戦争裁判 海軍関係 (戦犯裁判) B、C級戦犯
表−1陸海軍を含むB、C級戦争犯罪裁判結果
国/区分件数人員死刑死刑(率)無期有期無罪その他備考
米国456 1,453143
(3)
9.8 162
(2)
871188 34 死刑(3)無期に減刑。無期(2)有期に減刑
英国330 978 223 22.8 54 502 116 83  
豪州294 949 153 16.1 38 455 267 36  
和蘭448 1,038 236
(10)
22.7 28
(1)
70555 14 死刑(10)無期に減刑。無期(1)有期に減刑
仏国39 230 63
(37)
27.4 23
(4)
112
(2)
31 1 死刑(37),無期(4),有期(2)
未逮捕又は欠席裁判
比国72 169 17 10.1 87 27 11 27  
中国605 883 149 16.9 83 272 350 29 
2,244 5,700 984 17.3 475 2,944 1,018 224  
出典:回想の日本海軍 豊田隈雄投稿。戦争裁判の後始末について。 同頁499。 なお、同表その他の計を279としているが縦計間違い。「その他」については、起訴取下、控訴棄却、裁判中止、判決不承認、未逮捕、結果不明などである。
『戦争犯罪裁判概史(全20巻正副2部)』として法務省が保管している。利用について全て公開されるわけではない。
C級戦犯 −−上官の命令を受けて虐待や殺人を実行した者
B級戦犯 −−戦争の法規および慣例に違反した者(部下に虐待や殺人を命令した者を含む)
A級戦犯 −−国際条約に違反して戦争を計画、開始または遂行したと申し立てられた者
  A級戦犯として死刑になった者は海軍にはいない。太平洋戦争に限ればA級に該当する戦争への引金を軍政関係で引いたのは海軍であった。 実は極東軍事裁判(東京裁判)では歴史をさかのぼりさしあたり1920年(大正9)代後半中国国民党が全国統一を目指して北伐(社会主義勢力討伐)を断行したとき日本軍に妨害された出来事以降に限定したことによる。 当然これらに海軍は関与していない。またA級戦犯には軍令(陸軍参謀本部,海軍軍令部)に係わった者は除外だった。
 この軍令に係わった者は日本人によって裁くべきというのが極東軍事裁判検事団団長のキーナンの思惑でもあった。
戦後日本はこの問題を素通りしてきたことで非人道的特攻作戦を計画・遂行・展開してきた者たちをのさばらせてきもした。詳しくは保阪正康著『昭和史七つの謎(講談社)』を参照されたい。
A級,B級戦犯の定義は罪の軽重ではない。マスコミなどが重大な過失や失敗をしたときなど○○はA級戦犯だとあたかも罪科の軽重の如く表現した。
戦争犯罪と戦争責任
 毎年8月15日が訪れると靖国神社における極東軍事裁判でA戦犯とされた者たちの合祀問題が取りざたされる。 戦火に斃れた軍人軍属・船舶乗組員・都市無差別爆撃で死亡した老若男女を含めるとその犠牲者は310万人に及ぶという。 そして、多くの都市は焦土と化し、広島・長崎には原子爆弾が投下された。 この有史以来の大惨禍をもたらした責任は誰にあったのか。 我々は、この問題を見過ごしてはいないだろうか?。 戦争犯罪とは別次元の問題を靖国神社は抱え込んでおりはしないだろうか?。 同神社に合祀されたA戦犯とされた人々と戦争責任を負うべき人々の多くはオーバーラップする。 そして戦争末期人間を消耗品としたいわゆる特攻を推し進めた人間の仮面をかぶった鬼たちの責任を私は放擲した覚えはない。 これは、法的な時効の問題とは全く別のことである。
特攻兵器開発にあたって、こんなもの使い物にならない。と呟くと、黒島亀人は「この非常時に何をぬかす!」と恫喝したと伝えられている。 彼ら軍部の価値観は非常時だったなら人間を消耗品としても差し支えないという教育を受けたのか? 
過去にこだわれ!
 近代日本の歴史はそのまま膨張主義による戦争の歴史であった。明治維新。日本人としてのアイデンティティ(Identity)に 目覚めたとき、目にしたものは軍事力を背景とした西欧列強の植民地主義だった。  そして東アジアの盟主たらんと欲し、その結果中国、東南アジアを戦乱に巻き込み、その主権を侵し、他国民の生命・財産を破壊した。 よってこの消し難い事実を真摯に受けとめ、 自らが総括しない限り未来をも切り開けない。 西ドイツ、ワインゼッカー大統領就任演説の『過去に盲目となる者は、また未来に対しても盲目となる』 の言葉を噛み締めなければならない。 依然として保守政治家は日清戦争から太平洋戦争までの間、 日本とアジアの民衆に多大な犠牲を強いて来たことに無反省である。結果として東南アジアの諸国は日本の敗戦を契機に、 西欧植民地主義の軛(くびき)を脱したが、それをあたかも日本が彼らの独立に寄与したかのような政治家の発言が目立つ。
日本は、断じて侵略していない!と叫ぶ連中が決して触れない地域と国

(1)インドネシアは1945年8月11日、ジャカルタの国民大会で独立を宣言した!。 
  日本は、オランダ国を駆逐した段階で独立を認めていない。
(2)フィリッピンは日本が占領したとき独立を認めた。米国が独立を認めたのは1946年7月4日である。
(3)北ベトナムは1946年11月独自の憲法を作り仏国から独立した。(日本)がその下敷きを作ったからだ!
(4)南ベトナムは1949年3月、仏国と休戦協定を結びやがて独立した!
(5)カンボジアは1947年5月6日、憲法を制定し独立を達成した!
(6)ラオスは1953年仏国連合内で自治権を確立した!
(7)マラヤ(マレーシア)1957年8月、英連邦内で独立国となった!
(8)パキスタンは1947年8月14日インドと分離し、1956年共和国として独立した!
(9)インドは1947年8月15日独立が実現した!
(10)ビルマ(ミャンマー)は1948年1月4日独立し、英連邦に加わらなかった!
 アウンサン将軍は、日本の敗戦前に日本軍に銃口を向けた。なぜダ。それは独立を認めなかったからだ。
 以上の国と地域が自主権を取り戻したのは日本のおかげだァーと叫ぶ。ところが、二つの地域については絶対触れない。一つは朝鮮半島。もう一つは中国。どのように強弁しようとも中国は独立国であった。 当時の日本がこれらの地域に覇権を求めずよき隣人として友好関係を早期に構築していなら、現在の朝鮮人民民主主義共和国や中華人民民主主義共和国などの悪しき隣人は存在しなかったと筆者は考える。 それもこれも、野望を持った先に今日の混迷が存在する。

 このことは、あの未曾有の国土荒廃の責任追及と、東南アジアの民衆が置かれていた現状に眼をつぶってきたからにほかならない。
 国内でも、地上戦に巻き込まれた沖縄。集団自決や住民虐殺の痛みから立ち直れない多くの県民が存在する。 被爆の苦しみにもがく人々が現に存在する。 米国の非人道的殺戮だとわめいても始まらない。  そのような結果を招来した、政治・軍事・教育にたずさわった者たちの責任追及こそ必要であった。 それは死者に鞭打つことになるかも知れないが、 理不尽に全てを奪い尽くされた人々の痛みの前には些細な問題である。

 【下関市桜山招魂場 吉田松陰を除き石塔は同一高】
 過去の日本国内に目を転じても、西欧列強の蚕食から早急に統一国家を建設しなれればならなかった幕末。 幕藩体制堅持の旗頭として最後まで統一国家建設に反旗を飜した会津藩。現在に至るまで磐越西線会津若松駅頭で 山口県からと話した途端、口を聞いてもらえない。山口県側商工会議所レベルでの友好提携も会津側の峻絶で頓挫する。
会津若松城攻防戦。長州より果敢に戦った薩摩藩。 これは、西南戦争で政府軍警視庁抜刀隊として薩摩人を切りまくったから相殺し許すという。
この例で見られる図式を東南アジアと日本に置き換えれば、その怨みの深さは、長州と会津の比ではない。

靖国神社と極東軍事裁判で戦犯とされた刑死者の合祀
1978年(昭和53年)10月、秋季例大祭前日に東條英機以下、7人(他7人)のA級戦犯がひそかに合祀された。
 自国の他国(朝鮮・中国北東部)支配を棚にあげ『鬼畜米英』を叫び、さらに『一億特攻』を呼号し、 有為の若者を『強制的戦死者』に仕立て上げた者たちの御霊安かなれと祭る社に中曽根康弘に代表される国家主義復活を目指すグループがあった。 神社も彼らのグループも首相の公式参拝にこだわった。 その尻馬にのり、公式参拝をマニフェストにしたのが、狐目の総理であった。 少なくとも、筆者は、絶対死強制にまで行き着く政治体制者だった者たちと、 特攻で果てた若者と『ミソもクソ』も一緒にする靖国神社を許さない。   2007年8月15日読売新聞社説
表−2戦 争 裁 判 海 軍 関 係 (戦 犯 裁 判)
裁判国 @死刑判決死刑執行A終身判決B有期判決C無罪判決@+A+
B+C
蘭 国91907 192 14 304
豪 州 41414 108 75 228
英 国 36368 39 12 95
米 国 321639139 47 257
比 島 160 0 11 18
中 国 7 7 4 912 32
仏 国 1 1 0 00 1
極東軍事裁判00 2 0 02
合 計 224 19164488161 937
この事実を初めて目にした方へ
 オランダ(蘭国)がなぜこんなに多いいの?と思われた方、今一度往時の東南アジアの地図を探して下さい。陸海軍で公判に至った者は1,038人で死刑判決は全部で226人。陸軍が136人である。 短い戦闘期間、戦闘状況などからこれほどの死刑者を出す事由があったとは思えない。 フィリピンは少ないなァーと思われた方。  レイテ沖海戦の一環、スリガオ海峡で撃沈された西村艦隊の乗組員で生還した者10人程度。島に泳ぎ着いた者はほとんど惨殺された。  マニラ市街戦では現地人を人間の盾(マニラ海軍防衛隊が守備)とし戦ったので、よくこの程度で済んだものと筆者は思っている。海軍マ防隊の犯罪行為を陸軍の山下奉文(死刑)が取らされれている。

 上表は海軍関係軍人の戦争裁判の実態。多く勝者による敗者への一方的裁判である論拠に引用さる。  日本人は開戦の詔勅で米英と戦争したと思い込んでいるが、海軍で見られるように、海軍について、オランダが死刑を含む有期刑トップ国である。蘭領ボルネオ(ボルネオの東側)や蘭領インドシナ(現在インドネシア)などの油田地帯を植民地としていたから、 ここの資源を根こそぎ日本に取られた(本来は現地人のもの)ことで、明らかに報復を含んでいるのも事実である。 戦犯とは復讐のことと同義である。 オランダは侵略国日本を裁いたのではなく自らの植民他を簒奪されたことへの復讐だった。  オランダは日本の敗戦後たちまち主客逆転し植民地経営を行った。スカルノをリーダーとするインドネシア人は武装解除前の日本軍の兵器で武装し。独立闘争をおこなった。歴史的必然で宗主国オランダは東南アジアから駆逐された。その逆恨みであろう。 フランスによる海軍軍人の死刑は一人だが陸軍関係は154人が死刑になった。フランス軍と日本軍は一発の銃火をも交えていない。
 多くえん罪があると云われているが、この裁判さえ調査研究されていない。理由はこれらの検証を行うと確実に別件や同輩、上級者に類が及ぶからでもあろうし、公判を維持できるだけの証拠も集められない。  残念なのは、自らがこのような事案を取り上げ裁こうとしなかったことである。 自らが裁かないから、 あの日本人を標的とした人道上最悪の無差別殺人だった原爆投下さえ、訴追できない羽目に陥っているのではなかろうか。

人道に反する罪で有名なもの
1943年3月17日
「駆逐艦秋風(艦長:佐部鶴吉少佐)虐殺事件」
 ニューギニア・ウエワク沖のカイリル島(26人)、ヌマス島(約40人)からラバウルへ外国人抑留者移送中の駆逐艦秋風が、洋上で全員を一人ずつ目隠し艦尾に特設された処刑台で銃殺、死体はそのまま海上に遺棄。正午頃に始まった殺害は午後3時半まで続いたという。  現地人と白人男女(子供1人)司教・神父・修道士・修道女、中国人の子供3人などであった。 一人ずつ両手首を縛り吊し上げての銃殺と伝えられている。  その後、艦長及び先任士官は後に戦死。秋風も翌年11月3日に米潜ピンタードに撃沈され乗組員は全滅したとされている。1年と8ヶ月も乗組員の移動が無かったとも考えられない。よって臭いものには蓋をしたか?。
その他の類似事件
@ 呂110 1943年12月14日、英船 Daisy Moller を撃沈。救命ボート及び筏上の脱出した乗員のうち、
  55人を機銃掃射等で殺害。
A 伊37 1944年2月22日、英船 British Chivalry を撃沈。救命ボート及び筏上の脱出した乗員を機銃掃射。
B 伊8 1944年3月26日、蘭船 Tjisalak を撃沈。生存者98人を艦上で殺害。

C 伊26潜 1944年3月29日 米商船 Richard Hovey を撃沈し救命ボート、筏の人数不明の乗組員を銃撃。
D 伊8 1944年7月2日、米船 Jean Nicolet を撃沈した際、揚収した生存者96人を甲板に残したまま急速潜航。
  生存者はインド艦に救助された23人。
E 伊12 1944年10月30日、米船 John A. Johnson を撃沈。脱出した乗組員を機銃掃射した。
F ビハール号と巡洋艦利根事件。
 1944年3月英船ビーハル号を撃沈。生存者104人を救助。利根はその後ジャカルタに入港。その際、旗艦青葉に捕虜15人と婦人2人。インド人20人(15人)を陸上に送った。 残りの商船乗組員は司令官(左近允尚正・さこんじょうなおまさ)から責任はオレの責任とするからシンガポールに着くまでに残務整理のつもりで殺害せよいわれ、ジャカルタ出港後に、当て身をあて、昏倒させたのち、頸動脈を切断する方法で処刑。 一般的に成人は約6リットルの血液があるとされているから60数人分の血液量は膨大な量になる。屠殺場の雰囲気であろう。 実際殺害を実行した乗組員も命令とはいえ耐え難い苦役と想像する。戦争は正常な神経まで狂わせる。

これらの事件その後
呂110 と伊12 その後撃沈され全員戦死。事件発生当時の伊8艦長有泉龍之助大佐は、伊401ウルシー環礁特攻攻撃の指揮官だったが、敗戦帰投命令を受け、横須賀入港の直前に自決。
伊37艦長が八年の刑。伊26艦長が五年の刑を宣告された。上級部隊第30潜水隊司令は一年。歴代の第八潜水戦隊司令官が禁固十五年。中沢祐軍令部作戦部長が重労働十年。 これら事件の発端は1943年2月末、軍令部第12課長(防備・通商保護)金岡二郎大佐(サイパンで戦死)が当時トラック島にあった第六艦隊司令部に「撃沈した敵商船の乗組員は、これを徹底的に処分すべし」と口頭で伝えたことに端を発するという。
裁判の過程で、金岡二郎大佐の乗組員処分に関する口頭訓令があったのか、無かったのかを巡って、あったとする市岡第八潜水戦隊司令官と、無かったとする中沢佑軍令部長との対立が伝えられている。 筆者は中沢佑の特攻は大西瀧治郎が始めた。などの詭弁から市岡司令長官の肩を持ちたくなる。両論を議する根拠の持ち合わせはないが、中沢祐はその言動に信用が置けない。艦種が違えど、無抵抗な人間を冷酷無惨に殺ろすことが駆逐艦,潜水艦,巡洋艦でも発生している情況から、軍令部内によるある種の恣意を感じてしまう。両者が刃を交えたハイテンションの中での殺害でないだけに。
巡洋艦利根事件は、艦長黛治夫によると、南西方面艦隊作戦命令の別冊〔参謀長口達覚書〕で捕虜は数名を除いて処分とされていた。私は絶対反対と述べたが、当時は実際に商船を捕獲する事態になるとは思わず、深く議論せず打ち切った。と回想。 結局戦後の戦犯訴追で、当時所属していた第16戦隊司令官の左近允尚正(少将・中将)は死刑。黛艦長は懲役七年。黛の言い分だと南西艦隊司令長官(高須四郎中将)、参謀長西尾秀彦少将の責任を左近允尚正が、利根殺害実行者(一人とも思えない)の責任を黛治夫が取った。これは殺害実行時の最高責任者でまあ当然。
結局黛治夫と左近允尚正、二者間の言い分が異る。黛治夫は捕虜処分訓令を受領と、かつ左近允尚正から殺害を直接指示された。と証言。一方、左近允尚正はそのようなこと(捕虜殺害)を命令した覚えがない。と陳述。
軍隊にあって現場が勝手な行動(殺害行為)を起こすなど考えられないので一番臭いのは〔参謀長口達覚書〕が存在したとすれば、参謀長だった西尾秀彦(少将・三重)線が濃厚。ただし軍令責任は高須四郎(茨城・戦時中死亡)にある。結局確実な裏付けが無く殺害という事実だけが残った。
ここまでの出典は「世界戦争犯罪事典」(監修・秦郁彦、文藝春秋/2002年)

巡洋艦利根事件は、菊池正剛著「英商船ビハール号『捕虜虐殺事件』の真相」。(『丸』別冊三号『静かなる戦場』)などがあるが、潜水艦による捕虜殺害事件を取り上げた書籍は探すのが難しい。駆逐艦秋風事件のみを書いた書籍は皆無。
連合軍は全てにわたって人道的だったとは云わないが、捕虜は貴重な情報源とみなした米国と、捕虜は厄介者扱いした日本と大きく違った。この面でも負けるべくして負けていた。
提督の刑死者として醍醐忠重がいる。カリマンタン(蘭領ボルネオ)ポンティアナクで起きた抗日陰謀事件で1,600人もの人間が拷問や殺害された。この地域は海軍の軍政(海軍は民政と呼んだ)下で第22特別根拠地隊司令官がその責任を追及され死刑になっている。この裁判は過酷で醍醐中将以下7人が死刑になった。

えん罪で銃殺刑に
 堀内豊秋大佐事件。 海軍初代の落下傘部隊長。蘭領インド(現インドネシア)メナドに降下。同地を占領した。 戦後、BC級戦犯としてメナドの軍事法廷で「捕虜などに対し暴行、虐殺を命じた」たとして 裁判長F・W・M・ティウオンは銃殺刑を宣告した。彼は、同地の元歩兵大佐であった。 明らかに報復判決とされている。これは臭い物に蓋の逆で『落下傘部隊長堀内海軍大佐 上原光晴/著(光和堂)』 に詳しい。

戦争犯罪に類する書籍として「世界戦争犯罪事典」(監修・秦郁彦、文藝春秋/2002年)


言論の自由の大切さ
 戦前の日本には言論の自由がなかった。帝国憲法では「言論,集会,結社」の自由が保障されていたが、これはお隣の悪しき隣人も一緒だが、軍部は自らへの批判を許さなかった。この軍部を「共○党」に置き換えればそのまま悪しき隣人に成り立つ。
 国内の批判は強権で抑圧できるが、外部からの批判は国内と同じように抑圧できないので、徒に強権的言辞を弄す。すなわち「核心的利益」などと叫び好戦的態度で恫喝する。 いきおい、やることが独善的で粗野である。これは悪しき隣人の話ではない。かっての帝国陸海軍の話である。「核心的利益」を「統帥権」に置き換えればよい。
 彼らは、内外からの批判を封じ込めたことで独善的で唯我独尊となってしまった。悪しき隣人も帝国陸海軍も外国からの批判には神経質になる傾向が認められた。 よって、先進的技術の取得や知的財産権など不当な手段で取得することも臆するところがない。自由な言論を否定すれば、一切の批判を許さない態度と密接につながる。あとはそのまま国際常識から離れる方向に進む。
 戦前の帝国陸海軍は隊内の教育訓練で徹底した肉体的暴行を前提としたとしか考えられないことが教育と称して実行されていた。筆者の取材した奇跡の海から生還した方は、日常理由にならない理由で暴行を受けた。と話した。
 すなわち、日常的にこのような暴行を受け、かつ戦時国際法の存在さえ知らされていない状況で、銃火を交えた、 また占領した地域の民衆に暴行を働くことを特別な悪とは感じなかったと考える。すなわち、自分たちの日常の延長線を実行したことであったとの考えに筆者は至った。 よって、BC級戦犯とされた者の犯した(多くえん罪を含むと考えるが)責任は、かかる教育をしなかった軍部に属する人間が一身にその関を負うべきと考える。言論の自由とは本当に大切なものだと実感する。 言論の自由もなく内外の批判に耳を貸さなかったなら、国際常識から離れる方向に向かう以外に選択の余地はなかろう。

テク音痴の所以(ゆえん)
 このサイトの各所で陸海軍のテクノロジー音痴を書いたが、戦争という国を挙げての殺人行為を効率的に行おうとすれば、効率的に殺人が出来る道具を駆使することになる。 軍人が経済音痴というのは理解できるが(経済音痴ゆえに戦に負けた。すなわち独善的ゆえに民間人の知恵を借りなかった)、武器音痴は全く理解できない。 陸軍はチャンバラ主義(白兵主義・日本の戦国時代も遠戦武器が主流。刀が戦場の主役ではなかった)だったが、それを是としても、 先進諸国の軍隊が持っていた近接兵器の短機関銃(短自動銃)を装備しなかったのは国が貧乏だったからなど理由にもならない。一切の批判を許さない(言論の自由)態度が組織的思考停止状態をつくりだしたのであろう。 明らかに、世界の常識から離れていた。
 陸兵の多くは、敵の銃弾より、味方の放置・遺棄によって餓死・若しくは戦病死したので短機関銃があっても宝の持ち腐れとなったはずだ。

表−2B,C 級 戦 犯 裁 判 関 係 (軍 事 裁 判)
裁判国 起訴人数 @死刑判決 A有期刑 B無罪 Cその他@+A+
B+C
蘭 国 1,038 226 733 55 141,028
豪 州 949 153 493 267 36949
米 国 1,453 140 1,033 188 891,262
英 国 978 233 556 116 83988
比 島 169 17 114 11 27169
中 国 883 149 355 350 29883
仏 国 230 26 129 31 1187
合 計5,700 934 3,413 1,018 2795,644
 オランダ(蘭国)とは、戦争の初期チョコットしか戦闘行為を行っていない。ただし、その分捕虜生活は長かった。 それを差し引いても、これほど多くの起訴人員や死刑判決を出している。 よって、報復があったのか、無かったのか自らがエリを質す意味でも、日本人による戦争責任と犯罪について早い段階で検証すべきであった と思う。
 この当然なされるべき検証をしなかったことで、戦後60年経過した今でも、 諸外国の批判として折に触れ蒸し返される。 全く罪のない子孫に対しても失礼な話である。
 米国もしかり、B-29 戦略爆撃機による無差別都市爆撃中に撃墜され降下した搭乗員は、 虐殺されたり人体実験で殺害された者などが存在する。だか、戦術爆撃をした搭乗員は別扱いされている。  ただし、日本全体が飢えていたので給食は最悪。
 無差別爆撃という人道に反する爆撃行為は、人道に反する扱いをし、戦術爆撃(戦闘員対戦闘員による戦い)は明らかに暴行や殺害の対象からは外した。 実例として、1945年7月28日沖縄極東航空軍所属 B-24 爆撃機が撃墜されて、山口県岩国市伊陸(いかち)に墜落した。 この爆撃は、呉軍港にたいする戦術爆撃であった。9人の搭乗員の一人は未開傘で墜死。残り6人は広島で被爆死。 残る2人は虐殺されていない。 当然戦略爆撃機搭乗員で投降者の殺害に関与した日本人は死刑若しくは有期刑が宣告された。  問題は、この人道に反する無差別爆撃命令を実行し、またそれを指揮した人間に対する裁判は実行されていない。 勝てば官軍であったことも事実。
この面で明らかに勝者による敗者への一方的裁判であった。  ただし、この空からの大虐殺を指揮した米将軍に 日本国家最高の勲章を授与しているのだから、彼の行為を免罪する扱いをしている。 常識的に授与すべきではなかった。

太平洋戦争取材班
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