海軍の無能と無責任さが太平洋戦争に突入させ そして完敗した日本
*1 海軍軍令部総長永野修身はどの位置?

海軍としてのグランド・ストラテジー(Grand・Strategy,大きな戦略) 策定は、軍令部の仕事である。

海軍軍人の戦争責任
−敗戦の責任−
 かたちはどうあれ、敗けた以上責任は誰かに絶対ある。彼らはその責任を取らなかったし、東京裁判も陸軍軍人をやり玉に挙げることに終始した。 A級戦犯の訴追は「戦争の計画、準備、開始、及び遂行」を問うことであり、当然昭和天皇の戦争責任も問わざるを得なくなった。 この課程で、陸軍にその責任を押しつけ、天皇の戦争責任をかばうため、米内光政(敗戦時海軍大臣)らが工作に動いた。   結局悪玉陸軍。善玉海軍の虚像が醸成され今日に及んでいる。
 この善玉海軍説は政治家中曽根康弘氏、文筆家阿川弘之氏、ジャーナリストだった半藤一利氏らも一役買っていると筆者はみる。 靖国神社公式参拝を首相として最初に行ったのも中曽根康弘氏。 「国を愛することがなぜ悪い」と開き直っている。 誰も「国を愛することが悪い」と言ってはいない。ミソクソ一緒の靖国神社の姿勢を批判しているのだ。  肉親が祭神にもなっていない小林某が昨今煽りまくっている。 尻馬に乗せられた遺族会の保守政治家古賀某。 それに魂を売ったキツネ目の元首相。
 昭和16年(1941) 9月5日 及川古志郎 第2次近衛内閣の海軍大臣に就任。日米開戦の舵取りを行う。航空特攻開始時の軍令部総長。 二重、三重の意味でA級戦犯になりえた。 及川、永野コンビが日本を破滅させた。
 9.11米国貿易センタービルテロ。外電はパールハーバーの再来。特攻の再来。と引き合いに出した。どちらも及川が深く関わった。 日本の恥の部分に陸軍は一切出てこない。

陸軍の海軍批判書
「帝国海軍が日本を破滅させた」 佐藤晃:著。 痛烈で読み物としては面白い。ただし、 色々な数字の資料性は薄い。出典も示されていない。
佐藤氏に対する反論は海軍出身左近允尚敏(さこんじょう なおとし)氏。 ここでも陸海責任のぬすくり合い。 この手に引き込まれると問題の本質を見誤る。 問題は原点にたち帰って論じていない。 著書「敗戦 : 一九四五年春と夏」など

米国の対日禁輸によって開戦を決意したとされる太平洋戦争が「自存自衛」、 民族生存のための戦いであるのなら、東南アジアの植民地(タイを除く)からの資源輸送はまさに日本の生命線であったはずである。
あの長大な輸送路確保が戦いの帰趨を制するであろうことは誰の目にも明らかだが、 無能海軍は堂々巨砲を振りかざすことで戦いに勝つと自己満足陶酔感に酔っていた。  護衛の仕事を「腐れ士官の捨て所」と蔑んでさえいた。
そして多くの国民は、勇ましい軍艦マーチで始まるニュースを空腹と空襲の恐怖に震えつつ、 いつか神風が吹くと信じていたが、国家総力戦だった戦いにあって神風など吹くはずもなかった。
南方資源地帯確保後の還送(護衛)を全く本気対応した節がない。 彼こそ、日本農耕民族型村社会人間の典型であろう。 日本の村社会は完結型社会であり、資源地帯の村を抑えれば良しとし、 持って帰るには輸送船の護衛が必要なことなど念頭になかったのであろう。  つまるところ、日本の運命を決めるその時にダメ人間がトップであった不幸が日本に存在した。  永野修身は土佐っぽらしくない人物の筆頭か?。 A級戦犯に指定されたが収監中に死去。 戦犯尋問で潜水艦の事を聞かれると『潜水艦のことはよく知らない』と答え周囲を唖然とさせたという。
年/項目船舶喪失見積り喪失実績
1941−−5.6
194280 95.3
194360 179.3
194470 383.6
1945−−226.0
単位
万トン
戦時船舶喪失実態
 開戦時保有建造船舶戦時喪失船舶敗戦時運行可能船舶
隻数4,225 3,129588.0
万総トン 1,02188379.0
米潜水艦によって1,113隻撃沈された。
 上図左が御前会議に提出した海軍による船舶損失見積りトン数である。倒産が続発した第三セクター娯楽施設の見込み 入場者数の比ではない。見通しの甘さに言葉を失う。船舶喪失見積もりも科学的検証せず、 エイ・ヤーと作り上げた数字だという。
 なぜ、戦争2年目(昭和18年)の損害が少ないのか?と質問された軍令部第一部長の福留 繁(兵40期)は戦争していると段々護衛作戦が上手になるから損害は減る!とうそぶいた。
 同じく軍令部に配属されていた山本親雄(ちかお・兵46期)は自著「大本営海軍部」頁206 で「南方占領地の物資を入手する見込み(輸送船撃沈で)がない、という開戦前に海軍が心配していたことが、 現実の暗雲となってわが国におおいかぶさってきたのである」と人ごとのように書いている。 例えば、河川決壊のおそれがある堰堤があったとしよう。当然のこの堰堤を強化補強する。 資源還送の海上輸送に自信がなければ米英を敵にまわさない方法を選択するか、また弱点が分かっていたなら対応・対策を講じるのが彼らエリートとされた人間の職掌でもあろう。少なくとも残されている資料から海上輸送に万全を期した証拠は全くない。
 レーダーを闇夜にカンテラ。こちらが発見される。ソーナー開発を「なニー、こちらから音を出すだトー」却下。 と開発を封じ込めておきながら白々しい逃げ口上を吐いている。この書は随所に虚偽と欺瞞に満ちている。
  船舶喪失の実態   輸送船船員の死亡

 この船舶喪失見積もりに関与したとされる人物は、 海軍省軍務局第二課長石川信吾,軍務局第一課長高田利種,軍務局第二課員藤井 茂,軍令部第一課長(作戦)富岡定俊, 第一課員神 重徳らであった。
 このメンバーが第一委員会なるものを主導し日米開戦へと雪崩れ込ませた。非科学的データーを捏造しながら・・・・
神 重徳は大和沖縄特攻の起案者とされている。  戦争を始める前も無責任だったが最後も勝ち目のない戦いを展開した。 富岡定俊を除いて出身は長州と薩摩。明治維新で主導的役割を果たした両地域が60年後に日本を滅ぼした。
日本の運命を決定付けた昭和16年(1941) 9月6日10:00〜 宮中東一の間 御前会議
この日、日米開戦か否かの運命を決定付けた会議出席者。
内閣:首班 近衛文麿,陸相 東條英機,海相 及川古志郎,外相 豊田貞次郎,内相 田辺治通,蔵相 小倉正恒_
企画院総裁 鈴木貞一,内閣書記官長 富田健次
陸軍省軍務局長 武藤彰,海軍省軍務局長 岡敬純
統帥部:陸軍 参謀総長 杉山元,参謀次長 塚田攻
     :海軍 軍令部総長 永野修身,軍令部次長 伊藤整一
枢密院議長 原嘉道  以上15人。
A級戦犯訴追者 終戦時自決者
開戦直前の御前会議(1941/9/6)で海軍、永野修身軍令部長は「海上輸送は日本の生命線でありますので、 その保護には力を尽くすが損害もある程度あるでしょう。」 更に、昭和天皇に対し、11月8日真珠湾攻撃を含めた御前兵棋演習の趣旨説明が行われたが、 その中で長期持久戦となった場合でも「海上交通線の保護は可能」と上奏している。 更に空々しくも『もし敵が潜水艦多数を建造しても潜水艦根拠地が著しく遠距離となる関係で建造潜水艦の四分の一程度も作戦海域に派遣できなと思いますから交通線の保護は可能です。』  そして、『またドイツと緊密に連絡し有効な通商破壊戦を実施致します。』と続けている。  * これほどの嘘八百を陳べられたものと呆れ果てる。  これに昭和天皇も欺されたのだからお目出度い限りでもある。すでに彼らは、どのような言葉を並べたら天皇が了解するか落としどころの壺を心得ていた。
その海軍は商船隊を守る戦力と力量と最悪なのは、そのつもりが全く無かったことだ。海防艦四隻でどのように保護を目論んだのか?。
ImperialFleetは駆逐艦での対潜攻撃研究と訓練さえしていなかった。明けても暮れても魚雷による艦隊決戦訓練を行った。 米国との戦争を無計画的に歩みはじめるこの御前会議や兵棋演習で、一歩進めて東南アジアから日本までの輸送線防衛、及び商船隊など、 また海軍が保有している海防艦等の具体的数字をなぜ詰めなかったのであろうか。  補弼者の経営感覚のなさに呆れてものが言えない。
天皇に責任はあったのか
明治憲法をそのまま読むと軍の統帥権は天皇に属していた。しかし、天皇が奏上等の内容に容喙することはなかった。意見は言ったかも知れないが、天皇の意見が戦略的、戦術的に反映された痕跡は探せない。 納得できなかったとしても、反論できる。反駁できる資料が渡されていたとは思えない。自軍の損害はある程度正確に伝えられたかも知れないが、戦略・戦術的な自軍の全容は伝えられなかったことだろう。 装備品などの情報があげられたとは思えない。
日本海軍に護衛専門の艦艇は開戦時一隻もなかった。北洋漁業の保護のために四隻の海防艦を持っていたのみであった。
五隻目の海防艦が竣工したのが1943年(昭和18)三月末という呑気さであった。船舶の損失が見込みの戦前予想の四倍となりあわててその組織作りが始まった。 昭和18年9月(1843)の大本営政府連絡会議で海軍護衛司令部を発足させ、シーレーン確保に乗り出し、 商船改造の護衛空母4隻(雲鷹、海鷹、大鷹、神鷹)と931空佐伯:48機)が配備・新設されたが、 商船船団との連携運用がうまくいかず、空母4隻のうち3隻は初出撃で米国潜水艦の雷撃を受け沈没。一方海防艦の建造も急がれたが、 最高速度が17ノット程度であり、浮上航走する米潜水艦(20Kt程度)に逃げ切られてしまった。 ところが、肝心の索敵兵器である水中探信儀(聴音機も)は規格の合わない真空管や部品を組合せたものであり、性能は著しく悪かった。 よって索敵は人間の目と勘が主力索敵兵器だった。 帝国海軍は戦争を日本海海戦以来天気晴朗昼間しか行わない想定なのでレーダーは必要なかった。対する米国は全天候24時間戦える兵器を開発し戦った。
1944年(昭和19年)後半になって、この小型艦艇には2号2型(海上見張用)が搭載されだした。
軍需物資を含む多くの資源を海外に依存しなければ成り立たない国家にあって、その生命線ともいえる船舶による海上交通路確保を考えなかった海軍が戦争に勝てる訳がない。 という至極明瞭なことを考えない軍隊も世界の軍隊史に例をみないのではなかろうか。
2010年4月旧海軍OB親睦団体水交会より「帝国海軍 提督たちの遺稿 小柳資料」が発刊された。日本の運命を決めた昭和16年9月6日の御前会議。 及川古志郎(海兵31期・岩手県)海軍大臣は日米開戦是非について首相に一任し結果的に開戦に同意した。小柳資料で井上成美(Inoue・Shigeyoshi,海兵37期・宮城県)が及川に陸海軍相争うも、全陸海軍を失うよりも可なり。 なぜ男らしく処置せざりしや。如何にも残念なり。と面罵している。
結果からみると太平洋戦争は横綱と序の口の戦いとなった。すなわち帝国海軍は米国と戦う力はなかった。最後には人間を単なる物体として敵艦に体当たりまでさせた。 及川は誰の目にも敗戦が確実視される段階で軍令部総長として航空特攻を承認した。二重・三重にも及川古志郎には戦争責任がある。海軍善玉論などあり得ない。 小柳資料とは小柳冨次資料である。レイテ沖海戦栗田艦隊の参謀長。
1944年後半の情勢
  6月19日 マリアナ海戦(海軍空母の大半を失う。米VT信管付き砲弾本格的戦場投入)
  7月 7日 サイパン島の日本軍全滅。非戦闘員多数自決。
  7月21日 米軍グアム島上陸。8月10日日本軍全滅。
  7月24日 米軍テニアン島上陸開始8月3日日本軍全滅。
  8月10日 米軍、サイパン・テニアンB-29基地の使用開始。
  9月15日 米軍、パラオ群島ペリリュー島上陸。やがて日本軍全滅。
上記島嶼戦没者   厚生省援護局資料
島 名陸軍戦没海軍戦没合 計
サイパン 28,418  15,164  43,582
グアム  13,244   7,405  20,649
テニアン  3,645   6,317   9,962
ペリリュー  6,632  3,390 10,022
合 計 51,939  32,276 84,215
左記は全て「玉砕」と呼ばれた。 単なる全員戦死なら、 補給などの意を払わなかった作戦立案者にその責が及ぶ。 そうではなく、彼らが進んで護国の鬼となったと称揚賛美し自らの責任を回避した。
天皇の軍隊は精神的狂信主義者が権力を握り跋扈していたと断ぜざるを得ない。 実態は、兵員を放置し降伏を拒否させた先の多くは斃死であった。

 実際に戦争が開始されると、一番頑張ったのが予科練出身の下士官だった。 そして、資源還送の現場では 海軍のエリートらでなく、予備士官であった。 戦争終盤に入ると予備学生を航空特攻の矢面に立たせた。  振り返って一番卑怯で卑劣な人間は海軍兵学校出身者だったと断言できる。 ところがいつも勇ましく軍艦マーチで 繰り返された放送は「海軍勝った!」「海軍勝った!」だった。 戦いに敗れるや、海軍は頑張ったが、陸軍が腰抜けだった。と世論はなってしまった。  航空機にみる先見性のない陸軍の責任も大だが、連戦連敗の海軍の責任は更に大きい。
 敗戦海軍の責任大との庶民の率直な反応に、確かに負けたがあれは「レーダー」のせいだ。人ごとのようにつぶやいた。
 誠に不思議なのは、あの広大な太平洋を行ったり来たり。一仕事した振りして一目散に日本に帰還している。  戦争しているのではなく社員の出張に似ていた。 本社(日本)から出張現場へ。仕事した振りして本社に帰還。 立派な出張報告書(戦闘詳報) を提出してチョン。 本社の重役は見るだけ見て倉庫で埃をかぶっている。 内容を精査し、次の出張に活かす手だてを自ら放棄さえしている。  不思議海軍愚輩の結論。 戦記もののWebサイトは沢山あるが、海軍礼讃お涙頂戴ばかり。

昭和19年(1944)
  10月10日 米機動部隊、沖縄を攻撃。
  10月20日 米軍、フィリピン中部のレイテ島上陸。
  10月24日 レイテ沖海戦。突入作戦謎の反転でパァー。連合艦隊主力喪失。
帝国海軍は三次元で戦われる戦闘において戦場のビジュアル化を行わなかった。 レーダーのPPIスコープが開発される以前のAスコープ(日本軍のレーダースクリーン)でも英国は戦場のビジュアル化を行った。 地図若しくは海図に敵の航空機,艦艇の動きを色分けした駒で表現し戦場の推移をリアルに表現した。すなわち敵の動きが誰の目にも一目瞭然だったのだ。 レイテ沖海戦は日本の運命を決める一大決戦であった。虎の子の戦艦武蔵,大和を含めた決戦であった。空母を囮として使う小沢艦隊,敢然として殴り込みを掛ける旧式戦艦で構成された西村艦隊,補完する志摩艦隊, 共同戦線の一翼を担う基地航空隊の第一・第二航空艦隊。レイテに殴り込む栗田艦隊。 もし、栗田艦隊の作戦室に海図を広げ、各艦隊・航空隊の動きをビジュアル化していたなら、 囮となった小沢艦隊から米機動部隊を引きつけたという無電が届かなくても全体状況は把握できたであろう。栗田艦隊ナゾの反転は海軍の知恵のなさの反転であった。 戦後各方面から色々と取りざたされた海戦ではあったが海軍士官の"おつむ"の程度が誰の目にも歴然と判明した海戦でもあった。鉱物資源もなかったが、彼らの頭の資源も全く枯渇していた。
 海軍ではどうしていたのか? 淵田美津雄の話である。作戦室に海図を広げ、壁の黒板に、入電した情報等を箇条書きに書いた。また、残念なことに敵信や友軍の電信など総合的に判断する情報士官を持たなかった。 この役務は通信参謀の片手間役務であった。
  10月25日 航空特攻作戦成功。不条理な死を若者(下士官・予備学生)に強いる。乗機故障で帰還すると
         死ぬまで出撃を繰り返した。海軍は特攻指名の生還を基本的に許さなかった。
  11月24日 マリアナ基地のB-29東京を初空襲。
  11月29日 新造の巨大空母「信濃」米潜の雷撃で沈没。護衛?の駆逐艦は撃沈され
         た乗員の救助担当でしかなかった。
         沈没まで7時間あったのに1,600余人死亡した。
         12月の段階で内地残存重油は67,474トン(1,2号,缶用重油合計)しか無かった。
昭和20年(1945) に入ると
  1月上旬米軍ルソン島上陸。2月早々マニラ入城。
  1月18日 最高戦争指導会議。(大本営政府連絡会議を改称) 全軍特攻化を決定。
  2月19日 硫黄島上陸。
  3月10日 B-29東京大空襲。死者10万人。
  3月27日 米機により関門海峡機雷封鎖される。   4月1日 米軍沖縄本島上陸。
  4月5日 小磯内閣総辞職。
  4月7日 鈴木貫太郎内閣組閣。大和沈没。

 それでも、開戦当初、海のことは海軍にまかせろ!。と豪語していた。 極東軍事裁判でもA級戦犯で死刑になった海軍軍人は一人もいない。 海軍大臣米内光政は極東軍事裁判に被告ではなく、堂々と証人として法廷に出廷した。 開戦時の永野修身軍令部総長もA級戦犯だったが、外国のメディアに堂々英語証言の録音が残っている。 嶋田繁太郎ほか、元海軍大臣及川古志郎大将、軍令部総長豊田副武大将, 連合艦隊司令長官小沢治三郎,海軍航空特攻の推進者軍令部の源田 実大佐など、 敗戦後も生き残る。自決したり、処刑されたりした陸軍高官とは全く異なる彼らの生涯であった。
 敗けた戦争の全責任を引き受け、大元帥天皇に命懸けで謝罪するのが真の帝国軍人であろう。 当時のわが国の組織図もそのようになっている。 だが彼らは天皇にも国民にも一切謝罪することはなかった。源田 実はその後参議院議員となったが、 特攻のことを聞かれると憮然とし、一切語らなかった。また、彼源田は、 海軍には筋の通った論議は尊重される言論の自由があったと雑誌で語った。 (別冊週間読売 秘録栄光の翼S50/1/10発行)よくもまァーぬけぬけと。 国民を愚弄し小馬鹿にしている。
源田実は
マリアナ海戦後、基地航空部隊732航空隊(司令:三代辰吉)の戦闘詳報で、防弾構造航空機の製造と、 電探装備の充実を求める血の出るような請願に急遽関係者の会合がもたれがその席上源田は、 がたがた云うな大和魂で腕をみがけと発言を封じ、更に「1機でも多く飛行機を造ろう」と続けた。  そうだ、これと同じ意味合いのことを山本五十六はミッドウェイ海戦で正規空母4隻喪失した後の反省会でしゃべったぞ。 艦政本部が空母の脆弱性に再検討を加えるべきと発言したとき、山本五十六は、脆弱改善の用なし、それより「1隻でも多く空母を造ろう」と発言を封じた。
このように、全く筋が通っていないのが海軍であった。
では、1944年中盤以降、海軍は自己現状認識が出来なかったのか?。 いやキチント認識していた。陸軍沖縄第32軍への攻撃要望の意見具申で、
  @現有基地航空勢力は米軍に対抗出来ない。
  A航空機の性能は懸絶。
  B日中の正攻法による航空攻撃能力を海軍は喪失した。
  C夜間攻撃もまた現有機僅少で不可能。
  D沖縄島に対する現状海軍力での補給は不可能。
すなわち、海軍はどうにもなりませんので、貴軍(第32軍)が最大限頑張れば 「天一号作戦」は完遂される。と誠に手前勝手な具申を行っている。
前年(1944年)10月下旬から、人間を消耗品とした航空特攻が展開されている状況を為政者は 重々承知していたはずであり、国民を使い捨てにすることを止めるのが政治家だと思うが、 政治不在で軍部の独走を許した。小磯内閣全員は極東軍事裁判基準だといずれも B級、C級戦争犯罪人に相当するだろう。
(出典:戦史叢書 沖縄方面海軍作戦 P362〜363)
注)左の画像は長州藩士吉田松陰が処刑直前(安政6年(1859)10月27日)に書いたと云われる遺書「留魂録」の冒頭の辞世である。 ここで使われた「大和魂」は後進たちに日本人であることに目覚めよ!の意である。源田のいう「大和魂で腕をみがけ」は全くの誤用で、このような誤用を松陰が知ったならなんと言うだろうか?。
− 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちるとも留置かまし大和魂 −

レイテ沖海戦艦隊構成
第二艦隊(第一遊撃部隊)指揮官 中将 栗田健男 参謀長 小柳冨次   印亡失艦
第一部隊第一戦隊司令官
宇垣 纏
戦艦「大和(艦長森下信衛)」「武蔵(艦長猪口敏平)」「長門(兄部勇次)」
第四戦隊第二艦隊直卒 重巡「愛宕「高雄」「鳥海」「摩耶」
第五戦隊司令官 橋本信太郎 重巡「妙高」「羽黒」
第二水雷戦隊
司令官 早川幹夫
軽巡「能代」第二、第三十一、第三十二駆逐隊(九隻)「早霜「秋霜」「岸波」「沖波」「朝霜」「長波」「藤波「浜波」「島風」
第二部隊
(夜戦部隊)
第三戦隊司令官
鈴木義尾
戦艦「金剛(艦長 島崎利雄)」 「榛名(艦長 重永主計)」
第七戦隊司令官 白石萬隆 重巡「熊野」「鈴谷」「利根」「筑摩
第十水雷戦隊軽巡「矢矧」第十七駆逐隊、「浦風」「磯風」「浜風」「雪風」「野分」「清霜」
第三部隊
(夜戦部隊)
第二戦隊指揮官
西村祥治
戦艦「山城(艦長 篠田勝清)」「扶桑(艦長 阪 匡身)
 重巡「最上」第四駆逐隊「満潮」「朝雲」「山雲
「時雨(第27駆逐隊)」
レイテ沖海戦の戦犯第十水雷戦隊
第十水雷戦隊の指揮
司令官 木村 進 (航海学校長 1944/12/19〜1945/4/30。  海軍省水路部長 1945/5/1〜 )
軽巡矢矧(艦長 吉村眞武) 第17駆逐隊 司令 谷井 保   その他駆逐艦艦長はこちら
レイテ沖海戦の最大戦犯隊は第十水雷戦隊である。
1)25 07:01電 発矢矧 宛 GF  「敵ハ面舵ニ反転飛行機ヲ発進シツツアリ」 敵情を報告したが敵首向を315度間違えた。    敵は北西に進んでいたが北に航行中と打電。
2)矢矧と隷下第十七駆逐隊は 09:05〜09:15 の間に距離 13,000m で魚雷発射。  戦後の米側記録で1発も命中していないのに、栗田司令部にエンタープライズ級空母1隻撃沈。1隻大火災(沈没ほとんど確実)。駆逐艦3隻撃沈と報告した。 現在の我々は海軍兵学校出身者は戦闘のプロ中のプロと思い込んでいる。  天気は晴朗(視認20Km)。距離たかだか13Km。 1万トンにも満たない護衛空母を正規空母と誤認したうえ、架空の誇大戦果を報告した。 この報告は悪意がなくても重大である。  なにしろこの海域に正規空母の存在を報告したのだから・・・・。
この後栗田艦隊は『集まれ』を令し北方へ首向しレイテに突入することはなかつた。
戦闘詳報 海軍捷号作戦附図第七
[出典 戦闘詳報 海軍捷号作戦附図第七]
  このような、話にならない部下を押しつけられた栗田・小柳コンビも可哀想である。 正規空母が栗田艦隊の直近に居る。しかもそれを撃沈したという報告である。 当然、残っている空母から大反撃を受けると想定してもおかしくない。 戦後栗田はレイテ沖謎の反転について一言も喋らなかつたが、喋るとこのような不甲斐ない部下に言及せざるを得ない。
すなわち栗田も同じ釜の飯を食つた兵学校出身者を沈黙の内に擁護したのだ。
戦場に錯誤と誤認は付きものだが、第十七駆逐隊の誇大報告は悪質である。魚雷発射後取舵(左)で本隊合流を行つたが、面舵(右)転舵としたら、 航空特攻敷島隊(指揮官関行男)に撃沈された護衛空母セント・ローより先に撃沈(11:15)できたかも知れない。 なお魚雷発射は左舷方向である。右転舵は魚雷発射方向から 遠ざかることを意味する。 直進し敵空母に肉薄する気構えさえない。 おい、相手は大きいぞ。それー逃げろ! このように思える。
08:50 十水戦と米護衛空母群の中に割って入った米駆逐艦ジョンストンは満身創痍であつた。 だが、追撃中の十水戦はこの駆逐艦が魚雷を発射するとして退避行動を行つている。 たつた1隻の駆逐艦に怯えて逃げてしまつた。本来なら橙色(だいだいいろ)実線のように猛進すればすぐ追いつけたはずである。
魚雷の早発問題
昭和17年(1942)6〜7月にかけてインド洋で交通破壊戦に参加した伊16潜や伊18潜は、 魚雷の自爆に苦しみ、報告の中で「発射成績は極めて不良、現有魚雷にては襲撃の効果なし」と指摘した。 また、九一式改二航空魚雷も早発報告がなされ、仮称二式爆発尖(惰性体式爆発尖)も艦製本部主導で試作改良が試みられたが、早発自爆は遂に敗戦まで改善されなかつた。

同航魚雷発射の次の行動は、発射反対舷転舵が基本である。理由は、次の魚雷装填の時間が必要。 ただし、これは敵との間合いのない場合である。 今回は17駆逐隊で敵最接近でも距離10Kmだつた。 当時使用していた九三式酸素魚雷は93式3型(雷速48Kt)で最大射程15Kmである。  必殺射撃圏内は射距離5Km以下。 それ以上だと命中は偶然である。  * 戦史叢書も雷速48Ktとしている。
戦果の誇大報告は自己保有兵器の優秀さの盲信に尽きる。コロンバンガラ夜戦においても戦果誤報告がなされている。 十水戦の今回の戦果について、戦史叢書著者もわざわざ注を入れて、 敵進路からしてあまりにも遠距離での発射としている。 敵はほぼ同航であり雷速48Ktで発射されているから、敵艦速を18Ktみなしていることになる。
魚雷爆発尖
『種々ノ意見アリシモ結局魚雷ノ速力増加ニ伴イ主機械ノ震動モ大トナリ震動ノタメ慣性爆発尖の慣性ヲ解キ自爆(早発)セルモノト推定ス』 『従来ノ爆発感度ヲ13度ヲ20度以上ニ調整シ敏ヨリ鈍ニ修正之レガ防止ニ努メタリ』
1942年6〜7月に第八潜水艦隊の魚雷48本発射実験の成績は、正常爆発12、早発19、大偏斜9、跳出し6、 大偏斜跳出し2であつた。たつたの25%しか正常作動しなかつた。
ところが、この実験の結果について現場にフィードバックされることはなかった。  その実、水上艦艇での魚雷戦そのものが、戦争中盤以降起こりえなかつた。 すなわち欠陥魚雷を後生大事にし戦つたことになる。
  魚雷制御異常爆発尖異常
発射数正常大偏斜跳 出大偏斜跳出早 発
48129 6 219
25.0%18.8%12.5%4.2%39.6%
爆発尖の改善について、呉鎮守府より改善設計書が光海軍工廠(呉工廠魚雷実験部)にまわされ、その仕様に基づき製作されたが、 初期の性能を発揮することなく舞戻されてきた記録がある。
制御部の問題が17本 35.4% もある。海軍の組織の中に戦果と同様、評価する部局が なかったのであろう。 魚雷の長射程は有利だつのたか?
矢矧魚雷発射時刻 09:05
敵との距離 13,000m
雷速 48Kt(55.56km/Hr)
敵速 18Kt(33.34km/Hr)
速度差 30Kt(55.56km/Hr)
爆発命中視認時刻 09:19
到達所要時間 14分(840秒)
計算 [距離 13,000m]÷[雷速 15.43秒]=到達時間 842秒(14分)
矢矧の最大戦速は35Kt(64.82Km/Hr)であるから敵速18Kt(33.34km/Hr)と読んでいるので、 たちまち追いつけたはずである。 やはり、臆病風に吹かれて、子供のチャンバラで 小さい声でヤぁー、ヤぁーと腕を伸ばした突き合いであった。 自ら犠牲艦となった敵駆逐艦ジョンストン艦長の爪の垢を煎じて飲ませたい程だ。
更に、敵速18Ktと読みながら、なぜ正規空母とみなしたのだろうか?? これも摩訶不思議。
もし栗田艦隊がレイテに殺到していたら。と戦後多く語られている。  しかし Imperial Navy は輸送船の攻撃を心よしとしなかったし、搭載している戦艦の砲弾は徹甲弾。  重装甲の戦闘艦用砲弾である。 輸送船などは、恐らく多く貫通して、遠くに巨大な水柱を林立させるだけだったと思える。  戦勢の挽回もまたならなかったであろう。 南方からの還送路は寸断され、航空戦力維持及び増強の手当を欠いていた。
米海軍はこの海戦でも闘志丸出しだった。 駆逐艦ジョンストンは、矢矧と味方空母の間に割って入ったが、この行動を魚雷発射と勘違いし 矢矧は右転舵し、敵艦から遠ざかってしまった。 ジョンストンは既に砲撃を受け片舷機損傷。大砲の大部が使用不能だった。

第三艦隊(第一機動部隊)司令長官 中将 小沢治三郎
第一航空戦隊(不参加)空母「天城」「雲龍」 601航空隊
第三航空戦隊空母「瑞鶴」「瑞鳳」「千歳」「千代田」 653航空隊
第四航空戦隊(隼鷹、龍鳳不参加)航空戦艦「伊勢」「日向」空母「隼鷹」「龍鳳」 634航空隊
 軽巡「大淀」「多摩
第十一水雷戦隊軽巡「五十鈴」第四十三、第四十一、第六十一駆逐隊(十隻)「桑」「槇」「杉」「桐」「初月」「秋月」「若月」「霜月」
印は沈没艦

第五艦隊(第二遊撃部隊)司令長官 中将 志摩清英
第二十一戦隊重巡「那智」「足柄」
第一水雷戦隊軽巡「阿武隈」第七、第十八、第二十一駆逐隊「曙」「潮」「不知火」「霞」「若葉」「初霜」「初春」
印は沈没艦
 志摩艦隊は第三部隊(西村隊)のあとスリガオ海峡に突入した。10月25日03:00海峡は猛烈なスコールに見舞われ 有効な航海用電探を装備していない艦隊は米側の雷・砲撃に翻弄された。こちらから全く視認できない状態で 一水戦旗艦阿武隈は雷撃され戦列を離れた。 索敵電探の性能も悪く、島か艦艇かの区別も付かず盲撃ちで 魚雷を発射している。 この後、満身創痍の最上(西村隊)と志摩隊那智の接触事故さえ起こしている。  緊迫した戦場で錯誤と誤認は付きものだが、航海科が航海用電探を運用装備さえしておれば、 かかる事故は防ぎ得たはずだ。 戦史を読んでいても情けなくなる。  このように、完全に電子戦に遅れを取っていた。 海軍が開発したレーダーに航海専用レーダーは無かった。
 陸上見張用1号1〜4型。 艦艇見張用2号1〜2型。水上射撃用2号3型試作段階生産中止。  陸上設置対空射撃用4号1〜3型、欺瞞アルミ片に妨害され実用性を失った。
またこの海戦で随所に通信機の不具合で通信連絡に情けない程、齟齬を来している。
戦闘詳報から魚雷は93式3型(雷速48Kt・距離15km)が使われている。 長射程93式1型(雷速50Kt・20km)が実戦で無意味を悟り、短射程魚雷に改善し、その分炸薬量を増量した。
第六艦隊(先遣部隊)司令長官 中将 三輪茂義
 潜水艦 五十隻
第一航空艦隊 司令長官 中将 大西瀧治郎
 飛行機 公称150機
第二航空艦隊 司令長官 中将 福留 繁
 飛行機 公称450機

太平洋戦争取材班
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