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野村直邦(海軍大将)提出 (東條英機内閣の海軍大臣) 1945年(昭和20)5月1日〜 軍事参議官兼大本営海運総監部総監大東亜戦争戦訓調査資料 昭和20年10月9日提出。 第三項、兵力行使の欠陥 (イ)の(二) 敵残存艦隊撃滅ヲ目的トセル「ミッドウェー」攻略作戦ハ必ズシモ其ノ必要ナク何レニスルモ西部「アリューシャン」攻略作戦ノ実施及豪州、 米間遮断作戦計画ハ兵力ヨリシテ無理アリシモノト認ム 戦後の反省に無理と決めつけた豪州、米間遮断作戦によりニューギニアに将兵を進出させ、 補給を全くせず徒に将兵は斃死した。わずかに生き残った将兵を富岡は敗残兵と呼んだ。 |
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富岡定俊が軍令部作戦部長(1944/12)になった後、最後の決戦場をどこに求めるか、また対米戦への取組みについて陸・海軍の隔たりは大きかった。 陸軍側は過去の経緯から 一方海軍側は 鋭く対立した。陸軍は我方がここまで敗れたのは南方資源還送の輸送船団が沈められたからであり、当然主戦場が台湾・沖縄*1いずれになろうとも 今度は、連合国側が長大な輸送線確保を迫られる。よって敵の補給を寸断*2すれば戦いに勝利できるはずだ。と現実的な見方を行っていた。 結局、1945年1月20日、次いで2月3日「台湾及南西諸島方面作戦に関する中央協定」、3月1日「航空作戦に関する中央協定」の決定をみた。 海軍残存部隊を置き去りにして逃げたのは?航空特攻を推し進めた大西瀧治郎であった。 その時点で1万4千人程度の兵員がいた。 その内無事帰国できたのは四百人たらずである。 痛憤をとおり超え情けなさに涙あふれる。 彼らの教育は教条的で柔軟性に欠け、航空機の戦いに転換したにもかかわらず、艦隊決戦(戦艦同志)思想を墨守した。 特攻を始めたとされる大西瀧治郎は航空戦力を高く評価していたという記述をまま見るが、航空特攻で一時的に敵空母艦載機の離発着不能とし、その間に艦隊決戦を目論んだに過ぎない。 *1 すでに比島は残存兵力(海軍)の持久戦(密林逃げ込み)が決定されていた。 恐らく陸軍首脳部が海軍の全指揮権を掌握できたなら、あそこまで無様な敗け方はしなかったかも。 *2 当時の帝国海軍に敵補給路を寸断する力量も装備も持っていなかった。 |
| 富岡定俊の有名な写真。昭和20年9月2日、東京湾における降伏調印式 |
![]() | 第二列中央参謀飾緒(しょくちょ)を着けた人物が富岡である。その後ろが柴勝男(海軍大佐、軍令部第一部)後列左端が横山一郎(海軍少将、海軍省出仕) 横山一郎は海軍省で軍政。富岡,柴勝男は軍令で戦艦大和沖縄水上特攻を承認した。連合国は海軍の要職米内光政海軍大臣、多田武雄海軍次官、豊田副武軍令部総長などの出席を求めたが誰も出席しなかった。 富岡はその著書で今時戦争は作戦が負けたのであるから作戦担当の軍令部第一部長、すなわち富岡が行けとなったと書いている。 |
![]() ![]() 富岡定俊 (広島県) |
富岡定俊は 遠く6,000Kmも離れたニューギニア戦線に派遣された陸軍兵に帝国海軍は武器弾薬医薬品の補給などが一切出来なかった。 その遺棄された将兵を平然と敗残兵と呼んだ。敗残兵に危険を冒してまで物資を輸送する必要はない。 それが富岡の理論だった。 帝国海軍はガタルカナル島にも補給できる能力がないにもかかわらず陸軍兵を上陸させた。 文字通りカダルカナル島は餓島と呼ばれる悲惨な状態に陥った。 ここで陸軍のことを述べる紙幅はないが、昭和17年(1942)6月末東部ニューギニアのポートモレスビー攻略研究を南海支隊堀井富太郎少将に命じた。 派遣部隊るする部隊は歩兵114連隊(高知)歩兵41連隊(福山)。北から4,000メートルの山嶺を超え距離360Km。 兵力5千人に対して補給する糧食だけで3万2千人必要と算出された。すなわち全て人力担送である。機械力,空輸力皆無の陸軍にこれ以外の方法はなかった。 研究結果はこの攻略は輸送面から出来ないものだったが、実戦部隊長堀井富太郎少将は「出来ない」と言わず、「命令があれば従う」と具申。ご存知のごとく結果は惨憺たることになった。陸路補給は無論、海路補給のことなど陸軍が研究できるはずもなかった。 当然陸軍参謀本部服部卓四郎が自軍の物的輸送量を研究し作戦を立案しなければならない。すなわち陸海軍の軍令をあずかる人間の質は想像以上に劣悪であった。 戦線にばらまかれた将兵は喰うに食なく、撃つに弾なく、病に薬なくという悲惨な状態に置かれた。 僅かな弾丸を撃ち尽くせば自己防衛をおぼつかなくなり、敵から攻撃されても撃ち返さずひたすら耐えよ。が前線の兵らに命令された。 補給が出来なくなった攻勢点への命令は「死守」せよ!。もはや作戦ではない。 |
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-- 軍部 -- とは 実際に軍を動かし、戦略を決定していた組織を指す。 太平洋戦争下で天皇を頂点とした統帥権の縦軸に隷属していた陸軍参謀本部と海軍軍令部の 作戦に係わる連中をいう。陸海ともトップエリートとされ、陸大,海大の上位5人という暗黙のルールがあった。 ただし、いずれも蛸壺組織であり、社会性、国際性などの広い視野や、人を束ね、ある目的を達成するなどの 能力が備わった人物であったわけではない。また、その成績順は相対評価だったから、前期成績優秀者と今期成績優秀者が 同列ではありえなかった。 軍令部〔乙事件当時〕組織はこちら。 戦艦大和水上特攻時の軍部に属した人物はこちら。 海軍の組織と軍部。 |
| 開戦時の軍令部TOP | |||||||
| 軍令部 | 役職 | 氏名 | 職務 | ||||
| 総長 | 永野修身 | 統括 | |||||
| 次長 | 伊藤整一 | 統括補佐 | |||||
| 第一部(作戦) | 福留 繁 | 第1課(作戦計画) 山本親雄 | |||||
| 第2課(艦隊行動・編成)・1課長兼務 | |||||||
| 第二部(軍備) | 鈴木 義尾 | 第3課(軍備) 山岡三子夫 | |||||
| 第三部(情報,防諜) | 前田 稔 | 第5課(調査) 竹内 馨 | |||||
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