国を挙げての戦争に「自存自衛」のバカさ加減 東南アジアの原油から潤滑油は採れない!
-- 南部仏印進駐 --
ヨーロッパ戦線でオランダがドイツに屈服し、政治的に空白化していた情況の中、南方石油資源獲得の 足がかりを得ようとして、1941年(昭和16年)7月28日、 日本軍は仏印南部(仏領インドシナ)への進駐を開始。英米は進駐が行われた場合には、 貿易制限を強化することを宣言していたが、これを無視して強行された。 この結果として、英米蘭は在日本資産の凍結、 日英通商条約廃棄、米の対日石油禁輸のなど日本側の予想を上回る措置を発動した。
この危険極まりない南進作戦は、すでに泥沼化していた中国との戦争継続のために石油が必要だったことによる。 すなわち国益より武勲を誇る軍部の独走だった。 よって何のために総力戦を戦うかという戦争目的はあいまいなままだった。
-- 石油危機に直面した日本 --
石油の80%を米国に依存していた。自給率はわずか8%。悪いことに、 海軍はその潤滑油のほぼ100%を米国に依存していた。 また航空機用ハイオクタンガソリン抽出の石油精製技術も大きく立ち遅れていた。
石油禁輸で軍部は南進して石油資源を抑えろ!と声高に叫び、ついには太平洋戦争へと突き進む。
当時の政策決定集団は統帥権を背景に圧倒的政治力*1を保有していた軍人政権は、
1.何を根拠に「経済・工業大国の米国と戦争して生存」が可能と考えたのか。
2.獲得石油の主管部署と資源還送の方法と手段を考えていたのか。
3.スマトラ・ボルネオ産原油の性状を知り得て戦争を始める決断を行ったのか。
近代戦に必要な潤滑油が採れない実態を知っていたのか?
4.自国の工業基盤整備に意を払ったのか。
1項、米国と戦争すれば敗けると知っていた。 ニューヨーク在住の新庄健吉主計大佐は日米国力格差の分析を行い、黒畔豪雄(くろいわひでお)大佐に託された。 この米国力評価報告書に海軍が反発。東條陸相の懲罰人事で前線勤務となった。
1941年7月2日の御前会議に
@中国との戦争は継続する。
Aソ連へはドイツの攻勢情況をみながら攻め込む。
B日米交渉を継続しながら戦争準備を整える。
C南方への進出を図り、米英と戦争になっても仕方がない。
三方面の戦争姿勢を示し、国力、兵力の集中、補給線の確保など戦争の基本から大きく外れるものだった。 そして、仏印進駐で石油全面禁輸。これを受けて、 二年程度は暴れてやる!。という根拠なき根拠で戦争を始めてしまった。 始めるからには終わりがあるが、その終わり方も研究していない杜撰なものだった。
一方海軍は海軍国防政策委員会を発足させ石川信吾*2富岡定俊(とみおか・さだとし)・高田利種(たかだ・としたね)・ 大野竹二らが南進論を展開した。これに神 重徳(かみ・しげのり)、 岡 敬純(おか・たかずみ)などの親独・対米強硬派が陸軍作成の国力評価報告書「日米国力格差の分析」を封じ込め「戦争推進」への途を選択させた。  陸軍が戦争開始主導権を握ったのではなく海軍が握っていた。
2項、戦争は国と国との戦いだが、石油資源獲得後の生産・精製・還送方法と手段を陸海軍は全く調整せずに 戦争に突入した。陸軍と海軍の石油施設の占領比率は85対15であった。またこれらの油田・製油所の操業を 別々に行ない、石油生産量・消費量・備蓄(在庫)状況は政府(企画院)に報告されることはなかった。
この年度別実態が明らかになったのは、敗戦にともなうGHQの調査結果によらざるを得なかった。 バカみたい。
陸海軍とも戦争の経済的側面を全く理解していなかった。
また、還送輸送船舶防御のためのハードとソフト。攻撃のためのハード(兵器)を全く考えず、 ただ船がスクリューを回せば日本にたどり着けると海軍は楽観していた。 防御は輸送船個船(艦)で行え!
3項、油があれば戦争出来ると考えただけで、原油からどんな性状の油が抽出できるのか知りもしなかったように思える。 山本五十六さえ「水からガソリン」が出来ると信じていた。
油の確保は「自存自衛」の第一歩と云いながら、占領した油田・製油所を日本の国力増強に活用するという視点が欠落していた。 海軍は東ボルネオのサンガサン油田・タラカン油田、唯一高級潤滑油を生産していたバリックパパン製油所*3を占領した。 陸軍は最大の原油生産地である南スマトラパレンバン油田周辺全てを手中に収めた。
海軍の占領したタラカン油田の原油から東南アジア産には稀な潤滑油が精製できたが、 それがどの程度日本に運ばれ戦争に寄与したのか、確たる数字を探し出せなかった。 おそらく蒸留窯や精製技術の未熟さで米国製品ほどの品質を確保できなかったであろうことは容易に察しがつく。
陸軍は1940年(昭和15年)2月に陸軍航空技術研究所で「近い将来、北緯20度以南(熱帯地方) で作戦する可能性があり、航空兵器、装備の調査研究を邁進すべし」との指示が出され陸軍 燃料関係者の間で蘭印の油田に関する情報収集・分析が開始されている。
4項、戦争優先。よって民需用の燃料を大幅にカットし生産力は低下。陸軍は人の技術力や知識・能力に関係なく 徴用し単なる「穴掘り(持たす鉄砲がなかった)」をさせたので、品質と生産力が激減した。
-- 南方資源獲得情況・還送・原油性状 --
表−1   南方地域での石油精製量
 1940年

(昭和15年)
1942年

(昭和17年)
1943年

(昭和18年)
1944年

(昭和19年)
1945年

(昭和20年)
製油所通油量 63,958 13,870 28,396 26,845 4,448
航空ガソリン 4,613  2,937  5,411 5,526  829
普通ガソリン 13,585 2,499  3,658 2,656  600
灯油  7,076 1,120  1,312  1,201 193
軽油 233  572  674  158
潤滑油 387

 (61,525)
 301

 (47,853)
 687

 (109,219)
 798

 (126,866)
 107

 (17,010)
重油 17,692  6,963 15,013 14,466 2,166
出典:戦略爆撃調査団報告  潤滑油( )内KL  他は千バーレル
この石油の実態は日本政府でなく、敗戦にともなう米国調査団によって解明された。
当時軍が使用していたであろうガソリンのオクタン価
『日本石油百年史』 1940年(昭和15年)10月8日、日・蘭印石油輸入回答数値に
1.オクタン価71以下。  --- 軍関係資料に自動車用揮発油はこのオクタン価であろう。
2.オクタン価72以上87以下。  --- 航空機使用揮発油と思われる。
3.オクタン価88以上。  --- 高出力設計航空機エンジンに使用したと思われる。
『悲劇の発動機「誉」』  --- 海軍より100オクタン価ガソリンは供給できないので 88〜91オクタン価でエンジンを完成すべし。 と中島飛行機「誉」エンジン開発チームは通告された。 とある。 よって、使用されていたガソリンオクタン価は4種類あったのであろう。 前掲表−1も戦後米国調査団によって解明されたもので、
本当に一部の軍関係者しか知らなかったはずであり、数値が発表されることもなかった。
徳山海軍燃料廠史に92オクタン価のガソリンは製造できなかったとある。
1941年(昭和16年)4月、南部仏印に進出を目論む軍部は国家総力戦を研究する「総合戦研究所」を開所した。 この研究所には、中央官庁、陸海軍、民間から平均年齢三三歳の研究生36人が集められた。
玉置敬三(商工省勤務、のちに通産次官、東芝社長)
千葉 皓(外務省勤務、のちに豪州・ブラジル大使)
林 馨(外務省勤務、のちにメキシコ大使)
清井 正(農林省勤務、のちに農林次官)
吉岡恵一(内務省勤務、のちに人事院事務総長)
芥川 治(鉄道省勤務、のちに会計検査院長)
佐々木 直(日本銀行勤務、のちに日銀総裁)
成田乾一(斉南特務機関員、のちにテレビ番組製作会社経営)
彼らは、日本にその概念が薄かった総力戦の観点から、調査、研究、討議を重ねたが、 最後まで分からなかったのは、「陸海軍の石油備蓄量」だった。  備蓄量が分からないのだから愚輩も軽質油や潤滑油など調べようがなかった。 例えば、 既述しているが、海軍自慢の長射程93式酸素魚雷を製造しなくなり、95式2型(射程 5 Km)となった理由にスクリュー軸用潤滑油の枯渇だと勘ぐった。エンジンは、 灯油(ケロシン)を純酸素で燃焼さすのでそれほど逼迫は考えられず、そうか推進軸の潤滑油に高品位なもを供給できなくなった。のだと得心した。 高速回転軸に粗悪潤滑油を使えば直ぐに焼損(固着し回転不能)する。
表−2   南方地域での石油生産量と日本への還送量
 昭和15年度昭和17年度昭和18年度昭和19年度昭和20年度
原油生産量65,100 25,939 49,269 36,928 6,546
  〃 KL 1,033.3  411.7  787.7586.2103.9
還送量-10,524 14,500  4,975 -
  〃 KL 167.0 230.2 79.0 -
企画院見込(KL)-30.0  200.0450.0 -
消費・損失-15,415 35,126 31,953 6,546
  〃 KL-224.7 557.2  507.2  103.9
生産余剰  187  231 790
企画院見込差 137.0 30.0 -371.0-
出典:石油で読み解く完敗の太平洋戦争  単位:KL=万KL   単位:千バーレル 
1バーレル=158.98リットル
表−3 各出油地区原油性状
原油名セリアタラカンエルクヒル
所在 ボルネオボルネオアメリカ
性状区分芳香族基原油芳香族基原油パラフィン基原油
比重15/4゚C 0.833  0.948 0.937
軽質油留分 75.3  18.5  27.0
潤滑油留分 -  31.0  40.0
残留分  24.7  50.5  33.0
出典:「実用燃料油と潤滑油 明星四郎/冨田正久共著」
表−1にみられる、1943年〜44年にかけて、生産は順調に回復したが、表−2のように それが、そのまま日本に還送されたわけではない。
1944年企画院が見積もった必要量を371万KLも下回った。
また、全ての原油から潤滑油は採取できない。東南アジアの原油はそのほとんどが、芳香族基系原油で 唯一、タラカン原油から潤滑油がとれた。
芳香族基原油から上質の潤滑油は生産できない。一方パラフィン基原油は 潤滑油のために存在するような原油だった。 タラカン原油はそのまま直燃(原油のまま)が可能だった。
次、[ 図−1 ] バリックパパンのみ航空機用高級潤滑油が生産できた。
[ 図−1 ]
海軍が確保した原油地帯はボルネオ島の東側だけで、その他は全て陸軍が抑えた。よって 生産の大部分は陸軍。消費の大部分は海軍だったが、 その国内タンカーの7割(32万トン)は海軍徴用船として確保され、 1942年4月の段階で早くも陸軍との軋轢を生んでしまった。 海軍は接収した設備と油田からの石油供給量では大量の消費に追いつかず、 陸軍の確保地帯の原油と生産量の50%提供を提案したが陸軍に拒否された。
逆に陸軍は海軍の抑えている徴用余剰タンカーを求めている。 米国との開戦決意は、 石油禁輸政策の結果を受け、石油確保のために南進(東南アジア)を決定したが、 確保した石油の配分と還送方法を全く決めずに戦争に突入している。 陸海両軍は協力して連合国との戦争を行っていない。   国内海軍保有燃料の実態はこちら
開戦当時の油送船総トン数は48万5千トン。徴用船海軍32万3千トン。陸軍1万4千トン、残りが内需である。  ちなみに、何度も書いたがミッドウェイ海戦で使用した燃料は60万トンと云われている。
海軍バリックパパンでの精製高     海軍が占領し運用した国外の製油所はこちら。  場所はこちら。
表−4   海軍バリックパパン製油所の実態     単位:KL
 1944年8月1944年12月1945年1月1945年4月1945年8月在庫
1号重油4,2582,5232,990 04,987
2号重油4,3610 0 0 4,397
3号重油(缶用)15,7172,9377,596 072,857
航揮 91オクタン8,9131,6801,263 421,436
航揮 87オクタン1,487478 305 220230
原 揮16,1211,6781,408 13,740
航空潤滑油387182 98 0 142
普通潤滑油2,870 563 8,155 0 1,283
海軍省軍需局長「月頭報告書」所載:太平洋戦争と石油

上表悲劇的な数字である。一般的最小のガソリンスタントでも地下に 40KL の地下タンクを埋設している。
昨今、都市近郊の、俗にトラックステーションと呼ばれているGSでの軽油販売量は1店舗で月間1,000KL以上もある。
ボルネオ島北西部、ミリ、セリア油田、ルトン製油所は陸軍十八師団川口支隊が制圧した。 破壊は小規模でルトンから最初のタンカー橘丸が原油6,000トンを積込み1942年3月22日に日本に到着している。
スマトラ島パレンバンは陸軍降下部隊が制圧した。ここの製油所はコメリン河をはさむように、 東岸に(NKPM・米スタンダード社系)、西岸に(BPM・シェル系)があった。NKPMは徹底的に 破壊されたが、BPMは、わずか4基のガソリンタンクが破壊されただけで製油設備はほぼ無傷で確保された。
海軍が占領したボルネオ島東地区の破壊は徹底していた。ロイヤル・ダッチシェルの精製設備と貯油タンクで健在なものは皆無だった。

-- 軍人は国際政治とテクノロジーに全く無知だった --
1.英米の禁輸警告に「石油の禁輸」は無いと、楽観的見方に終始した。   海軍石川信吾はその筆頭。
2.技術模倣国家の軍隊は、軍事訓練というソフト重視に偏重し、 自ら使っている兵器が全て模倣から始まっているとの認識さえなかった。
3.南方占領地の原油から良質な潤滑油が採取できないという知識も無かった。
北緯50゚ 南緯10゚ の広範囲の海上で海軍艦艇・航空機は戦闘を行っていた。  この両極端な気温に通用するオールマイティーな各種潤滑油は日本の精製技術では不可能であった。  現在、レシプロエンジンに使用されている化学的合成油でも適応できないのではなかろうか。
レシプロ機関の潤滑油とスクリュー回転軸に使用する潤滑油は全く別種の性状である。 それぞれに適合した油を使用しなかったとき艦艇の機器は焼損を起こし運行不能となる。
1項の規制に陸海軍省部の関係者は驚愕する。 それ行けドンドン南方だ!。と短絡する。
2項、中島飛行機開発の"誉"エンジンもカーチス・ライト社の技術者によって指導を受けながら開発していた。  工作機械は全て欧米の工作機械だった。 技術導入の途を失った日本は、ドイツの技術援助を受ける ことを考え、訪独潜水艦の試みを行う。 結果は不成功。
3項、蓋をあけてビックリ。まず、潤滑油が枯渇した。よって、 オイル交換したオイルを濾紙でこしただけで再使用(再生潤滑油)した。 すでにこの段階で色こそ油だったが、油本来の潤滑効果は失われている。   最後には良質潤滑油が枯渇し、航空機エンジンの不調が続発する。
航揮製造技術も開戦当時のオクタン価87程度だったが 最終到達でも91オクタン価*4だった。 中島飛行機が開発した誉(21型)エンジン搭載の彩雲11型偵察機(C6N1)の日本公式最高速度は329Kt(609Km/Hr)だったが 敗戦後米国が米国製航揮と米軍使用潤滑油でテスト飛行すると時速695Kmを記録した。実に14%も速力増となっている。
-- 日本が到達できなかった石油精製技術 --
ガソリン製造は、ウイリアム・バートンによって熱分解法が開発されて、良質な軽質油の製造が開始された。 それによって得られるガソリンに四アルキル鉛(四塩化エチル・猛毒)を加えることで87オクタンを91程度に高めることが出来た。  日本では、練習機によるパイロット養成には87オクタンガソリンが使われたが、 航揮枯渇の情況で訓練は大きな制約を受けることになった。
そのような状態では歴戦の数少ないパイロット以外は、離着陸がかろうじて出来る程度の錬成度しか望めなかった。  また、第三海軍燃料敞(徳山)でも四アルキル鉛添加作業による多くの鉛中毒者を輩出している。
第三海軍燃料敞で高オクタン価ガソリン製造のために、 水素添加装置の巨大なコンクリート建物が敗戦後も存置されていたが順調に運転したという資料を探せ出せなかった。  あの水添装置は87オクタン価ガソリンを92オクタン価ガソリンにする程度の装置であろう。  100オクタン価ガソリンが製造不能の状況下で、航空機エンジン開発技術者は、一時的高出力発揮の手段として、 水+エタノール噴射を試みるが機構の複雑化(各気筒に均質な噴射プランジャー製造不能)し実用化にほど遠かった。
中島飛行機が試作開発していた海軍名「誉」、陸軍名「ハ45」は、 空技敞和田敞長より「最も高級な材料、燃料、潤滑油」での試作(1940年9月15日試作命令)を命ぜられが1942年に入ると、100オクタン価のガソリンは供給できない。と通告されている。  出典「悲劇の発動機『誉』前間孝則 草思社」

フランス人化学者ユージン・フードリー(Houdry)とサン石油が開発した接触分解法で容易に100オクタンガソリンが得られた。 これによってメッサーシュミットの87オクタンガソリン使用のドイツ戦闘機は英スピットファイヤー戦闘機が使用する100オクタンガソリンの敵ではなかった。
* ガソリンのように直接的兵器でもない代物も戦勢を大きく左右した。 航空機エンジン開発・航空機燃料開発・ 空気過給器・高純度潤滑油など、ハイドロカーボン時代の戦争は一国の運命を左右した。
日本でのハイオクタンガソリンの商業プラント化は1960年代である。石油の流動接触分解(FCC : Fluid Catalyst Cracking)装置が造られ実現する。  FCCについてはこちら

-- 米国の戦略「総合戦」 --
1.無資源国日本の生命線(オイルロード)を断て!。
2.工業力を無力化する戦略爆撃機を製造せよ!。
1項、無制限潜水艦戦を実行。戦争初期魚雷の早発が改善されるや、 輸送船に牙を剥いた。 米海軍でたった2%の兵員が日本の輸送船の55%程度を撃沈した。
2項、B-17爆撃機より高性能を目指して、B-29長距離爆撃機を戦場に投入。そのほとんどは戦術爆撃に使用されず、 戦略爆撃を行った。これにより工業基盤が喪失した。 彼らは、補給に便利なテニアン・グァムなどを基地としたので、 中間点硫黄島はその不時着場として必要だった。これで生起したのが"硫黄島の戦い"である。
テニアン・グァムへの米軍補給線を遮断する作戦を一切行っていない。手持ちの潜水艦にも米輸送船を攻撃しろと命令していない。 B-29 もガソリンと爆弾がなければどうにもならないのにそれを遮断する作戦という発想さえなかった。

*1 自らの意に沿わない人間を抹殺する恐怖を発信し続けた。中野正剛の自殺は好例。
*2 1941年7月、米国石油禁輸発動はありえないと公言していた。 だが、石油禁輸発動を聞いて「禁輸は覚悟していた。石油は俺たちの生命である。それを止められたら戦争だ」とうそぶいた。 石川は敗戦を海軍輸送本部長兼大本営戦力補給部長でむかえ、1964年(昭和39年)12月17日死去(七〇歳)。 発言が揺れ動いたのでつけられたあだ名が「不規弾」であった。
*3 バリックパパン製油所で精製された潤滑油および、 タラカン油田で採取された原油が国内に運ばれた確かな史料が探せだせなかった。  おそらく石油精製技術に係わる研究所は第三海軍燃料敞(山口県・徳山)にあったが「海軍徳山燃料敞史」には潤滑油精製の細部が書かれていない。
中島が開発した「誉(21型)」・「陸軍ハー45」など、電気系統と潤滑油不具合が多く発生した との記録があるので、最後まで国産航空機用潤滑油の精製は不可能だったのではなかろうか?。
そのような情況の中で、九三式3型魚雷(48Kt/15,000m)が九五式2型(48Kt/5,000m)の低射程魚雷の製造に退化したものであろう。 エンジン用高級潤滑油入手不能(あれば航空機優先)と軸(スクリュー)潤滑に再生油にせざるを得なかったものと考えられる。 長射程はエンジン焼損。スクリュー軸焼付固着に見舞われたのか?
*4 石油精製技術の立ち遅れで中島飛行機は戦前カーチス・ライト社の技術指導を受けながら開発した発動機、 ハ四五(海軍名「誉」)により四式戦闘機「疾風」(はやて)は91オクタン航揮と水エタノール噴射装置の組合せで時速624Kmの速度に到達した。 この発動機の基本設計は100オクタン航揮と、 最良潤滑油の前提設計だったので、潤滑油枯渇の中で初期の性能を発揮しえなかった。 石油精製技術を 欧米に頼った悲しさである。
参考図書
 石油で読み解く「完敗の太平洋戦争」 岩間 敏/著 朝日新聞社:刊 2007/7/30発行
 石油の危機 支配者たちの興亡(上) ダニエル・ヤーギン/著 日本放送出版協会 1991/4/20発行
 実用燃料油と潤滑油 明星四郎・冨田正久共著 成山堂書店 1965/10/15発行


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