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1.君は信じられるか? 太平洋戦争陸軍戦死者 1,439,101人*。餓死若しくは戦病死70%。兵站無視の実態が浮き彫りにされる。 これもひとえに海軍の責任である。 次の写真は、旧Imperial Navy のバカどもが最終的に行き着いたコンクリート船の残骸である。 歴史の生き証人として山口県下松市笠戸湾に無惨な姿をさらしている。 [左のコンクリート船の残骸は干潮時だけ見える] => | ![]() | |
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このコンクリート船は昭和20年(1945)8月までに4隻(最終船完成は8月)が完成し海軍の呉、横須賀、
佐世保の各鎮守府へ納船されている。海軍艦政本部は航海試験後、25隻のコンクリート船を発注する計画で
あったが敗戦によりそれ以上のコンクリート船の完成には至らなかった。 防波堤となったコンクリート船。 別の紹介コンクリート船はこちら。 コンクリート船は高砂市(曽根町)塩田跡地の造られた武智造船所で建造された。昭和19年(1944年) 戦時標準貨物E型コンクリート船として建造された。 * 厚生省援護局調べ(1966年6月15日調べ)陸軍戦没者数1,647,200人。海軍473,800人となっている。 赤紙1枚で徴兵し、概数の何百人とは遺族と死者を冒涜するものであろう。 | ||
| 防御と防御兵器の開発を忘れた Imperial Navy は相次ぐ輸送船の損失により、 資源不足で行き着いた先がコンクリート船であった。 バカどものために、商船学校士官たちは悲惨戦いを強いられていた。 |
| インド洋での第一次交通破壊戦 |
| 艦名 | 早発 | 跳出 | 偏斜 | 跳出偏斜 | 艦底通過 |
| 伊16 | 7 | 10 | 3 | ||
| 伊18 | 2 | 1 | 1 | ||
| 伊20 | 1 | 1 |
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魚雷早発問題 すでに、1942年(昭和17年)2月末のスラバヤ沖海戦で水上艦艇から発射された酸素魚雷の水上飛出しと早発が問題となっていた。 この問題について戦後海技研大八木静雄技術少将は 浅深度で魚雷が駆走すると魚雷頭部及び推進器等に空洞現象を生じ、これにより魚雷本体に著しい振動を生じ、爆発尖や縦舵機に悪影響を及ぼす。うねり(波長)の大きいインド洋で 丸頭部魚雷で深度3m程度で95式魚雷を発射すれば、偏斜、自爆が続出したのは当然だろう。と語っている。この前線からの報告は聯合艦隊にも報告されたが軍事機密に属する問題で 関係部局全体(水上艦長や潜水艦長)に知らされることはなかった。 *戦史叢書潜水艦戦頁167 *95式魚雷諸元 炸薬405Kg 速力/射程 45/12,000 49/9,000 全長 7,150mm 全重量 1,665Kg |
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海軍贔屓(ひいき)が海軍の酸素魚雷は世界最優秀だったとほざいている。
燃料酸化剤に純酸素を使うから雷跡が発見されないといっている。戦いは昼間だけか?。一年を通すと
半分は夜である。夜に雷跡が見えるのか。魚雷という兵器系はエンジン部分と爆発部分と制御部分からなる。
エンジンがどんなに優秀だろうと、航走途中で爆発したら兵器としての完成度はゼロである。
魚雷は自分で意思を持つ武器ではない。目標に命中させる制御部分も必要である。
当然運搬具が必要でもある。主たるものは潜水艦であろう。潜水艦そのものが全く静謐性が備わっていなかった。
先の大戦で5隻ほどドイツの新技術供与を受けるために潜水艦が赴いたが、
ドイツ側はこんな割れバケツを棍棒で叩くような騒音発生潜水艦でよく到着できたものだと変に感心したという。
残念ながら、旧海軍はその潜水艦をどのように使うかというグランド・ストラテジー(Grand・Strategy,大きな戦略)を描けなかった。結果は周知のとおり。 キング海軍作戦部長は、日本のアキレス腱を知っていた。初期段階は護衛艦、次の目標はタンカー。 米国はこの魚雷に別の対応をした。昼戦は電池魚雷。夜戦は通常魚雷。柔軟でしなやかだった。 愚直なまでに一途に守りとおす大事な場面もままあるだろう。 だが1930年から遡ること63年前の日本の幕末。テクノロジーの差が戦いの勝敗を決定付けたではないか。 ハードがあってソフトがそれを補完する。大和魂(ソフト)がハードを越えることは出来ない。 小生事務処理の省力化で会社をコンピュータだらけにしたが、企業内業務ソフトが先にあってのハード充実ではなかった。 この僅かな期間だが戦闘史といえるものに目を通し、そして、日本を焦土とした化した真の国賊は海軍ではかろうか。 という結論に達した。国策を誤った方向に向けた陸軍高官を免罪するものではないが、 一旦戦いとなるや勝たなければ意味がない。 いまでも、国民の多くはA級戦犯を出した陸軍が悪玉で国賊。 それにひき換えスマートな海軍は善玉と信じていることだろう。 三八歩兵銃に中国戦線での慰安婦連れの行軍。現地住民虐殺の陸軍。 ガダルカナル戦では、あまりの悲惨さで餓島と揶揄され、 その兵站の失敗に全く学ばず牟田口廉也によるインパール作戦は強行され、 撤退する兵らが飢え倒れ折り重なり白骨街道と呼ばれる悲惨さを戦後国民は知る。また、牟田口は作戦の失敗を戦後も全く認めようとしなかった。 それやこれやで、泥臭くて不潔なイメージを国民はマスコミにすり込まされた。 悲しいかな、今村均のように用兵に優れ、人格高潔な人物をマスコミは紹介してこなかった。 山下奉文しかり。辻のバカと比較しようもない。 一方海軍は開戦初頭、胸のすくような真珠湾攻撃。戦争が終盤に入ると、 関大尉(航空特攻敷島隊)に象徴される必至・必殺の特攻作戦。一身を投げ出し、国家と国民を守ろうとした海軍将兵。 それらが、いまもって国民の琴線に触れる。 虚構のイメージが一人歩きをする。その最後の幕引きを戦艦大和が行った。 海軍は勝てる戦いで勝ったことがなく、戦い敗れるや高官は保身に終始した。 |
| 真の国賊海軍これもまた悲しい私の結論であった。A級戦犯で絞首刑となった武藤 章は隣室海軍嶋田繁太郎が死刑判決を逃れ嬉しそうな高笑いが耳に付いた。と書き残している。 日本の誇った?九三式酸素魚雷も造れなくなった。 |
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2.人類の歴史に 人類の歴史に富の蓄積をみるようになって争いが起こるようになった。 最初は隣近所の争いだったが、部族や人種、文化圏の戦いに拡大した。最初は単なる石器だった。 日本最大の内戦と云われている「壬申の乱(西暦672年)」の鏃(弓のやじり)はその多くが石鏃だった。 やがて、青銅器が戦場に出現する。石器に比すと圧倒的殺傷力と打撃力を持つようになった。 次にヒッタイト文明は鉄を作り出すことに成功する。 旧技術は新技術に勝てなかった。あの大エジプトもヒッタイトにひざまずく。 それでも刀槍の戦いであり腕力という打撃力の勝負だった。 |
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やがて時代が下り14世紀に入ると鉄砲が戦場に出現する。
それまでの弓矢と鉄砲では瞬発破壊力が違った。
鉄砲対弓矢では鉄砲側の圧倒的勝利だった。 鉄砲の出現によりヨーロッパや日本で城塞が築かれるようなにる。 弾をはじき返す石造りと鉄砲の有効射程の限界以上に堀をめぐらし防禦とした城を造った。 |
| 15世紀にはいると大砲が戦場に出現する。発射される 弾丸がソリッドから破裂弾(曳火信管)となるのにそんなに時間はかからなかった。城塞の防衛効果が半減した。 銃も当初の滑空銃から施条銃となった。滑空銃は施条銃の敵ではなかった。 |
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テクノロジーの差がそのまま部族や民族の運命を決めた。
そして近代の戦いは総力戦となった。すなわち国民総和の戦いである。
いきおい国家としてのグランド・ストラテジー(Grand・Strategy大きな戦略・国家戦略)が民族と国家の運命を決める。勝負は時の運では無くなった。 |
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3.戦略なき者に戦術もなく、戦術の失敗は戦闘で補完しえない。
1930年代の日本人はなぜあれ程有頂天になっていたのか、 どの時代に較べてもテクノロジー音痴となり、非合理主義者の集団に変貌した。 1853年(嘉永6)以降の日本人からみたなら、おそらくこれが、我々の末裔か?と首をかしげたであろう。 嘉永6年(1853)6月3日米艦4隻浦賀に来航した。ときの総理は備後福山藩主(広島県) 阿部正弘(1819〜1857 当時33才)圧倒的軍事力を前にそれに対抗できない状態と知るや、 「軍事リアリズムの選択」を行う。海軍建設構想を立案させた。 幕府軍制掛は、文久2年(1862) 閏8月、万国合従(連合)の襲来に備えて列島防衛海軍力を見積もっていた。 沿岸6軍管区15艦隊編成である。この流れが、国内に四鎮守府、二警備府の設置に繋がった。 外国からの侵略に備え日本列島防衛が真剣考えられていた。
出典:日本軍事史;吉川弘文館発行 P263 図102 幕府軍制掛は、文久2年(1862) 閏8月、万国合従(連合)の襲来に備えて列島防衛海軍力を見積もっていた。 沿岸6軍管区15艦隊編成である。 T、東北備(函館四組)金華山から東海岸蝦夷地(北海道)一円 U、北海備(能登別所一組)日本海能代〜出雲竜崎。佐渡・隠岐 V、西北海備(下関一組)出雲竜崎〜肥前田付。御手洗・四国西部海域及び壱岐・対馬 W、西海備(長崎三組)平戸以南の九州沿海、琉球(沖縄)を含む X、南海備(大坂三組)紀州大島〜四国沿岸。 瀬戸内海域 Y、東海備(江戸三組)太平洋金華山沖から紀州大島まで。 伊豆・小笠原海域防衛に必要な艦艇見積もりはフリゲート艦45隻。コルベット艦135隻。 兵員士官・下士官 5,460人。 海兵卒7,510人。 機関課甲板員48,235人 合計61,205人。 これの統一的運用を図るために海軍大権の統一が急務と答申した。 もはや幕府や藩の枠を越えた政体 が望まれた。 日本の国家的独立のための近代的軍隊、特に海軍の建設は、 必要不可欠であった。しかし、近代的な軍隊、特に海軍の建設と維持には、 艦艇の購入・建造、海軍士官・水兵の教育や養成、ドック・ヤードの建造と工場施設の整備、 技術開発、糧食・武器弾薬等の補給システム、そしてこれら全体を支える徴税・ 財政システムといった近代的国家装置を必要とした。 老中阿部正弘の模索した軍事リアリズムは ここまで見据えていた。幕府と薩長立場は違っても、国を憂い、あるべき姿を描いていた。
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4.小野友五郎 (勘定奉行) | ||
左 勝海舟 中央 赤松大三郎 右 小野友五郎 写真出典:咸臨丸海を渡る 「土居良三/著」 |
数学家としての頭脳と卓抜した技術力、事務処理能力によって陪臣(常陸国笠間八万石)
から幕臣に取り立てられ、勘定奉行という官僚としての最高位に抜擢された幕末最高のテクノクラート(技術官僚)。
咸臨丸の米国航海、
木村摂津守との海軍増強計画など日本海軍揺籃期の真の立役者の一人。 咸臨丸渡航時の年齢43。 渡洋天測は小野や肥田の舞台であった。 勝は病気で艦長室から出ようとせず、 実質浜口興右衛門や小野が船将であった。 帰国後、肥田浜五郎と国産蒸気軍艦「千代田形」を造る。 蒸気機関は肥田が担当した。 |
| 当時第一級のテクノクラートたちのその後。 明治維新前、戊辰戦争当時第一級艦隊多数を保有していたのは徳川幕府であった。西欧列強の 侵略に対応する国防力として海軍が必要だったのである。維新後彼らと彼らの薫陶を受けた 者達は、海軍機関科を構成した。兵科、航海科を薩摩海軍の連中が占めた。 兵科、機関科の確執はここまでさかのぼる。 |
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また、元治元年(1864)8月5日、下関海峡で全世界の海軍を敵に回した長州で彼らに惨敗するや、
若きリーダー達は柔軟な対応を行い藩崩壊の危機を回避した。彼らの示した現状認識は、
日本を動かし近代日本を築き上げた。 西欧列強による侵略の脅威を感じ取った長州の若き獅子たちは、 関門海峡に砲列を敷いた。 |
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