特攻艦隊大和 戦後60年目の真実。 軽巡矢矧 第二水雷戦隊の通信兵は見た。
逃亡しようとした司令官ら。
海兵出身者らの素顔
真相・戦艦大和の全て
航空特攻を主導した人物】 用兵にあらず作戦にあらず。 無能な海軍兵学校出身者
戦争目的を簡単に変更】 国民を欺した挙げ句の果てに
海軍暗号書紛失】 トップシークレットのはずの暗号書紛失を不問に。
軍令部作戦部長】 富岡定俊。将兵を置き去りした挙げ句彼らを敗残兵と呼んだ。
海軍の無能と無責任】 太平洋戦争に突入させそして完敗した日本。
戦友会が機能していた間、兵らは戦場で体験した真実を語ることが出来なかった。 これはその真実の記録である。
第二水雷戦隊司令部付 矢矧乗組み通信兵
@.昭和20年(1945)4月7日 12:25 のその時、矢矧艦上

司令部付通信兵佐藤義一は、露天甲板第一通信機室前集合令で第二通信機室(艦橋下部・予備受信機室)を飛び出ようとした。瞬間艦内時計をチラと見る。12:25 露天甲板に飛び出す。 第一通信機室前には第二水戦古村司令官ほか幕僚が集合していた。旗艦を駆逐艦磯風に変更するためである。 磯風には左舷接舷を信号で送った。対空戦闘最中の磯風は接舷を試みるため減速。その時磯風に米艦載機が攻撃を仕掛けた。減速中だった磯風は全速回避運動に入る。 米機は間断なく襲ってくる。 海上はうねりにうねっていた。なにを血迷ったか古村司令官らは空襲の真っ直中内火艇で磯風に乗り移ろうとたくらんだ。(兵にはそう見えた)。 誰もが逡巡した。

戦艦大和ノ最期 頁80
矢矧に接舷を試みる磯風
  一刻も早く矢矧から逃げたかったのか古村は目の前にあった内火艇に乗るように松田幸夫中尉に命令。中尉と松崎通信兵が乗り組んだ。命令により 二人を乗せた内火艇は海上に降ろされた。米機の至近弾は瞬時にして二人の命を吹き跳ばした。 また、これに乗るよう命令された暗号担当大田水兵長は、間一髪乗らずに助かったという。その前、佐藤義一は反射的に古村を避けるべく身をよじらせ視線をそらせたという。 どうせ死ぬかもしれないが、こんなバカなやつの命令で死にたくないと瞬間的動物的感覚だったという。 内火艇で駆逐艦を追尾できるような呑気な状況ではなかった。 缶室は破壊され矢矧は航行不能に陥っていた。
そして、 艦後部では水雷科の連中が誘爆を恐れて搭載魚雷の海上投棄に奮闘しているさまがチラト見えた。 そして、戦いは真っ最中。間断なく米機は襲ってきたという。 それでも旗艦変更の命令を受けた磯風は接舷を試みようとした。
第二水雷戦隊司令部 天1号作戦戦闘詳報
04/06 11:30 時付近海上気象
天候:曇 小雨模様。 雲量:10。 雲高:1〜2粁(キロメートル)。 風向風速:南寄 12米/秒。
12:46 矢矧被弾航行不能。
13:00 磯風 二水戦旗艦変更のため矢矧に接近。 矢矧 このとき主隊との離間約20粁。
14:05 矢矧沈没。敵機生存者を銃撃。

【原為一艦長】
  この本(真相・戦艦大和ノ最期)を娘が買って来て、この写真を見たときアッと声が出なかったという。アメリカはこの写真を撮していたのか。絶句。 俺(義一)はこのとき右舷露天甲板にいた。古村以下幕僚は左舷艦橋第一電信機室入口(露天甲板)に立っていたという。 上の写真の状況で義一は接舷は右舷になると考えそちらに移動。沈没が避けられない状況となり総員露天甲板(総員退艦)命令。 その時、原艦長は内野副長を叱りつけ、非常食の持ち出しを命令した。沈もうとしているのに非常食の持ち出し命令は正常でないと感じた。 停電し真っ暗な艦内はいくら内部事情に精通しても歩けるものではない。
※ 《当時原為一艦長は立派なカイゼル髭を生やしていたという》
副長の役目に糧食に関する役目があったのだろうと義一。内野副長と三村主計兵の2人。二度と露天甲板に上がってくることはなかった。 第二水戦司令部付き通信兵が垣間見た古村司令官と原艦長の実際はこのようだったという。原艦長は内野副長をひどく叱りつけたという。一方、大和の能村次郎副長は生還している。 矢矧の内野副長と兵一人。助かる命が原艦長の一言で消えた。助かる可能性のある命が二つ、 艦長の人間性の違いで消えたのだ。
第二水戦司令部付き通信兵第一電信機室前集合命令のとき、 艦内時計の時刻 (12:25) は絶対間違いないと云い切る。  よってこの時刻頃、すでに矢矧は機関停止航行不能だったと考えられる。
「最後の巡洋艦・矢矧」で旗艦変更は 13:00 時古村司令官より発令。とある。 だが佐藤義一は違うという。
左舷艦橋部に6mカッターがあったが、血迷った二水戦古村司令官らは空爆熾烈な中で、 駆逐艦磯風に逃れようとして内火艇(カッター)を降ろさせ二人の命が消えた。
浮かぶ標的にしか過ぎない矢矧から、古村ら第二水戦幕僚は脱出を図ったのであろう。 内火艇での脱出の件、戦史では広瀬先任参謀の助言としているが、 12:30時だろうが13:00時だろうが戦闘真っ最中である。 内火艇で駆逐艦に乗り移れるような呑気な雰囲気では無かったと義一。
救助後、佐藤義一は佐世保で一週間程度過ごし呉鎮に移動した。 第二水戦通信兵だったので二水戦(矢矧)戦闘詳報作成メンバーに加わったという。 矢矧は主要メンバーが大勢救助されているにも関わらず、記録が少ない。 早い段階で、機関故障。操艦不能に陥っていたものと思える。公式沈没認定が 14:05 であり、 どの艦艇よりも速く一撃を浴び航行不能に陥ったことなどで、消された戦史となったと考えられる。
戦艦大和 吉田満著 初版本頁 79
司令官の戦死は、作戦遂行に対し甚大なる支障となり、且つ士気一段と沮喪(そそう)虞(おそ)れ多し
されどこの絶望的なる戦局の、しかも特攻必死作戦において、かくも露骨なる司令の延命工作は、奇異の感なきを得ず司令の独断行動なること疑いなし
彼、帰還の後、批判の矢面に立ちたるは当然なり特に少壮士官の攻撃鋭し
二水戦通信兵集合がかかった佐藤義一が見た情景。 司令官古村は抜刀していた。なぁーんだ日頃威張っているくせにいざとなりゃー俺ら(兵)とまったく変わらず怯えきって切っているではないか。 途端にあほらしくなったという。やがて総員退艦となり海へ。 海上漂流小一時間、距離4〜5km先の海上に線香花火状のきらきらした巨大な棒状火柱が立ち登った。あれは大和だととっさに感じた。 あの高さ(火柱)は350m はあるなと判断した。その高さは郷土向島の錦山と同程度にみえたからだという。 おのれの人生で二度と体験出来ない現場であり、まぶたに焼き付けようと意識したという。やがて強大な遠雷のごときドローンドロドロという響きがうねる海面に伝わった。 火柱は三度。最初は巨大火柱、次はその半分程度の火柱が二度時間をおかずに立ち上った。
注)この証言から二つの真実がわかる。
その1 大和火柱望見は漂流小一時間だったということ。すなわち矢矧公式沈没時刻は 14:05 が正確でないこと。
その2 火柱までの距離を4〜5kmと判断していること。公式推定矢矧沈没位置がこれも大幅に違うということ。
A.昭和20年(1945)4月7日 14:05 矢矧沈没 (公式記録)
空襲で、旗艦変更もならず、生存者海上漂流に入る。まだ各所で戦闘の真っ最中。 やがて、米機は去り、戦場は静かになった。救助される気配もない。義一も一団となっても原艦長らのグループで海上漂流が始まった。やがて米飛行艇が現れた。 飛行艇の窓から海面を窺う女性?(飛行帽も付けず髪が長かった)が見えた。 カメラを構えしきりに撮影しているように見えた。 漂流兵らは、この飛行艇は高級士官を連れ去るに違いないと話すと、原艦長は、 士官の襟章をもぎ取り立派な口髭に重油を塗りたくり、連れ去りを逃れようとするかのごとき、ぶざまな態度を漂流兵らにさらしたという。 少なくとも潔さはそのそぶりから感じられなかったともいう。
当初、漂流者は機銃掃射を避けるため分散して漂流していた。やがて空襲が去ると集合し集団となったという。 戦後彼(原艦長)は別の士官の態度を表現して「死んでも捕虜になりたがらない武士道精神」だと立派なことを云っているが、そのときの情景は、 そんな高潔なそぶりでなく正視もはばかる小汚く腹の座っていない人間にみえたという。 高級将校としての矜持の片鱗も感じなかったともいう。 また、自著で自ら海上から「白波を蹴立てて戦う大和」という表現をしているが、 まず方向感覚がマヒ(曇天)し、ましてや広大な海面で個々に戦闘中の大和を含めた 他艦を見ることは無かったという。
米側記録で撃墜されたTBFアベンジャー(三座)ディラニー中尉を発見し海面着色剤投下時刻 14:00 頃には 漂流していた可能性がある。ただし、グアム時間の記録だと 15:00 頃となってしまう。 ディラニーは大和の大爆発を海上から見ている。彼の漂流 は4時間に及んだとされている。 そうすると救出は18:00時頃か?
B.漂流数時間たった海上で
あの烈しい空襲で生き残った艦があるとも思えない海上を漂流し続けた。 義一らの回りには、古村司令官も原艦長も一団となって漂流していた。  漂流数刻、曇天ではあったが、 陽は傾きつつあることはわかった。その絶望的漂流中に、 とある中尉(どうしても名前が思い出せない)おォーイみんな。 「軍艦マーチ」と「海行かば」を歌おうと声を掛けた。  死の淵に立つ漂流兵の大合唱が始まった。 歌声は嗚咽にかわり、嗚咽が号泣にかわる。 先刻まで、死闘が繰りひろげられたうねる海面を漂流兵らによる、「海行かば」の号泣の歌声は流れた。 どいつも、こいつもみんな泣きながら歌っていた。ややもすると歌声は涙声にかき消された。 滂沱として流れる涙を重油の海では洗うことも出来なかったという。
後にも先にもあれ程泣いたことはないと佐藤義一は云う。その現場には、二水戦司令官古村や矢矧艦長も一団に加わっていたが、彼ら高級士官は絶望の淵たたき込まれていた漂流兵らを励ますことも、 勇気づける言葉一つ発しなかったという。

C.漂流数刻。冬月に救助される  当該海域の日の入り 18:39
  あの海域で各艦は全速力で対空戦闘を続けていたので、漂流中に艦影や機関音も聞かなかったし、 ましてや残存艦があることを知りもしなかった。その状況の中で冬月は現れた。 救助された兵らは、あれほどの戦闘の中でも冬月の誰かが矢矧の沈没した緯度、 経度を記録したに違いない。それでなければ夕暮れの海上で人間を見付けられる訳がないと話し合ったという。
そのような情況で冬月以下三艦が現れた。発光信号で「シバラクマテ」「シバラクマテ」と救助を知らせる信号。周囲にいた者が本当か!と問い直すと本当だ!と一斉に冬月に向かって残された力で泳いだ。
佐藤義一が漂流していた海域はこちら 勉強の大切さ(緯度・経度がわかってその位置に舞い戻ること)を このときほど痛切に感じたことはなかった。 子や孫達に「人のためにも勉強せよ」 と口うるさく話し続けたと義一はいう。その時義一は17才と6カ月。命一つ拾った。
「人のためにも勉強せよ」よい言葉である。
また、佐世保に生還した兵らは、沖縄行きは特攻であったはず。 俺たちがこうして生きていられるのは、大和沈没間際の伊藤長官が残存艦に 「特攻中止、乗組員救助」を発令したからだと噂しあったという。 今でもそれを信じている。と語られた。
参考までに、無線関係は露天甲板艦橋内が第一電信機室。艦底部が第二電信機室。 後部露天甲板が第一送信機室、下が第二送信機室と呼ばれた。 なお、戦闘配備は予備室の第二電信機室。第二水戦通信兵第一通信機室入口集合令がかからなかったな生きていなかった。と義一。 この室に配備された矢矧通信士は誰一人生還していないという。
なお、第二水雷戦隊戦闘詳報で矢矧乗組員の救助終了時刻を18:18と記録している。

基本的に電信室の造りは大和も矢矧も同一だったという。大和の艦底部の通信室は分厚いアーマーが水圧で開閉できるようになっており、とんでもない厚みがあったという。 予備電信室は戦闘配備にのみ配置に付いた。大和の受信室は1番副砲塔の下、露天甲板下部にあり円筒の半分が無線室,もう一方が暗号室となっていた。 通常短波で送受信していたという。 電波干渉を防ぐ意味で受信室、送信機室は離れた場所だったと佐藤義一。
無線の受送信について
受信票があり、そこには着信者,緊急電,発信者など記入する欄があったそうである。 通信本文は、モールス信号で ― ・・〔(ホ)ツートト〕― ― ・ ―〔(ネ)ツーツートツー〕の二文字以降が通信文という決まりたったという。 送信は基本的に機械通信で手動通信は隊内訓練などで行ったが通常は一切行っていないという。 手動通信だと電鍵の押し方に個人差があり癖を敵方に見破られるから行わなかったのであろう。ということであった。
■佐藤義一  昭和2年(1927)10月2日生まれ
昭和17年(1943)9月1日。大竹海兵団入隊。その後横須賀通信学校へ。 昭和18年(1942)7月28日、呉(トラック島)で軍艦大和通信兵配属。昭和18年(1943)末頃米機の空襲で無線電線破断。 応急処置として電信室よりキャプタイヤ(電信線)を右肩に艦橋へ。 機銃弾片にはじかれ体側左より露天甲板に転落。これが原因で発病。 海軍病院へ入院。退院後の乗艦が第二水雷戦隊司令部付通信兵として軽巡矢矧に配属。沖縄水上特攻へ。 冬月に救助され佐世保へ生還。その後二水戦「戦闘詳報」作成メンバーに加わる。 この前まで大和艦長だった森下信衛は第二艦隊参謀長として大和乗艦。艦隊最上級者として生還。彼も特攻生き残りとして処分されなかった。

【作戦行動中の負傷が原因で発病した佐藤義一の事実証明。艦長森下信衛】

【佐藤義一 二水戦付き通信兵露天甲板第一通信機室前集合時刻 12:25 時について、 第二電信機室を出るとき艦内時計の指針が目に焼き付いている。間違いない。と証言した。 第二水雷戦隊司令部付通信兵は六人だったという。ワッチは通常一人。モールス符合(信号)を筆記し隣室の暗号室にまわした。万一受信符号の書き間違いがあっても文意の前後で判断されていたようだとのこと。

'07/5月 佐藤義一
佐藤義一について、横須賀通信学校64期卒(志願)。なお63期(徴兵)とは同期だという。一班20人で12個分隊。その内3人が軍艦大和に配属された。 大和配属は有馬定雄(鹿児島),村田利夫(兵庫)と義一の3人。

D.海軍無惨なり
私の「漂流する大和」
旅は終わった。発端は「写真の語る山口県の空襲」に掲載されている 大和撮影日が間違いなく昭和20年4月6日(出撃日)なのか?。 そしてこれは燃料補給中なのか?。
また、出撃地は三田尻沖か徳山沖かであった。それを知るために「大本営の帝国陸海軍作戦計画大綱(1945年1月20日)」も少しかじらざるを得なかった。 そうなると海軍が策定した「天一号作戦」にも頭を突っ込むようになってしまった。
更に大和の目撃者捜しの過程で徳山市粭島で「震洋特攻隊員」の話を聞いた。 その帰結として「桜花(声に出すだけで悲しい)」や「震洋」。 そして、4月6〜7日の航空特攻に及ばざるを得なかった。
極めつきは、二水戦司令部付き通信兵だった佐藤義一氏である。17才6カ月で乗艦していた矢矧から脱出。 漂流数時間。 冬月に救助される。氏の話も涙なくして聞くことが出来ない。 極限状態のなかで末端乗組員が垣間見た、指揮官とは何か、人とは何か。 しばし、氏の話をさえぎり涙をぬぐった。 民族の総力と叡智と男たちの勇気とを乗せて戦艦大和以下の艦隊は瀬戸内海三田尻沖を06:00抜錨した。 そして運命のその時1945年4月7日、4,044人の命と共に海没。彼らの御霊に応える意味でも、最後の出撃地を検証したかった。燃料補給についても一貫性のない様々な根拠薄き記述が氾濫している。 おそらく燃料補給量の物理的作業量や技術的検証もせず、いわんや生還者の証言にも 耳をかたむけなかったと思える。 その結果燃料に関して多くの書籍が作戦令との辻褄あわせとなってしまった。
E.シーレーン防衛と海軍
防衛庁戦史研究室によって編纂されたものが「戦史叢書」で日本の公式戦史とされている。 私がここまで記載した事項はこの戦史叢書のみを参照しながら書いたものではない。 通常地方の図書館でも探せる既刊の雑誌のたぐいなど多種多様なものをとりあえず目は通した。 また、日本軍(陸海軍)の組織に詳しいわけでもない。随所に間違いがあるであろう。 当時の天候に関して下関地方気象台(当時は測候所)記録や大和目撃者探しとその内容は証言者の通りである。 やがて、これらの方も物故し大和を実見した記憶は名実共に歴史から消え去るだろう。 また、1,000トンとか3,000トンとかの粘性の高い油が短時間で補給できるものでないことも説明した通りである。ガソリンスタンドで4〜50リットル補給するのと訳が違う。 徳山沖で撮影された大和は沖縄に向かう燃料補給でないのは確かだが、6日早朝三田尻沖を発ち徳山沖に結集し、すぐに出撃のしたのであろう。 艦隊生存者で航海科関係者(艦橋で外界が常に展望できる配置)で土地勘(三田尻と徳山を区分けできる)者の証言を採録する必要はありそうだ。
少し気になる記述。「戦艦大和に乗り組んで 田中幸造著 1997年5月10日発行」の頁49、6日の朝が来て、見習い士官の姿が消え(4月6日02:00時、退艦)、 艦は燃料積込みのため徳山の方へ向かっているのだそうです。田中は12番砲塔配属。 外部が見えない配置でそのように書いている。これこそが、小林儀作の工作の一環かも知れない。
マリアナ沖海戦と、1945年1月から沖縄出撃残存艦艇が佐世保に帰投した4月8日までしかここには書いていない。 冒頭で、国策推進もいびつな二頭だての馬車と書いた。 一方の馬には二つの頭があることも書いた。この一つの頭は、 海のことは任せろと!。とふんぞり返った。
この二頭だての馬車は国家としてのグランド・ストラテジー(戦略,Grand・Strategy)描けなかったことも書いた。 戦争を始める過程は浅学非才な私が軽々に論ずる内容でもない。 資源を全く持たない国が戦争をはじめ、継戦のための資源確保に走った。 ベトナム(フランス植民地)、インドネシア(イギリス・オランダ植民地・石油があった)、 フィリピン(米国植民地)、なんとか独立していたのがタイ。 石油を内地に運ぶにはカーゴが必要である。 先の太平洋戦争での戦いは補給が全てであった。日本軍は伝統的に輸送(輜重、しちょう)を軽ろんじた。 海軍でも主として学徒兵を主計課員とし兵学校出身者と微妙な差別を行った。 戦闘艦には優秀者という「根拠無き神話」がまかり通っていた。
広大な海域の島嶼に人間が生きるために必要な物資と、 戦力を維持するために必要な資源と、病み傷ついたときの医薬品。 さらに日本本土の生産拠点に必要な資源を海上輸送しなければならない。 また船舶の修理と乗員の交替・休養など諸般のことを考えれば「あほのポンタ」が務まる訳がない。 それでも軍艦で大砲を撃つ担当と運輸科員(輜重)とでは「見えなく差別された高く厚い壁」があった。
筆者の兄もトラック島から更に200Km南のマートロック島に置き去り(252人)された一人で、 また数少ない死者(8人)の一人でもあった。
機会があればぜひ読んで頂きたい。昭和19年(1944)3月、 海軍省教育局が徴用船員向けの小冊子「船員ニ告グ」である。  大和魂・武士道精神の発揮。金剛精神の発揮が輸送効率につながる。 また「心眼で見張れ」と述べている。 当時の世界全般の技術水準から考えても、 時代錯誤も甚だしく読みながら腹が立ってくる。
心眼は具体的にどんな眼なのだろうか。 一体だれが備わっていたのだろうか。 レーダーと心眼ではどちらが性能的に上位なのだろうか。
日本に到着した油槽船は
1945年2月07日 せりあ丸 航空ガソリン15,000トン 陸軍和歌山
1945年3月13日 富士山丸 原油16,000トン 海軍徳山
1945年3月27日 光島丸 重油10,800トン      〃
これが日本に到着した油の最後になった。 「戦う民間船 大内健二/著」 戦争末期輸送船での、大量・大規模な作戦が不可能(すぐ撃沈)と悟った (戦訓が生きた)海軍省は 「臨時船舶徴用隊」を結成(1945/06/06)した。 これは海軍省嘱託(勅任待遇) 川南造船社長川南豊作氏発案により 小型船(機帆船・漁船)での沖縄片道輸送を本気で考え実行に移そうとしてのことであった。 そして、九州各地で徴用(計画200隻、実績135隻)を行った。 無謀というより、ここまでくると海軍関係者の頭脳と思考を疑わざるを得ない。 あの優勢な米機動部隊の艦載機に遊び半分の標的を与えるようなものだ。
1944年後半からの Imperial Navy は正常な思考装置を取り外した、 単なる戦争暴走組織となった感さえある。
矢矧艦長 原為一の名誉のために
生還後、川棚特攻艇震洋基地司令となった。 彼の予備学生に接する態度は、 兵学校出身者と分け隔て無く接し人気があった。  そのことは逆に兵学校出身者士官のDNAに学徒兵士官への根深い差別が存在した傍証になろう。  兵学校入学者の多くは経済的に恵まれない子弟の登竜門だったから、徴兵猶予措置撤廃後、 予備仕官となった者への根拠無き優位性を誇示することでのみ自尊心を保とうとしたのであろう。 言い換えると劣等感が彼らをして必要以上に威張ることにつながったであろうことは容易に察しがつく。  また、敗戦後も海兵第何期という親睦団体をつくり多くそれに属していたが、 海軍という蛸壺社会での傷の嘗め合いに安らぎを感じたのかも知れない。
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