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2004年(平成16年)12月29日作家吉村昭氏が讀賣新聞のコラムで真珠湾攻撃に向かう艦隊が
択捉島単冠湾(ヒトカップ)に結集した様を望見した方を紹介していた。
当時単冠湾ぞいの天寧という村落の尋常小学校生だった菊池順子と、順子さんの叔父で小学校校長だった
菊池義夫氏の目撃談である。その氏のメモは、 「ソノ日(機動部隊の単冠湾集結日)午前中ノ授業ヲ行ッテイルト、沖合ノ方カラ、ワーンワーント言ウ不思議ナ 音ガ聞エテキマシタ。」 あの民族的大悲劇開始直前だと知ることもなく、異様な雰囲気と艦隊が結集し去っていた情況を見ていた人がいたのである。 |
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昭和20年(1945) 17駆逐隊(雪風・磯風・浜風)戦時日誌。 03/28 11:20 発2F長官(1YB指揮官) 宛各艦(信号) ・・・・・ 『本日当艦隊宇部沖仮泊ノ予定錨地左ノ通リ 大和佐波島ノ107度4浬内円占位。艦ハ輪形陣ノ侭一斉投錨外円占位艦ハ軸方位 180度トシ霞ロ0,榧ロ01,初霜ロ9,槇ロ27,朝霜ロ04「S」ヲ3Kmトス』 すなわち、17駆逐隊は宇部沖に仮泊し、大和以下の艦艇は防府市中浦(Nakanoura)前にある佐波島を基点として、方位107度。輪形陣で艦首方向は真南として停泊する信号を発した。 |
![]() | ![]() 戦艦大和以下水上特攻艦隊が停泊していた海域を見望できる位置防府市江泊山に建立されている特攻艦隊留魂碑 |
| 特 | 攻艦隊留魂碑に並記されている 母なる海の記 |
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| 昭和20年(1945年)3月末、燃料枯渇でたった10隻程度しか動かすことが出来なかった沖縄水上特攻艦隊が結集した、山口県三田尻沖を眼下に見下ろす江泊山に、「特攻艦隊留魂碑」が建立されている。 銅板の碑文に『大廈(たいか・大きな家のこと)の傾復は一木(いちぼく・一本の柱のこと)を以て支うる能わず』と記す。 文字通り、傾いた国体を彼らの決死の献身で以てしても立て直すことは出来なかった。 現在の繁栄もこのような過去があったことを長く記憶に留める必要があろう。 |
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◆1945年3月28日 ・電令作第590号 発:GF(19:39) 宛:第一遊撃部隊 「佐世保回航延期、第一遊撃部隊ハ周防灘ニ待機セヨ」 これによって大和は、岩国市甲島(かぶとしま)海域に仮泊した。翌29日03:30仮泊地発し釣島海峡を航過三田尻沖に向かった。 |
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ならば、帝国海軍が尾羽打枯れ、わずか数隻となった虎の子艦隊が三田尻沖に結集したとき、
それらの艦隊を見た人たちが居たとしても不思議ではない。
1)目撃者調査地区 おのずと、聞き取り調査対象者は昭和5年(1931)〜昭和11年(1936)の間に生まれた者になってしまう。 年齢は9歳〜15歳。また、女性は結婚などで地区を離れており調査不能が予想された。 当該地区の調査は'07年5月16日から開始し同月中に終了した。調査結果は事前の予想どおりで、 当該地区の女性は聞き取りすら無意味であった。 |
![]() 【防府市大平山から望む佐波島。航空自衛隊南基地が旧海軍防府通信学校。】 |
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2)歴史のその時を見ていた人たち (全て'07/05月調査) (1)徳山市(周南市)粭島地区。停泊中の戦艦大和撮影直近の場所。 現在160世帯 人口390人 調査結果 同島での大和目撃者は探せ出せなかった。 調査日 2007月5月16日 徳山市粭島 調査該当者は4人。 |
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► 日本精蝋の貯油タンクが爆撃され 貯油海上流出炎上記憶者多数。これは、
1945年(昭和20年)5月10日頃のことか。同じく艦載機の機銃掃射の記憶者数名生存。 @ 石丸時丸(85歳、当時23歳)さん防府通信隊基地にて三田尻沖大和目撃。上官を含め多数が目撃した。 下図@のラインが基地から見えた戦艦大和。 A Aさん 73才。全く戦争に関する大きな記憶なし。記憶していてもよさそうな年齢だが。 B Bさん 兵士として外地。 C Cさん 70才。 日本精蝋のタンクが爆撃され漏洩油脂が海上流出炎上。艦載機による機銃掃射を目撃。 たらいを頭に逃げ回った。 D Dさん 85才 鹿児島で「震洋」に配属。特攻訓練に明け暮れた。 |
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石丸時丸さんは 海軍通信兵として三田尻海軍通信隊に配属。
その時の大和を通信隊基地から目撃。 仲間が大きな軍艦が見えると騒ぎだし見てみると、
向島と江泊山との中間線上に大和が見えた。最低でも二〜三日は見えていた。
みんなで大和・大和だと騒ぎたてた。当時残存艦が少なくなっているのは知っていおり、
基地には軍極秘の赤本があり、その本で艦船呼び出し符合が決められ、
沈没艦には線で消し込みされていた。よって戦艦大和は知っていた。
後に大和が沖縄特攻に向かったことを知った。貴重な証言である。 現在の航空自衛隊南基地が当時の海軍通信学校である。現在の南基地から三田尻港から野島にかけての海域は見えない。この証言を不思議に感じた筆者は南基地広報部に問い合わせると通信隊員急増に対処するため分校が空自北基地の端に設けられていた。との回答を得たことを申し添える。 |
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周南市(旧徳山)粭島での目撃調査の結果で、粭島沖の大和目撃情報と口伝が残らなかったのは停泊が短時間だった
可能性がある。確実に直ぐ近くに見えるはずなのに誰の記憶にも残っていない。 (2)防府市江泊山周辺地区 A地区 富海 児玉 識さん(1933/4/2生まれ)が目撃。当時12才。 日本にもあんな大きな軍艦がおるのか。とビックリした。目撃は4月のこと、戸田山(地名)から見た。 一週間程度は見えた。大きな艦と小さな艦が数隻見えた。江泊山に接近していた記憶がある。 自分が見た艦を大和と知ったのは後年のこと。目撃場所から大和以下艦隊停泊位置まで約4Km。 目撃線Aのライン。 B地区 末田 先述したように、昭和20年(1945)で15歳であれば男女を問わずまず動員され軍需関係の工場に配属され他の場所で寄宿舎生活だった。 更に16歳ともなれば、健常者は軍役関係に付いていた。 当時村に住んでいた女性は結婚し地区から離れてしまっている。 また、7〜8歳程度だと、よほど鮮烈な印象でないと記憶に残っていない。 末田地区はこの昭和10年代の微妙な年齢層の男性は全て鬼籍に入られたよし。よって、末田地区での目撃者は発掘できなかった。 C地区 堀越とその周辺 Bライン 溝田清香さん(1828年、昭和3年生まれ)大和目撃。当時防府市陸軍監視所に就役。 そこまで通っていたので目撃した。記憶で4〜5日は停泊していた。 目撃場所から大和まで約2.2Km。 Cライン 宮本一枝さん(1936、昭和11年生まれ) 当時9歳。 大きな艦(ふね)が江泊山の前に入っているとの噂で、母と地区の者数名と一緒に見に行った。ひときわ大きな艦だった。 艦首は向かって右。後年写真で見た艦橋とそっくり。絶対大和。その日の天候は薄暗い感じで昼だったのか夕方だったのか記憶が定かでない。 一緒に見た方、全て鬼籍に入った。 同年代と一緒だった記憶がないので子供はわたし一人だったのだろう。目撃場所から大和まで約1.9Km程度。 母と近所の方数名と「江泊山(防府市)」の前に大きな軍艦が入っているよとのうわさを耳にして。 だが、現在そのとき同行した者で生存者は彼女のみ。 防府市野島地区 同島は三田尻港の海上14Kmに浮かぶ。 Dの範囲 松本新作さん(1930年、昭和5年生まれ)が目撃護衛艦数隻を従えて停泊していた。 目撃は4月のこと。江泊山から向島(錦山) の海面に散らばって停泊(10隻以上)していた。 記憶にある天候は好天気であった。 |
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Eのライン 西山直久(1932/2/9生まれ、当時13才)古島沖(下松市)を揃って出撃する様子を見た。 父と一緒だった。小さい艦が先頭で、大きな艦が最後だった。全部で13隻。 最初は三田尻にいたので、どの方向(大津島の間か野島の沖か)から徳山の方に進んだのかわからない。 |
| すでに記述しているが、第31戦隊第43駆逐隊旗艦「花月」山根航海長は1945年4月6日06:00 戦艦大和と軽巡矢矧に着任したばかりの少尉候補生を乗せて三田尻沖を離れて徳山燃料敞に向かった。 |
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3)目撃者が見た艦隊停泊の位置 戦艦大和 推定停泊位置 世界測地系 北緯 34.00.17.62 東経 131.38.34.49 付近 防府市江泊山竜ケ崎先 約1.8Km 水深約 18m 大和 吃水10.58m。 この海域のどこにも、大和が着底する恐れのある浅水域は存在しない。水深データ 徳山海上保安部提供。 ちなみに米軍に撮影された粭島停泊海域の水深はおおむね30m。 三田尻江泊山前に停泊している軍艦を目撃して方で、月日の特定は日記記載などが皆無で出撃抜錨地特定にはなり得ない。ただし、三田尻沖停泊と、数日間は仮泊していたとの証言は得た。 防府市野島、西山直久さん。順次出撃する艦隊を目撃。以降再び見ることはなかったそうだから、 確実に4月6日の出撃目撃者となる。彼こそ帝国海軍最後の「歴史のその時を見た」人間である。 4)中浦地区の大和目撃者 すでに該当者が物故('07〜'08年春の調査期間)されたのか目撃者は皆無だった。第17駆逐隊及び第31戦隊戦時日誌で、 大和以下の艦隊が広島湾を抜錨し三田尻沖への航行中冒頭に記述した停泊予定位置を信号で示されていた。やがて中心軸が107度から108度に変更された程度である。 第二水雷戦隊通信兵として軽巡矢矧に乗り組み生還された佐藤義一さんは、その時の情景を通信学校(防府)はよく分からなかったが向島はハッキリ見た。矢矧の艦首がどの方向だったのか記憶が定かでないけど、大和は左舷に占位していた。 と述べられた。 参考 防府市佐波島。中浦よりの方位196.5度、距離4.6Km。無人島である。 |
![]() この戦艦大和の写真は【写真が語る山口県の空襲 工藤洋三/著】で販売されている。 |
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第3写真偵察戦隊 F-13 (B-29) が高度 30,000ft(9,100m),徳山沖約 4km 地点(記事で)
(33゚.57' N、131゚.45' E) で撮影された。位置は山口県徳山市(現周南市)粭島沖約 3,000m。 撮影は1945年4月6日09:45 沖縄出撃約6時間前。 |
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