大東亜戦争遂行国家の組織と海軍及び情報軽視軍団

日本国組織    戦前の日本で国策を進める大障害が存在した。 日本国組織概念図はこちら
天皇大本営陸軍部
海軍部
内閣陸軍省
海軍省
国会(議会)とは別に天皇に属すると軍部が言い出した「統帥権」である。 国家予算は議会で決めるが、兵馬の権は天皇直属としていたのである。 すなわち二頭立ての馬車であった。国会(内閣)馬、軍部(大本営)馬が荷物を引いた。 悪いことに軍部馬には頭が二つ付いていた。
陸軍頭と海軍頭である。内閣(最高行政機関)は陸軍頭と海軍頭の現役武官が就任する。 どちらか一方の頭が入閣を拒否すると内閣は崩壊した。近代戦は国民総和の戦いとなるが総和を 束ねるリーダー不在の国体だった。統帥は神聖不可侵で国政の装置から外されていた。
組織論的に天皇の下では、大本営陸軍部首班と大本営海軍部首班,内閣首班は同格であった。 国家予算は内閣の責任において国会に諮るが国家予算でまかなわれる兵馬の権は内閣首班に帰属していなかった。
天皇 陸軍
海軍
内閣(政府)
日本において戦争指導は陸軍,海軍,内閣の三者鼎立で権能は全く同一であった。更に不便なことは内閣首班(総理大臣)が各国務大臣の任免権が備わっていない。 また、これらの各組織の意見を調整し国策統合を図る仕組みも存在しなかった。
1945年1月、戦争をはじめた東條内閣は崩壊(1944/7)し、小磯内閣(第41代内閣総理大臣。陸軍大将) となっていた。この内閣は奇しくも大和出撃が発令されたその日に崩壊した。
1945年4月1日現在、内海航路は米軍による関門(下関)海峡機雷封鎖で瀬戸内海航路は 大きく打撃を受け、円滑な物資輸送が不可能となり、国民は飢渇線上に喘ぎ国家計画は頓挫した。 それでもずるずると、国民皆死を煽った。大和沈没の4月7日、鈴木内閣が成立した。
天皇からみると、内閣は国政の事務局。 大本営が軍令の事務局。 海軍省も軍令部も横並びの組織である。
宣戦布告は国政トップの内閣総理大臣が米国大統領に行うが、戦争は天皇から、陸軍参謀総長,海軍軍令部長に達せられる。この基本的命令を"奉勅命令"という。別名"大命"といった。 この大命は建前天皇の命令だが、案分は全て、参謀総長や軍令部長の幕僚が作成した。この大命に内閣は一切関与出来なかった。
戦争遂行に一国の総理大臣がつんぼ桟敷に置かれる、このような体制だから国家としてのグランド・ストラテジー
(Grand・Strategy 大きな戦略)を推進することもままならなかった。組織論的にこのような国家装置で近代総力戦は完遂できない。
大本営海軍部のトップが軍令部総長。海軍省が政府に属し軍政・人事を担当するのに対し、軍令部は天皇に直属し、その統帥を輔翼(ほよく・大元帥天皇の補佐)する立場から、海軍全体の作戦・指揮を統括する。 また、戦時は連合艦隊司令長官が海軍の指揮・展開を行うが、作戦目標は軍令部が立案する。
天皇は、明治憲法で宣戦・講和の締結者 (第十一条) よって、昭和天皇は全ての作戦・戦果に口を挟んだ。
海軍省
海軍大臣次官
大臣官房
軍務局
兵備局
人事局
教育局
軍需局
医務局
経理局
法務局
艦政本部(海軍工廠)・航空本部・水路部
電波本部・施設本部・運輸本部・潜水艦部
艦政本部(海技研)・航空本部(空技研)
軍令部
総長次長
副官部
第一部(作戦)
第二部(軍備)
第三部(情報)
第四部(通信・暗号)
特務班(暗号解読)

海軍省は軍政機関であり、実戦部隊に対する関与は出来ない。

艦政本部・海軍工廠・航空本部は軍事組織であるが軍隊ではない
思議なことに、米国やソ連,英国にみられる中央省庁外郭機関に諜報戦の部署は設けられなかった。また海軍では諜報を担当する部署は小規模に終わった。
身内の監視に特化した特高警察があったが、外部からの情報を集約し、暗号解読を専門とする部署は、米国軍使用の暗号解読は不可能と判断し早々に匙を投げ、専ら敵信のその企図を判断する程度で満足した。 海軍が太平洋で主敵とした米国艦隊の分析は敵信から緻密ではあったが、第三艦隊(Ad.Halsey)と第五艦隊(Ad.Spruance)とは全く別の艦隊だと信じていた。情報という面で総合的に判断すれば、身内(日本人)に厳しく敵に甘かった誠に不思議な組織が日本国であった。 敵の状況をこの目確かめるという航空機による偵察(勝つためには必須)も海軍は本気でなかった。あり合わせの航空機で偵察飛行を行ったが、高性能のカメラを開発し、撮影し、敵情分析(地上施設)を行う組織も作られることはなかった。それでも必要に迫られたので陸軍が運用した「百式司令部偵察機」を譲受け使った。 このような背景(情報軽視)だから、基地航空隊が入手した偵察情報は艦隊に配信する義務もなかったし、連合艦隊にも情報を統合し活用する仕組みさえ作られなかった。
帝国海軍の情報・通信防諜機構
軍令部の設置は明治19年7月18日にさかのぼる。その時、第1局(部) 2課。第2局(部) 2課。第3局(部) 2課。が設けられ、やがて第1局(部)の第3課が新設され諜報を担当したことに始まる。日清戦争後、第三局(部)が諜報を担当することに変更された。 昭和8年10月は次のような四局(部)10課となった。
第一部 作戦担当  第一課(作戦・編成)   第二課(防備・教育・演習)  第十二課(海上交通保護・戦時警備)
第二部 軍備担当  第三課(軍備・艦船兵器整備)   第四課(出動・動員・運輸補給)
第三部 情報担当  第五課(南北アメリカ情報)  第六課(支那・満州情報)    第七課(ソ連・欧州情報)
              第八課(英国情報)
第三部〔情報担当〕
 南北アメリカの情報を取り扱う第五課の昭和17年(1942)9月の陣容は、課長(1),課員(3)欠員(1)という惨めな状態である。「情報は大切」と知りながら「情報は重要」とは配属要員からして知覚していない。どうみても漫然と戦いを進めたようにしか見えない。
では、これが戦いの推移とともにどのように拡充されたのか
甲班
  A組(艦船の建造)
  B組(兵力・兵装)
  C組(陸軍・海兵隊の兵力・編成、装備,配備情況)
  D組(政治,外交)
  E組(財政,経済)
乙班
  F組(航空部隊の兵力と編成)
  G組(飛行機の生産と性能)
  H組(搭乗員の教育と訓練)
  I組(基地,航空作戦)
  J組(対日正面航空動静)
  K組(欧州方面航空動静)
  L組(作戦電報の整理)
丙班
  M組(水上艦船の動静)
  N組(潜水艦の動静)
  O組(商船隊の動静)
 これほどの情報を蒐集,分析,整理する人員は驚くなかれたったの54人であった。もしも帝国海軍が戦争開始前から情報の重要性に気付けばあれほど無様な負け方はしなかったであろう。 敗戦後、軍人は異口同音に敵レーダーに負けたと悔しがったが、真因はレーダーでもなんでもない。情報軽視のためであった。  テクノロジー音痴でもあったが情報音痴でもあったのである。
 海上護衛総司令部作戦参謀にしてみれば、敵潜の動向は、軍令部第三部第五課丙班N組の仕事であり、俺たちゃー(海上護衛総司令部作戦参謀)知っちゃイネー。だったのかも知れない。教えてくれなかったアンタが悪い。
 軍令部第一部自他共エリートとに認める作戦屋連中は、この第三部の仕事を全く軽視したと伝えられている。いずれの組織でも作戦参謀はエリート意識が強く、情報と情報屋を軽視したことが伺える。 海上護衛総司令部の作戦参謀大井篤は、会敵率100%以上でも、信じられないほどのほほんとしていた。 あの広い海で、一度ならず敵潜から攻撃を受けるなど、暗号が解読され、航路を敵が知っていなければ起こりえないのだ。夜間であれ、昼間であれ、荒天であれ、潜水艦の低い艦橋から視認できる距離はたかが知れている。 レーダーが有利なのは、夜間と荒天だけだ。
 戦史叢書海上護衛戦を読みながら、あの方バカじゃない。と筆者でも思った。 情報軽視は裏を返せば防諜軽視に繋がる。海軍使用暗号が解読されていたことを、敗戦まで気づかなかったことなどはお笑いでは済まされない。
 そのくせ、国民には物事をひた隠しにした。JR呉線。軍港や軍施設がある側のブラインドを下ろさせた。JR日豊線宇佐。海軍航空隊基地が見える側のブラインドも同じ。 ところが、敵にはスッポンポンの丸裸。情報取得を軽視し「敵を知らず、己を国民に知らせず、敵に容易に知らしめ、彼らを知らず、己を知らず」必勝の信念を信じたアホたちが帝国海陸軍の本質だった。現在に続く外交下手は、この情報取得軽視のなせる業なのか??
第四部 通信担当   第九課(通信計画)    第十課(暗号)   第十一課(通信諜報資料の入手)
     海軍開戦時、終戦時の各部長はこちら
第十課(暗号)
十課の事務分担は
  1)通信諜報実施計画
  2)通信諜報の実施
  3)通信諜報上必要な諸研究
  4)通信諜報上必要な教育訓練
  5)通信諜報資料の入手獲得 <--- この部門を特化して第十一課になる。更に分化し特務班となる。
第十課の基本業務は、暗号計画の立案。暗号員の教育。暗号書、乱数表の編纂及び製本(製造)の統制を担当した。
この「通信諜報資料の入手」に特化した第11課が新設され埼玉県大和田に大規模な通信所が開設された。余談だが太平洋戦争に入ると第12課(防備・通商保護)がつくられ、昭和18年11月15日、海上護衛総司令部発足するまで商船護衛を担当した。
昭和15年12月、軍令部第十一課は第四部より分離し、「軍令部特務班」として軍令部長に直属した。
事務分掌を見ても、第十一課は敵信(含む放送)傍受に特化され、味方の暗号が解読されているかのかを判断・分析する機関は存在しない。 第十課(暗号)分掌3)項、通信諜報上必要な諸研究と敵信傍受の一体化が効率がよさそうだがそのような組織ではなかった。すなわち、責任の部署と権能が中途半端なのである。 やがて「通信諜報資料の入手」のために通信所を開設したがために、「軍令部特務班」に改組。昭和16年に入ると欧州戦局の進展にとも相まって、各鎮守府,警備府間との通信能力拡充を図る必要に迫られ、 かつ連合艦隊の作戦通信に積極的に組み入れられた。同年5月15日第一連合通信隊が編成された。 組織名称からわかるように通信所なのである。
これにより、規模・要員は大幅に拡充したものの、敵暗号解析に対する取組はそっちのけにされ、かつ曖昧となってしまった。
 敵が暗号解析を行い、海軍の作戦内容・目的を知悉してのとは大違いである意味「間抜け」組織が海軍の実態だった。この血液を輸血した組織が海上護衛の必要性(すでに末期的状態だったが)迫られ創られた「海上護衛総隊」である。  潜水艦も輸送船団も毎正午位置を通信させた。通信傍受暗号解析しても潜水艦は次にどこに進むか判然としない面があるが、輸送船団は拠点から拠点移動である。当然毎正午位置を敵に把握されたら確実な航行(進行)を察知されてしまう。  この海上護衛総隊のあほ参謀こそ大井篤であった。彼のアホ振りはこちら。
 職務分掌として先述した「特務班」の編成を、1)作戦通信諜報,2)外交通信諜報,3)暗号研究に改められたが、暗号漏れに対応した組織は作られなかった。
軍令部特務班は柿本権一郎少将を班長として三課で構成された。第1課〔総務・企画〕。第2課〔暗号解読〕。第3課〔大和田通信隊〕。
暗号解読作業は第2課で、米英両国の暗号責任者は佐竹太右衛門少佐以下約50人。中国は中谷久次郎少佐以下約20人。ソ連は麓多禎(ふもと・まさよし)少佐が担当し、全体の文書を整理するタイピスト30人程度の組織であった。 この組織は米暗号解読には全く無力であった。よって早々に解読をあきらめ、通信解析に専念するようになる。 すなわち、軍令部第三部第5課の仕事と重複する。
特務班 昭和15年12月、軍令部第十一課は第四部より分離、軍令部総長に直属。
  通信諜報の計画実施
臨時戦史部
  支那事変史 戦訓の調査
臨時欧州戦史軍事調査部
 太平洋戦争の中盤、昭和18年〜19年にかけて軍令部作戦課長だった山本親雄の自著「大本営海軍部 企画・戦史刊行会 1974発行」頁111 の次頁見開き右頁に軍令部組織表が掲載されているが第十一課が抜けている。諜報軽視のなせる業か? 山本はまた、生還絶無兵器である人間魚雷回天の運用に深く係わる。兵学校出身のバカ共は人間が操縦する以上百発百中で成功(目標突入)疑いなし。と信じていた。 人間に意思があることを認識していなかった。実際人間魚雷で幾例もの自爆と思える事象が発生している。目的達成以前の自爆である。死が必然となったとき目的が敵艦突入でなくがその死が目的化する。機器故障、武運拙く生還しても、死ぬまで何回も再出撃させた。果たして君はこの状況下冷静でいられるか。
 山本は前述著頁219で特攻に関して「体当たり攻撃の軍事的価値そのものに大きな期待がもてず」「生還の望みのない特別攻撃を、大本営(軍令部)の方針として、計画的に作戦部隊に強いることは適当でない」抜かしている。この特攻兵器を自分が推進したことをすっかり忘れたかののような書き方をしている。
 また、特攻兵器の開発は昭和19年の8月ごろから開発したとあたかも他人事のようにすっとぼけている。
信には熱心だったが、暗号取組(海軍乙事件など)には不熱心の趣があった。江戸時代でも"お庭番(隠密)"は武士以下の身分で、そのような意識(こそ泥的)があったのかも知れない。
海軍が敵対する米国海軍ワシントン情報部、昭和20年7月の陣容は、士官543名,下士官兵675名,民間人330人。米海軍全体の情報関係者は4,500人にも達した。日本海軍に情報専門の士官(将校)は一人も存在しなかったことに比べ、情報への熱意のなさが戦いに負けた最大の要因であろう。 海軍が保持した93式魚雷やゼロ戦,陽炎型駆逐艦が如何に優秀であろうとも、勝つためには必須 の情報を疎かにすれば、勝てる戦いも負け戦になってしまう。ミッドウェイ海戦,マリアナ基地航空隊壊滅やレイテ沖海戦など情報取得の熱意が勝敗を分けた気がしている。
― 〔出典:日米情報戦記 実松譲/著〕 ―
米国は次のような情報機関を設置していた。
1.統合情報委員会(統合幕僚長会議下部機構)
2.陸軍情報部極東課
3.極東攻撃目標課(陸軍)
4.海軍情報部極東課
5.太平洋戦略情報部(海軍)
6.統合陸海軍情報部
7.戦略情報部
8.作戦分析委員会
9.経済戦争局
10.外国経済局
11.敵国石油委員会
12.統合極東石油委員会
多く、重複する仕事を行っていたと思うが、日本の状況と比べ質,量とも膨大な組織と陣容であった。 これらの情報が一人大統領に集まったのだから、国力や生産力以前の問題をはらんでいる。東條英機に何一つ情報が集まらなかったことに比べれば総じて組織力化の違いだろう。
海軍技術研究所
本部 化学研究所 東京都目黒区三田町
分室 造船研究部 福島県耶麻郡月輪村
   理学研究部 長野県北佐久郡軽井沢村,沼津市静浦水族館,静岡県浜名郡馬津町,京都市外鞍馬山
   材料研究室 長野市南石堂村,栃木県塩谷郡鬼怒川町,横浜市矢部町(東亜冶金専門学校)
   実験心理研究部 横須賀市池上(横須賀工廠工員養成所内),神奈川県高座郡(高座工廠内)
*(注) 艦艇用レーダーは艦政本部(海技研)で航空機搭載用レーダーは航空本部で開発した。情報交換は一切行われていない。 航空機搭載のIFF(敵味方識別装置)は艦艇から質問波(電波)を発し、航空機が応答波(電波)を返す。海と空との一体化でなければ話が進まないのに、 艦は海技研が航空機は空技研の担当だったので縦割り的組織の壁が崩せなかった。 航空機搭載の識別装置として、「五式空電波識別機改1」及び「同改1甲」が試作されたが航空機に装備されることはなかった。
つまるところ、指揮者不在のオーケストラ集団が日本であった。 冶金や周辺産業(工業力)未成熟以前の問題が横たわっていた。
音響・磁気兵器
第二海軍技術敞 静岡県沼津市香抜
海軍潜水学校
広島県佐伯郡大竹町
作家城山三郎氏は16歳で志願しここに入学した。  ある日、全員が一堂に集められ、貴様らは、今日から全員伏龍隊員になったと告げられた。 伏龍とは、潜水服を着用し棒状爆雷持って上陸してくる米軍の上陸用舟艇の船底に 爆雷を刺突し爆破する隊員である。当然確実に本人も死亡する。
よくも、次から次にと非人道的兵器を考え付いたものだ。また人の命を犬猫以下に扱った海軍とはどんな 組織だったのか。天皇を守ることが大命題だったとしても、国民皆死の後、天皇は誰の上に君臨するのか。
軍務局,軍令部の連中が、一夜漬けで資源還送輸送船の損失見積もりを提出し、それが米国との開戦に弾みをつけてしまった。 その見積もりと連中はこちら
海軍教育機関
海軍大学校
海軍兵学校
海軍機関学校
海軍軍医学校
海軍経理学校
海上護衛隊司令部
幕僚
海上護衛参謀長
海上護衛副官
海上護衛参謀
鎮守府 (横須賀・舞鶴・呉・佐世保)
司令長官
幕僚軍医長機関長主計長法務長人事長
参謀長副官参謀 
警備府も鎮守府と同じ(除く人事長) (大湊・大阪)
軍令部総長は海軍幕僚長として、天皇を補佐する立場であり指揮官ではなかったので、 戦闘現場の艦隊を動かすことは出来なかった。 海軍で、戦闘部隊を動かせるのは、艦隊司令長官だが、彼らは天皇に直接従属する地位でこれを直隷と云った。 連合艦隊司令長官も艦隊司令長官も天皇により任命された。 連合艦隊司令長官の座乗は第一艦隊という決まりだった。第二艦隊以下も直隷で、一見同列に 見えるが、ひとたび連合艦隊に編入されると、連合艦隊司令長官の指揮下に入る規程であった。  よって、軍令部もGF長官の意向を無視できなかった。
海軍軍令部が天皇に直結していた。この部局は海軍の行う作戦を立案・命令する最高機関。実戦部隊である連合艦隊司令長官を指揮する権限を持つ。だが連合艦隊司令長官は天皇が任命する親補職で絶大な権限を有していた。 普通の人間は天皇に面会出来ないが面会出来ることを意味する。 徳川幕府の旗本と同一と考えたら分かりやすい。
海軍軍令部
第1部(戦争指導要綱・軍事関係国策),第1課(国防方針・作戦計画),第2課(艦隊行動・編成・教育訓練)
通商保護の主務担当は軍令部第1部第2課防備班の担当であつた。軍令部勤務の皇族があれば御付武官が兼務の形で仕事をした。 皇族の勤務がない場合には、他の部員の片手間仕事であった。 戦史叢書:海上護衛戦 頁17
第2部 第3課(軍備・艦船,航空機及び兵器選定・整備),第4課(国家総動員・運輸補給計画及び検閲)
第3部(情報,防諜),第5課(国情調査・関係国情報収集・宣伝),第6課(支那・満州国情調査),第7課(欧州列国調査)
第4部 第8課(情報・通信関係統制・通信関係教育),第9課(暗号書編纂・暗号維持管理),第10課(外国通信研究)
1940年(昭和15年)11月15日「特務班」新設(通信諜報の計画・実施) => 1943年(昭和18年)1月30日付特務班は第四部に編入。
1941年(昭和16年)11月17日付第1部第2課に「防備班」(防備・戦時警備,通商保護)新設
1941年(昭和16年)12月「海軍国防政策委員会」発足。
情報戦
現地情報と敵信傍受を総合して敵の作戦を知ろうとする部局は存在しなかった。 情報部局は国内不穏分子の動向とその対応を専門とした部局である。 総理大臣東條英機は陸軍憲兵隊と内務省国家警察(特高警察)を手中に収め国民を恫喝した。 米国と戦争しているのではなく、 内なる国民という敵に大きくエネルギーを費やしていた。
身内(国民)には厳しかったが、特に海軍は情報戦(管理)に疎い組織だった。

第1部は第一委員会となり、最も権限を持っていた。 軍務局石川信吾・軍令部作戦課長富岡定俊・軍務局第一課長高田利種・軍令部第一部甲 部員大野竹二で構成されていた。
1942年(昭和17年)10月10日付「防備班」は12課となり「防備・戦時警備・対潜作戦及び海上交通保護」を任務とし改組される。
参考 「海上護衛」 1943年11月15日大本営直属の海上護衛総司令部を創設。 1945年(昭和20年)5月1日になって連合艦隊司令長官が 海上護衛司令長官を兼務することとなった。 この時点で稼働できる軍艦は駆逐艦数隻と戦時急造型の海防艦しか残っていなかった。また、関門海峡機雷封鎖(1945年3月27日) 安芸灘海機雷封鎖などに鑑み、1945年(昭和20年)4月10日、西内海地域の関門、対馬、朝鮮各海峡防衛と船舶の安全輸送確保のために急遽 第7艦隊が編成された。 最後になって格好つけたが、米潜は楽々対馬海峡を突破した。(廃止1945/9/15)
電探開発は艦政本部指揮下海軍技術研究所がおこなった。航空機用電探は航空本部指揮下の空技研が担当した。 それぞれ、開発したレーダーを戦闘部隊の艦艇に取り付け、理解させ、問題点をフィードバックし、更に 改善するとしたらどのように関門(障害)があるのか上の表から各自が考えてみて下さい。
海軍省の運輸本部は、民間船の徴用などの業務を行った。 専門的護衛作戦の必要が生じた1943年(昭和18年)11月15日に なって、海上護衛隊司令部を作る呑気な海軍であった。
兵站(logistics)も、それにともなう通商破壊作戦という概念もなく、ひたすら艦隊決戦にこだわり、その滅亡の際まで方向転換出来ない 硬直組織が海軍だった。
1941年の開戦時は、陸軍頭から内閣首班として東條英機が躍り出る。 内閣は当然国力の維持と民政安定も図らねばならない。必然的帰結統帥部の陸軍と衝突する。
一番問題は、国会や内閣の枠外で用兵が決まってしまうことだった。 統帥部の海軍頭と陸軍頭の制服組トップを内閣が決められないことも重大だった。また、戦争を 始めてみると、海軍頭と陸軍頭の戦略目標が違っていた。よって調整することなく勝手に兵を動かした。  そのくせ難局(島嶼補給)に立つと、責任転嫁に躍起となり根本的解決策さえなおざりにされた。 一方対戦相手の米国は日本の大元帥天皇陛下相当も国民が選出し、 選ばれた者は、制服組の任命権者でもあった。 少なくともダメ人間が兵を動かせなかった。かたや日本は兵学校成績序列でかつ年功序列であった。
戦後、A級戦犯とされた重光 葵(まもる)元外相に東條が日本の敗戦について「根本原因が不統制にあった。 一国の運命を預かるべき総理大臣が、軍の統制に関与する権限のないような国柄で戦争に勝つわけがない」 と述懐したという。  けだし、名言というべきか、そこまで深く考えずに政府首班を引き受けた浅慮な人間か、評価のわかれる 言葉である。
昭和19年(1944)2月17日、18日の両日太平洋の拠点トラック島が米軍の空襲を受け潰滅。 これにより、大本営陸軍部、海軍部の両総長が引責辞任し陸海軍大臣が総長を兼務した。 異例の措置と云われたが、これで始めて行政組織の海軍大臣と用兵組織の長が同一となった。 すなわち、軍政と軍令を一人で行えた。
だが、この試みも成功しなかった。海軍軍令部総長は、陸軍参謀本部長(東條英機)に 次なる作戦内容を説明する必要がなく、天皇の裁可をもらえばよかったのである。 もちろん 内閣の承認をとる必要もなかった。このことが、結局、両軍参謀連中の増長につながった。 若手参謀連たちにとって恐い存在が誰もいなかったのである。
陸軍参謀本部作戦課長になった服部卓四郎は、戦後『その利とするところよりも、 同一人に過大な権力と事務が集中することによる弊害(疑惑と不満、嫉視と被圧迫感、施策の 混濁と不徹底)の方が多かった』(大東亜戦争全史 原書房)と総括している。
服部卓四郎が思った「疑惑と不満、嫉視と被圧迫感」 日本人の集団を束ねる難しさを痛感する。
当時の陸軍に服部卓四郎と辻政信コンビが存在しなかったなら先の大戦はもう少し 違った展開を見せたことだろう。
東條が首相になるなる前から憲兵隊を支配下に置き、反東條派の弾圧を行うか、不穏と思う者を監視下に置いた。監視対象者は 一説には4,000人にも達したという恐怖政治を行った。  特高警察も治安維持法を振り回し、国民に反政府的言動者の密告を奨励し捕らえ拷問を加えた。  いま普通に享受できる平和的な考えは犯罪だった。 マスコミもこの風潮に立ち向かえず、軍部に迎合してしまった。  中野正剛の自決はこのような背景下で起きた。
当時、唯一ではないものの、貧困があった。それは、土地・農地の 地主支配に起因するもので、為政者は戦争か国内改革かの選択を迫られていた。その国内改革を 不可避のものとすれば戦争の選択しかなかったのである。
1941年(昭和16年)7月の南部仏印進駐が 引き起こした米国による石油の全面禁輸という外圧が戦争を不可避なものとした。
石油精製という技術的な面で戦争に突入できたのか?。 答えはノー。 出来なかった。  潤滑油を米国に依存していたことで多岐にわたる上質な潤滑油が製造出来なかった。

石油の全面禁輸という外圧が戦争を不可避なものとしたか?
 油断の幻影 一技術将校の見た日米開戦の内幕(高橋健夫著)で日本にある石油総量は誰も知らなかった。 また、消費量は誰も把握できなかった。石油がない! だから南進政策的に石油争奪のため戦争を始めたのではない。石油が足りないという雰囲気から戦争が始まった。と書いている。
 陸軍も海軍も石油消費量は一切公表(軍機密)しなかった。
残念だが米国に見られる新技術や新兵器を総合的に研究し開発する国家部局は全く最後まで作られなかった。
ABDA(米・英・蘭・豪)ラインによる貿易禁止策での斃死を避けるためと称して南方資源獲得のための、 自存自衛の戦争だ。と豪語したが、資源獲得後の輸送を全く考えてもいなかったし、 対応も考えていなかった。
大本営参謀瀬島龍三(2007/9/4死去・太平洋戦争の作戦・用兵を担った)は、 日本の膨張政策(植民地主義)を論ぜず、『自存自衛の受動戦争』と言い続けた。  彼の立案した作戦で百万を超える将兵の命が失われたが、その遺族に対して謝罪の言葉と 責任について片言さえ述べなかった。 これほど卑怯で卑劣な日本人を知らない。
瀬島龍三の問題点は、嘘つき、無能海軍の片棒を担ぎ、将兵を本土から離れた地域に分散させ、米軍をして 食糧を支給しなくてすむ捕虜収容所にしたことだった。
南方資源さえ確保すれば、戦争は勝ったも同然と考えていた。  だが、資源輸送船団を護衛する海防艦はたった四隻しかなかった。  還送の現場は一体どのような情況だったのか? 最前線の体験者はこちら
海防艦は船団護衛を目的で建造されたものではない。北洋漁業を保護する艦艇であった。その意味では開戦当時日本には 南方資源還送護衛の艦艇は一隻も存在しなかった。
■驚かずに読んでもらいたい。1945年(昭和20年)5月1日大本営海運総監部発足
大戦争最中でも相互にいがみ合った海陸軍が統一的運用を開始することになった。 すでに運行可能船舶は逼迫し、海軍だ、陸軍だと船を取り合う余裕が無くなったのである。 少なくとも、占領地域から資源を本土にまで海上輸送するにしろ、 展開した将兵への食料武器弾薬医薬品を送るにしても、 広大な太平洋の戦いでは輸送が全てを支配した。戦争を行う組織に大問題があったのである。 すでに船舶に給油する燃料にも事欠いていた。
【放棄航路】
  1945年3月 東京湾〜北海道   硫黄島からの攻撃圏内
     〃    東京湾〜大阪        〃
  1945年4月 台湾〜日本本土 沖縄米軍上陸
     〃    沖縄〜  〃        〃
  1945年5月 門司〜大連・青島  米潜の脅威
大本営海運総監部設立しても、すでになす術もなかった。
海上輸送路の遮断には熱心だった米軍だが鉄道の破壊には関心がなかった。唯一 B-29 で爆撃されたのが 山陽本線岩国駅(1945/8/14)。これはポツダム宣言受諾を聞いてはいたが、攻撃体制を 組んでいたので、その爆撃隊に陸用爆弾を搭載させて出撃させたと信じられている。同日光海軍工廠も 爆撃された。
戦争継続するために陸・海軍は
(1)「皇土特ニ帝国本土ヲ確保スル」目的をもって沖縄を縦深作戦遂行上の前縁とし本土防衛の準備をする。
沖縄・硫黄島などに敵の上陸を見る場合においても、極力敵の出血消耗を図り、且つ敵航空基盤造成を妨害する持久戦方針を確認。
2)海軍は「天号作戦」、陸軍は「決号作戦」を策定、沖縄守備軍第32軍は、 「軍民の共生共死」を強調した。
1945年1月25日:最高戦争指導会議「決戦非常措置要綱 」を決定。
 第一条 帝国今後ノ国内施策ハ速カニ物心一切ヲ結集シテ国家総動員ノ実効ヲ挙ケテ必勝ノ為 飽ク迄戦ヒ抜クノ確固不抜ノ基礎態勢ヲ確立スルニ在リ 之力為具体的施策ヲ更ニ強化徹底シテ 近代戦完遂ニ必要ナル国力並国力ノ維持増強ニ遺憾ナキヲ期ス
第二条 国力並戦力造成要綱:当面ノ情勢ニ鑑ミ国力並戦力造成上ノ基本方針左ノ如シ
一 作戦上ノ中核戦力トシテ、依然航空機並限定セル特攻屈敵戦力ヲ優先整備ス
二 国力ノ造出ハ日、満、支資源ヲ基盤トシ自給不能ナル南方資源ヲ充足シ, 其ノ総合的運営ノ下ニ近代戦争遂行能力ノ確立ヲ主眼トシ併セテ各地域毎ノ攻戦略態勢ノ強化ヲ図ル
戦争指導会議とは,1944年8月4日以降小磯国昭内閣で設けられた。 以前の大本営政府連絡会議と同じ。政府から総理大臣、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣が, 軍部からは陸軍参謀総長、海軍軍令部総長が出席。蔵相ほか閣僚や参謀次長・軍令部次長が列席、 天皇も臨席する。
第一条の「国力並国力の維持増強に遺憾なきを期す」とあるが、 単なる空念仏である。 米軍にる通商破壊戦で南方からの輸送ルートは途絶し、 船舶も沈められボロ船しか残っていなかった。1944年(昭和19年)後半頃から 南方資源輸送の組織的計画的運行は不可能となった。 それは、海軍の無責任から来ている。 開戦時の護衛艦は前述したようにたった四隻だった。 船舶損耗に気付いた海軍は1944年(昭和19年)度から 低速・鈍足の番号で呼ばれる丙型・丁型海防艦建造に着手する。
第二条(一)、航空特攻主眼であり、 やがて資機材(燃料・航空機)と人員(熟練パイロット)の枯渇を招来した。
  [ 零戦1機が現在価格で1億円程度した。 戦艦大和の現在価格約2,900億円 ]
第二条(二)、「自給不能なる南方資源を充足し」 とあるが充足不可能の現実を直視しようとしていない。この低脳らが、 この時期の国民を戦争に駆り立てていた。無為無策のくせに「総合的運営の下に 近代戦争遂行能力の確立」言葉遊びでお茶を濁した。
この決定をみたとき、戦後総理大臣を経験した吉田茂 (官僚:内務省)は軍需大臣だった。
政府策定 決戦非常措置要綱(1945/1/25)全文はこちら

海軍組織
■海軍頭は「海のことは俺に任せろ!。1〜2年は暴れてやると」豪語したが、暴れるためのエネルギー資源や鉱物資源の海上防衛(シーレーン防衛)は全く念頭に無か ったし対応していなかった。また、海軍大学校はロジスティクスの概念は教えなかった。
1941年9月6日、永野修身軍令部総長が御前会議で答弁(作戦に関し2カ年の成算)
■シーレーン防衛には、航空攻撃、水上攻撃、水中攻撃などに対応しなければならないが、 斬新な研究や技術開発を国家プロジェクトとして組織していなかった。
■レーダーなどの開発と斬新な活用方法など、陸・海別々に取組み、それでなくても 不足しがちな、人的資源(頭脳)や物的資源の奪い合いを行っていた。 国家として専門的技能集団を組織しなかったので 日本無線(海軍の電探開発・製造)の技術者を徴兵で引っ張り出し、持たす鉄砲もなかった陸軍は彼らに塹壕の穴掘りをさせた。 その陸軍は、レーダーなどに全く関心はなく、上陸した米兵を竹槍でどのようにすれば刺殺できるかに より多くの興味をもった集団だった。
(GHQの質問に対し日本無線中島正の証言)   いまもって各省庁間の縄張り争いで無駄な事業を同じように行っている。
■陸軍頭は
海軍頭が「海のことは俺に任せろ!」といわれると、引き下がるしかなかった。 結果は、全く任せることの出来ない組織と体制だった。
陸軍頭は戦争を始めて5カ月後の1942年4月中旬、海軍策定の輸送(還送油)計画は単なる絵に描いたモチに気が付き、早速自らの 輸送線の確保を模索し始める。ところが、油送(油槽)船全体の半分を海軍が握っており、絶対的船腹数の不足に 気づいた。それを契機に陸海の確執は深まった。
開戦前の船舶徴傭区分
区分陸軍(A) 海軍(B) 民需(C)合 計
船種貨物船油槽船 貨物船 油槽船 貨物船 油槽船 貨物船 油槽船
隻数438 10 459 521,733 442,630 106
トン数2,136,764 13,480 1,410,782 322,890 2,351,354 148,730 5,898,900 485,100
船腹率36.22.8 23.9 66.6 39.9 30.6 100 100
出典:日本商船隊戦時遭難史

■戦争をはじめたときの海軍には、たった四隻の海防艦しか存在しなかった。 諸外国の駆逐艦は対潜水艦作戦に多くのエネルギーを使ったが、 日本海軍の駆逐艦は艦隊決戦魚雷発射訓練に明け暮れていた。
■駆逐艦は輸送船を空軍力から防衛する方法も、潜水艦の魚雷攻撃から防衛する 方法を訓練したことも、組織として考えたこともなかった。
■戦訓に学ぶということを盛ん唱えたが、戦訓に学び真摯に組織力で対応したことは一度もなかった。
  1944年2月の段階でも「艦隊決戦」を転換しない海軍トップに対し心ある人間の必死の叫びも一顧だにしなかった。
開戦時、軍令部総長の永野修身は、「戦争だから少しの犠牲はあるよ」と呑気に語ったが船舶損失実態は、米軍の船舶攻撃に 為す術のない海軍だった。 敗戦後A級戦犯として潜水艦のことを聞かれると「僕、知らァなァーい」と答え連合国判事,検事を唖然とさせた。
米国の戦争遂行組織

大統領(Roosevelt)
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レーヒ提督(Leahy・大統領付き参謀長)
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  *― A・キング作戦部長― ニミッツ提督(Chester William Nimitz,太平洋方面最高指揮官)
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  |                  *― ビル・ハルゼー提督(William Frederick Halsey,第三艦隊長官)
  *― B・マーシャル参謀総長       |
          |                 *― ミッチャー中将(Marc A Mitscher,高速空母機動部隊)
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          * ― マッカーサー将軍(南西太平洋方面最高指揮官)
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                *― キンケイド中将(第七艦隊長官)

第五艦隊長官にレイモンド・スプルーアンスが居た。 ニミッツはハルゼーとスプルーアンスとを休ませながら効果的に使っている。 同一艦艇をハルゼーが率いれば、第三艦隊となりスプールアンスだと第五艦隊と呼ばれた。

太平洋戦争取材班
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