軍艦大和戦闘詳報、
  二水水雷戦隊戦闘詳報・第二艦隊組織と戦艦大和、及び司令部生還者の選択

戻る 戦艦大和TOP

昭和20年(1945)4月6日 13:00 戦艦大和艦上 各級指揮官,艦長以上出席 作戦会議
1)2F参謀長口達
2)GF参謀長本作戦に関する説明
3)司令長官訓辞 乾杯
 この席上、2F参謀長より、艦隊構成,任務,軍隊区分が令された
一、第一遊撃部隊の艦隊構成、任務、軍隊区分
二、進撃接敵要領
(イ)第一遊撃部隊はY−2日 一八〇〇豊後水道出撃。Y−2日夜間大隅海峡を通過し南西諸島列島線西方を迂回
進撃Y日〇四〇〇沖縄島西方海面に突入す。
前路掃討隊は大隅海峡通過後令により解列内海西部に帰投す。
(ロ)大隅海峡通過迄は主として対潜警戒を爾後対空警戒を厳にす。
(ハ)水上偵察機
 (一)司令部水偵はY−2日及びY−1日佐伯指宿を基地として艦隊の対潜警戒を実施す。
 (二)矢矧水偵はY−1日令に依り発艦主として沖縄西方海面の偵察を実施す。
三、戦闘要領
 昼夜戦を問わず全軍結束急速敵に肉薄必死必殺の特攻攻撃を本旨とし戦闘要領は第一遊撃部隊戦策に依る。
四、別図〔第一遊撃部隊命令策第三号別図〕の通り予定す。
 特令なければ第二航路とす。
GF電令作第607号(04051500番電)で令された海上特攻隊はY−1黎明時豊後水道出撃Y日黎明時沖縄方面海面に突入敵水上艦艇並びに輸送船団を攻撃撃滅すべしY日を八日とす は明確に否定された。この607号電の受信は 17:30 と記録されているので、作戦打合わせが発信された 04061015 すなわち4月6日 10:15 16時間弱の間にGFと2Fの間でどのようなやりとりがあったのであろうか。
そして、1YB長官から軍令部総長に送信(04061305)された1YBの沖縄島突入は素人目にも間の抜けたものとなった。
七日 〇三〇〇 佐多岬
   一〇〇〇 31度12分 N 128度15分 E。  佐多岬よりこの地点まで238Km/7Hr 18.3Kt
   二〇三〇 28度12分 N 126度41分 E。  この地点から沖縄まで220Km/7.5Hr 15.8Kt


【第一遊撃部隊機密命令作第三号別図】
第一遊撃部隊(1YB)
艦隊名隊 区隊 名艦 名職 名階 級氏 名就 任
第二艦隊
2F
主隊旗艦大和 艦長大佐有賀幸作1944年11月〜
副長大佐能村次郎 
警戒隊
第二水戦
2Sd
〔矢矧d×8〕
旗艦 矢矧 司令官少将古村啓造1945年1月〜
艦長大佐原 為一1944年9月〜
第17駆逐隊
17dg
司令大佐新谷喜一1944年12月〜1945年4月
磯風艦長中佐前田實穂1944年11月〜1945年4月
雪風艦長中佐寺内正道1944年12月〜1945年6月
濱風艦長中佐前川萬衛1944年8月〜1945年4月
第21駆逐隊
21dg
司令大佐小滝久雄1945年3月〜1945年5月
初霜艦長少佐酒匂雅三1944年8月〜
朝霜艦長中佐杉原與四郎1944年3月〜1945年4月
艦長少佐松本正平1944年3月〜1945年4月
第41駆逐隊
41dg
司令大佐吉田正義1945年3月〜
冬月艦長中佐山名寛雄1945年3月〜
涼月艦長中佐平山敏夫1945年3月〜1945年5月
主要任務 敵水上艦艇並びに輸送船団撃滅
第二艦隊前路掃討隊
第31戦隊 31S
司令大佐作間英邇1945年3月〜
第43駆逐隊
43dg
花月艦長少佐東日出夫1944年12月〜
艦長少佐岩淵五郎1944年9月〜1945年4月
艦長少佐石塚 榮1944年8月〜
主要任務 艦隊の対潜対空警戒
敵水上艦艇との昼夜戦を予期する場合の軍隊区分も作成。
1.第一部隊    大和(二艦隊長官)、第41駆逐隊(2隻)*3
2.第二部隊    矢矧(二水戦司令官) 第17駆逐隊(3隻)、第21駆逐隊(3隻)
*3 第41駆逐隊を直率(ちょくそつ)とした。 
軍隊区分                                             図−3
部隊名艦隊名隊 区隊 名艦 名職 名階 級氏 名

Y

B


旗艦

(第一部隊)

 ×大和艦長大佐有賀幸作
副長大佐能村次郎
直率 41dg

第41駆逐隊

司令大佐吉田正義
冬月艦長中佐山名寛雄
涼月艦長中佐平山敏夫
2Sd

第二水戦

(第二部隊)

旗艦×矢矧司令官少将古村啓造
艦長大佐原 為一
17dg

第17駆逐隊

司令大佐新谷喜一
×磯風艦長中佐前田實穂
雪風艦長中佐寺内正道
×濱風艦長中佐前川萬衛
21dg

第21駆逐隊

司令大佐小滝久雄
初霜艦長少佐酒匂雅三
×朝霜艦長中佐杉原與四郎
×艦長少佐松本正平
生還艦  損傷生還艦

名 称職 名職 階氏 名就 任職 掌備 考
第二艦隊 司令長官中将伊藤整一1945年1月〜 戦死
軍医長医少将寺門正文  戦死
副 官中佐石田恒夫  生還
参謀長少 将森下信衛1944年11月〜 生還
参 謀大 佐山本祐二1944年8月〜先任戦死
 〃少 佐松岡 茂1945年2月〜機関戦死
 〃中 佐宮本鷹雄1944年3月〜砲術生還
 〃少 佐末次信義1944年12月〜水雷戦死
 〃  〃 大野義高1945年1月〜 戦死
 〃  〃 小澤信彦1944年8月〜通信 戦死

名 称職 名職 階氏 名就 任職 掌
第二水戦

司令部
司令官少 将古村啓蔵1945年1月〜 
参 謀大 佐廣瀬 弘1944年11月〜 
参 謀 〃松原瀧三郎1943年10月〜(砲術)
 〃 少 佐板谷隆一1944年11月〜(航海)
 〃  〃大迫吉二1945年2月〜(機関)
 〃  〃星野清三郎1944年11月〜(通信)
-- 環境の変化に対応が出来なかった巨象 --
進化の最盛期だった「白亜紀」も終わり地球の環境が激変したとき、恐竜はその姿を消した。 明治以来の防衛思想のもとで、大艦巨砲、艦隊決戦を金科玉条とした海軍が、 常に何千キロメートルもの補給線を確保できる訳もなかったし、 主要工作機械や兵器まで外国の亜流であった模倣国家の海軍が、 エレクトロニクスと航空機が戦場の主役になったにもかかわらず、 柔軟に対応できもしなかった。 その巨象が倒れるまで、そんなに日月は要しなかった。  自ら巨象と信じていた奢りは単なる虚像であった。 この虚像は虎の衣を借りる狐に等しかった。 艦艇戦史をほじくると、 一番勇敢だったのが、特務士官で次が下士官、その次が予備学生。 太平洋広しと逃げ回ったのが海軍本流の兵学校出身者であった。
-- 第二水雷戦隊戦闘詳報抜粋 --
戦 訓

制空権ヲ有セザル艦隊ノ脆弱*1ナルハ既ニ「マレー」沖海戦以来幾多ノ戦闘ニ 於テ実証セラレタル処ナリ故ニ此ガ使用ニ当リテハ特ニ左ノ点に考慮スルヲ要ス
(一) 完全ナル制空権ヲ確保シ得ザル場合ト雖モ突入迄強力ナル直衛機*2ヲ附シ勢力ノ保存ヲ期ス
(二) 極力天象*3ヲ利用ス
(三) 航空作戦乃至輸送作戦ノ牽引ニ使用ス
之ヲ要スルニ作戦ハ飽クマデ冷静ニシテ打算的ナルヲ要ス徒ニ特攻隊ノ美名を冠シテ強引*4ナル 突入作戦ヲ行ウハ失ウ処大ニシテ得ル処甚ダ少ナシ  -- 中略 --

突入作戦等極度ノ機密ヲ要スル作戦ニ於テハ予メ計画準備ヲ完成シ電報一本ニシテ 即応シ得ル対勢ニアルヲ要ス 天一号作戦ニ於テハ突入作戦ハ実施セラレザル方針 ナル処突然之ガ実施ヲ下令セラレル為燃料搭載出撃準備警戒要領等ニ関シ電報量*5 激増シ我が企図ヲ察知セラレタリト認メラルル点多シ

特攻部隊ノ使用ニ当リテハ如何ニ九死ニ一生ノ作戦アリトテモ目的完遂ノ道程ニ於テハ最モ 合理的ニシテ且自主的ナル如ク細密ナル計画ノ下ニ極力成算*6アル作戦ヲ実施スル要アリ思ヒ 附的作戦或ハ政略的作戦ニ堕シ貴重ナル作戦部隊ヲ犬死セシメザルコト特ニ肝要ナリ
五 其ノ他
敵機ノ被弾防火対策ハ略完全ニ近キモノト認メラル。我が機銃弾*7ハ相当命中シ火ヲ発スルモ間モナク消火シ 撃墜ニ至ラザリシモノ 極メテ多カリキ


出典:国立公文書館
アジア歴史資料センター
第二水雷戦隊戦闘詳報は、今回の作戦を怒りを込めて思い付きの犬死に作戦と総括した。
また、作戦目的の曖昧さ鋭く追求した。
1.航空攻撃を容易ならしむる目的だったのか?
2.航空部隊の志気昂揚に資するためだったのか?
3.沖縄三十二軍の総攻撃に策応するためだったのか?
但し、『沖縄方面・海軍作戦』には、左に掲げた第二水雷戦隊の戦闘詳報はこれを掲載していない。また軍艦大和の戦闘詳報の肝心な部分も掲載していない。更に大和戦闘詳報の肝心な部分をも掲載していない。
現在、国立公文書館アジア歴史センターのWebサイトでこれら戦闘詳報は閲覧出来る。 軍艦大和の戦闘詳報は国立公文書館アジア歴史センター のトップページ、またはこちらから
1.資料の閲覧をクリック
2.レファレンスコードをクリック
3.次のコード『C08030566400』を入力
標題: 昭和20年4月6日〜昭20年4月7日 軍艦大和戦闘詳報 画像数13 と表示される。順に読んで行けばよい。 ちなみに、公刊戦史で抜けているロ項を次に掲載する。
二水戦コード『C08030103200 【 画像数 】 92』

- 軍艦大和戦闘詳報 作戦及び用兵の部 ロ項

戦況逼迫(ひっぱく)セル場合ニハ兎角焦慮ノ感ニカラレ計画準備ニ余裕ナキヲ常トスルモ特攻兵器ハ別トシテ 今後残存駆逐艦ヲ以テ此ノ種ノ特攻作戦ニ成功ヲ期センガ為ニハ慎重ニ計画ヲ進ル事前ノ準備ヲ可及的綿密ニ行フノ要アリ 思ヒ付キ作戦ハ精鋭部隊ヲモミスミス徒死セシムルに過ギズ

第二水雷戦隊も軍艦大和戦闘詳報も怒りを抑えつつ、思い付き作戦によって徒死したと報告している。これは病臥中だった大和副長にかわって 生還した清水芳人副砲長が書いたという。それでも、第二艦隊参謀長だった森下信衛も能村次郎副長も点検したがひと文字の削除も、一行の追加もしなかったという。 彼ら三人の胸中に思い付き作戦で多くの精鋭が春秋に富む若者が徒死したその怒りを戦闘詳報に投げつけた。
天皇の軍隊が天皇の命令で出された作戦を、これほどまでに痛烈に批判した様相は末期的情況を呈する。 それほどまでに痛恨の思いが筆を奔らせたのであろう。 犬死にとまで言い切っている。
なお、軍艦大和戦闘詳報の表紙及び目次は
自昭和二十年四月六日至〃四月七日 軍艦大和 禁焼部
(目次)一、形勢(略) 二、人討画(略) 三、経過 四、令達報告(略) 五、戦果被害 六、我兵力ノ現状(略) 七、参考事項 一、形勢ニ計画(略)
である。
公刊戦史編者は作為的に都合の悪い内容は取り上げなかった。第二水雷戦隊戦闘詳報は25mm機銃の能力不足と新規に採用された照準器への慣熟がなされず破壊力も小さかったと書く。 また電探射撃が備わってない対空戦闘は致命的であった。とも書いている。現場は過去の戦訓を研究せず、無対応だった作戦指導部の怠慢を鋭く追求もしている。 これも、国立公文書館アジア歴史センターのWebサイトで「第二水雷戦隊戦闘詳報」というフレーズで検索出来る。

*1 対航空機に対して水上艦の不利は指摘のとおり。 ただし帝国海軍はその対空火砲に研究不足のところがあった。 中間域を制圧する米軍にみられる ボーフォース(Bofors)40mm 機関砲(120発/分 射程:8.4Km) 機銃が無かった。
二水戦戦闘詳報もこの機銃を搭載しろと書いている。
*2 第一遊撃部隊(第二艦隊)がGFの指令どおり、7日黎明豊後水道出撃だったら 第五航艦は50機の直衛機を準備していた節がある。 それもこれも、当時の常識を無視(日中の航行)。白昼堂々と行動したことにある。  この件は戦後海軍関係者でも疑問視する声があがっている。
*3 天象の件。7日当日の天候は日米双方とも悪天候。日本の航空特攻は散発的となった。 米軍パイロットはその気象は悪く低空以外は視界不良と書いている。雲底も一番下は 600m 程度だ。 米コルセア雷・爆撃機(3座・操縦者・射撃爆撃手・電探係)は天山(艦攻・3座)と同じように機上レーダーを装備していた。 そのレーダーの捉えた輝点にむけて突入したと書いている。 あまりにも荒天だと今度は艦隊行動がままならないのではなかろうか。
*4 指摘のように、打算的な面があった。 すなわち突入日を開戦奉戴日(12月8日)の応答日である8日と先に決めてかかった作戦だ。  結果的には、そこそこ悪天候だったので、この日を外したらまず突入は無理だろう。
また、米偵察機 F-13 に捕捉(06/09:45)されていたので、 早晩沖縄戦の障害除去のために空爆を受けたことだろう。
*5 残された記録から実際のところ矢次早に電令されている。 すなわち企図が読み取られたと不信感をあらわにしてしているが、 指摘されるまでもなく福留繁以下海軍乙事件で暗号書は敵手に落ちていたので、 電令の多寡は問題ではなかった。
この大和戦闘詳報が提出された昭和20年(1945年)5月9日以前の段階で米軍が意図して残存 Imperial Fleet をつけ狙い、 豊後水道からのみ出撃できるようにさせていた。そのための監視は徹底されている。大和袋のネズミ作戦はこちら。
豊後水道出口に潜水艦2隻「スレッドフィン」と「ハックルバック」を配置。「スレッドフィン」は 17:45 大和発見を打電。 この潜水艦浮上を艦隊側は察知している。
公刊戦史のこの時刻もあやしい。第二艦隊は徳山沖を 15:20 頃に出撃しており、西水道出口深島沖140度2.5浬で、 第一警戒航行序列と命令しているので、この場所を 34゚ 41′35″N,131゚ 57′22″E あたりと想定すれば、徳山湾口から152Km地点だ。 大和が最大戦速で航行しないとこの時刻に到達できない。
大和に関する多くの記述に17:37時:佐多岬先端とある。 これが正しいだろう。 西水道を出たあたりから22ノットに増速し第一警戒航行序列で進んでいる。
*6 「極力成算」。すなわち、GFが示した豊後水道黎明出撃。 沖縄島黎明突入の前提条件は最短路進撃だったはずだ。それ以外のルートは、7日黎明出撃の条件を外すか、 沖縄突入黎明時のどちらかの条件を外さなければ成立しない。 よって残った選択肢は、第三号別図のルートT,変進点(回頭点)坊ノ岬方位239度 31゚ 00′N, 129゚ 44′E なのである。 勝手に出撃時刻を前倒ししたのは、第二艦隊側である。この記述は逆恨みに等しい。  多くの書籍に大和が進んだ航路は佐世保回航の欺瞞航路と書いている。 欺瞞と突入という反する行動を取らせる必要など全くない。 最終目的は沖縄島突入だ。
戦史叢書「沖縄方面海軍作戦」と米側記録の位置を地図上にプロットすると、第二艦隊は正直にGFの示した航路Uをなぞっている。
12:00 に米雷撃機に目撃された地点は、米軍記録 31゚ 08′40″N  128゚ 40′00″E ,沖縄まで 338.3浬(626.6Km) 当該残波岬の日の出 06:09。 明らかに第二艦隊の行動に矛盾がある。  戦争しているのに白昼堂々ピクニック気分で 18Kt でチンタラチンタラ沖縄に向う作戦であった。 大和戦闘詳報にみる怒りの矛先は突入という一点を捉えたなら、そのような選択を行った 第二艦隊参謀らに向けるべきだった。
攻撃した米側 12:00 の位置は 31゚ 15′N,128゚ 42′E であったが、次の 13:45 の位置は 30゚ 50′N,128゚ 05′E であり、 この区間距離は 87Kmで、そうなると 24Kt(44.4Km/Hr) でぶっ飛ばしている。
日本側 12:00 記録 30゚ 54′N,128゚ 05′E。
*7 防火対策を施していた米機に対し 25mm 機銃弾の破壊力は小さかった。 日本機が防禦、消火の対策をほとんど欠いていたのに比べ米機は小型機にまで消火対策が行きとどいていた。  攻撃が最大の防禦と考えた結果、このような対策を全く考慮しなかった海軍であった。 人命軽視の思想の悲しい結果でもあった。

1945年4月7日、総員上甲板命令のとき大和第一艦橋
総員退艦の直前。艦はすでに45度程度左舷に傾斜したとき第二艦隊司令部と大和乗組み上級士官
1.山本祐二先任参謀(大佐)  海軍 「乙事件」 でゲリラの捕虜。
2.末次信義水雷参謀(少佐)
3.小沢信彦通信参謀(少佐)
4.寺門正文艦隊軍医長
5.宮本鷹雄砲術参謀(中佐) 対空指揮所。
6.森下信衛参謀長(少将)
7.石田恒夫(副官・主計長)
8.松岡茂機関参謀(大佐)
9.大野義高参謀(少佐・航海参謀か情報参謀?)
10.茂木史朗大和航海長
11.花田泰祐大和掌航海長
第一艦橋で動静が確認できる士官である。 当然伊藤整一長官も有賀幸作艦長もいたはずである。  だが、生還したのは、森下、宮本、石田の三人だけだった。
松岡茂機関参謀(大佐)はすでに機銃弾で負傷し救護所へ搬送されていた。  山本祐二先任参謀(大佐),末次信義水雷参謀(少佐),小沢信彦通信参謀(少佐), 寺門正文艦隊軍医長の4人が第1艦橋を降りる。 結局この四名は生還していない。
石田恒夫は寺門正文艦隊軍医長が第一艦橋から下に降りるとき、石田早く来いよ。と呼びかけられたという。
宮本鷹雄砲術参謀は最上部の対空見張り所にいた。森下信衛参謀長は負傷し単独歩行は困難で、 従兵が介助し対空見張所への階段をあがっていった。 大野義高参謀の動静はこの段階で全くわからない。

能村次郎大和副長も生還しているが、注排水制御室で全く別の場所だからこの状況を見ていない。
結局、第一艦橋からどちらに移動するかが運命を別けた。 常識的に脱出口のある露天甲板の方向に降りていったものは誰も助からなかった。
確実に出口のある下に降りた者は助からず、常識では出口の無い上に昇ったものは助かっている。
ちなみに、艦橋TOP測距儀室配置12人の内9人生還している。

第二奇兵隊取材班
E-mail   お問合せ、ご質問はこちらへ
ADDRESS Kudamatu City S.K.P
Version 1.00 (C)Copyright 1999/2001

JOY Searcher   Yahoo!JAPAN   大和目次に戻る