帝国海軍保有艦艇損耗実態及び帝国海軍保有戦艦
表−1
状態/艦種戦艦空母巡洋艦駆逐艦その他軍艦潜水艦海防艦航空機
開戦時保有10 1041 111 14 64 4 1,200
開戦後竣工2 15 6 633 126 168 30,259
亡失8 19 36 135 111317225,609
損耗率67.7 76.0 76.6 77.6 64.7 68.9 41.9 81.4
残存4 6 11 39 6 59100 5,886
開戦時保有していた戦艦は建造順に金剛,比叡,霧島,榛名,扶桑,山城,伊勢,日向,長門,陸奥
一番新しい戦艦陸奥でも艦齢は20年であった。
敗戦時可働0 2 3 30 3 50 80
1943年(昭和18年)6月8日に爆沈した戦艦陸奥は海軍関係者に大きな驚きと衝撃を与えた。 1936年に長門とともに大改装された主力艦であった。下表は帝国海軍が保有した戦艦である。
帝国海軍保有戦艦
艦 名建造年開戦時艦齢口径(cm)砲数建造場所大改装年
金 剛 1913年28368イギリス1935年
比 叡 1914年27368横須賀海軍工廠1937年
霧 島 1915年26368三菱長崎造船所1938年
榛 名 1915年26368川崎神戸造船所1933年
扶 桑 1915年263612呉海軍工廠1930年
山 城 1917年243612横須賀海軍工廠1930年
伊 勢 1917年24368川崎神戸造船所1937年
日 向 1918年23368三菱長崎造船所1937年
長 門 1920年21418呉海軍工廠1936年
陸 奥 1921年20418横須賀海軍工廠1936年
大 和 1941年 469呉海軍工廠 
武 蔵 1941年 469三菱長崎造船所 
東郷平八郎の末裔たちが、巨大戦艦を建造しようとしたのは自然な流れであった。なにしろ、大和が誕生するまでの20年間全く戦艦を建造していない。
先の大戦で海軍は実に、412隻失った。損傷艦艇は168隻。よって合計では580隻失ったことになる。  そして、一番働いたのが駆逐艦であった。
開戦時保有空母 鳳翔、赤城、加賀、龍驤、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴、瑞鳳(改装)、大鷹(特設)。
■ 建造正規空母 大鳳、雲龍、天城、葛城、信濃。
■ 改装・改造空母 龍鳳、祥鳳、千歳、千代田、飛鷹、隼鷹、雲鷹、冲鷹、神鷹、海鷹。
■ 未完成空母 伊吹、阿蘇。  資料 戦史叢書「海軍 軍戦備2」
資料によって駆逐艦の開戦後減 133隻としているものもある。
■ 戦史叢書沖縄方面海軍作戦 P619 亡失総数として開戦時396隻、開戦後建造1,188隻合計1,584隻の艦艇 であったが戦争期間中755隻を失ったとある。
潜水艦喪失数 戦史叢書潜水艦史 P444 開戦時保有 62隻 喪失数 127隻 残存58隻。資料によって差異あり。 ところが、同書付録第二 日本海軍潜水艦喪失状況一覧表(P469〜491) で数えると128隻(敗戦後沈没した伊363除く)である。
表−3を読む
戦後海軍の生き残りたちはその著書で、米国に負けたのは工業力差であったとのたまわった。 全く的はずれ。 1942年からのガダルカナル戦6ヵ月間で海軍航空機932機。搭乗員2,362人を失う。 米海軍機で日本機との空中戦での喪失は 1941〜1942年 266機。1943年 233機。 1944年 146機。  37ヵ月で 645 機の損失。 日本は製造する端から失い、米軍は航空機のストックが増えるばかりであった。  前線は敵の飛行機のように簡単に燃えない機体を熱望するが、源田実が航空機不燃化対策研究会において封じ込めた。
最後までガソリンドラム缶にプロペラを付けた航空機の製造をやめなかった。  結局海軍は敗戦までに航空機 25,609 機を喪失した。
その上、航空機用ハイオクタンガソリンは自国生産できず、米国の輸入品で戦った。当然備蓄は消耗する。 航空機用高品質潤滑油も 米国製品だった。 日米の工業力差でなく技術力差であった。  また、そのような実態も知らずに米国への開戦へと日本を導いた。 すなわち、自らの実力を全く知らなかった。いや知ろうとしなかった。   予科練の実態はこちら
潤滑油枯渇に泣いたのは陸軍も一緒だった。開戦劈頭陸軍が占領した南方油田地帯の原油で潤滑油は製造出来なかった。 沖縄戦に入ると陸軍特攻機の潤滑油は「ひまし油」を使っている。
ひまし油(ひましゆ、蓖麻子油、英語 Castor oil)は、トウダイグサ科のトウゴマの種子から採取する植物油の一種。

航空戦力で戦いを始めたのに
真珠湾攻撃は空軍力で始め、その後も珊瑚海、ミッドウェイ、南太平洋海域戦など全て航空機による戦いだった。  すなわち対空防禦が喫緊の課題のはずである。 その海軍は敗戦まで63隻の駆逐艦を建造したが、 対空駆逐艦はわずか12隻にとどまった。 更に対空・対艦両用砲は製造されなかった。 また、この対空駆逐艦にも魚雷発射管を備え付けていた。この駆逐艦の使用目的がまことに曖昧である。  なお、艦載対空砲は九八式10cm連装砲があったが全製造砲数は169門にとどまった。

表−2  海軍各年保有機数
機種別:年月1941年12月8日1942年12月1944年3月1945年8月
戦闘機 375 569 1,999 2,337
艦攻・艦爆320 184 636 860
陸攻・陸爆324 510 473 594
偵察・哨戒30 10 10 317
輸送機 -- 7995 58
水偵・観測298 309 937 535
飛行艇48 83 118 20
練習機--636 1,6712,515
合計1,3952,380 5,9397,236
本表出典:日本海軍航空史(時事通信社)
開戦時保有機数及び搭乗員数はこちら。

 負け戦や失敗は不問にされた海軍
ミッドウェイ海戦で空母4隻と巡洋艦1隻を失ったが、南雲機動部隊司令部で一時的に責任を取らされたのは参謀たちのみだった。 南雲もそのまま、草鹿参謀長もそのまま。戦機を失い負けないチャンスを逸した航空参謀源田 実はそのポジションを去ったが、 不死鳥のようによみがえった。捷1号作戦のころは訳の分からんT部隊構想をぶちあげ翻弄し、 1945年に入ると航空が負けたから海軍は負けたと松山三四三空の司令となった。当然のごとく戦果は大ほら。
「ミッドウェイ海戦に負けたかことが日本の敗戦に繋がった」 という話が広く海軍出身者に膾炙しているがその理由はどうしてなのであろうか?。
空母戦力で負けていた訳でもなく、戦艦を喪失していた訳でもない。 恐らく誰が考えても打つ手なしの状態となったことで、 あのミッドウェイの大敗戦を招いた南雲と草鹿にその責任を押しつけることで憂さを晴らしのであろう。 一挙に空母四隻も失しなっちゃー勝ちは望ぞめんよなぁーご同輩。 ウンダウンダ(その通り)パチパチ(拍手)で一同納得。

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第二奇兵隊取材班
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