海軍省内の玉音放送・終戦の詔勅
海軍省内の玉音放送 以下、板谷芳直がみた海軍省内の玉音放送(1945年8月15日正午)場面。
海軍省では正午少し前に全員が広い中庭に集められ、 中央に据えつけられた巨大なラジオ・スピーカーの前に整列した後、そこに米内光政海軍大臣、 多田武雄次官以下の海軍首脳が、次いで豊田副武軍令部総長、 大西瀧治郎次長以下の軍令部首脳がゾロゾロと入って来て列の前面に並びました。
大西瀧治郎
【大西瀧治郎】
私は既に天皇のいわゆる玉音放送が行われること、そして降伏が国民に告げられることを知っていたので、 戦争指導者たる海軍首脳の一人ひとりが、 どんな表情で日本の降伏の宣言を聞こうとしているのかを、見てやろうという気持ちになりました。 終始一貫降伏論をリードしていた米内大将の淡々とした表情と、 大西中将の苦痛にゆがんだ、鉛色の鬼気迫る形相を除いては、 誰も彼も笑顔すらまじえた何となく安堵したような表情をしていたので、 昨日までのこの人たちの主張は本物ではなかったのかという疑いが湧き、 私は怒りに身内が熱くなりました。
これを書いた彼こそ狂気の海軍が沖縄戦の輸送手段として「機帆船集め」を命じられた本人なのである。
連合艦隊司令長官豊田副武は玉音放送の四カ月少し前、 大和以下の艦隊乗組員に「一億特攻のさきがけ」と迫った親分なのだ。 これを読んだ筆者(当Webサイト管理者)許せない!と思わず拳を固く握りしめたのでした。 米艦載機の機銃掃射で逃げまわった一人として・・・・・。
出典:「第二次世界大戦(三) 軍事史学会/編 H7.9.2 錦正社 終戦史話 板谷芳直」
この期の大西は狂っていた。8月13日、政府は降伏を拒否すべきだと主張していた。 国民は全てが最後まで戦い、本土に進攻する米軍に対して2,000万人で特攻出撃し犠牲になるべきだと訴えた。 戦前も戦後も憲法を持ち、その意味では立憲君主国である。国民なき君主は無意味である。 その彼らの海軍の奢りの究極が大西だろう。
資源還送の護衛を疎かにし、国民は飢渇線上にあった。民需用車輌にはガソリンが配給されず、一酸化炭素車(木炭車)であった。 みな腹を空かせていた。子供でも道ばたのどの雑草が食せるか知っていた。
8月15日正午、今まで聞いたことのないか細い声をラジオから聞いた。何を喋っているのかよく聞こえなかったと誰もが話している。 それは、電力供給が不安定でラジオの声は大きくなったり小さくなったりしたのである。
-- 1945年9月2日降伏調印式 --
富岡定俊少将の回想』 梅津美冶郎刊行会編『最後の参謀総長 梅津美冶郎』芙蓉書房より
(前略)こういう雰囲気の中に九月二日降伏式はやってきた。
降伏式の全権選定がまた一騒ぎだった。連合軍の指令で政府を代表する全権と大本営を代表する全権各一名と随員数名ということであったが、 誰が行くかということになると皆いやだいやだで引き受け手がない。
重光外相の代表はまず動かんところだが、大本営はもめたあげく、 梅津参謀総長が無理矢理に押しつけられた。海軍の代表の段になると、 「梅津代表となれば総長だ」という者があったが、 豊田総長は猪首を横に振った。「それじゃ次長だ」と言えば「いやだ」という。 とうとう「作戦に負けたのだから作戦部長行け」とのっぴきならぬ無理往生で私が海軍の主席随員にされてしまった。こういうところに、たしかに海軍はずるいところがあった。 何しろ“降伏するぐらいなら死ね”と十八、九歳のころから五十歳近いその年まで長の年月たたきこまれた観念では、今から考えればおかしいぐらいだが本当に死ぬより辛かった。   --(中略)--
Halsey どんな過酷な義務と懲罰を加せられるか、もしもの時にはと心配もし、 心ひそかに覚悟するところのあった私は周囲の風物もあまり心にとまらなかった。 目についたのは米軍将星の列の中で一人だけ戦闘帽をかぶったハルゼー将軍の姿があった。 ブルと仇名されただけに精悍な面構え、この人ばかりは許すまじき面持でわれわれをにらみつけていた。
九時前後になって式が始まった。マッカーサー連合軍最高司令官が、 マイクの前に立った。無造作な軍服姿だが堂々たる態度、声量豊かな声。
   「…戦は終わった、恩讐は去った。神よ!この平和を永遠に続けさせ給え!」
最後の言葉を述べるとき元帥の目は空の一角に向けられその敬虔な態度と声音は、 人に対して語る姿ではなかった。眼に見えぬ神に捧ぐる誓いと祈りのほかの何物でもなかった。 御旨かしこみ恥を忍んで降伏はしたものの、このときまでの私は心から降伏はしていなかった。 しかし元帥のこの言葉と態度には心の底から組伏せられてしまった。 恩讐の彼方にあるおおらかな気持、キリストの愛があの大きな胸に包まれている。 それに引替え何と小さな島国根性であったかと心の底から打ちのめされた気持であった。 不覚の涙で目尻が熱くなる。
日本の降伏が定まってから在日の外国の論調は無電で聴取していたが、峻厳そのもので、 ただただ実力で押えつけて管理し変革するという線を越えたものは一つもなかった。 然るにそのようなことは元帥の言葉にも態度にも微塵もうかがわれなかったのである。
  「ペルリ」提督の星条旗をかざったマッカーサー元帥の心が初めてわかった。
--(後略)--
多く誤解されているので・・・
先の大戦(第二次世界大戦・太平洋戦争)で日本が敗けた日を昭和20年(1945)8月15日だと思わされ続けたはずだ。 実はこの日、正午天皇による「終戦の詔勅」がラジオで放送された日であり、この日に戦いが終わったわけではない。 よって終戦記念日は国内的なもので、国際的には何の意味も持っていない。国際的には昭和(1945)9月2日 の降伏調印式が本当の意味での「敗戦記念日」である。 戦後一貫して、マスメディアも文部省(文部科学省・教科書・教師群)も含め敗戦を認めたくない心理が働いたのか? 終戦と欺瞞し続けたことによる。
領土強奪 卑劣なソ連(ロシア)・・・
日本が無条件降伏のポツダム宣言受諾した昭和20年(1945)8月15日以降に千島列島に侵攻した。
8月18日、最北端占守(シュムシュ)島1875年の樺太・千島交換条約で樺太と交換
8月23日幌筵島(ホロムシロ)
8月25日松輪島(マツワ)
8月27日新知島(シムシル)
8月28日得撫島(ウルップ)
9月1日択捉、国後、色丹島
9月4日歯舞諸島
幕末、老中阿部正弘が命をすり減らしながら当時のロシアと国境線画定交渉を行った。ロシア側が提出した樺太はユーラシア大陸と陸続きであったが、 幕府が提出した地図は間宮林蔵が実際に踏破し島であることを示した。紆余曲折の末、曖昧なまま共同統治に落ち着き、日ロ和親条約(1855年2月7日・ 安政元年12月21日)の締結を見た。
1875年の樺太・千島交換条約で樺太島統治権を放棄し占守(シュムシュ)島以南が日本領として確定した。
1951年に日本はサンフランシスコ講和条約で同島の領有権を放棄したしたが、択捉島以南を放棄したと明文化していない。  ソ連侵攻の実態から、まことに卑怯な振る舞いである。

終戦の詔勅
朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セシム欲シ茲ニ忠良ナル爾(なんじ)臣民ニ告グ。 朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
-- 以下略 --   終戦の詔勅はこちらでどうぞ。
筆者この時4歳。父は一生懸命防空壕を掘っていた。 母が放送があるので父を呼びに行けと伝えられ、 隣近所の方たちと炎天下の庭先で放送を聞いた。 放送のなんたるかは全く記憶にないが、その夜から 煌々と電灯が灯された記憶は鮮烈である。 広島、 長崎に原爆を受け、大小180都市が灰燼に帰した絶望的情況からここまで復興した現況を見るにつけ、 廃墟から立ち上がった先輩諸氏に感謝する。 そして多く戦塵に倒れ、南海に放置され斃死した同胞将兵と、 特攻に一身を捧げた勇士に深甚なる謝意と哀悼の誠を捧げる。 この国の若者よ、娘らよ自分に責任を持ち、誇りを取り戻そうではないか。

終戦の詔勅は全八頁からなる。最終頁2枚は内閣各大臣の署名である。
昭和二十年八月十四日
内閣総理大臣男爵 鈴木貫太郎
海軍大臣 米内光政
司法大臣 松阪広政
陸軍大臣 阿南惟幾  この詔勅の署名を終えた14日夜自決する。現職大臣自殺第一号。
自殺第二号は2007年5月28日松岡利勝農林水産大臣。なんとか還元水でなく暴力団との関係で自殺と信じられている。 軍需大臣 豊田貞次郎
厚生大臣 岡田忠彦
国務大臣 櫻井兵五郎
国務大臣 左近司政三
国務大臣 下村 宏
大蔵大臣 廣瀬豊作
文部大臣 太田耕造
農商大臣 石黒忠篤
内務大臣 安倍源基
外務大臣兼大東亜大臣 東郷茂徳(昭和20年8月26日大東亜省廃止)
外務大臣 重光葵 20. 8.17  1945年9月2日降伏調印に臨む
国務大臣 安井藤治
運輸大臣 小日山直登
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