昭和天皇の作戦容喙(関与)と戦争責任を考える

天皇の位置付けが内政法理論的どのようになっていたのか?。
大日本帝国憲法(明治憲法)
1.統治権の総攬(そうらん)者 (第四条)
2.宣戦・講話の締結者 (第十一条)
3.天皇は立憲君主であり、国務大臣の補弼(ほひつ) (第五十五条) をどの局面でも受けていた。
立憲君主制の法治国家だった。
あらゆる教育現場はこの国はアマテラスの血脈を引き継いだ天皇が統べる聖なる国。すなわち神国とか神州と呼ばせた。 この国は一木一草に至るまで天皇の所有物であった。もちろん人間もその例外ではなかった。

1.はじめに
1)昭和天皇の戦争決断
 1941年10月13日内大臣木戸幸一日記。「昨今の情況にては日米交渉の成立は漸次望み薄くなりたる様 に思はるゝ処、万一開戦となるが如き場合には、今度は宣戦の詔勅を発することなるべし。」
2)1941年12月2日「開戦の聖断」が下された翌日
 天皇は両総長(陸軍杉山・海軍永野)に 「此の様*1になることは已むを得ぬことだ、どうか陸海軍はよく協調してやれ」と激励している。  昭和天皇は戦争を望まず平和主義者ではなかった。
3)1942年12月12日 伊勢神宮
 天皇は密かに伊勢神宮に参拝。皇祖アマテラスに深々と戦捷祈願を行った。  海軍侍従武官城英一郎はその日記に「緒戦の戦勝を感謝、非常の国難に御身を以て国民を率ひられ、 尚将来の神明の御加護を祈念あらせられる」 *1 中国への膨張政策と南進に対し、米国は種々警告を発していた。  ところが当時の政治・軍事指導者の多くは、南進(南部仏印進駐・1941年[昭和16年]7月28日)で米国が石油禁輸に踏み切ることはない。と読んでいた。  1941年8月1日、米国の対日石油禁輸制裁を受け、愕然・呆然とした空気が陸海軍部を覆った。 このことで、天皇は"此の様"になったので戦争も已むを得ぬと考えた。 米国と、ソフトランディングの交渉中に戦争に踏み切らざるを得ない場合の基地確保と称して「南進したことで石油を止められ、戦争への道を選択」したのであり、 「石油を止められたから戦争へ突入」したのではない。 自分たちの行為とその結果を読み違えた。  昨年('07年9月)死亡した昭和の参謀こと瀬島龍三のいう『自存自衛の戦い』は原点を間違えている。
2.昭和天皇の御軫念(ごしんねん・ご心配のこと)と御嘉賞(ごかしょう・お褒めのこと)
 1942年1月初旬フィリピン・バターン半島攻防戦。陸軍統帥部は敵を過小評価し攻略部隊を抽出。 そのために攻撃は1月19日に頓挫。憂慮した天皇は統帥部に下問した。 統帥部は兵力抽出の誤りを認めず兵力の現状維持でもって攻略と応答。 現地部隊に対して天皇は現状に痛く「御軫念(ご心配)」と打電。  この大元帥の言葉は将兵に物的戦力(増派兵力・武器・弾薬・食料品を送れない情況のときなど)以上の力を発揮するよう要求した。 この天皇の言葉は今時大戦にあって自らの失敗を認めない統帥部は「御軫念」を督戦のため多く打電している。
陸海両軍共通しているが「@ 計画」「A 実行」「B 点検・評価」「 C 再展開」すなわち、P (プラン)・D (ドゥ)・C (チェック)・A (アクション)を考慮し機能しない組織であった。  絶対不可侵・無謬性の大元帥を統帥トップとした悲劇であった。
3.戦果の報告
 作戦計画・展開・戦果の報告は遺漏無く全容を伝えられた。ミッドウェイ海戦(1942年6月5日)の敗北の報は、 天皇に直ちに、かつ正確に伝えられた。6月8日参内した海軍永野修身軍令部総長に「之により士気の 沮喪(そそう)を来さざる様に注意せよ、尚、今後の作戦消極退嬰(たいえい・しりごみ)とならざる様にせよ」と激励とも命令ともとれる発言をしている。
 南太平洋海戦(1942年10月26日)についても「搭乗員多数を失いたるは惜しむべきも多大の戦果を挙げ満足に思ふ。 尚一層奮励する様長官に伝えよ」また、同29日には「連合艦隊は今南太平洋に於いて大いに 敵艦隊を撃破せり。朕深く之を賀す。惟(おも)ふに同方面の戦局は尚多端なるものあり。汝等倍々奮励努力せよ」と督戦している。
 ガダルカナル島の戦いは熾烈を極め、輸送は常に初期の目的を達し得なかった。その折、中央から参謀辻 政信が 来島した。兵の一部には、辻さんが来たからもう大丈夫と呑気なことを言うものいたが、揚塔設備を持たない軍隊が 太平洋の島嶼戦を行うこと自体に無理があった。多量の食糧武器弾薬はデレック(クレーン)で陸揚げし、その分散は人力であった。広範囲分散できもせず、 空爆でその都度失った。

4.1944年夏
 マリアナ沖海戦惨敗後、軍事、経済、海上輸送など全ての面で戦争継続する力は尽きていた。
しかし、天皇も統帥部も戦争終結には踏み出さなかった。統帥部は米軍の空母数・航空機数・陸軍兵力 など、数的な面について全容を把握していたが、現実の海空戦・島嶼戦での圧倒的破壊力について、その実態を 正確に認識できなかった。 過去に展開された島嶼戦は大兵力を縦横に動かすものでなく不慣れな孤島での戦いだったと 総括していた。 陸軍は本格的陸戦になれば、必ずや米軍に大打撃を与えられるとこの段階では信じていた。  目指すは本土決戦!
5.戦況上奏の実態
1)陸海軍とも侍従武官を貼り付けていた。両軍より戦況報告は毎日行われた。戦果は誇大気味(大本営、国民向け発表ほど誇大ではない)で あったが、損害については正確であった。海軍の戦況上奏は、各方面で展開している作戦の進捗状況、戦果と損害、輸送船の損害状況、 各戦線における空襲情況が上奏された。また特に重要な上奏は、陸軍参謀総長、海軍軍令部長が直々に上奏した。 それも口頭と「奏上書綴」の書面が添付されていた。味方損害輸送船も船名・トン数・積載物と沈没日時・場所・原因(潜水艦なのか空襲なのか) が一隻ずつ記され、空襲では機種・機数・被害状況・戦果などが一覧表で示され詳細を極めるものだった。 要するに、戦果こそ誇大気味ではあったが、天皇のみ陸海軍の損害について遅滞なく知り得た。
海軍索敵機等が獲得できた最重要情報はほとんど速報の形で戦況上奏に盛り込まれていた。
天皇に正確な情報が届かず、蚊帳の外だったという話は、戦後の御用学者らの言辞であり正鵠を欠く。
2)フィリピン沖海戦(レイテ沖)艦艇と航空機の損害上奏で実際28隻の艦艇を失ったが、 部隊・艦名を含め26隻の損害が報告された。未報告は駆逐艦2隻のみ。この様に天皇にはほぼ実際が知らされたが 国民には6隻沈没と知らされた。(大本営発表)
3)航空特攻に関して、1944年10月25日の関隊(敷島隊)による戦果報告は翌26日に天皇に及川軍令部総長から上奏された。 天皇は特に関心を持たれたのか28日に『神風特攻隊御説明資料』が提出され、 そこには「本特攻隊が帝国海軍従来の特別攻撃隊または決死隊と異なります点は計画的に敵艦に突入す 関係上生還の算絶無なる点で御座います」
26日、及川軍令部部長への昭和天皇から御嘉賞の言として「そのようにまでせねばならないのか、しかしよくやった*1」 の言葉を一部の研究者は否定的である。 *1 海軍側の「よくやった」発言は『神風特別攻撃隊(猪口力平・中島正)頁111〜112』で語られているだけで、他の有力な証言はない。 ただ、両名は比島にあって航空特攻の飛行長などを務めており、彼らの陳述は虚言であるという書籍もない。 一方、戦史研究家の保阪正康は、その著書『特攻と日本人』の中で陸軍侍従武官吉橋戒三の日記(未発表 1945年1月7日)として 「夕刻、右戦況其ノ他ニ関シ上奏ス 体当リ機ノコト申上ゲタル所 御上ハ思ハス 最敬礼ヲ遊ハサレ 電気ニ打タレタル 如キ感激ヲ覚ユ 尚戦果ヲ申上ゲタルニ『ヨクヤツタナア』ト御嘉賞*2遊サル 日々宏大無辺 ノ御聖徳ヲ拝シ忠誠心愈々募ル」
天皇は戦況が人間を消耗品とする様相の中でも決して「もうそのような戦いはやめよ」とは口にしなかった。 逆に益々頑張れと侍従武官は捉えている。 *2 航空特攻で戦果を挙げさえすれば天皇が殊更お喜びになり、 お褒めの言葉も頂戴するとなると、航空特攻に歯止めがかからなくなった。 また、彼らの「忠誠心」の裏に理不尽に命を奪われる若者がいた。
6.1945年2月14日近衛上奏文
 「最悪なる事態[敗戦]は遺憾ながら最早必死なりと存候。 ・・・・・勝利の見込みなき戦争を 之以上継続する事は、全く共産党の手に乗るものなりと確信仕候」と遅きに失した上奏を行った。
ところが天皇は近衛の粛軍・戦争終結の勧告に『もう一度戦果を挙げてからでないと中々話は難しい思ふ』事実上拒否 した。 昭和天皇は歴代天皇の中で祭祀に熱心だったという。 中でも戦捷祈願は、皇祖神アマテラスに対して行っていたと伝えられている。  祖父明治天皇は祭祀に消極的で、父大正天皇は神道そのものを重視しなかった。
 前年(1944年)7月末にはサイパン・テニアン・グアムに5航空団からなる戦略爆撃機 B-29を979機を配備し、 1944年11月24日111機の B-29 が東京中島飛行機武蔵製作所を爆撃していた。 大本営もこの爆撃機の配備について 知悉していたので対策会議も早い段階でもたれていた。当然天皇にも報告されている。
 天皇は何事にも消極的な統帥部に失望しながら『決戦』を熱望していた。 降伏敗戦の文字は天皇の頭にその片鱗さえなかった。 3月10日あの東京大空襲の惨状を目の当たりにしても考えは揺るがなかった。
Bomberdement Wing (航空団)。 第73航空団 サイパン・アイズリー飛行場, 第58航空団 テニアン西飛行場,第313飛行団 テニアン北飛行場,第314航空団 グアム北飛行場,第315飛行団 グアム北西飛行場を基地とした。 日本における機雷投下作戦は第313飛行団が担当した。
7.1945年3月29〜4月2日戦況上奏
1)海軍及川軍令部総長上奏
 総長:米軍攻略部隊に対して、航空攻撃(沖縄航空撃滅作戦)を激しくやりますと、と天一号作戦について
       上奏した。
 天皇:「航空部隊だけの総攻撃か」と下問した。下問を受けた総長は「水上部隊はなにもしないのかと叱責」
       と受け取った。
2)陸軍梅津参謀総長上奏
 天皇:沖縄の敵軍上陸に対し防備の方法は無いのか、敵の上陸を許したのは、敵の輸送船団を沈め得な
       いからであるのか。また、何故攻勢に出ぬのか、兵力足らざれば逆上陸もやってはどうか。と下問した。
 総長:陸海軍とも張り切っておりまする故、今後大いに敵船を沈める段階になり、敵の困難は逐次増大して
       くるとここと思います。
海軍
 1945年(昭和20年)3月末、海軍及川軍令部部長は天皇に西南諸島方面(沖縄)の戦況において 「航空機をもってする特攻作戦を激しくやる」 と天一号作戦を奏上。天皇は 「天一号作戦は帝国安危の決するところ、挙軍奮励をもってその目的達成に違算なからしめよ」 と述べたという。天皇は命あふるる若人の必然死さえ眼中になく、 かつ戦争指導部の成算なき企図を責めることもなかった。そして、もう止めよとも決して云わなかった。
 及川軍令部総長は天皇の下問次第を、連合艦隊司令長官豊田副武大将に伝えたが、 豊田長官は同日GF電(3月29日19:22) 【畏れ多き言葉を拝し、恐縮に堪えず。臣副武以下全将兵殊死奮戦、誓って聖慮を安じ奉り、あくまで天一号作戦を完遂を期すべし】 と電令した。
この天皇の下問内容に、GF作戦参謀神 重徳ら一部の参謀が直ぐに反応した。 水上艦艇出撃に要する燃料調査に機関参謀小林儀作を呉鎮守府に差し向けた。 すなわち、天皇は作戦計画に容喙したのである。
4月7日五航艦宇垣纏『戦藻録』で
 「抑々(よくよく)茲に至れる主因は軍令部総長奏上際航空部隊丈の総攻撃なるやの御下問に対し海軍の全兵力使用致すと奉答せるに在りと伝う」 更に続けて《大和》以下の特攻を「何等得る処無き無謀の挙」 と批判しつつも、天皇の下問が水上艦艇の特攻につながったと書く。

陸軍
 4月4日午後、大本営陸軍部は、沖縄第32軍に対して、沖縄作戦に対する天皇の「御軫念(ご心配)」を伝達するとともに、 米軍に占領された北・中飛行場の奪回を要望する電令を発した。
第32軍への電令
 「北・中飛行場の制圧は第32軍自体の作戦にも緊密なるは硫黄島最近の戦例にも徴するも明らかなり、 特に敵の空海基地の設定を破砕するは沖縄方面作戦の根本義のみならず、同方面航空作戦遂行の為にも重大ななる意義を有するをもって、 これが制圧に関して万全を期せられたし」
現地第32軍は地形上防禦が不可能として北・中飛行場放棄し持久戦を決め込んでいた。  電報を受けた第32軍は混乱し、結局中途半端な攻撃を行い戦力を消耗してしまった。 そして、 ここでも、天皇は作戦計画に容喙したことになるのだ。

8.1945年4月3日の天皇
 「此戦[沖縄戦]が不利なれば陸海軍は国民の信頼を失い今後の戦局憂ふべきものあり」と言い、沖縄戦にかこつけ、 お前達が戦果をあげなかったら国民が支持しないぞ、と両軍を叱咤した。
4月18日五航艦宇垣纏 戦藻録にみる天皇の言葉
「海軍は沖縄方面の敵に対して非常によくやっている。而し敵は物量を以て粘り強くやつて居るからこちらも断乎やらなくては形見に残るロザリオならぬ」
4月30日及川軍令部総長への天皇の御嘉賞
「連合艦隊指揮下の航空部隊が天号作戦に逐次戦果を挙げつつあるを満足に思ふ。今後益々しつかりやる様に」と御嘉賞を賜った。
3月10日深夜 東京
1月27日東京はB-29の高々度白昼爆撃を受けいてた。
3月9日22:30警戒警報発令、二機のB-29が東京上空に飛来して房総沖に退去した。 東部軍管区司令部は、大挙北上するB-29の飛来を察知していたが、時間的に天皇の睡眠を妨げるとして 空襲警報は発令されなかった。 都民は全く無警戒の中、10日00:08第一弾が投下された。一夜にして無辜の民12万4711人が死傷した。 そして100万人の罹災者を出し、東京の3分の1が消滅した。現在に至るも正確な死者は判明していない。
3月13日大阪が二度目の空襲で灰燼に帰した。
3月17日神戸が空襲で焼失した。 多くの哀しみが地に充ちたいた。
作戦任務第40号 作戦名 Meetinghouse No.2 第73,第313,第314航空団 計325機。  焼夷弾は1,500〜3,100m の高度から投下された。 2機が対空砲火で損失。1機が毀損調査で損失計上。4機が不時着水。7機 が未確認の原因で損失。 日本機の迎撃は貧弱と記録されている。
この夜間低高度の爆撃を可能にした要因として、米軍は日本に夜間戦闘機がないということを知っていた。
東京空襲爆撃照準点


【焼け残った浅草浅草寺 出典:日本の空襲−三】
折り重なる東京大空襲の犠牲者
【折り重なる東京大空襲の犠牲者 出典:一億人の昭和史4】
 天皇は東京の惨状を巡視し知っていた。空襲の報告も詳細に受けていた。 民草が路頭に迷い、家を失い、 財産を失い、子は親を失い、老婆は家族を失い。乳飲み子は母の胸で息を引き取った。 街頭には両親と近親者を失った孤児があふれた。 全国津々浦々、子は飢えに泣いていた。  それでも天皇は戦争をやめようとせず、 陸軍、海軍を煽り続けて戦果を挙げることを熱望し、一心不乱に皇祖アマテラスに戦捷祈願を行っていた。
 たとえ空襲がどれほどひどくなり、どれほど多くの死者をだそうとも、この段階で戦いをやめようとはしていない。
1945年5月13日、海軍高木惣吉に「一度叩け」とこの段階でも叱咤している。 この12日後、空爆により 皇居の大宮御所が全焼した。   −出典:昭和天皇 原武史著 岩波新書−
 記録で見る限り、天皇は平和主義者でなく、軍部を煽り、作戦に容喙し、国民が塗炭の苦しみに呻吟しても決して戦争をやめようとしていない。 それどころか、2月段階の遅きに失した感のある近衛上奏をも葬り去っている。
9.1945年6月11日梅津美治郎参謀総長上奏
 6月8日最高戦争指導会議(御前会議)で「戦争一本」の路線、すなわち本土決戦が改めて確認された。 天皇はまだ戦争継続の主戦論者であった。
梅津陸軍参謀総長は天皇に
 在満支(満州・中国)兵力は皆合わせても米の八個師団分位の戦力しか有せず、しかも弾薬保有量は、 近代戦の一会戦分より少ない。と上奏した。 この段階で天皇は本土決戦への望みが絶たれたこと、 既に天皇は侍従武官の大部分を6月3日・4日九十九里浜の防備実態を視察させ実状を把握していた。 よって梅津の上奏と侍従武官の報告を総合した日本軍の総合戦力・防備の全容を認識した。
7月26日ポツダム宣言
 この段階でも、天皇は戦争責任者(自らを含め)の処罰と全面的武装解除に反発していた。  天皇は平和主義者でなくガチガチの軍国主義者だつたのだ。 天皇の最優先事項は天皇制を頂点とした国体護持であり、皇祖神の祭祀を継続することだった。 対日ポツダム宣言は、国体護持を保証していなかった。  また天皇が絶大な信頼を寄せていた軍事力の解体を宣言していた。 これらは、国民の困苦などよりはるかに優先された事項だった。
10.1945年8月9日23:50 最高戦争指導会議(御前会議)
 広島・長崎の原爆投下。ソ連参戦。万策尽きた状態を知る。 皇祖神アマテラスへの戦捷祈願も、全幅の信頼を 寄せていた陸海軍への信頼も一挙に萎えた。
長崎に投下されたプルトニウム原爆は爆縮型で、それまでの爆弾の形状と大きく異なった。 よって形状重量の全く同一の爆弾投下実験を行った。模擬原爆パンプキンは1945年7月20日に最初の1発が投下され、最終的には 49発が訓練投下され、人類最初の爆弾は8月6日に広島市民の頭上で爆発した。そして、二発目は9日長崎。
ロザリオの祈り 永井カヤノ(筒井茅乃)
 わたしは、原子ばくだんを見ました。それは四歳のとき、セミの鳴いている日でした。それが大戦争のおしまいだったそうです。 それから後は、おそろしい事は一つも起こりません。けれども、そのときからお母さんがおられなくなりました。 (略) 「浦上のお家はどうなったろう?」と 私は言いました。お母さんはいくら待っても上がって来ませんでした。 (略) 「みんな死んだのよカヤちゃん・・・・・」と言いました。 (略)  「浦上は、死んだの大ばやりだねえ!」と、私は言いました。みんなでロザリオのお祈りをしました。

長崎の鐘 (サトウ・ハチロー作詞)
♪ 召されて妻は天国へ別れて一人旅立ちぬ 形見に残るロザリオの鎖に白きわが涙 ♪
♪ こころの罪をうちあけて更け行く夜の月すみぬ 貧しき家の柱にも気高く白きマリア様 ♪

2008年2月2日、永井 隆博士の遺児筒井茅乃さんの長くはない死を新聞(2月3日)は小さく伝えた。享年66。
長崎大浦天主堂のマリアも天を仰いではいなかった。地に充ちる人の子の哀しみをながめ続けている。

11.1947年9月19日昭和天皇密使寺崎英成
 天皇の密使として寺崎は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に外交顧問シーボルトを訪ねた。寺崎は天皇の意向として
『米国が沖縄を始め琉球の他の諸島を軍事占領し続けることを希望する。』と驚くべきメッセージを伝えた。この内容は直ちに マッカーサーに報告された。(入江相政日記第五巻、頁419。 1974年4月19日の項)
これは、立憲君主制を認めて貰ったことへの代償だったのか? GHQはこの提案を斟酌し沖縄占領統治を続ける。 この天皇の撒いた種は、現在に至るも基地問題で深く暗い影を落としている。
12.創られる虚像 平和主義者昭和天皇
 昭和天皇が写真以外で、国民の目に触れることは稀だった。多くはご真影で接した。また報道される写真では軍装の大元帥閣下であった。 戦後政治は、まず軍装大元帥閣下のイメージ払拭と平和主義者天皇を演出する必要に迫られた。
まず始められたのが天皇の地方巡幸だった。特別にデコレーションされたC58蒸気機関車に、 背広に着替えた天皇皇后を見せるため、小学生まで大動員し鉄道沿線に待機させた。  1946年(昭和21年)2月の神奈川県から1951年(昭和26年)11月まで、沖縄と北海道を除く全国45都道府県にわたった。(北海道の地方巡幸は1954年8月)  だが、昭和天皇は、あれほどの惨禍を被った沖縄に赴くことはなかった。 また赴けもしなかった。
そういう愚輩も意味も知らず並ばされた一人であった。日章旗の小旗をもたされ打ち振った。
13.昭和天皇は戦争の実態を教えられていなかつたのでは?
1)戦果は大本営の戦果検証に問題があり過大(国民ほどデタラメでなく)に報告されたが、 自軍(陸海)の損害はほぼ正確に伝えられた。 天皇は陸海軍の作戦とその結果について詳細に報告されていた。  場合によっては既述したように作戦に容喙している。
2)戦争は軍部の独走で、天皇は抑止できなかったのか?。  日中戦争兵力増強・重慶政府爆撃の承認など積極的な役割を果たしている。 この延長線上に太平洋戦争(大東亜戦争)があった。  事後であっても自軍の嚇々(かくかく)戦果に御嘉賞を述べている。
14.戦争犯罪(極東軍事裁判・東京裁判)
1)裁判手続きは公正か?
対審構造がとられ、法廷は公開され、証拠調べについても検察、弁護双方の証人が採用され、反対尋問もなされ、 それなりに公正さは保たれていた。
2)事実認定(侵略戦争)について
当時独立国だった中国への武力侵攻という今時大戦の中核的な事実は否定できない。
3)事実認定について法の適用問題
「何人も、実行のときに適法であった行為又は既に無罪された行為については、 刑事上の責任を問われない」すなわち、結果的侵略戦争を遡及(そきゅう・さかのぼる意)できないとする法理。
第一次世界大戦が終わった後、侵略戦争を否定する方向に向かう。その国際的文書として、国際連盟規約(1919年)、パリ条約(1926年)などから、 侵略戦争を国際的犯罪とみなしていることを否定できない。日本は国際連盟に加盟していたし、パリ条約は翌年7月批准している。
15.昭和天皇と靖国神社
 昭和天皇は戦前も、戦後も戦塵に斃れた英霊に深い哀悼の祈りを捧げていた。 戦中には、英霊に頭を垂れ神州必勝を祈念していた。
 天皇の関係神社参拝は、1945年(昭和20年)10月、終戦報告のため伊勢神宮参拝。
天皇の靖国神社
@1945年(昭和20年)11月20日、臨時大招魂祭
A1952年(昭和27年)10月
B1954年(昭和29年)10月
C1957年(昭和32年)4月
D1959年(昭和34年)4月
E1965年(昭和40年)10月
F1969年(昭和44年)10月
G1975年(昭和50年)10月
1978年(昭和53年)10月、靖国神社は宮司松平永芳(ながよし)のもとで、 ひそかにA級戦犯14人を合祀した。この合祀は1979年4月明るみに出た。 この合祀は当時の厚生省援護局が深く関わっている。
昭和天皇は1988年(昭和63年)4年28日「私はある時に、A級戦犯が合祀され、その上、 松岡、白鳥までもが、筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが、松平の子の今の宮司がどう考えたのか。 易々と松平は平和に強い考えがあったと思うのに親の心子知らずと思っている。だから、 私あれ以来参拝していない。それが私の心だ」と宮内庁長官を務めた富田朝彦に話した。(『日本経済新聞』)
中国政府は日本の国家指導者が8月15日の靖国神社参拝に猛烈な抗議を行うようになった契機は、 東京裁判でA級戦犯として獄死した者や病死した民間人などと、処刑された者たちが、昭和殉難者として合祀されたことに起因する。
  前出14項 2)については何人も否定できない事実であり、この行為にA級戦犯とされた者たちが大きく係わったことを否定できない。  また、昭和殉難者とされた者達の中には、明らかに建社の精神に照らした場合大きな疑義が残る民間人を合祀してしまった。
また、同神社が、アジアの民衆に多大な被害をもたらした侵略戦争遂行の主要装置の一つであったことも紛れのない事実である。

政治家小泉純一郎は総理候補のとき、 靖国参拝を政治公約にしてしまった。 すなわち、 一宗教法人となった靖国神社参拝を政治公約とする挑発を行ってしまった。 すなわち自国の未処理の問題を他国を巻き込む政争の具にする愚を犯した。
この背景には、昭和天皇が参拝しなくなった(A級戦犯合祀後)危機感から発したものであるが、 一部の学者や政治家が東京裁判を勝者が敗者を裁いた報復裁判・暗黒裁判であるとか、東京裁判史観は自虐史観である。 などに迎合したものであろう。
 靖国神社のモデルは、幕末長州の内訌、 外国との戦いに倒れた者の招魂を祈念する桜山招魂社がモデルである。 やがて明治維新期に新国家建設に殉難した者を祭る場として東京招魂社ができたが、 やがて明治天皇によって靖国神社という名称に変わった。 全国各地に同様な招魂社が設けられたが1939年(昭和14年4月)全国の招魂社は護国神社に改称し現在に至っている。
松岡洋右 外相 1946年(昭21年)6月27日 病死 未決(山口)
白鳥敏夫 駐イタリア大使 1949年(昭24年)6月3日、 獄死 終身禁固刑 (千葉)
 いくらひいき目に見ても、松岡、白鳥(いずれも民間人。病死など)の合祀は建社の精神から外れている。  彼らを合祀するなら、空爆死した民間人を全て合祀しないと筋が通らない。
怨霊について
 この国では、人が非業の死を遂げると、その霊魂が地上にとどまって、 人や組織に霊的な力を及ぼすと考えた。
 この霊魂に二つのタイプがある。一つは、よって成る組織のために凄惨な死を遂げ護国の霊と なったもの。「魂魄この世に留め皇城を守らん」と叫んだ幕末の志士や、 近代の「英霊」など、天下、国家を憂い死んだ者が怨霊となりこの世にとどまった。
 もう一つが、政争に敗れて憤死し、天皇や国家を呪うもの。長屋王、菅原道真、崇徳上皇など。 死に方が悲惨で、国家への怨恨が強ければ強いほどこの怨霊の力は強くなると考えられていた。 日本の古代や中世では、この怨霊対策は国家の最重要課題であった。  やがて太平の世の中になると、怨霊の跋扈はなくなり幽霊の世界となる。幽霊が害を及ぼす範囲はせいぜい顔見知りの範囲だった。  ところが幕末の長州で政治的主導権争いで「怨霊」の霊力がにわかに頭をもたげた。 それが、山口県下関市の桜山招魂社。やがて靖国へと発展する。  ところが、靖国神社も怨霊鎮護から変質し、靖国の庭で会おうと。軍が死を礼賛する国家の装置となってしまった。
参考図書
 大元帥 昭和天皇 山田 朗/著 新日本出版社:刊 2002/3/25第10冊
 特攻と日本人 保阪正康/著 講談社現代新書 2005/7/20発行
 特攻の真実 深堀道義/著 原書房 2001/11/28発行
 一海軍士官の太平洋戦争 斉藤一好/著 (株)高文研 2001/12/8発行
 昭和天皇 原 武史/著  岩波書店 2008年1月発行

太平洋戦争取材班
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