勘の入る要素は全くない。先の戦争直前の提督と呼ばれた人物に信じられないような水から航空ガソリンが出来ると信じた実話がある。このようなトップを戴いた軍事組織が戦争に勝てるわけもない。
(1)『日本海軍燃料史』頁1197・1198 当時海軍省軍需局員であった渡辺伊三郎氏による。
(2)徳山海軍燃料廠史

水から航空ガソリンが出来ると信じたバカども。  出典:日本海軍燃料史及び徳山海軍燃料敞史

氏 名 身分・役職任期 自
米内光政海軍大臣昭和12年(1937)2月2日 昭和14年(1939)8月29日
山本五十六海軍次官昭和11年(1936)12月1日昭和14年(1939)8月29日
豊田貞治郎航空本部長昭和13年(1938)11月15日昭和15年(1940)9月5日
大西瀧治郎航空本部教育課長昭和13年(1938)11月15日昭和15年(1940)9月5日
徳山海軍燃料廠史年表でこの事件は昭和13年9月、「水ガソリン事件」本多維富が航空本部地下室で実験を行う。と記述

『日本海軍燃料史』の渡辺伊三郎氏に従って事実の概略を記すと・・・・・・「或る日閣議の あとで、近衛総理から、「僕のところの井戸水は大変なものだよ。 あの水がガソリンになるそうだ」と発言があり、米内海相に「調べてみたら」と耳内があり、 海相から軍需局長に話が伝えられた。軍需局では詐欺行為であることを熟知していたので取り上げるべきではないと結論された。
軍需局から実験申込みを断られたこの詐欺師(自称町の化学者・本多維富)は、 話を海軍航空本部に持ちこんだ。同局教育課長大西瀧治郎大佐は本多の言に動かされて、 これを信用し、航空本部長豊田貞治郎中将、海軍次官山本五十六中将等に働きかけて、 海軍大臣官邸において実験が行われる形勢となった。 このことを聞いた柳原博光少将(元軍需局課長・燃料局部長)は中止を勧告したが大西大佐らは聞きいれず、実験場所のみを、 大臣官邸を取りやめて、航空本部地下室に変更し実施されることになった。 実験委員として大西大佐を委員長とする30 名が任命された。 実験そのものには反対したが軍需局からは柳原少将の指名による渡辺伊三郎軍需局員が入って「実験」に立会った。 ものものしく振舞う本多らの実験は昼夜3 日間にわたり、 立会人達の疲労が甚しくなった頃に「成功した」と称しガソリン入りの瓶が取り出された。渡辺委員は予め実験用ガラス瓶の特徴を控え、 すべて番号を付しておいたため、当該瓶は途中持ちこまれたものであることを見破られ、本多は海軍軍務局によって警察に引渡され幕切れになった。
柳原少将によると、この事件後大西大佐からは柳原に対し、 不明を詫びる手紙が送られたが、山本五十六次官は何の挨拶も無かったという。

兵学校の教科と教育程度
兵学校教育は「軍事学」と「普通学」に大別される。自然科学系は「普通学」であった。 多く兵学校の教育関係を記したものが発行されているが、その内容と程度について記されたものは少ない。 当時の錚々たる人物がO(水・みず) から、石油(炭化水素・水は分子構造の中にカーボンを含んでいない)が製造できると信じていたのだから、 その信じた人物が一人ならいざしらず複数の将官らである。よって兵学校出身者がどのように強弁しようとも、現在の中学校1年生以下の教育内容だったことは明白である。
また、その教育は教条的で硬直したものであったことも太平洋戦史で明らとなった。 そのくせエリート意識と特権者意識を徹底的に注入されていた。  また戦闘詳報*1をみても起承転結だけはしっかりしており、はったり教育(戦果は大嘘)と作文ばっかり教えていたのかも知れない。
中学校卒業したばっかりの若者を兵学校生徒とし、偏重した教育をほどこしたことで、人間として丸みのない人格が出来上がったと判断せざるを得ない。 また成績も絶対評価でなく相対評価だった。すなわち記憶力だけが優先された。
スポンジが多量の水を含むような柔軟な頭脳を持った若者に、硬直した教育を施したので、大艦巨砲が時代遅れと感じる柔軟な発想さえ期待できなかった。と考えたなら虚像海軍も納得できる。 この時機にこそ、創造性豊かな人格形成教育を施していたなら、先の戦争であのような不様な負けかたはしなかったかも知れない。
*1 艦艇などの記録担当は主計科士官が担当した。海軍に経理学校があり、ここの卒業生が各艦艇などに配置された。
木山正義(機40期)は昭和55年7月25日開催された海軍反省会で「海軍省におった時にね、水から油を取れるなんて非常識なこと言うアドミラルがいるんですから。そんなの戦争に勝てませんよ。」と話している。

このアドミラルとは米内光政,山本五十六,豊田貞治郎のことである。 − 出典:証言録海軍反省会 頁148 −
ご存じのように米内光政は終戦時も海軍大臣を務め、山本五十六はその後連合艦隊司令長官となり大西瀧治郎は最初の航空特攻隊を創設し実行した。 かつ終戦時は軍令部次長に就任。この海軍兵学校・大学校出身者がHOから炭化水素の化合物であるガソリンが出来ると信じたのである。
この程度の頭の持ち主が用兵の長となったことと、化学(科学)教育を置き忘れた、海軍教育そのものに大きな陥穽があったと断言せざるを得ない。 このような発想しか持ち得ない頭脳では、斬新で柔軟な思考と発想が浮かぶはずもなかろう。
昭和13年(1938)頃には電波探信儀の存在が知られ、研究会も開催されたが、こちらから電波を発するなど闇夜にカンテラ。居場所を知られるだけでなんらメリットなし。でチョン。  昭和15年(1940)に海軍技術研究所ではセンチ波に取り組んだが研究中止を命令された。  敵となった米国は見張用レーダーと射撃用レーダー(センチ波)を開発。空戦管制システムを構築し電波を出しまくったが、 その電波を逆探知し有効な攻撃を日本軍が行ったことは一度もなかった。
無能なり! 海上護衛総司令部作戦参謀 会敵率100%以上  進む 暗号に無頓着な参謀ら

信じられないこんなエピソードも伝わっている
時は、マリアナ沖海戦(1944年5月)が迫っていた頃
駆逐艦は、艦隊決戦の水雷(魚雷)攻撃を主務としていた。だが潜水艦攻撃の訓練と、潜水艦を攻撃できる有効な武器・装備を持っていなかった。 その優速性で駆逐艦は潜水艦の敵ではないと海軍首脳は考えていたのだ。 艦隊内で 潜水艦攻撃は海防艦がすることになっていたが、1944年に入ると米潜の攻撃により南方からの資源輸送も覚束なくなり、同じように駆逐艦の損害も増大した。  西太平洋の地図はこちら
対潜水艦対策検討会
マリアナ沖海戦の直前 1944年5月29日14:00〜 日没まで第一機動艦隊(第三艦隊・第二艦隊)対潜対策研究会*2が開催された。研究会の結論は 有効な潜水艦攻撃方法がない以上「熱意と執拗」さでもってことにあたれば敵潜撃滅は成る。と信じられない結論となった。  その熱意と執拗さがなかったのか?
会議以前に雷撃で大破若しくは沈没した海軍艦艇(輸送船含まず)
1944年5月6日、特務艦「間宮」五島沖で雷撃を受け大破。
1944年5月8日、海防艦佐渡ルソン北方で雷撃を受け大破。
1944年5月10日、駆逐艦「刈萱」マニラ北西海域にて米潜の雷撃を受け沈没。
1944年5月14日、04:15 第6駆逐隊 駆逐艦「電」セレベス海で米潜の雷撃を受け沈没。
※ この日、タウイタウイ泊地に第一機動艦隊大和含む5隻。空母翔鶴を含む9隻。重・軽巡13隻。駆逐艦29隻。
油槽船10隻が結集。

1944年5月22日、駆逐艦「朝凪」父島北西方海域で米潜の雷撃を受け沈没。
       〃    砲艦「橋立」香港沖で損傷輸送船救助中雷撃を受け沈没。
1944年5月24日、海防艦「壱岐」クチン北方海面で米潜の雷撃を受け沈没。
会議以降マリアナ沖海戦までに雷撃で大破若しくは沈没した海軍艦艇(輸送船含まず)
1944年5月31日、海防艦「石垣」北東方面で米潜の雷撃を受け沈没。
1944年6月2日、海防艦「淡路」台湾沖で米潜の雷撃を受け沈没。
1944年6月5日、特務艦「足摺」タウイタウイ北方で雷撃を受け沈没。
1944年6月6日、23:45 駆逐艦「水無月」タウイタウイ(セレベス海)南方で浮上米潜を発見。
  対潜掃蕩中消息不明。すなわち、返り討ちにあった。
1944年6月6日、第15号海防艦  新南群島(Spratly Islands・南沙諸島)西方海面で米潜の雷撃を受け沈没。
1944年6月7日、12:30 駆逐艦「早波」タウイタウイ南方で対潜掃蕩中雷撃を受け轟沈 生存者45人。
1944年6月8日、駆逐艦「風雲」ダバオ湾口(ミンダナオ島)で米潜の雷撃を受け沈没。
1944年6月8日、米機の空襲によりビアク島(ニューギニア北西部)付近で正午すぎ「春雨」沈没。
1944年6月9日、22:25 駆逐艦「谷風」 タウイタウイ沖で敵潜2回の雷撃を受け轟沈 生存者126人。
1944年6月9日、駆逐艦「松風」父島北西で米潜の雷撃を受け沈没。


  • 米潜水艦による損害は甚大で5月だけでも47隻(211.8千トン)が沈没。損傷も5隻(34.6千トン)に及んだ。
     出典:「戦史叢書 マリアナ沖海戦」頁455上段
     戦争全期間では131隻の潜水艦を失った。  出典:「戦史叢書 潜水艦史付録第二」では128隻。
  • 逸話として、第1機動艦隊の大前敏一参謀(大佐)が第2艦隊司令部(長官:栗田健男)に来て、 駆逐艦がやられるので敵潜が現れても駆逐艦を攻撃に差し向けないで欲しい。と申し入れた。  すなわち、米潜の暗躍にテク音痴海軍は手も足も出せなかったのだ。  出典:「戦史叢書 マリアナ沖海戦」頁395上段
  • 6月に入ると米潜の活動活発化で、艦載機訓練のためにタウイタウイから一歩も出ることが出来なくなっていた。  よって、空母艦載機パイロットの錬成不足の要因となった。 新鋭艦爆彗星での慣熟飛行訓練が、自らの怠慢で航空揮発油生産が不可能となり岩国基地での訓練をタウイタウイで行おうとした目論見もあえなく挫折した。  一方海軍潜水艦運用法とその性能について現場では悲鳴があがっていた。
    米軍は1943年(昭和18年)以降、電池魚雷や魚雷用トルペックス爆薬、 夜間潜望鏡、昼間用電池魚雷、アクティブソナー、機雷探知用FMソナー、 無音水深測深儀、敵味方識別装置(IFF*2)、マイクロ波SJレーダー(対艦・対空)、 前方投射式爆雷発射機(Mk10)など次々と新兵器を戦場に投入していたので、 駆逐艦は手も足も出なかった。 森田友幸:著『25歳の艦長海戦記(駆逐艦「天津風」かく戦えり)』(光人社2000年)で森田は駆逐艦による潜水艦攻撃方法を全く教えられたこともなく、 水中聴音機は12ノット(22.2Km)以上では使用出来なかったし、いたずらにそのあたりに爆雷を投下するだけだった。 よって敵潜に有効な潜水艦探索方法を保持していないことを暴露するだけだった。と書く。すなわち、 潜水艦は爆雷投下で恐れをなして退散するものと信じていたのだ。
  • 「あ」号作戦参加の潜水艦(1944年6月・昭和19年)
    たった1隻の護衛駆逐艦イングランドがヘッジホッグの使用で6月だけでも日本の潜水艦6隻を仕留めた。
     1944/6/19 13:25  伊16 ブーゲンピル北西 探知機器 ソナー
     1944/6/22 早朝  呂106 ナ散開線 レーダー
     1944/6/23 06:04  呂104  〃     〃
     1944/6/24 早朝  呂116  〃     〃
     1944/6/26 23:03  呂108  〃     〃
     1944/6/30 01:44  呂105  〃     〃
    米軍は哨戒機での発見(工作精度が悪く艦体から重油漏洩・海面油膜 注1)、無線方位の状況、日本軍の実施する作戦や、これに対応する理論上の推理等から日本潜水艦の捜索線を割り出した。 また、海軍暗号が解読されていると呂41潜は報告している。
    同艦は1944年5月24日トラック島から物資輸送の任務でクサイに向かったが飛行艇での追跡と駆逐艦・駆潜艇の哨戒を受け『従来ノ暗号書ハ解読セラレシコト確実ナレバ伊5ノ行動ハ変更ノ要アリ』と報告した。 潜水艦でもこのような判断を下しているのに、軍令部や連合艦隊作戦課他の連中は一顧だにせず、のんべんだらりと戦争を継続した。   戦史叢書潜水艦史頁319。頁321。
    読んでいて本当に情けなく涙がでそうであった。 海軍の暗号紛失事件はこちら。
    また、資源還送商船暗号(マル・コード)は昭和18年(1943)当初に解読された。これ以降日本商船の撃沈率は飛躍的に上昇する。 Sonar(ソーナー・ソナーの両語が用いられる。・水中音波探知機)
    注1 艦船に溜まるビルジ処理について。 海軍には廃油投棄の明確な基準がなかった。機関科出身で巨大潜水艦401号の偽装員を命ぜられた山口県周南市に健在の竹田武晴氏('08年90歳)は 筆者に泊地10浬以内での投棄は禁止されていたが、それ以外の投棄基準はなく適宜海上投棄した。と語った。
     そして、昭和17年(1942)5月、私は駆逐艦「芙蓉」水雷長に就任した。 艦隊は明けても暮れても砲戦訓練、夜間襲撃訓練のくり返しであり、潜水艦を目標にした対潜訓練は、艦隊では一回も行なわれなかった。 そして、対潜兵器として艦尾に爆雷投下軌条と投射器があったが、肝腎の水中測的兵器(水中探信儀)は装備されてなく、 爆雷攻撃はまったくの目算と勘によるほかなかった。  駆逐艦は英語で Destroyer とされ、潜水艦に対しては狡猾に兎を狩る狐であるはずだが Imperial Navy の駆逐艦は借りてきた猫ほどの攻撃力も有していなかった。
      
    資源還送ヒ86輸送船団の悲劇。  その上 間抜けな海上護衛総司令部参謀
    -- 爆雷と爆雷投射機 --
    爆雷名称:九五式(二型) 全長 775mm  缶径 450mm  炸薬量 100Kg 沈下速度 2m/S  調定深度 Max 150m
    爆雷使用実感・標的から30m 離れて電球1個消える程度。
    爆雷投射機:三式投射機二型

    防禦兵器は必要ない!。とSHF波レーダー開発を封じ込め、水測兵器と対潜兵器の新規開発も行わず、 また、船団護衛の方法を考えたことも訓練したこともない海軍が、 缶用重油や航空燃料の枯渇を招き、航空機搭乗員の訓練さえままならない状態を招来した。 レーダースクリーンは8Cmのブラウン管。オシロスコープの波形で電波はVHF波長2m。 おのずから性能が知れたもの。 水中聴音機は12ノット以上の速力では聴取不能。敵潜の魚雷攻撃は目視のみ。 よって夜間航行は不可能となった。雷跡を発見したら覚悟を決めた 艦艇が、目標船の雷撃を守るため、自らが被爆艦として突入する。そのことが、最大の防禦であった。
    と、25歳で駆逐艦「天津風」の艦長となった森田友幸は書く。 その死闘の現場では・・・・
    VHF波 30MHz 〜 300MHz   UHF波 300MHz 〜 3GHz   SHF波 3GHz 〜 30GHz
    VHF 300MHzは1秒間に30000万回振動する波のことを示すので、
    その波長を求める式は 300,000,000 [m] ÷ 300,000,000 = 1.00 [m]  波長1m となる。
    当時の海上見張用レーダーの(2号1型)波長は144MHz=波長 2.08m 程度だった。
    1944年(昭和19年)米潜水艦の脅威に曝されていた現場からは潜水艦をやっける兵器を作ってくれの声もあがりだした。 やっつけるためには相手を発見しなければならない。 そこで 海技研の音響研究部大内淳義技術大尉は、水中に音波を発射し、障害物ではね返った音波を艦首と艦尾の二個所の水中聴音機で聞けば、大きな測距儀と同じように、 音波反射源までの距離が測れる仕組みを図面にしたため艦政本部で説明したが採用されることはなかった。 彼らの見解は、
    そんな、こちらから音を出すものイヤ! おれらは先祖代々黒い目ん玉で敵艦を見るんヤー。
    日本の潜水艦は潜望鏡を出した途端にレーダーで居場所が知られ撃沈された。  日本の潜水艦にしろ駆逐艦にしろ闇夜に盲人がそれも杖なしで歩くに似ていた。  対抗兵器がないことを見透かした米潜は日本艦隊の輪形陣(R=1,500〜2,000m)の内側からでも雷撃を敢行した。
    水中(音響)探信儀は、戦況が不利になった戦争末期にやっと方針転換され、 海技研と日本電気はドイツのアクティブソナーをひな型として四種類の開発したが、その頃には装備する艦艇が なくなり、倉庫に放置されたまま終戦を迎えた。
    音響探信儀小史
    フランスよりSCAM式探信儀を1933年頃2組輸入(横敞航海実験部)し、研究の緒についた。
    これをひな型とし九一式・九三式探信儀として横敞航海実験部が製造した。この段階で戦争に突入。
    それ以前の1937年、ドイツよりS装置・ペリフォン装置を各2組輸入し海技研第2技術敞で研究が行われた。
    1941年頃から国産探信儀の研究を行い、S装置の原理を基に三式探信儀を製造した。
    この他に英国ASDICを参考として軽便探信義を第2技術音響兵器部が開発した。
    研究程度だった探信儀
    九〇式探信儀、技研・理学研究部がフランスランジュバン式を参考とて北辰電気が製造。
    九六式探信儀 横空・航海実験部がイギリスヘンリーヒューズ式を参考として住友通信が製造。
    Sonar ソーナー・ソナーの両語が用いられる。 アクティブ(Active:自発)タイプとパッシブ(Passive:受動)がある。
    1945年6月11日、米潜 Tirante SS 420 は長崎市と目と鼻の先高島町の端島と高島を攻撃した。港内に停泊していた貨物船「白寿丸・2,220 トン」が撃沈された。   日本海軍の潜水艦攻撃能力はゼロに等しく、米潜は自らが希望する日本のどこの港でも攻撃可能だった。
    海技研が乏しい資材で作成した電探も、 こちらから電波出すのイヤ!
    海軍は、電探がより高性能を発揮するための真空管(マグネトロン・高出力磁電管)の研究開発を1936年に禁じてしまった。 兵学校の硬直教育は、電波を出して敵を見つけ、その敵を攻撃するなどバカげた戦いだと認識していた。
    艦政本部の出したレーダー研究不許可の理由
    『索敵兵器として自己より電波を発することは、奇襲攻撃を基調とする海上作戦において自己を暴露するので不適である。』
    1941年8月、英独の電探兵器での戦いを知るや「電波探信儀研究着手」の大臣訓令を発した。
     この進歩の停滞はその後の戦局を大きく左右し、Imperial Navy は坂道を転がる雪だるまに似ていた。

    艦船が泊地停泊中に対空警戒活用に電探を本格的使い出したのは1944年5月、 マリアナ沖海戦の直前タウイタウイ泊地結集時からであった。  新兵器は使用し検証し更に改善し成果があがるものだが、用兵側の無理解により傷口を拡げた。  まるで、だだっ子海軍であった。
    用兵側の下っ端士官は、水中探信儀にしろ電波探信儀にしろ、欠点をあげつらうことが高い見識がある男と みなす風さえあつた。 その上軍令部(兵学校成績優秀者で構成)の連中は問題意識を 持ちながらも現状打開の方策も対応もしなかった。 そこにはいびつな兵学校教育があった。 科学音痴大量養成機関になり下がり、 先祖代々の大艦巨砲・艦隊決戦主義であり、視力は欧米人の青い目玉より、 日本人の黒い目玉が勝るというような根拠なき神話が蔓延していた。
    また、電探は双眼鏡に毛の生えた程度の、 その上敵にその所在を知られるバカげた兵器との認識が、上から下まで浸透していた。
    飛行機は簡単に撃墜され、駆逐艦も潜水艦に簡単に撃沈される 情況にありながらも、それは現場の「努力と熱意と大和魂」の欠如とかたづけたが、 そのくせ人間を消耗品とする特攻兵器の研究と製造に血道を上げていた。

    大日本帝国のアキレス腱 NHK取材班/編 角川書店 1993年8月
    エレクトロニクスが戦いを制す NHK取材班/編 角川書店 1994年1月
    ドキュメント海軍技術研究所 中川靖造/著 日本経済新聞社 1987年6月
    戦史叢書 マリアナ沖海戦 防衛庁防衛研究所戦史室/著 朝雲新聞社 1968年2月
    これらの本を読んでみると、当時の日本海軍は、天気晴朗、昼間だけしか戦争をしない組織としか思えない。 電探は、暗夜だろうが悪天候だろうが関係なく使用できたが肉眼より早く確実に敵を発見する器械を 軽蔑さえしていたような気がする。
    音や電波をあれほど出すことを嫌った海軍だが・・・・  造艦技術は劣悪でお寒いものだった。
    日本の潜水艦は割れた金属バケツを棍棒で叩く ほどの騒音発生器だった。
    先端装備や最新技術入手のため1942年(昭和17年)4月17日、完成したばっかりの伊30(基準排水量 2,190屯・乗組員120人)は呉軍港を出港しドイツ*3に向かわせた。  伊30は途中マレー半島のペナン基地で補給と補修を受け4月22日アラビア海に向け発進。 苦労の末8月5日、ドイツ占領下の北フランスビスケー湾に面したロリアン港に到着した。  遠来の最新式日本の潜水艦を見たドイツ側はその航走騒音にビックリ仰天した。割れた金属バケツを 棍棒で叩くほどの騒音を発していたのである。
    ドイツの関係者にそのことを聞かされた駐独渓口海軍武官は困惑し本国に極秘電報を入れた。  ことの重大さを始めて知った軍令部と艦政本部はドイツ側に適当な防護措置を依頼するよう訓電した。  日本側の要請でドイツ側は2週間で各部の防音工事を約束してくれた。 防音工事なって、早速ビスケー湾で試験航走を行ったところ、割れバケツに棍棒叩き騒音はウソのように消えていた。 改めて、ドイツの造艦技術の優秀さ思い知らされた。
    その事実(大騒音発生潜水艦)を知りながら、音響探信儀(アクティブソナー)は音を出すのでダメ!。  まるで、だだっ子兵学校とバカたれ兵学校出身者だった。
    兵科系の海軍士官に蔓延していたのか? 交流分析(精神分析)でみた海軍は、まるですねた子供の状態である。 科学や技術開発に無頓着?で、先進テクノロジーに反感を持っているようにさえ見える。 軍艦というテクノロジーの固まりで動く装置を操りながら、兵学校教育について詳述した記録を 筆者は見ていない。砲弾や魚雷を遠く離れた標的に命中させることは、数学の世界であり、 爆薬の成分や推力は化学、物理学の世界である。 それを駆使しながら、かたや途方もないテク音痴であったことも 事実であった。 その音痴の本質は何に由来したのだろうか??

    1944年後半の情勢 最先端技術を拒んだ海軍は雪崩を打って敗退した!
      6月19日 マリアナ沖海戦(海軍空母の大半を失う。VT信管付き対空砲弾本格的戦場投入
      7月 7日 サイパン島の日本軍全滅。非戦闘員多数自決。
      7月21日 米軍グアム島上陸。8月10日日本軍全滅。
      7月24日 米軍テニアン島上陸開始8月3日日本軍全滅。
      8月10日 米軍、サイパン・テニアンB-29基地の使用開始。
      9月15日 米軍、パラオ群島ペリリュー島上陸。やがて日本軍全滅。
      10月10日 米機動部隊、沖縄を攻撃。
      10月20日 米軍、フィリピン中部のレイテ島上陸。
      10月24日 レイテ沖海戦。突入作戦謎の反転でパァー。連合艦隊主力喪失。
      10月25日 航空特攻作戦成功。不条理な死を若者に強いる。乗機故障で帰還すると死ぬまで出撃を
       繰り返した。特攻指名の生還を許さなかった。
      11月24日 マリアナ基地のB-29東京を初空襲。
      11月29日 新造の巨大空母「信濃」米潜の雷撃で沈没。護衛?の駆逐艦は撃沈された乗組員の救助
       担当でしかなかった。
      12月の段階で内地残存重油67,474トン(1,2号,缶用重油合計)しか無かった。
      戦艦大和は停泊しているだけでも60屯/日重油が必要だった。
    ミッドウェイ海戦で使用した重油の量、約600,000トン。マリアナ沖海戦 300,000トン。 レイテ沖海戦 200,000トンと伝えられている。 そして天1号作戦の沖縄水上特攻作戦では 10,000トン。 この燃料のじり貧は海上護衛を行わなかった彼らのなれの果てであった。 悲しいかなマリアナ沖海戦では海軍自前で燃料が調達できず陸軍に90,000トン融通してもらった。 この海戦で艦爆彗星が登場するが、これらの錬成を岩国基地で行っていたが航空燃料の枯渇で訓練もままならず、 燃料補給に好都合のタウイタウイに進出し空母での訓練を行なうつもりだったが、今度は敵潜水艦のため泊地外に出ることがかなわず訓練ができないまま搭乗員は戦わされた。

    1945年に入ると 国民は飢渇にさいなまされ、空襲に震えた!
    1月上旬米軍ルソン島上陸。2月早々マニラ入城。 * 南方からの資源還送の道は断たれた!
    この年に入って日本にたどり着いた貨物船は6隻。3月27日、徳山に帰着した光春丸が最後であった。
    1月25日海軍は「天号作戦」、陸軍は「決号作戦」を策定。
    陸軍沖縄守備第32軍は、「軍民の共生共死」を強調した。
    天号作戦決定を受けて、海軍内部で作戦指導要領を策定した。この時期彼我戦力差は歴然とし弾発力を喪失していた。
    2月19日 硫黄島上陸。
    3月10日 B-29東京大空襲。死者10万人。
    B29戦略爆撃機による空襲は日を追って強化され、軍事目標以外に日本の都市は焦土と化しつつあった。 名古屋3月11日、3月13日大坂、3月17日神戸、連合軍の沖縄来攻は誰の目にも明らかになる。
    3月27日 米機により関門海峡機雷封鎖される。 投下作戦はこちら 
    * 満州からの糧道は断たれた、国民の斃死が現実問題となった。 発見された米軍投下機雷爆破はこちら。
    4月1日 米軍沖縄本島上陸。
    4月6日 小磯内閣総辞職。
    4月7日 鈴木貫太郎内閣組閣。この日戦艦大和撃沈される。
    [technology] 内の各 htm ファイル
    沖縄突入艦から除かれていた対空駆逐艦秋月型 specification,矢矧など  Imperial Navy のバカどもが最終的に行き着いたコンクリート船   巨象は虚像だったImperial Navy   マリアナ沖海戦真の敗因 (日本海軍に存在した防御軽視の大弊害)   伊52 模倣国家日本の縮図   期待と結果が無惨に食いちがった戦闘の経過   マリアナ沖海戦参加艦艇   レーダーを取り外して惨敗したバカども。   電探の重要性を帝国海軍軍令部が真から気づいたとき   日本海軍の製作した電探 レーダー   艦上攻撃機天山 ・ 艦上爆撃機 彗星   犬の遠吠え思想だった大和搭載主砲

    太平洋戦争取材班
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