特攻艦隊戦艦大和 天一号作戦 水上特攻作戦戦死者数
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連合軍がフィリピンを陥れたのち、次なる攻勢をどの方面にかけてくるのか? その方面ごとに天1号から4号までの作戦を考えていた。
  • 天一号作戦 ― 沖縄方面航空作戦    昭和20年3月26日米軍の慶良間諸島上陸を受け天1号作戦を発動。
  • 天二号作戦 ― 台湾方面航空作戦
  • 天三号作戦 ― 南支沿岸方面航空作戦
  • 天四号作戦 ― 仏印、海南島方面航空作戦
  • 戦艦大和は瀬戸内海西部に進出する命令を受けた。
      3月29日 (受/19:20) 緊急電 電令作582号:GF 宛:全海軍天一号作戦部隊
    同電文
    及川軍令部総長は天皇の下問次第を、聯合艦隊司令長官豊田副武大将に伝えたが、 豊田長官は同日GF電 
    【畏れ多き言葉を拝し、恐縮に堪えず。臣副武以下全将兵殊死奮戦、誓って聖慮を安じ奉り、あくまで天一号作戦の完遂を期すべし】 と電令した。
    この電令に基づき 航空特攻菊水作戦が企図された。4月2日GF参謀長草鹿龍之介,航空特攻参謀淵田美津雄,艦隊参謀三上作夫らが鹿屋に出発する。 淵田美津雄は開戦劈頭真珠湾攻撃の飛行隊長である。転じてGF航空参謀となった。航空特攻史上最大規模となった菊水航空特攻作戦の全てに関与する。戦後淵田から反省の言葉は聞かれない。彼の死後遺稿が発見され『真珠湾攻撃総隊長の回想 講談社(東京)2007/12 』で出版されたが菊水作戦について一言も述べていない。
    特攻艦隊戦艦大和以下艦隊生還者(戦死者)と生存率
    項  目第二艦隊大和矢矧冬月雪風涼月濱風朝霜磯風
    被害状況沈没沈没小破小破大破沈没沈没自沈自沈 
    乗組員数303,302949332338326 332339 
    戦死者頁643232,49844612357 100326 20173,502
    頁644232,74044612357 100326 20173,744
    呉慰霊碑2,76944612357 100326 20173,750
    霞説三浦 節氏(砲術長)著書「私観大東亜戦争(元就出版社/2008.1)3,723
    岩間説 3,729
    留魂碑特攻艦隊留魂碑場所 山口県防府市江泊山3,728
    筆者説173,04044612357 100326 20174,021
    能村次郎 2,723         
    救助数士官42337 120全員15 
    兵員32464662440 326307 
    救助 計72695032560322 
    生存率23.38.153.0 71.995.0 
    負傷者0117 133 121534 4505447457
    第二艦隊所属者は大和に乗艦していた。本表は外数である。 【初霜】の戦死者なし。
    本表頁643(2,498人),頁644(2,740人) の数字は、戦史叢書:沖縄方面海軍作戦による。

    駆逐艦「朝霜」の戦死者数。戦史叢書「沖縄方面海軍作戦」頁649 下段。准士官以上18名。下士官兵308名。よって合計は326名。
    原勝洋著 写真が語る「特攻」伝説 頁269 上段「朝霜」乗組員362名。生存者はなかった。と記述。
    これは単なる誤植であろう。 乗組員326名が正しい。
    戦艦大和戦死者各説
    戦死者各説生還者戦死者乗組員数
    呉慰霊碑276 2,7693,045
    慟哭の海2,7232,999
    戦史叢書 頁6432,4982,774
    戦史叢書 頁6442,7403,016
    霞(砲術長三浦節)2,4432,719
    岩間説2,7253,001
    筆者説3,0403,316
    スパー3,0563,332
    生還者276人はいずれも動かない数字とした。
    大和の戦死者数について戦史では確定していない。公刊戦史沖縄方面海軍作戦でページが前後1ページ違うだけで左表の様に違う。
    霞説とは同艦砲術長で生還した三浦節著「私観 大東亜戦争」
    岩間説とは岩間 敏著「石油で読み解く『完敗の太平洋戦争』」
    慟哭の海 大和副長能村次郎 厚生省援護局名簿
    戦史叢書沖縄方面海軍作戦付表で第二艦隊司令部に大野義高少佐の名があり援護局戦死者名簿に同人の名がない。
    よって一人加算すべきであろう。
    スパーとは「戦艦大和の運命」頁319

    この数字は副長(能村次郎)の話としている。

    呉市長迫公園 海軍海軍墓地の銅板銘板に刻されている戦艦大和の戦死者数について。
    銘板は全部で7枚。 1枚に1段69人×7段。すなわち483人分刻むことができるが出身県別に整理されている関係で県名欄がある。 銘板1枚目 5県名 よって478人 銘板2枚目 6県名 よって477人 銘板3枚目 3県名 よって480人 銘板4枚目 5県名 よって478人 銘板5枚目 6県名 よって477人 銘板6枚目 16県名 よって467人。 銘板7枚目は県名と余白があり合計すると31人の余白となり刻銘は452人。 刻銘数は3,309人となる。 知られている生存者は276人で合計すると3,585人も戦艦大和に乗っていたことになる。 これは生存者が物故した都度刻銘されたことによるものと考えられる。
    ■ 本作戦の戦死者(筆者) 4,021 人。  ちなみに1942年6月5日ミッドウェイ海戦の戦死者 3,057
    ■ 大和関係乗組員数
     3,333人=(30人・第二艦隊)+(3,302人・大和)+内田貢二等兵曹
      「男たちの大和 辺見じゅん/著」で員数外として「内田貢二等兵曹」が忍びこんでいた。
    ■ 大和乗組み生存者数
     276人=(7人・第二艦隊司令部)+(269人・大和)
    ■ 大和乗組み生存率
     第二艦隊=23.3%  大和=8.1%
    第二艦隊司令部員確認数は30人であるが、幹部は石田副官を含め戦史叢書「沖縄方面海軍作戦」付表によると9人である。 残りの21人は、従兵、通信、暗号員であろう。
    ■ 戦史叢書沖縄方面海軍作戦(頁644 下段)で大和司令部も含め戦死2,740人としている。よって本作戦戦死者総数は3,721人である。大和生存者は276人であるから 司令部を含めた乗組総数は3,016人となる。一体戦艦大和には何人乗組んでいたのか?知りたいところである。
    ■ 同じく戦史叢書沖縄方面海軍作戦 頁643 下段第二艦隊司令長官伊藤整一中将、大和艦長有賀幸作大佐以下大和戦死者を2,498人としている。分担執筆し戦死者数字のチェックをしなかったのであろう。 たった1頁違っただけで作戦全体の戦死者が242人も違う。
    石油で読み解く「完敗の太平洋戦争」 岩間 敏/著での本作戦戦死者数を 3,729 人としている。  なお、軽巡矢矧以下の戦没者は981人で確定しており、戦艦大和の総乗組員(第二艦隊司令部含む)は2,748人で非常に少なくなる。   国家の大事業だった公刊戦史でさえ戦死者数の異同があり情けない。 当Webサイト閲覧者も戦史等をひもとき、 真実の戦死者数確定をお願いしたい。

    太平洋戦争のターニングポイントとなったミッドウェイ海戦のあの大敗北の戦死者は3,057人である。
    救助艦艇が存在する状況で大和生存者の少ない要因は次の四つか?
    1)大和では脱出時に多数(500〜1,000人)の兵員が生存し脱出したはずと生還者八杉康夫はその著に書ている。 軽巡矢矧の生存者と比し大和は極端に少ない。 矢矧の沈没海域に救助してもらえる残存艦は見あたらない。 絶望の度合いはその状況から矢矧のほうが大きい。  一方、大和は米軍撮影の写真で直近に冬月、初霜両艦が存在した。 生存者の手記から漂流中に何が大きく違ったのか?
    2)軍艦では陸戦と違い艦底配置者などに出口のない悲惨な死があった。 前出脱出者の数と乗組員の数差から、多く脱出不可能を物語る。 沈没まで時間のあった戦艦武蔵でも 1,039 人が戦死している。
    大和では
    乗組員の中から歌を唄おうという声掛けがなされた。ところがとある士官が 歌を禁じた。理由は体力を消耗するという、いかにも合理的な説明である。すなわち、 禁止令が発せられていた。
    矢矧では
    士官を含めて男たちの号泣の歌声が海面を流れた。 大和は歌禁止令。 過度の戦闘の緊張状態が2時間有余、生命の危機という極限の中で鬱屈し精神が解放されなかった。 矢矧は号泣と、歌とで精神の解放があった。  おそらく、生き抜こうという脳内物質(ドーパミンやベータ・エンドルフィン)が分泌されものと考えられる。 大和は歌を禁止したことで、気分の開放がなく生き抜こうという気力が一挙に体力萎えさせたのであろう。  少しばかりの医学的知識や識精神分析に関心を持つ者は、この両者の違いに気付くはずだ。
    この心の差が生死に少なからず影響したであろう。大和乗組員の救助は早く始められ、矢矧乗組員は漂流4時間経過していた。
    3)沈没時に大爆発が発生した。
    4)電気系統が破損されず?多くの電動機器が作動したことで露天甲板より下の乗組員が配置に付いたままで、脱出チャンスがなかった。
    磯風は右舷後部に至近弾を喰らい機械室(電気系統)満水で砲員・缶室配置者が配置を離れた。
    5)第二波攻撃 13:37〜13:44 左舷中部に魚雷3(大和記録)もしくは、右舷中部魚雷2。 左舷後部魚雷2。被雷後左傾化が進み 第三波攻撃初弾命中(14:02・三発)受けた段階で傾斜復元の可能性と沖縄突入が絶対不可能となったにも 拘わらず缶室配置者の退避を実行しなかった。 すなわち、指揮の適切さを欠いた。 いくら人権感覚の低い時代でも不適切な指揮は話にならない。
    6) 漂流者への執拗な機銃掃射。
    大和、矢矧も同じ条件だった。矢矧では分散し回避している。大和周辺には無傷の初霜、 対空機銃群に損傷を受けていない冬月が遊弋していた。矢矧周辺には米機機銃掃射に対抗できる戦力は全く存在しない。よって大和より悪条件である。  生存者の多寡について、機銃掃射の寄与は低いと考えられる。
    米軍のこのような無抵抗の将兵に対する銃撃を、卑劣だという含みを持たせて記述する著述物が多くみられる。  戦争・戦闘に、このようなことは日米両軍にかかわらず戦場では生起している。 ミッドウェイ海戦で撃墜海上不時着の米搭乗員は全員殺害されているし、逆に海軍が救助を早々と打ち切ったがために、巡洋艦三隈の乗組員は米側に救助され戦後帰還している。 また、戦後明らかにされた駆逐艦秋風事件などがある。これなどは全く非戦闘員であり、卑劣で野蛮な振る舞いだった。
    平時の感覚で戦時を考えてはならない。 軍隊は敵対する相手の生命を断つ。 すなわち戦闘力の殲滅を 第一義とする。 漂流兵は敵対する武器を失っただけであり投降者,降伏者ではない。 また軍隊指揮に、勝つために守らなければ ならない法律はない。 敵をなるべく多く殺す。 ここに戦闘と軍隊指揮の特色がある。

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    板谷芳直がみた海軍省内の玉音放送   昭和20年1月25日 決戦非常措置要綱   マリアナ沖海戦各艦隊・戦隊 長官・司令官・参謀人名   国を挙げての戦争に「自存自衛」のバカさ加減 東南アジアの原油から潤滑油は採れない   海軍の無責任さが戦争に突入させた   第二艦隊組織と戦艦大和   海軍乙事件・暗号書紛失。その関連事項   大東亜戦争遂行国家の組織と海軍   太平洋戦争(大東亜戦争) 敗戦原因と組織   出撃前の戦艦大和を伝える中央紙。 目次ページ

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