戦艦大和水上特攻作戦と昭和20年(1945)4月7日の天候
1945年4月7日の天候について  【予報は雲量10。小雨模様】
下関測候所雲形・雲量資料
【横軸は観測時刻、4時間毎。縦軸右端日付】
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GFの命令は8日黎明沖縄島突入である。なぜ突入日を8日としたのか、それは、 この日が大詔奉戴日(太平洋戦争開戦の応答日1941年12月8日)だったからだ。本当に偶然だが、 突入前日の翌7日の天候は悪天候が予想された。
山口県下関地方気象台(当時下関測候所)に残っていた1945年4月の天候記録である。  上表画像右端が日付。
下関測候所雲量資料 整理 1945年4月6〜8日
日時観 測 時 刻
02:0006:0010:0014:00 18:0022:0
4月6日 3 9 1 7 3 2
4月7日6 1010101010
4月8日 1010102 11
数字10は全天雲
横軸は4時間毎の記録である。数字は雲量を表す。数字"10"は全天雲100%。雨若しくは曇天。 英字のCS,SK,CKなどは雲の種類を表す。  往時と現在の雲形表記記号が違うので "SK","SC" がどんな雲なのか決定的ではないが、 定点各地の降雨記録も残っているから、その降雨記録と突きあわせることで概ね雲形は推定できる。 その結果、"SK","SC" は雨を降らすと されている乱層雲,層雲であると考えられる。当時の艦艇乗組員の記録でも雲量10, 雲底1,000〜2,000m。であった。と書いているし、大和の爆沈時における複数の写真でも 雲底は非常に低い。
翌日の天候も悪くなる兆しは出撃5時間前の米偵察機 F-13 撮影の写真でも感じられる。 写っている艦艇の舳先は全て東北東に向いている。  この地方でそのような風向は天候が下り坂であることを示す。
幸い、陸軍第八飛行師団の戦闘詳報が「戦史叢書・沖縄,台湾硫黄島陸軍航空作戦」に掲載されていた。右図はその一部である。問題の4月6日大和出撃日の九州は全天雲,所々雨。沖縄は曇後暈(かさ)。 翌7日九州曇後快晴,沖縄曇。沖縄水上特攻隊艦艇が佐世保に帰還した8日九州、暈(かさ)後曇。沖縄、曇。
この記録の摘要欄に、5日弱き不連続線,6日気圧の谷,7日同左,8日停滞性不連続線,9日台湾低気圧発生,10日台湾低気圧北東に進む。11日寒冷前線南下。12日移動性高気圧圏内に入る。
陸軍第八飛行師団は、1944年6月24日に編成された。司令部は台湾台北であが、麾下飛行戦隊の一部は西南諸島に基地を置いた。また米沖縄侵攻に備えて翌年2月新田原に展開し特攻作戦を行った。

画像左端の駆逐艦をスケールとして雲底まで10である
戦史叢書「海軍沖縄方面作戦」でも4月7日以降天候悪く11日まで特攻は出来なかったと 書いている。すなわち、第二艦隊司令部でも4月6日に作戦会議を開催したと考えられるので、 その際翌日の天候も気象担当士官から予報が発表されたであろう。
その際、明日雲量10。天候は小雨模様と告げられたはずで、そうなると米軍の航空攻撃も 熾烈を極めることはない。との判断に到ったと考えられ、それが実質的に瀬戸内海西部出撃で GFの作戦命令時刻より、12時間(豊後水道基準で8時間)前倒し出撃を決定した要因だと考えられる。
多くの戦記に米機は雲からいきなり表れて攻撃した。と書かれており、米機攻撃隊指揮官機は 機上レーダーで水上艦を監視し、それぞれ攻撃隊を割り振ったと考えられる。 爆煙視認計算はこちら
* GF命令だと燃料2,000トン降ろす必要もあった。
大和爆沈の爆煙を坊の岬や徳之島から見えたと多く記述しているが、生還駆逐艦 雪風(L=118.5m),初霜(L=109.5m),冬月・涼月(L=134m)を尺度として爆煙を計測すると 雲底下部まで1,000m程度である。天候小雨模様で乱層雲だろうから気象学的に雲底は1,000mを切っていたであろう。 米軍撮影の写真もよくその当たりを表している。
命一つ拾った生還乗組員は、快晴の中に桜の満開を見る。気象記録も8日午後から急速に回復し晴天に なってくる。 
すなわち、当日(7日)の天気予報では航空攻撃に不向きで散発的。との認識で一致したが、 米軍の技術水準では、日本側の認識と乖離し、雲量10は、攻撃絶好日に近かった。 それは、ハイテク機上レーダー装備の差だった。 当時の海軍士官は米潜水艦が日本艦艇を ボカスカ雷撃してくるので、特別の兵器を持っていることには気づいたものの、自分の知識や 経験及び教育の範囲が全てであり、特別の兵器(FMソナー+相互通信装置)がどんなものか知りもしなかった。当然多くの 水上勤務者が彼らとは無関係の組織であった海軍航空技術敞が開発した「空6号」なる 機上レーダーを見たことも、聞いたこと(軍機)もなかったことであろう。
1944年夏のことである。これも源田実が切り出したが、悪天候下での航空攻撃を行うT部隊が陸海共同で編成された。 海軍関係の戦史叢書では、訓練研究会について全く記載されていないが、 陸軍の公刊戦史では、その海軍の不備を指摘している。七項目の内四項目をあげてみると
1.接触機の通信が悪かった。
2.銀河(海軍双発爆撃機)に電探の装備がなかった。
3.陸攻その他夜間索敵機の電探が不備であった。
4.敵情に応ずる飛行隊の地上指揮が適当でなかった。
これについて、陸軍側は直ちに連合艦隊に対策を具申した。としている。 比較は出来ないが、 海軍の電波無線兵器は陸軍より劣悪だったように読める。

海軍の対空砲火カバー域
また、海軍装備の対空兵器はご覧のように中間域のクリアランスが大きい決定的欠陥をもっていた。 第17駆逐隊は3艦全て不知火型。第21駆逐隊は初春型2艦,朝潮型1艦。急遽加わった第41駆逐隊2艦は 秋月型である。
通常駆逐艦の主砲12.7cm連装砲(B型改二)は、一応迎角75°まで上げられたので、対空射撃は可能だが 次装填には砲を水平近くに戻す必要があった。  詳しくは兵器性能はこちらで
25mm機銃と戦闘経過はこちら
米軍記録対空射撃の種別評価はこちら。
第二艦隊側が悪天候を利して、GF命令を変更(許可はもらっていた)してまで前倒し出撃したが、 米ハイテク駆使戦の前に脆くも潰えた。
米海軍が戦後公開した今回の海戦で、当該戦闘海域での被撃墜は10機としており、 雲底が低いことが、貧弱な対空火器とあいまって、この程度の悪天候は日本側に決定的不利に働いた。 それでも、艦攻3,艦爆4,艦戦3撃墜は立派である。 艦攻が撃ちやすいはずだが、米機は余程遠くから 雷撃したのか?。 米機はハイテク化されていたので1機現在価格で2億円としても20億円の損失。 戦死確か16人程度。 日本側大和だけでも2,900億円位い。
人員損失4,044人 。 言葉を失う。
大和爆沈の爆煙が坊ノ岬や徳之島から見えたのか?
 左図は、坊ノ岬から沈没位置が見えたかどうかフリーソフト "カシミール" で計測したものである。 結論は見えない。写真でみるように雲底は1,000m位で低い。観察記録も雲底1,000m。小雨模様。 坊ノ岬からだと 爆煙が3,000m以上なければ見えない。
ちなみに、徳之島の摺子岬からだと323kmもある。当然見えるはずもない。
戦艦大和沈没位置
公刊戦史「沖縄方面海軍作戦」
30°22′N,128°04′E (日本測地系)
大和探索会探査
30°43′17″N,128°04′25″E (日本測地系)
視認距離 : L1(km) =113.137×(√ho(km)+√ht(km))
1は水平線上の最大視認距離、ho は水面からの眼高。ht は目標の高さ。
坊の岬最高点= 96.9m
爆煙雲底到達点= 1,000m
視認距離≒148.36Km 計算上の視認距離である。多く見えたと記述しているが、計算の結果は見えない。
眼高としての水平線の求め方
1=√(R+x)2−R2
数値(R=6400・地球の半径、 X=0.0015・目の高さ1.5m )を代入してL1=4.38Km
注) 水平線の求め方計算は地球の半径を単純に6,400km とした。赤道半径と極半径は赤道半径が大きい。地球の円周を単純に40,000kmで計算すると 40,000km÷3.14(円周率)÷2 = 6.369.42km(地球半径) となる。 水平線は 4.37km である。 前述の視認距離計算の係数は 113.137 は 地球の半径 6,400Km とした。  大和爆煙視認係数はこの数字を使用した。
ちなみに地球半径を 6.369.42km とすれば係数は ≒ 112.87 となる。
進む 戦艦大和と関係艦艇沈没位置はこちら。

第二奇兵隊取材班
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