大艦巨砲に拘って完敗した Imperial Navy  一見巨象は虚像だった
はじめに
幕末、欧米列強の植民地化を免れた原動力となったのは長州の若き志士たちであった。 いわゆる草莽(そうもう)と呼ばれた20歳前後の若者だった。 当時初代総理となった伊藤博文や日大創始者山田顕義を どれだけの人が知っていたであろうか。彼らは強烈な危機感でもって日本を建国し異例の早さで近代化を成し遂げた。 明治の先達たちの命を掛けた努力を自らをエリートと思っていた海軍兵学校出身者が、幾百万の無辜(むこ)の民の悲嘆と未曾有の惨禍をもたらして潰えた。
戦後、驚異の復興をなしたが、これもひとえに無辜の民たちの力であろう。 幸いなことにImperial Navyにあっていわゆる軍部に属した者たちが公職を追放されことがあずかったに違いない。 またそう信じたい。
ありがたことに、日本を破滅に陥れた輩の数人が立ち上げた海上自衛隊にあって、最先端イージス艦が漁船で自爆テロを目論見さえすれば簡単に撃沈されることを教えてくれた。 ありがたやありがたや。
このような間抜けの戦闘集団が世界に存在したという希有の例になるかも知れない。
2008年2月19日、千葉県の野島崎沖で海上自衛隊のイージス護衛艦「あたご(Atago)」と漁船が衝突した事故。
-- 戦争勝利の大前提 --
個々の戦闘局面の勝利も大事だが、戦闘に勝つことが、戦争に勝つことではない。 近代戦にあって国家の総合力(総和)が 戦争に勝つ大前提だった。
世界第三位の海軍力。まさしくそれは巨象だった。 航空母艦を保持運用した国家。 あのソ連(現ロシア)さえ 保持運用できなかった。 九三式1型酸素魚雷は30Kmも駆走した。 大和の徹甲弾は40Km先の標的を射撃できた。 空母艦載機零戦は 長駆1,000Kmもの飛翔が可能だった。 実際のところ、戦い始まるや船舶輸送(補給)戦で一度も勝ったことも、勝つこともできない海軍だった。  その結果、太平洋25の島嶼に16万人の兵が置き去りにされた。 補給せず、武器弾薬・食料・医薬品さえ送ることもせず、 島々で絶望的戦いと空腹飢渇に朽ち果てた。 それを "玉砕" と呼び、統帥の責任を糊塗した。また、平然と敗残兵と呼んだ。 帝国海軍が保有した戦艦はこちら
主砲重量;2,510トン 最大俯迎角度;+45〜−5° 旋回速度;2°/s(秒)
俯迎速度8°/s 射撃速度;約40s/発 初速;785m/s 最大射程;40,800m
操作する人間が猛訓練を積んだとて、 機械の性能を上まわることは出来ない。旋回・俯迎速度でなにをねらえるのだろう。
弾丸重量;1,460Kg 口径;46Cm 秘密保持上九四式四五口径砲と呼称された。
射程 30,000m のとき、
迎 角 23°- 12′
落 角 31°- 21′
残存速度 475m/s
貫徹力 垂直鋼板 16.4in  水平鋼板 9.1in
艦隊決戦を呼号するが、大和の主砲は犬の遠吠的であった。実際レイテ沖海戦で大和の主砲は 記録で100程度発射している。だが一発も大和の砲弾が命中したとの記録は米軍側にない。 俺の鉄砲大きいぞ。そして遠くへ飛ぶぞというような、存在感があることと、 命中させることは別の問題であった。
大和の主砲と砲術科の問題はこちら
戦艦大和は平時において外交で他国に対して戦略的恫喝には使えたが戦術的兵器とはいえない。
その他の兵装(1944年7月改装後(出典:日本海軍史 第七巻 海軍歴史保存会/発行)
60口径15.5糎連装砲(平射砲) 2基 4門
八九式12.7糎連装高角砲 各舷6基 計12基 24門
25mm連装機銃 左舷 15基 右舷 14基。計29基 25mm単装機銃 27基。

弾が遠くへ飛ぶことと命中させることは別の次元であった。 実際遠距離射撃では 主砲3基9門同時発射の着弾散布界は900m程度あったという記録も残る。
マリアナ沖海戦のアウトレンジ戦法も形を代えた「犬の遠吠え」作戦ではなかろうか。肉を切らして骨を断つと いいつつ、子供のチャンバラのように、及び腰で、手を一杯伸ばして相手を少し小突く方式の戦いが海軍の太平洋戦争だった。
犬の遠吠え海軍との見方で見ると九三式酸素魚雷もそのように見えるナァー。
三菱が開発した名機「ゼロ戦」も後続距離を誇っただけの犬の遠吠え的航空機である。 ジュラルミンを極限まで薄くしたことで 、米艦載機のように飛行甲板に置き放しが出来ず、シールドされた格納甲板に置いたので、爆弾が命中すると爆風の逃げ場がなく 簡単に空母は炎上したとも伝えられている。
海軍が世界に誇った戦艦大和の大砲も(射程40,800m)
攻撃兵器の最たる酸素魚雷も(九三式1型・射程30,000m)
戦闘機という新しいかたちの航空機も(零戦11型・A5M4・航続距離 1200Km)
より、遠くへという思いで一貫している。 幕末、近藤勇が使ったという「虎徹」刀のイメージはなく、それは、 佐々木小次郎が持っていた「長刀」のイメージだ。 しょせんそれは宮本武蔵が使った木の棍棒(櫂)に勝てなかった。
遠くの標的に命中させるためには大変な努力が必要だったであろう。戦いは荒天も夜間もありうる。 このような気象、海象、夜間、濃霧など40Km彼方の相手(敵艦)を発見するなど不可能である。
その上、創造力欠乏のテク音痴ときたらなおさらだ。
天候や悪条件に関係なくより遠くの敵を発見し撃滅することを考えずに、 遠くの敵を発見したとき、相手に、砲弾や魚雷をいかに命中させるかという訓練を職人芸的に求めた海軍であった。 常識的に考えたら遠方になるほど命中する訳がない。
戦争は、そこらへんの息子が戦うものであり、職人同士が戦う場ではない。ようするにマスプロ化を図らなければ ならない組織が軍隊なのである。
命中ということを考えたとき九三式酸素魚雷の射程30Kmもナンセンスである。雷速40Kt(74km/Hr)だと、 30Km先の敵艦まで24分もかかってしまう。敵が最大戦速30Kt(55.6Km/Hr)だと、 この艦は魚雷到着まで22Km移動する。24分先のしかも22Km の未来位置を予測(計測・推測)することなど誰が考えても不可能である。
通称、広島県呉市の「大和ミュージアム」にこの九三式魚雷に関する説明がある。
『九三式魚雷は、それまでの魚雷の欠点であった射程距離の不足、航跡発生の問題を解決するため、 燃料酸化剤に純粋な酸素を用いていました。 この酸素魚雷を太平洋戦争までに実用化できたのは日本だけでした。』
短い射程は欠点か? 水雷戦隊の雷撃訓練は概ね目標まで5Km程度の雷撃訓練をしていた。 5Km程度の移動目標でも九三式魚雷が到着するまで約4分。その間敵艦の移動距離は3.6Kmに達する。
コロンバンガラ沖夜戦(1943/7/12 23:00頃) 司令島居(Shimazui)威美大佐指揮、 駆逐艦雪風(第二水雷戦隊・旗艦神通)を含む四艦は距離6Kmで魚雷31本発射。 4本が敵艦に命中。魚雷を再装填し発射。合計63本発射したが結果は4本命中のみ。命中率 6.25%
沈没判定のあいまいさ
魚雷命中1発で1艦沈没としていた。この夜戦で3本の火中(命中?)が 認められたので、敵巡洋艦3隻撃沈と報告された。 駆逐艦は雪風,濱風,清波,夕暮。どの艦の魚雷が命中したか定かでない。
 戦後判明するが、 魚雷命中で駆逐艦1隻沈没。軽巡2隻大破。軽巡損傷。 この誤報告は許せる範囲か? 米の魚雷MKUの航続距離8Km
英国MKZの航続距離10Km
スラバヤ沖海戦(早発不具合に翻弄された)やお互い逃げ腰的海戦だったアッツ島沖海戦でも全く命中していない。 命中しても爆発しない魚雷も多かった。  「光海軍工廠譜」に魚雷爆発尖改善は最後まで直らなかったとある。ドイツ海軍が中盤戦以降投入した音響追尾装置など Imperial Navy には思いもよらなかったかも知れない。
すなわち、魚雷の長射程が戦いにあって有利に働いたことは一度もなかった。 また襲撃法も遠距離を想定していない。  よってなぜ長射程魚雷にこだわったのか訳が分からない。
航跡が見えないことは有利か?
敵艦に発射した魚雷が命中していないので雷跡が見えないことが結果的に有利に働いていたという確証は見いだせない。
ハードとしての魚雷を分解すると、弾頭部(含む爆発尖)+燃料部+エンジン部+制御部(進路・深度制御部)+推進部で構成される。 「燃料部+エンジン部」は魚雷の主要部分だが全てではない。
ソフト=射撃術。装填から発射。的測、的進などいくら訓練を重ねても、 任意時間経過の敵艦の動き*1が読み取れるものでもない。
それよりも、爆発尖の改善。自然現象(海象・気象)に関係なく敵を発見出来る電探。 水中の敵を発見する水中探信儀(ソナー)、水中、水上、空(航空機)と立体的、遠距離で戦うことが多くなった 太平洋戦争で無線装置の改善に力を注ぐべきだった。
「大和ミュージアム」の説明姿勢は、戦争賛美的で納得が出来ない。  ミュージアムなのだから利点・欠点、問題点を併記すべきであろう。
Sonar(ソーナー・ソナーの両語が用いられる。 ソナーにはアクティブ(Active:自発)タイプとパッシブ(Passive:受動)がある。
*1 魚雷を目標に命中させる計算は、 戦艦の主砲より遙かに簡単で幾何の初歩の簡単なテーブルが有れば済む。 目標は動くので、その仮想移動範囲を塗りつぶす方式を行う。 概ね一水雷戦隊に3駆逐隊(4隻)で構成し、4連装射出機×4隻で一度に16本が目標に疾駆した。 ようするに、連携プレーと単位時間当たりの発射回数(回転)を増すことで 彼我戦力が同等で命中率が同じだと、その散布界(扇状の面で制圧)を拡げた方が確実に勝利する。 ここに、駆逐艦の存在理由があった。 ところが、テクノロジーの進歩は魚雷射出に絶対だった幾何学さえ否定する。  魚雷が意思をもっているがごとく制御されるようになる。  これは基礎科学と総合工業力と柔軟な思考と、それらを束ねる組織体を必要とした。
魚雷制御部が正常に機能する前提があって。
訪独潜水艦とドイツの反応
九三式酸素魚雷は無気泡,長射程30Kmを誇っていたが、 伊8号が持ち込んだこの魚雷に全くドイツは興味を示さなかった。 艦長以下は少しこの点で自信があっただけに「ガッカリ」している。 ドイツは通常の魚雷の限界を知っていた。  日本が取得したいノウハウで魚雷には自信があっただけに 全く入っていない。 その音痴振りが「人間魚雷 "回天"」につながった。  ドイツも極秘にしていたが、日本人が知ったら仰天したであろう。 ドイツの開発していた魚雷は
◆TI型:ジクザグに走り命中精度を高める魚雷。
◆TW型:音響追尾魚雷。 1943年9月19日このホーミング魚雷は大戦果を挙げている。
英軍は直ちに音響発信器を曳航するようになる。
◆TZ型:有線誘導魚雷。
◆T[型:スクリューの乱流(渦)を追尾する魚雷。
大和ミュージアムが絶対書かないこと
射程30Kmを誇った魚雷は「九三式1型」
 1.雷速50Kt(92.6Km/Hr)で距離20Km。
 2.40Kt(74.08Km/Hr)で30Kmである。

遠くまでとどくことと命中の問題は別ということが実戦で判明してくる。
1943年(昭和18年)中期以降、九三式3型が製造された。、
 3.九三式3型 射程15Km、炸薬780Kg。
燃料を減少させその分爆発力を強めた。まあ順当な考え方である。 ところが、南方資源還送が不可能になるとこの魚雷は製造出来なくなってくる。 熟練工員が徴兵され動員学徒が見よう見まねで魚雷のエンジンを製造した。 1945年には実質製造出来なくなってくる。
 4.九五式2型(潜水艦用)。  射程5Km。炸薬550Kg。
射程が短くなった要因は潤滑油と考えられる。 エンジンの潤滑油とスクリューシャフトの潤滑油(軸焼付き発生)に粗悪品しか供給できなくなり、 魚雷の遠距離駆走が不可能とになったのであろう。 当時の潤滑油製造技術では、寒冷地(北海道以北の厳寒期)と熱帯地方酷暑期に同一のエンジンオイルが使えるほどオールマイティーではあり得なかった。  一般的に戦争当初より兵器の性能は良くなるものだが、 日本海軍の魚雷は段々性能が悪くなった。 起爆装置である仮称二号爆発尖早発(駆走中爆発)問題はこちら。
1)戦争初盤 九三式1型(レシプロ) 雷速40Kt(74.08Km/Hr)で射程30Km
2)戦争中盤 九三式3型 雷速48Kt(88.89Km/Hr)で射程15Km
3)戦争終盤 九五式2型(レシプロ) 雷速48Kt(88.89Km/Hr) 射程5Km。
潤滑油はこちらもチラトご参照。

中島が開発した「誉(21型)」・「陸軍ハー45」(同一設計)など、電気系統と潤滑油不具合が多く発生したとの記録があるので、 最後まで国産航空機用潤滑油の精製は不可能だったのではなかろうか?。 最後には良質潤滑油が枯渇し、航空機エンジンの不調が続発する。  航揮製造技術も開戦当時のオクタン価87程度だった。最終到達は91オクタン価だった。  よって米英の航空機が使用していた100オクタン価ガソリンは、開戦前輸入在庫を食い潰し、無くなった段階で 91オクタン価ガソリンで戦った。  海軍燃料敞では接触分解法でのガソリン精製技術が開発できなかった。
中島飛行機が開発した誉(21型)エンジン搭載の彩雲11型偵察機(C6N1)の 日本公式最高速度は329Kt(609Km/Hr)だったが敗戦後米国が100オクタン航揮と 米軍使用潤滑油でテスト飛行すると時速695Kmを記録した。実に14%も速力増となっている。  石油の獲得情況還送情況・原油性状などはこちら。
同じように、戦艦大和主砲徹甲弾のサンプルと説明が、だらだら書きまくられている。 まず性能的なすごさは、命中することだが、その大和の砲弾が命中した海戦は存在しないことも書く必要があろう。 また、このように海軍が運用した砲弾・爆弾は戦闘艦を対象にしたもので、輸送船などの 薄っぺらな外板を想定していない。よって砲弾は外板を突き抜けた。 結果は日本の船舶沈没は 2,568隻にも達したが、日本が沈めた米国船はたったの98隻にとどまった。

南雲忠一 コンピュータが汎用化される直前の黎明期。識者の一人がコンピュータを産業の場で使うために多くの専門家(プログラマー)の育成で壁に突き当たる。そのときどうするか今から考える必要がある。 と中央紙に書いたヤツがいた。 彼はその装置を使うために職人が必要だと認識していたのだが、 実際の現場ではそのようなことは発生しなかった。 会社の中で職人芸でやっていた経理事務を極端な話、通行人でもその会社の事務をこなせるようなったのである。 海上で戦われる戦闘は、陸上戦でみられる体力勝負と職人芸は姿を消し、 先端兵器を使いこなす操作員にとって替わられた。
南雲忠一(ミッドウェイ海戦)や栗田健男(レイテ沖海戦)を見ても、 肉薄敢闘精神に燃え立つような人物を育てなかった、世界戦史的にも珍しい海軍でもあった。  彼らを見ていると、精一杯腕を伸ばして戦う子供のチャンバラ然の印象である。
余談だが、南雲艦隊のミッドウェイ海戦(1942/6/5)の大敗北や、 南太平洋海戦(1942/10/26)では相手の情勢不明を理由に南下せず、 決定的勝利が取れなかったときの参謀長は草鹿龍之介だった。そういえばあのレイテ沖海戦の栗田艦隊も情勢不明で退却したなァー
草鹿龍之介
ミッドウェイ惨敗のとき、このダメ男どうして 首切らなかったのだろうか??。 南雲も首にしなかった。 これまた世界の七不思議。  60万人もいた海軍で年功序列に拘らなかったら人材の宝庫と思うけど。
日本人は先の太平洋戦争を総括し反省したのか?
横浜の空襲を記録する会の今井清一氏は、『呉(広島県呉市・軍港・海軍工廠)では海軍軍人の慰霊碑は公園を大きく占領しているのに、 海軍工廠で爆死した勤労動員の女性たちの碑は畑の間に小さく作られているだけでした。そこには日本の戦争の本質がにじみ出ていました。』
戦争は国権発動の最たるものであり、今時大戦は国家間の総力戦であった。 軍人の命も、勤労動員学徒女性の命もかわりある訳がなかろう。  今井清一氏の静かな怒りもここにあった。 戦いの死は崇高で、動員女性の爆死は虫けらと同一であった。  彼女らも青春を国家発展に捧げ、そして倒れた。 その責任をいったい誰がとったのであろうか?。

海軍が使用した、若しくは開発した兵器について、「日本海軍史 巻七」に詳しい。
[technology] 内の各 htm ファイル
沖縄突入艦から除かれていた対空駆逐艦秋月型 specification,矢矧など   旧 Imperial Navy のバカどもが最終的に行き着いたコンクリート船   マリアナ沖海戦真の敗因 (日本海軍に存在した防御軽視の大弊害)   伊52 模倣国家日本の縮図   期待と結果が無惨に食いちがった戦闘の経過   マリアナ沖海戦参加艦艇   レーダーを取り外して惨敗したバカども。   水から航空ガソリンが出来ると信じたバカ。   電探の重要性を帝国海軍軍令部が真から気づいたとき   日本海軍の製作した電探 レーダー   艦上攻撃機天山 ・ 艦上爆撃機 彗星   犬の遠吠え思想だった大和搭載主砲

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