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【ミッドウエー海戦】 大敗の引鉄(ひきがね)を引いた男 源田実 【特攻悲しき記録】 誰が航空特攻を主導したか 【犬の遠吠え思想】 戦艦大和の主砲 【天1号作戦】 出撃駆逐艦 【資源還送】 に見る完敗の海軍 【戦艦大和】 袋のネズミ作戦 【予科練】 その失敗の実態 |
![]() マリアナ沖海戦のImperial Fleet 戦艦群と敗因
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| マリアナ沖の艦隊編成をみると、戦艦群がはじめて空母の護衛に回されたように見える。 ところが実際は大和・武蔵などの戦艦群は前衛を務め艦隊決戦主義から訣別していない。 |
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1.戦艦大和,武蔵など海陸軍の期待を一身に集めた大艦もその出番は全くなかった。 また米機動艦隊の囮にもならなかった。 すなわち、太平洋戦争緒戦から軍籍に入った戦艦だったが、その途端に一世代前の兵器となっていた。 それでも亡霊に取り憑かれたかのような Imperial Navy 上層部は、戦艦による艦隊決戦が海戦の死命を制するという考えを捨てなかった。 一方米軍は、圧倒的制空権下で戦艦は各島嶼に上陸する部隊の援護を担当させた。 |
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2.1942年秋に戦われた数次にわたるソロモン海戦で痛いほど電探の威力を知ったはずのImperial Navy だが、
また航空戦力の前に水上艦艇は単なる撃沈する標的にしか過ぎないことを真珠湾攻撃その他で学んでおきながら、
1944年6月のこの時点でも、前衛に戦艦群や重巡を並べ艦隊決戦を夢見るアホ振りだった。 闘志なき栗田健男(第二艦隊司令長官)は気づいたら前衛のはずが本隊の後になっていた。 3.米ビアク上陸作戦をダバオ方面進攻作戦と読み違え、貴重なマリアナ方面配置基地航空部隊をハルマヘラへ転出させ、 マリアナ方面の上空ががら空き状況となってしまっていた。 4.第一遊撃部隊参謀田中正臣はその戦いの回想で、マリアナ沖海戦の敗因として、 航空隊の訓練不足を挙げている。 それは敗戦の要因であって真因ではない。 この時期マリアナ諸島は孤立していた。物資・石油輸送が途絶していたのである。第一航空艦隊は備蓄されているガソリンを食い延ばさざるを得なかった。結局偵察・哨戒飛行の手抜きにつながった。 また、用兵参謀の科学音痴がレーダーの有効性を認識していなかった。 5.空母航空隊の内地での訓練不足は、南方資源還送に意を払わなかった海軍が訓練に使用する重油の枯渇を招いてしまっていた。 (1) 燃料枯渇の最大要因は、潜水艦を発見する兵器の開発を行わせないことにあった。 6.1944年5月、燃料補給に好都合と考えたタウイタウイ進出だったが、米潜の跳梁により泊地外での空母艦載機搭乗員の訓練は全く不可能であった。 7.軍事技術の進歩に兵学校の教育がついて行けなかった。 電子兵器という新テクノロジーの発展に縄文人が対応できなかったような様相を呈した。 8.戦訓・戦訓に学べと民間には大きな声でわめいたが、自身は戦訓に学び対応したようには見えない。 9.結局敗因を未熟なパイロットに押しつけ、未熟な状況となった仕組みと教育に言及していない。 * 海軍人事担当部局と連携せず艦載機隊を基地航空隊に転用した。 10.航空母艦の航空機による脆弱性を知りながら、防空戦闘のシステム化をなし得なかった。すなわち、 先制攻撃さえできれば、戦闘に勝利できると安易単純化し、過去の戦闘経験を踏襲した。 (1) 電探を装備しながら、それを防空戦闘に活用するという考えがまるで浮かばず、1942年のレベルで空母機動部隊の戦いを行った。 ![]() ![]() 帝国海軍は空母搭乗員の養成に25カ月程度必要だった。
南太平洋海戦(1942/10/26)の頃までは同程度だった搭乗員の技量が、彼らを消耗した後は雪だるまが溶け出したようにその勢いが止まらなくなった。ミッドウェイ海戦後、さしたる理由もなく、ラバウルに進出し、更に少ない空母搭乗員を基地航空隊として使用した。 その間空母搭乗員の緊急養成に着手するでもなく、 貴重なパイロットを消耗し尽くした。 |
| 表−1 開戦前の航空兵力 | ||||||
| 艦載機数 | 基地航空機数 | 練習機数 | 合 計 | |||
| 703 | 1,469 | 932 | 3,104 | |||
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開戦前、1941年10月1日時点の搭乗員数は 6,150 人である。 開戦からミッドウェイ海戦までに、航空機 500 機、搭乗員約 1,000 人を失った。
ガ島攻防戦の6カ月、航空機 932 機。搭乗員 2,362 人を更に失った。 ガ島戦以降まともに空母に離着艦できるパイロットは皆無同然となった。
海軍人事当局が、搭乗員の養成と補充対策を講じなかった。 その内、米海軍は着々と潜水艦戦の準備を進め、1944年に入ると南方からの還送油が 内地に届かなくなり、艦艇運用燃料の枯渇を招き、航空母艦を使っての離着艦訓練は大きく制扼を受けることとなった。 * 表−1の数字は日本海軍史による。戦史叢書沖縄方面海軍作戦における1941年12月8日の航空兵力についてはこちらをご参照下さい。 |
航空隊司令も、米機と交戦し勝利するためのマニアル作りを本気で取り組まなかった。
米軍は早くから2機編隊の攻撃を展開したが、職人芸気質の Imperial Navy の艦載機は、単機攻撃に終始した。 根源的な狩猟民族と農耕民族の違いかも知れない。
また、Imperial Navy の首脳部は、艦隊決戦の亡霊(日露戦争・東郷平八郎)に取り憑かれ、 また自己のステータス保持のための保身に終始したとしか思えない。 すなわち、 砲術科のしかも主砲担当者が、過去からの亡霊を引きずって、 Imperial Navy 内で大きな発言力を維持しようとしていた者が主流派を独占し、声が大きかったのであろう。 |
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マリアナ沖海戦が惨敗に終わった20日後、1944年(昭和19年)7月10日付、 第一航空艦隊に属していた基地航空部隊732航空隊(司令:三代辰吉)*1戦闘詳報で、 (イ)飛行機ノ性能、特ニ火力及防禦力(主トシテ火災防止)ニ於テ甚ダシク劣ルコト。 (ロ)機上並ニ対飛行機用電探ノ能力、及普遍化ニ於イテ著シク劣ルコト。 兵力ノ整備ト同時ニ右諸項ヲ急速改善スルヲ戦勢挽回ノ最大急務ト認ム |
1. 防御軽視,攻撃優先の機体設計(高出力航空機エンジンの開発不能) 工業力の差。 2. 九九式20mm機関砲1号2型
(スイス:エリコン,ライセンス生産)の初速(600m/秒,535発/分,有効射程:730m)と携行弾数不足(マガジン弾倉60発)。
更に、短銃身による初速不足と弾丸重量が123.5gもあったことで、
少し遠距離射撃になると直進性が失われ「小便弾(放物線)」となった。
また、最大の欠点は残弾計(残りの弾数)が備わっていなかった。
マガジン弾倉を金属製ベルト給弾方式に改めたがそれでも携行弾数は125発*にとどまった。苛烈な空の戦いを生き残った零戦パイロットは、空戦で発射する弾が無いことを敵に悟られたらそれで終わりであった。と書く。 3. 通信能力劣悪(無線電話ノイズで聴取不能),
航空機搭載電探の能力UPと、それを搭載して出撃させて欲しい。
と戦闘詳報を借り必死に上層部に具申する。 4. 航空機搭載用機銃など、海軍独自が開発した兵器は絶無である。ライセンス生産もしくは、独の技術にたよった。
特にラインメタル13mm(131型)旋回機銃は極めて軽量で、発射速度も大きく理想的であったが、高度な工作技術と、
特殊な材料を必要とし、敗戦直前にようやく完成し、一部の天山、銀河などに搭載されたにとどまった。兵器系は一点豪華主義ではどうにもならない。好例は九三式酸素魚雷。エンジンさえ良くても兵器としての完成度は高くない。 ![]() 戦場は昼間の快晴下で行われるわけでは決してなかった。荒天でなくとも積層雲や乱層雲(600〜2,000m)が空を覆い、薄暮・夜間でも 戦闘は行われた。 潜水艦隊の悲鳴はこちら 南方資源還送の苦闘はこちら 5. 戦後、戦いに敗れたのは日米工業生産力の差だった。と Imperial Navy の生き残った連中は言い触らした。
これも大嘘。 日本の航空機は、ガソリンタンクにプロペラを付けたような存在だったので、機銃弾で
穴のあいたタンクからガソリンが漏れだし、次弾を受け発火。墜落のケースをたどった。 墜落で必ずしもパイロットが死亡する訳ではないが救助のシステムを
構築しなかった。よって航空機は製造する端から亡失した。
一方米軍の航空機は撃墜されることは稀で、不幸にして?撃墜されても救助のシステムがあったのでその多くは助かった。 米海軍機の損失は公刊戦史上だが、1941〜42年 266機。 1943年 233機。 1944年 146機。である。 決して日米工業力の差で 負けたのではない。 開戦から3年間での損失が645機。 局地戦ガ島攻防戦の損失より遙かに少ない。 *九九式2号4型となって携行弾数300発となった。 |
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このことは次の、海軍技術研究所新川浩*2の回想に、 「1944年(昭和19年)の後半あたりから、軍人たちは、戦いに負けると、『電探で負けた。電探で負けた』と いい張るのです。それまでは、電波探信儀に対して冷たい仕打ちをしておきながら、今度は、電探を自分たち が戦いに負けた言い訳にしたのです」 兵学校出身者らの「攻撃は最大の防御なり」の言葉は、 科学技術や科学(化学)音痴の兵学校教育の欠陥を覆い隠す隠れ蓑だったのだ。 この音痴らの行く着く先に 人間を消耗品とした兵器の製造(空:人間爆弾 桜花,海上:ベニヤ板自爆艇 震洋*3,水中:人間魚雷 回天)とその運用があった。 しかも、それらの兵器で兵学校出身者を出撃させることはマレだった。 恣意的犯罪者集団がのさばる海軍だった。 そして、勝ち目のない戦争で、人間を単純な消耗品として特攻が発令され出したのは、 小磯内閣からであった。人間を消耗品扱いしながら、 敵対艦艇撃破という打算を海軍首脳は描いた。このような、不条理を合理に扱う仕組みを構築した。 海軍は国民に対して万死に値する大犯罪を犯した。 生き残り海軍兵学校出身の残党が「海上自衛隊」でよみがえり、過酷な海上護衛任務に邁進した 海軍准士官(商船大学生)らが海上保安部構成員となった。 このバカたちの末裔が、西側最新鋭イージス艦の秘密漏洩をやってのけた。むべなるかな。 ![]()
*2
新川は当時海技研基礎研究班に属し、波長の長い p 波の電波探信儀の試作を担当していた。航空本部−−航空技術敞(航空機搭載電探) 艦政本部−−海軍技術研究所電気部(艦船搭載・陸上設置電探) 両者は同じ海軍同士でありながら横断的な技術情報交換もなく、お役所仕事的空気に支配されていた。 また、PPI(円形モニター画面・Plain Position Indicator)レーダースクリーン開発研究は、日本放送協会(NHK)が行っていた |
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日本海軍に存在した防御軽視の大弊害 防御軽視がImperial Navy の伝統だった。 電探は防御兵器の最たるものだった。 日露戦争前(1904年2月)に先輩によって作成された【海戦要務令】の呪縛から逃れ得なかった。 「海戦要務令」に規定された海戦は、艦隊による先制と集中攻撃が唯一至上の戦術であった。 マリアナ沖海戦の艦隊配置を見れば一目瞭然である。 1944年6月のこの段階でも、最後には戦艦に搭載した大砲が海戦を制し、 高速で肉薄した駆逐艦の雷撃で敵艦隊を撃滅することが出来る。と固く信じていた。この先祖代々受け継がれた ideology (観念形態)が兵学校教育の全てであった。 すなわち、彼らは日露戦争の亡霊を引きずりながら太平洋戦争に突入した。 航空機による真珠湾攻撃の成功や、 ミッドウェイ海戦の敗因が航空機によってもたらされにもかかわらず、確固たる先輩からの信念を拘泥し続けた。 南方資源地帯占領後、内地まで物資を運ぶ輸送や兵員資材を戦地に運ぶ輸送など、攻撃優先防御軽視の海軍にあって、考えたこともない役務であった。 その当然の帰結として、それらを敵から防御(空・海上・水中)する方法や兵器を所持研究さえしていなかった。 戦争をはじめてそれが(輸送)が必要なことに 気付いたのでとりあえず、稼働船舶の九割近い船を海軍徴用船として確保した。 確保するこことその輸送の安全を保つことは別の次元であり考慮されることはなかった。 防空・防御・守るについてこちら 攻撃兵器と位置付けられたもの 防御兵器と位置付けられたもの 高角砲も「四〇口径八九式連装高角砲(1934年製造)」が太平洋戦争全般で使用された。 specification 砲員 12人 口径 12.7Cm 射撃速度 12発/分 初速 720m/秒 弾量 23Kg 最大射高 9,440m。 |
| A1改一、二、三、などがある。 多くの巡洋艦・航空母艦に搭載され。A1改三は大和・武蔵のみ。 |
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太平洋戦争が航空機の戦いとなったので急きょ九八式十糎連装高角砲(1938年製造)が一部の艦艇に搭載された。 specification 砲員 14人 口径 10.0Cm 射撃速度 15発/分 初速 1,010m/秒 弾量 13Kg 最大射高 13,400m。 |
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搭載は、空母大鳳6基、巡洋艦大淀4基。駆逐艦は秋月型(防空駆逐艦)に各艦4基搭載された。 それは、1942年7月のことであった。 秋月型駆逐艦 秋月・照月・涼月・初月・新月・若月・霜月・冬月・春月・宵月・夏月・花月 |
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よって、対艦、対空射撃に改良・改善・運用を図る機運さえ生まれなかった。 |
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補助兵器と位置付けられたもの よって米国のように、通商破壊線などの戦略的使用は考え及ばなかった。 海に潜み静かに待つ潜水艦は防御兵器の一部とみなされ、 また潜水艦は駆逐艦の敵ではなく、艦隊に駆逐艦が随番するだけで逃げ出すものと決めてかかっていた。 よって水中探信儀の開発も敗戦直前まで行われなかった。 潜水艦部隊からは悲鳴があがる。 敗戦後、開戦当時軍令部総長だった永野修身が占領軍に潜水艦のことを聞かれると私は、『潜水艦のことよく知らない』と答え、周囲を唖然とさせた。 |
兵器の内に入れていなかったもの潜水艦伏在海面を駆逐艦が走り回れば、恐れをなして逃げ回るのが潜水艦だと決めてかかっていた。 艦艇に聴音機を積んではいたが艦速12ノット以上だと自らの雑音を拾い用をなさなかった。 12ノット(22Km)程度だと間違いなく米潜の餌食になることを現場は戦訓で知っていたので使用するケースは激減していた。 兵器として必要と考えていなかったものこちらから水中に音波を発するなど居場所を察知され百害あって一利なしと最後の最後まで考えていた。 最前線では「潜水艦をやっつける兵器」の配備を強く望んだので、 潜水艦をやっつけるためには水中の潜水艦を発見しなくては攻撃出来ないことをやっと理解したのは、1944年6月、マリアナ沖海戦の惨敗後だった。 当然レイテ沖の海戦に間に合わない。 そして、 ヤッサモッサで開発した水中探信儀も搭載する艦艇が無くなり、倉庫に積まれたままで敗戦を迎えた。 そんな悲しい現実が下の書籍に書かれいてる。 ガチガチの海軍士官たちは、 出版された戦記物の表現に鋭い舌鋒を加えたが、海技研に関する書籍の批判は眼にしていない。ということは、 当時の電子兵器や音波探信儀に関し、全くの無知か知らなかったということだろう。 兵隊の内に数えられなかった者有事の際に軍令承行令では、指揮権継承の優先権を、戦闘指揮の教育を受けている 兵科出身者*1にのみ与えられ、直接戦闘に従事しない機関科や主計科、 技術系出身者は、戦闘員とみなされなかった。 戦争が総合戦的要素となり、 1942年(昭和17年)に兵科・機関科の区別を廃止したが、長年の慣習は簡単ぬぐえるものではなく、 敗戦まで差別し続けられた。 特攻産みの親の軍令部作戦第二部長だった黒島亀人は機関科士官を差別する風がなくその面で人気があったという。 ![]() 考えられる要因は 戦艦の砲術長は海軍中佐クラスで、まず40歳に達していたベテランである。 かたや飛行予科出身の兵曹は20歳にも満たない軍隊ではゴミのような存在の連中が命中させた爆弾は よく一艦を沈めた。 こんな様相となった 戦争で、中佐クラスのプライドは大きく傷つけられたことだろう。 [出典:ドキュメント海軍技術研究所] 兵学校は近代戦のなんたるかを教えなかった軍艦はテクノロジーの固まりであったが、それを操る士官は江戸時代のままだった。 status と権威を保つ ためなのか、日本刀を常時携帯した。 戦傷は外科手術が必要だが艦隊勤務の軍医でさえ、メスの変わりか日本刀を持っていた。 きっと軍艦で相手艦に接舷し切り込みをするつもりだったのであろう。 価値観だけの問題ではなさそう軍艦には、ご真影と呼ばれた天皇・皇后のプリント写真が掲げられていた。 このいくらでも廉価でプリントできる紙切れは、時に人命より後生大事にされた。 |
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電波探信儀や水中探信儀兵器など、海軍兵学校出身者らの無理解、また製造開発にあたっては、
技術的鎖国状態、組織のセクショナリズム、システム工学の遅れなど、日本のエレクトロニクス開発にはさまざまな障壁と問題が立ちはだかっていた。 海軍技術研究所 新川浩は「結局、日本にはオーケストラの指揮者がいなかったのです。みんなそれぞれ楽器をうまく弾けるがよう頑張っていたのですが、 それを調和させ、まとめる人がいなかった」 これら組織上の問題は、今日もなを日本に深く根ざしている。 総合的リーダー不在国家日本。 この問題は根深い。 一体われわれは、先の太平洋戦争で何を学んだのであろうか・・・・。 |
*1 歴史は幕末にさかのぼる。当時第一級の海軍力は幕府艦隊だった。
これに対し第二海軍力は薩摩艦隊だった。勝者の薩摩が兵科を牛耳り、敗者のテク官僚が幕府艦隊の連中で
機関を担当した。 怨念は深かったのだ。西欧列強軍艦に手痛い攻撃を受け惨敗した長州は、不思議に軍艦には手を出さなかった。戊辰戦争で 新政府軍の艦艇を率いて、新潟太夫浜に敵前上陸を敢行した山田顕義など、抜群の統制力をみせたが それで終わった。 歴史的にみると、黎明期における薩摩が行った、兵科、機関科の差別が太平洋戦争の敗因であろう。 |
*3 この自爆艇 震洋は粗製濫造そのものだった。操縦訓練で最高速度をだすと艇体のベニヤ板がはがれた。森田友幸/著『25歳の艦長海戦記―駆逐艦「天津風」かく戦えり』(光人社) の中で、震洋隊基地司令になったときの体験談が記述してある。 品質管理もクソもなく同胞を簡単に殺すことを考えていたとしか思えない。 |
[technology] 内の各 htm ファイル 沖縄突入艦から除かれていた対空駆逐艦秋月型 specification,矢矧など
旧 Imperial Navy のバカどもが最終的に行き着いたコンクリート船
巨象は虚像だったImperial Navy
伊52 模倣国家日本の縮図
期待と結果が無惨に食いちがった戦闘の経過
マリアナ沖海戦参加艦艇
レーダーを取り外して惨敗したバカども。
水から航空ガソリンが出来ると信じたバカ。
電探の重要性を帝国海軍軍令部が真から気づいたとき
日本海軍の製作した電探 レーダー
艦上攻撃機天山 ・ 艦上爆撃機 彗星
犬の遠吠え思想だった大和搭載主砲。
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