太平洋戦争 (大東亜戦争) 敗戦原因と組織

1. 国家の戦争指導体制
 国家の存亡を賭けて戦争を始めた以上、総力を挙げて戦争目的の達成に努力すべきであったが、 そこには、大きなネックが存在した。
 三者は全く同格であった。総理大臣は、陸海軍の参謀総長・軍令部総長を任命出来ないだけでなく、 陸軍大臣、海軍大臣も罷免できる権限を有していなかった。
 国家機能保持の行政組織は内閣に属したが、陸海軍が保有していた国家経営の根幹に係わる情報が 内閣総理大臣に伝達されることはなかった。 陸海軍は最終的に国家から浮き上がった存在に堕した。 国家に従属すべき軍隊が国家の運命を左右する独善的組織だったのだ。
総理大臣は存在したが現憲法に制定されている首相の権限はない。すなわち各大臣を罷免する権限を有していない。陸海軍大臣は現役武官制であったから陸海軍に都合の悪い案件に反対し辞任すれば簡単に倒閣できた。
(1) 1935年(昭和10年)に美濃部達吉の天皇機関説が排撃され、特に陸軍は教条主義的となり、 統帥権が統治権に優先する解釈を行った。更に翌1936年、二二六事件の衝撃は政治家に物言われぬ恐怖を与え、 軍人の恫喝と治安維持法による相乗効果で、軍部による政治支配体制が確立された。
(2) 陸海軍将星(大・中・少将)の任命は、天皇による御璽が必要だった。よって失敗の責任を問われない グウタラ人間集団と化した。 海軍の暗号書を紛失した人物が最後まで軍隊を統率した。まるで漫画にもならない軍人社会であった。
1-1. 模倣国家の悲しさ
 戦局を左右する航空機エンジン。中島飛行機が製造した「誉」エンジン開発は開戦1カ月前まで、米国カーチス・ライト社の 技術指導を受けていた。天然資源に乏しいこの国家は、明治維新以来科学技術で欧米依存の模倣国家であった。 陸軍の大陸政策により、米国との対立を深め、石油禁輸によりプッツン切れた海軍は、ドイツの技術に依拠しようとしたが、 ドイツ崩壊により、政略・戦略の大前提が崩れ去った。

1-2. 緊張感のない日本外交
 対米最後通牒が、真珠湾攻撃の50分も後になってしまった。駐米野村吉三郎大使*1ら在ワシント日本大使館の関係者は 全責任を負うべきものであった。この通牒の遅れは、対日戦に消極的であった米市民の怒りを誘発し、 その怒りは燎原の火の如く拡がった。  この卑怯な日本人の延長の先に、撃沈され辛くも生存した漂流将兵に対する執拗な銃撃を加えることにもつながった。
 海軍出身者が書く戦記の多くでこの最後通牒の遅れについて外務省を責める。 外務省は開戦の瀬戸際まで蚊帳の外だった。 1941年(昭和16年)11月29日大本営連絡会議で外務大臣東郷茂徳が開戦の時期と攻撃地域を教えて欲しいと尋ねた。外務省としては直前まで偽装外交を展開しなければならない。 この席で軍令部次長だった 伊藤整一(沖縄水上特攻司令長官*2)は外務大臣に向かって「軍令に口を挟むとはけしからん」と一喝。一官吏の伊藤整一が国務大臣を恫喝している。 この程度の専門バカが軍令のトップだったのだ。 外務省だけを責められない。
*1 野村吉三郎もその前身は海軍だった。
*2 1944年12月第二艦隊長官に就任するまでずっと作戦・指揮立案の中枢にいた。日本の敗戦の全てに係わったといっても過言ではない。特攻兵器の製造も全て彼が承認している。

1-3. 石油資源
 1941年、国内資源は需要の12%しか供給できなかった。海軍燃料敞で製造できたガソリンは87オクタン価で、最終到達も91オクタン価であった。 対米関係がぎくしゃくし出した 1938 年頃から、100オクタン価ガソリン、エチルフルド耐爆剤、 潤滑油などの輸入に努めた結果、1年半程度の間作戦可能の備蓄量となった。 戦争初期に海軍は タラカン、バリックパパンなどの確保により、一時的に燃料不安は解消されたが、船団護衛のシステムを構築(知らなかった)できなかった海軍は、 日本全体の国力増強に無力であった。 工業工作機械も貧弱だったが、高品質潤滑油100オクタン価ガソリン枯渇により発動機製造も大きく制扼した。 石油が無い! 南進論の急先鋒は海軍だった。

1-4. 頭が固かった海軍
 東郷元帥の末裔を自認する海軍で日露戦争の成功体験(亡霊)を引きずっていた。 海戦の花形は戦艦でそれ以外の艦艇は補助戦力扱いであった。 戦艦に活躍の場を与えるのが航空母艦であり、敵情偵察の補助的任務が第六艦隊という潜水艦部隊だった。 駆逐艦は戦艦が進撃する前路掃討が主務で、それを束ねるのが巡洋艦だった。 テクノロジーが急速な進展を見せたが亡霊たちの頭が切り替わることはなかった。 その根源は建艦の神様平賀譲に起因する。 そのような状況で船団護衛などの地道な任務は海軍軍人のする役務ではなかった。 艦隊行動の燃料が不足する状況で 31戦隊という海上護衛を主担とする絵に画いた餅を構想したにとどまった。 名提督として名の高い山本五十六も、南ソロモン・ガダルカナル島の戦いで、補給に駆逐艦や潜水艦を使わざるを得ない実態に遭遇したとき、為す術もなく立ちすくんだ。 明治の建軍以来全く教えられなかった輸送という戦いが展開された。

そしてここが一番問題だが
  目的を有する組織は論理的でなければならない。航海,砲術,水雷など個別ジャンルの教育・術力は当時の世界トップレベルにあったものと考えられるが、組織を動かす根幹に係わる部分は情緒的情動に支配されていたように思える。論理的・合理的なものが全く見えない。例えばミッドウェイ海戦。 二航艦の攻撃具申を潰した源田実航空参謀はその後も海軍の要職に座り続けた。司令長官南雲にしろ全く更迭されていない。 すなわち専門バカ(失礼だが)は育ったが経営者的能力の涵養は全くないがしろにしたとしか思えない。

1-5. 科学技術の立ち遅れ
(1) 土木建設能力不足。
 飛行場などの建設で土木作業は人力に依存した。ラバウルから 1,000Km も離れたガダルカナルに 飛行場を建設したのも、途中の島嶼に平坦な場所がなかったことによる。 海軍だから土木機械が無かったのではなく、陸軍、政府機関、民間会社にも 土木機械は無かった。 一方米工兵隊は大規模な滑走路でも2週間程度で完成させた。 路盤には鉄板を敷き詰めたので、 雨天泥濘で離着陸不可能ということもなかった。 島嶼に桟橋を造る技術なども日米間に大差があった。 ガダルカナル島の戦いの敗因は、艦艇、航空機の性能とパイロットの練度・技量の差ではなく、 土木建設、海上輸送能力、船団護衛能力の差であった。
(2) 電波兵器の性能不足。
 艦隊の位置を悟られないために電波を発することを極端に忌避した海軍に、電波兵器に対する著しい認識不足があった。 1944年3月、国内石油資源不足で大部分の艦艇はボルネオ島近くのタウイタウイ島に進出したが、 この時はじめて哨戒にレーダーを使う有りさまだった。 レーダー射撃も、レーダーを活用した防空システムも通信機の性能不足で 敗戦まで構築されなかった。
(3) 電波兵器への無理解−1
 開戦劈頭、空母航空部隊が有力な戦力となってもなを、在空航空機との通信の必要に気付きもしなかった。  また、レーダーをどのように使用すれば最適かという研究は最後までなされなかった。 航海に役立つから航海兵器だとか、 敵機が探知できるから防空兵器だとか、それらを組み合わせて防禦に使おうという考えさえ切り出せなかった。 海軍にあって「防空・防禦」など言い出すと人間として扱ってもらえなかった。 それらの言葉は卑怯者の使う言葉であった。 ところが、先の太平洋戦争の戦闘で司令官・指揮官で逃げまくる卑怯者を多発した。逃げることが普通だった兵学校出身士官にあって 「禮号作戦」で逃げなかった木村昌福は英雄視された。
学ぶべきところを学ばなかった。日露戦争における日本海海戦の勝利も、『敵艦見ユ』という電信だったが、このことをトンと忘れて御座った。 当時大日本帝国は世界に冠たる一等国と自認していたが、産業の裾野は拡がりがなく発展途上国の技術模倣国家であった。
(4) 電波兵器への無理解−2
 レーダーについても、陸軍・海軍で別々に開発した。海軍は、海軍技術研究所や、航空技術敞でこれまた別々に 研究開発した。 組織の縦割りで研究し情報交換さえなかったので、それでなくても薄い人材を分散し 乏しい資源を奪い合う愚を犯した。 彼らは、国を挙げての総力戦に気付きもしなかった。
日本人の性癖として島国感情がどうしても抜けない。 現在でも同一事業を各省庁で別々に行っている。
(5) 海軍とサイエンス(科学)
 科学思考が全く欠落していた。明治維新から現在に至るまでの模倣国家は、自分の頭で考え問題解決する能力に欠けていた。 実際その問題点が 明らかになっても、対策対応をとらず、対策会議を開催しても議論ばかりで実践と実行力が伴わなかった。
 源田 実のバカは三四三空編成時、 『航空がだらしないから敗けているのだ』と的はずれどころか脳みそが腐っているような驚(狂)言を発している。すぐ発火する一式陸攻、ガソリンドラム缶にプロペラを取り付けたような戦闘機。
故障続きの航空機。信頼性の低いエンジン。 これらが現場の志気低下を招いたことは容易に察しがつく。
  合理的・科学的・論理的思考が抜けていただらしない士官養成機関が海軍兵学校である。 現在名将の誉れ高い山本五十六さえ水からガソリンが出来ると信じていた。 その程度の提督が兵学校教育実態を物語る。

1-6. 武功表彰の軽視
  生きて戦うことより、戦いで死ぬことこそ至上としたので、いくら戦功を積んでも勲章を授与されなかった。 国家による最高勲章「金鶏勲章」は生存者に1個も授与されていない。 喰うか喰われるかの航空戦も いくら米機を撃墜しても編隊単位の表彰であった。  一方米国は、功績者には早々と勲章が授与され、場合によっては大統領が直々に授与した。
会津白虎隊がその好例。一方的短絡的自殺をもてはやしている。 生存者は一顧だにされない。

1-7. 占領と現地住民対策
  一時期広範囲を占領したが、選ばれた民である日本人観(神民観)で、現地人を愚民視した。  人権感覚を持たなかった軍人たちによる軍政は反日感情に火を付けた。 人間等しく心を持っていることさえ気付かなかった。  よって現地人の協力を言葉では五族協和と叫んだが空回りした。
 米軍機による都市市民の無差別爆撃を非人道的と声高にしゃべれない。 数こそ死者12万人だがマニラ攻防戦では マニラ市民を人間の盾とした。

2. 救いようのない陸軍
  太平洋の戦いは意に反したのか両軍とも水陸両用作戦なる思想が欠落していた。 重要な戦機に統合部隊をつくる熱意も構想も芽生えなかった。
 航空機が主戦力だった太平洋戦争で航空機製造機数も陸海軍の紛争の種だった。サイパンが陥落(1944/07)した後、陸海で 52,250機製造することが決まったが、 その内陸軍が27,120機,海軍が25,130機であった。

2-1. 水陸両用作戦思想の不在
  太平洋を主戦場とする決定をし、そこには多数の島嶼があるという現実にもかかわらず、それに対応した 軍事技術(敵前上陸・物資分散・揚塔設備)や能力向上の準備がなされなかった。 わが国が海洋国家であるにも かかわらず、そのような作戦が行われるであろうという想像力さえスッポリ欠落していた。
 本格的上陸戦となったガダルカナルの戦いに使用された上陸用舟艇は1932年上海事変に使用された年代ものだった。
 更に、このような遠隔地に大兵力を短時間に輸送し、重火器などの運搬、 必要な物資を短時間に揚貨・揚陸する上陸用舟艇さえ無かった。 これらの戦闘遂行資源は人力という、四千年前のピラミッド建設当時となんら変わらない方法、 すなわち、全て人力に頼った。 このような状態で、虎の子の輸送船も海岸擱座という使い捨て戦法を選択せざるを得なかった。 もともと資源のない国家がこのような状態で戦争を続けられるはずもなかった。

2-2. 陸海軍統合部隊さえ出来なかった
  国を挙げての戦争に、日本の縦割り組織は、陸海軍が協同して統合部隊を創設し戦うということをしなかった。 口では「緊密なる協力」と云いながら縦割り組織のままだった。 国内で陸海軍がいがみ合うのは何ら問題にならないが、 欧米列強と戦う以上、弊害は取り除く必要があった。

2-3. 陸軍と米陸軍の相違
(1) 陸軍航空部隊
  陸軍は優れた航空部隊を持たなかった。当然洋上航法さえ教えなかった。  終盤の沖縄菊水特攻作戦でも陸軍機の多くは、海軍機の誘導を必要とした。  このことは陸軍の指導者たちが時代の変化に対応しうる先見性が欠如していた証左以外の何ものでもない。米陸軍が四発の大型機(B-17,B-24,B-29)など保有し、 かつ輸送船団攻撃に 米陸軍機 B-25 が猛威を振るったことを考えたとき陸軍擁護の言葉さえ失う。
 零戦に遅れること1年。一式戦闘機「隼」が誕生するが、当初その装備は 7.7mm 機銃二挺である。 飛行機に歩兵機銃程度の口径銃で陸軍首脳はどんな "いくさ" を描いて製造したのだろうか?? これまたクェッションマーク百個付けても分からない。 更に開戦時保有した一式戦は40機足らずであった。
 この様な状況下で陸軍陸上部隊は地上戦を戦った。 よって太平洋戦域で海軍航空隊は米陸軍機、空母艦載機、 英・豪航空機を一手に引き受け戦わざるを得なかった。 初期ソロモン消耗戦に日本陸軍機は蚤の力ほどの貢献もなし得なかった。
 陸軍は海の上を飛べる航空兵を育てなかった。1942年(昭和17年)、中東部ソロモンに陸軍航空隊が進出できないのもこのためだった。
そのくせ、陸軍頭は特高警察を使い、「竹槍では勝てぬ」と叫んだ毎日新聞記者を逮捕し、懲罰徴兵を行った。
(2) 機械化部隊思想の欠如
  元亀天正の頃より、わが国の歩兵は徒歩で戦った。 第一次世界大戦以降地上戦も機械化部隊が出現し戦場は大きく様変わりした。ところが、 日本陸軍はこの状況に全く食指を動かすことなく、 相変わらず徒歩での戦闘訓練に明け暮れた。
 ソビエト政府成立後、仮想敵国をソ連としたが、 陸軍の首脳部はあのソ連の首都モスクワを徒歩で攻め立てようとしたとしか考えられない。なにしろ、 ブリキの玩具なみの戦車を保有し、武器弾薬食料を可及的速やかに戦線に届ける輜重部隊を持たなかった。

2-4 熱帯疾病・伝染病対策無知と欠如
  陸海軍とも熱帯地方のマラリヤ・デング熱、赤痢などの予防、治療の能力が著しく欠けていた。 陸軍などは、戦線に派遣された将兵の実に60%程度が疾病・餓死による死亡とされ、 敵軍にも勝る最大の敵となった証しである。

3. 救いようのない海軍
3−1 大艦巨砲主義の亡霊
 1904年(明治37年)2月に発生した日露戦争で戦いの大勢を決した日本海海戦(1905年5月27〜28日)が 大艦巨砲によってロシア海軍を撃滅したことで巨大戦艦病に取り憑かれてしまった。 戦艦の主砲を扱う砲術科に身を置いた士官は、蛸壺海軍内で多くの分野の要職に付くことと栄進が約束された。
 この大艦巨砲も航空機が出現するまではそれなりの存在意義があったが、 開戦劈頭海軍航空部隊が戦場の主役となった後も、東郷元帥の末裔たちは、 航空機を撃ち落とす高角砲配置者を「鉄砲屋のクズ」と蔑んだ。  太平洋戦争では空母が海上戦力の中核をなしたが、瀬戸内に錨泊する場合も戦艦には防潜網を張り巡らし大切にされたが、空母にそのような処置がとられることはなかった。
 米海軍は新型高速戦艦は副砲を取り外し、対空装備を強化し空母の護衛にまわしたが、日本海軍は床の間に飾ったままだった。  おそらく米海軍のような戦艦使用法だと反乱が発生したかも知れない。
 ご免、書き忘れていた。マリアナ沖海戦から戦艦を空母の護衛もどきに配置した。 戦い終盤、この戦艦群は 臆病風に吹かれたのか、一番先に逃げていた。 なぜか新時代(征空能力)に対応した高速戦艦を建造しなかった。 詳しくは戦史叢書「マリアナ沖海戦」を読まれたし。
 空母の護衛など戦艦屋のプライドが許さなかった。 米国と戦争しているのか、 蛸壺内で戦艦屋というステータスに固執しているのか訳の分からない組織に成り下がった。  開戦前に保有していた戦艦10隻と戦時中に完成した戦艦2隻も戦艦らしい戦いの場もなく8隻が沈められた。 結局敗戦時に4隻がスクラップ同然で海に浮かんでいた。結局太平洋戦争で一番働きの悪かったのが戦艦であった。
1位 駆逐艦174隻中 135隻喪失 損耗率 77.6% , 2位 巡洋艦47隻中 36隻喪失 損耗率 76.6%
3位 空母25隻中 19隻喪失 損耗率 76.% , 4位 戦艦12隻中 8隻喪失 損耗率 66.7%  主要艦艇損耗はこちら

3−2 空母航空隊を基地航空隊に使用した愚
 1943年(昭和18年)、初頭空母戦力ではまだ日米互角であった。 悪化しつつある戦局を打開するため連合艦隊司令長官山本五十六は空母艦載機約180機と 基地航空隊約190機で航空部隊を編成し、鉄底海峡やニューギニア東部の目標を攻撃させたが、戦果の割には犠牲がが多かった。
 開戦当初世界最強の空母艦載機隊を有していた。米豪の連絡線(輸送路)を断つという名目でガダルカナル島に進出した。 当然反撃を喰らうのは必然である。  その世界最強の艦載機隊をラバウル基地に揚げてしまい基地航空隊として使用した。 その戦力の維持には周到な準備と配慮を必要としたが、 艦載機隊を安易にまるでハンカチを雑巾に使うようにすり減らした。艦載機パイロットの養成に米軍は大規模効率的?にか12カ月程度でどんな作戦にも使える一人前に育てたが、 日本海軍はその倍の時間を必要とした。  貧弱な工業生産力とパイロット養成時間を考慮すれば、ハンカチを雑巾に使用する愚は避けるべきであった。 実際のところガダルカナル戦域撤退までに海軍 932 機。熟練搭乗員 2,362 人が失われた。ガ島空域(ソロモン空域)のみだと 892 機、搭乗員 1,882 人喪失。  一方米海軍機は開戦から3年間での空中戦での損失はたかだか 645 機。 この数字は空中戦に限った数字である。お間違えのないように。
日本の敗因は、工業生産力の差ではなく、人命軽視の使い捨て体質だった。
昭和18年(1943)2月以降米航空部隊は日本機との空中戦においてドッグファイトを禁じた。上空占位一撃離脱方式に改める。

3−3 航空行政の不手際
 海軍首脳は短期決戦以外の勝算なしとしていたから、当然この線で物事を推進すべきであった。  当時中島飛行機や三菱に対して開発を命じていた発動機と機種は10種類にものぼる。 当然多くの 研究者、開発者、資機材、それを支える人員が必要であった。  呆れてものが云えないのは戦前中島飛行機に命じた発動機「誉(21型)」・「陸軍ハー45」(同一設計)は、 日本で製造できなかった100オクタン価ガソリンと、米国製最高級航空機用潤滑油を使用するという前提で 試作を命じた。 突然、そんなものは供給出来ん! と梯子を外した。 結局実用になったのは艦上 偵察機彩雲と対潜哨戒機東海の二機種だけだった。 しかし、それさえ出現があまりにも遅すぎた。
空技敞和田敞長より「最も高級な材料、燃料、潤滑油」での 試作(1940年9月15日試作命令)を命ぜられが1942年に入ると、 100オクタン価のガソリンは供給できない。と通告されている。
『悲劇の発動機「誉」 前島孝則/著 草思社 2007/7/31発行』頁142〜

すなわち、米国から輸入したハイオクタンガソリンが枯渇し、かつ日本ではそのガソリンが製造出来る装置をどこも有していなかった。

3−4 潜水艦用法の愚
 第一次世界大戦の教訓として潜水艦の用途は敵国の海上交通路の遮断であった。 太平洋を夾んで日米が 激突した以上、どちらも交通線確保こそが大命題であった。 当然日本の海軍もその線に沿って運用すべきであったが、艦隊決戦の亡霊に取り憑かれた海軍首脳部は 敵主力艦隊の監視、追躡、接触、攻撃の用途とした。 そのような任務なら潜水艦の最大の特性となる 静謐性を備えなければならないが、この点に関して全く考慮が払われなかった。 訪独潜水艦でドイツに その大騒音を指摘されながら、大騒音発生潜水艦に前述の使用方法のみ課した。 大艦巨砲による艦隊決戦など 起きないと気付いたはずたが、砲術系に活躍の場を与えたかったのか、これもハンカチを雑巾に使う 似ていた。遠隔地にある潜水艦に、次から次に無線での命令が飛びかい、挙げ句の果てに 127隻(戦史叢書・「潜水艦史付録第二」)が海の藻屑となった。
 海軍トップエリートとされた者たちは、戦艦劣勢(軍艦数) の認識の基で、漸減(ぜんげん)邀撃(ようげき)戦を考えていた。すなわち、 潜水艦や水雷戦隊で米艦隊を減殺(げんさい)し、その上で日本近海において艦隊決戦を挑むシナリオであったが、 潜水艦独自の用法を確立しなかった。

3−5 海上輸送と護衛の軽視
 米の石油禁輸政策の打撃をもろに受けた海軍は、それー南進だ!と戦争への舵取りを行った。  当然南進を遂行できる海上機動力・輸送力及び護衛の裏付けが必要だが、実態は大規模な作戦を支えうる海上輸送力 も、海上護衛を専門に担当する第一線部隊も中央機関も存在しなかった。 太平洋正面での大規模作戦の 勝敗が、海上輸送力と護衛力の優劣に大きく左右されていたにもかかわらず、海軍にその準備が なかったことに絶句する。 よって海軍兵学校出身の優秀者が配置されもしなかった。 高角砲配置者さえ「鉄砲屋のクズ」と蔑んだ彼らに一国の運命が託されていたことに言葉を失う。
 この兵学校出身のバカどもが、自らの艦隊を動かす燃料が払底し、始めてその重大性に気付いたのが 「あ号(ニューギニアの戦い)」作戦の失敗後で、すでに敗色濃厚になった頃であったと云っても過言ではない。
 それら、船団護衛艦艇に「二式2号2型」レーダーが装備されたのが 1944年9月頃であった。 対空レーダー 「三式 1号3型」の装着は更に遅れた。 海上輸送力と護衛力の能力不足により南方資源還送の道が断たれ、 その燃料・物資不足が、兵器生産に重大な影響を与え継戦能力を喪失させた。  先の太平洋戦争が戦術的敗戦の結果ではなく、海上輸送・護衛力の戦いが敗戦を決定付けた。
 1944年に入ると、毎日平均3隻の輸送船を喪失したが、補給線の長さは米国も一緒である。米西海岸から、 豪州へ、テニアンへ。軍事に素人の愚輩でも、この補給線を破壊すれば怒濤の米軍を阻止できることが解るのに、 その対策と対応さえしていない。 それでも、誉められることが一つあった。激励電や作戦命令書の起案文である。 兵学校とは小学校の綴り方を教えていたところに違いない。

遠隔地への輸送の齟齬

山本五十六の逆鱗に触れた司令官田中頼三
南太平洋の戦闘で田中は水雷戦隊を率いて戦った。そして全ての海戦におおむね勝利を収めた。山本五十六の逆鱗に触れたのはルンガ沖夜戦(1942年11月30日)であった。輸送駆逐艦6隻+駆逐艦2隻にガタルカナル島への兵員と物資を満載して突入。重巡4を含む敵11隻と魚雷戦,砲戦を交えた。結果は味方駆逐艦1喪失。敵重巡1喪失。重巡3大破。しかし兵員,物資の揚陸は断念する。引き続き4日後田中に第二次ガ島物資輸送作戦を命ずる。 これも米機の襲撃で少量の物資を揚陸したに過ぎなかった。第三次,第四次輸送作戦も成果を挙げられなかった。
この駆逐艦物資輸送作戦は山本五十六が命じたが雌雄を決する海域での大所高所に立脚した総合的作戦計画の欠如が大きい。常に敵より劣勢な少数の駆逐艦を繰り出している。初回一気に大兵力で輸送作戦を行えば成功したであろう。またこの段階で制空権を失ったことも駆逐艦での物資輸送を困難ならしめている。 田中頼三は左遷され再び敗戦まで海上勤務つくことはなかつた。

同じく更迭左遷された人物に阿部弘毅中将がいる。彼の指揮した海戦で戦艦比叡を失う。艦長西田正雄は沈み行く艦から退艦したとして時の海軍大臣嶋田繁太郎海軍大将により、予備役に回された。嶋田繁太郎は東條英機の腰巾着(きんちゃく・財布)と呼ばれるほど主体性のない人物と伝えられている。

3−6 軍令部と連合艦隊司令部の戦術・戦略的判断の蹉跌
1) 連合艦隊司令部に押し切られたミッドウェイ海戦。 大艦巨砲が太平洋の戦いを制するとの思惑により、 世界最優秀の空母艦載機と空母を失った。 先制航空攻撃のチャンスを源田 実(戦後空幕長を経て参議院議員)が潰した。彼の判断も責められるべきだが、 彼ごときに、航空攻撃の機会を聞く司令官・指揮官にも大問題があった。 この艦隊を率いた呆けどもは、重巡三隅の生存乗組員さえ 戦場に放置した。 それにひきかえ、米海軍はガッツ(闘志)の固まりであった。
2) ラバウルから遠く離れたガダルカナル島に進出したことは軽挙であった。 輸送力も補給力もない海軍は、敵を知らず、自らも知らなかった。
3) 判断の根拠が知りたい「軍令部作戦部長 中澤佑」マリアナにはいずれ来るでだろうが、6月に来るとは思わなかった。 その海戦で、前衛・第2艦隊,第1戦隊 大和・武蔵,第3戦隊 金剛・榛名,第5戦隊 妙高・羽黒, 第4戦隊 愛宕・高雄・摩耶・鳥海,第7戦隊 熊野・鈴谷・利根・筑摩。  さがれとの命令を受領するや韋駄天のごとく逃げ帰った。  対する機動部隊指揮官スプールアンスは、米艦載機の帰還が夜間になることで逡巡する部下に、空母が艦載機を追いかけろと命じた。
4) レイテ沖海戦。逃げの栗田・小柳コンビ。 必死の小澤艦隊が、米正規空母部隊を誘引し、 「我攻撃ヲ受ケツツアリ」の電文は到着しなかった。とほざいた。 その電文は日吉台(連合艦隊司令部)には届いている。 逃げたい一心で都合の悪いことは聞かなかったことにしたのであろう。
 開戦劈頭世界最強の艦載機群を持っていた。 これら二十歳前後の搭乗員は、 海軍で「鉄砲屋の本命」とされた者以上によく戦った。 ソロモンで消耗し、フィリピン、沖縄で特攻として果てた。 彼らの献身にもかかわらず敗戦となったことは、 ひとえに司令官・指揮官に論理性・合理性がなかったことに尽きるだろう。  米国人も日本人も人智に大差があるとは思えない。 この論理性の無さがこの戦争は敗れるべくして敗れたと云えるではなかろうか。
海軍で
至誠に悖(もと)るなかりしか
言行に恥ずるなかりしか
努力に憾(うら)みなかりしか
気力に欠くるなかりしか
不精に亘るなかりしか
少しばかり海軍の戦史や技術史を垣間見たが、前述一〜四まで、スポッと抜けていた海軍だった。 人間として越えてはならない一線を越え、戦後特攻に関して聞かれると黙して語らず、 最新技術の電探活用法を考えもせず、海戦では多く逃げ腰となり、沖縄水上特攻が決まるや、 生きていても仕方がないとつぶやくなど、五誓に恥ずる人間が海軍のリーダーらであった。 自分には甘く、下には厳しい欠陥人間組織が海軍兵学校の人間たちでもあった。

米国の戦争遂行組織

大統領(Roosevelt)
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レーヒ提督(Leahy・大統領付き参謀長)
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  *― A・キング作戦部長 ― ニミッツ提督(太平洋方面最高指揮官)
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  |                  *― ビル・ハルゼー提督(第三艦隊長官)
  *― B・マーシャル参謀総長       |
          |                 *― ミッチャー中将(高速空母機動部隊)
          |
          * ― マッカーサー将軍(南西太平洋方面最高指揮官)
                |
                *― キンケイド中将(第七艦隊長官)


第二奇兵隊取材班
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