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記録と偵察写真から戦艦大和出撃前の燃料問題に決着を付ける
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| 出撃に懸かる 全電令 大和は燃料廠で燃料搭載せず! |
戦艦大和に限ると徳山で一滴の燃料も補給していない。
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![]() 出撃前第二艦隊が結集した位置を見下ろすところに建立されている特攻艦隊留魂碑 |
Webサイト上で多く語られている大和の燃料について
沖縄島到着するまでの動力推進器を回す動力はボイラー(ロ号艦本缶12基)を使い、その燃料は現在のC重油(比重0.93〜以上),当時は缶用重油と呼んでいたものを使用した。
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| 4月5日 ・電令作第606号 | GF発 宛、第一遊撃部隊(第二艦隊) |
「六日朝、燃料2,000トン補給スベシ」 具体的に燃料搭載量の命令を受信した。
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| 4月5日、17駆逐隊(磯風・雪風・浜風)、第二水雷戦隊戦時日誌、第31戦隊戦隊戦時日誌、 花月(31S)戦時日誌などから燃料搭載は次のような命令・指示がなされた。 |
| 16:47 | 発:2F(第二艦隊) 司令長官 | 宛:31S(31戦隊) | (信号) |
| 左ニ依リ至急燃料ヲ移載セヨ。花月(31S)ヨリ大和600トン。槇・榧(31S)ヨリ大和各200トン。 | |||
| 16:59 | 発:2F(第二艦隊) 司令長官 | 宛:槇・榧 〔花月・矢矧〕 | (信号) |
| 槇・榧ハ17dg(17駆逐隊・磯風・雪風・浜風)ニ横付補給ノコトニ改ム。17dg各艦ハ満載スベシ。 | |||
| 17:40 | 発:2F長官(大和) | 宛:大和・矢矧・朝霜・初霜 | (信号) |
| 朝霜ハ霞に横付補給終ツテ大和ニ初霜ハ矢矧ニ横付補給スベシ補給量霞満載矢矧三百屯 | |||
| 18:30 | 発:1YB司令長官(大和) | 宛:朝霜・初霜・槇・榧 〔花月・矢矧〕 | (信号) |
| 朝霜・初霜(21駆逐隊,霞が除かれている)・槇・榧ハ他艦ヘ重油移載後徳山ニテ満載合同スベシ。 | |||
| 18:30 | 発:1YB司令長官 | 宛:花月 | (信号) |
| 花月ハ大和ヘ重油移載後徳山ニ回航。至急燃料満載ノ上更ニ大和ヘ重油600トンヲ移載スベシ。 ※ 結局この重油は移載せずに出撃した。槇・榧は17dgへ400t。花月から600t 補給を受けた。 | |||
| 19:10 | 発:司令(磯風) | 宛:雪風,〔大和,花月,榧,槇〕 | (信号) |
| 槇ノ雪風ニ対スル給油ハ今夜月出後ニ実施ノ事トス。 | |||
| 31S 花月(600トン)−> 大和 21dg 朝霜 −−−−> 大和(4,000トン・最終搭載量) 21dg 朝霜 −−−−> 21dg 霞、満載 21dg 初霜(300トン)−> 2Sd 矢矧(1,250トン)満載 31S 槇・榧(各200トン) −> 17dg(磯風・雪風・浜風)満載 ※徳山(第三海燃)での重油搭載艦 31S 花月・槇・榧。21dg 朝霜・初霜。5艦 | |||
| 戦闘詳報にみる燃料 単位:トン(KL) |
| 項目/艦名 | 大和 | 矢矧 | 冬月 | 涼月 | 磯風 | 浜風 | 雪風 | 朝霜 | 霞 | 初霜 | 計 |
| 出撃在庫量 | 4,000 | 1,250 | 900 | 900 | 599 | 599 | 588 | 599 | 540 | 500 | 10,475 |
| 帰着在庫量 | 650 | 400 | 418 | 300 | 1,768 | ||||||
| 消費量 | 4,000 | 1,250 | 250 | 500 | 599 | 599 | 170 | 599 | 540 | 200 | 8,707 |
| 第三海軍燃料廠(徳山)で燃料搭載した艦は21駆逐隊初霜,朝霜。31戦隊花月,槇,榧の5艦である。 |
| 小林儀作手記にみる燃料 |
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翌6日早朝、21dg(21駆逐隊)朝霜、初霜、31S(31戦隊)花月、槇、榧は徳山で重油を搭載した。花月戦時日誌では東桟橋に着桟し500トン搭載した。
GF電令作611号発令前はこの油も大和へ移載する指示を受けていた。
電令作611号により、沖縄の燃料 2,000トンとダメ押しされたことで燃料移載を取りやめたと考えられる。 この電令を受けたことで、GFが当初命令した出撃時刻(豊後水道7日黎明出撃)だと余分な燃料の抜き取りを余儀なくされることとなり、 初霜航海長藤井治美の話どおり前倒し出撃を決行する。すなわち、事前に出撃は指揮官所定という許可は貰っているが、この前倒し出撃だと途中からチンタラチンタラ遠足気分の沖縄島突入となってしまう。 04/06 ► 06:00 朝霜・初霜(21dg),花月・槇・榧(31S)は徳山にて補給満載のため燃料廠に移動開始。 ► 06:00〜07:24 花月(三田尻沖)から燃料搭載のため徳山回航。 ► 08:00〜11:40 花月徳山東突堤係留重油500トン、清水搭載23トン搭載。 ► 12:35 花月、大和に合同のため徳山燃料廠出航。 ► 13:19 花月、大和に合同。大和ヨリ移載中止信号受ける。仮錨地岩島ノ200度2,500m。 花月が停泊した位置は33-57-45,6N 131-44-35,2E 付近となる。戦艦大和は花月から199度1,290mの位置である。 |
| 31戦隊駆逐艦花月戦時日誌 |
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18:15 花月、翌6日 02:00 大和に重油300トン移載。 ※第二水雷戦隊が提出した天1号作戦海上特攻隊戦闘詳報で花月は大和へ600トン補給したことになっている。 命令は大和へ600トンだから花月戦時日誌の300トンは誤記と思える。 ► 4月5日 18:15時〜大和へ燃料移載作業開始される。 6日02:00時移載終了。 ► 4月6日 02:00時 4月3日配属されたばっかりの少尉候補生全員上甲板に整列、月明かりもなく真暗闇の中、 能村副長、清水少佐、臼渕大尉、当直将校、甲板士官の見送りを受け、 横付中の花月の中部機銃座へ大和の甲板から渡した青竹を伝って滑り降りた。 矢矧の候補生は日出後、内火艇で矢矧から花月へ移乗した。 ► 06:00〜07:24 三田尻沖出港。少尉候補生を徳山へ。徳山燃料敞への回航。 少尉候補生徳山で退艦。矢矧の候補生は夜が明けて内火艇で花月移動。 三田尻から徳山までは短い航海であるが、一号生徒航海長(山根眞樹生)の操艦の腕前や如何にと候補生達が 艦橋附近で見学しているのでへまをやれば一号の沽券(こけん)に関わると、多少緊張したが、 まずまず燃料岸壁に無事着岸した。 候補生達は永の別れになるのではないかと思うのか、御武運を祈りますと涙ぐんで敬礼し、 退艦。その後一列にならんで帽振れの別れの挨拶を繰返していたが、やがて徳山駅の方へ去った。 |
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<= 写真所載「写真が語る山口県の空襲・工藤洋三/著」 販売書店はこちら B-29 F-13 写真偵察機による 1945年4月6日09:46の徳山燃料敞の偵察写真である。 製品桟橋右に1隻の艦影が認められる。 ► 08:00より11:40まで重油搭載(五〇〇屯) ► 08:00から始まった重油搭載は五〇〇屯で四時間かかる。 |
| やっと一息ついたと思ったら欲も得もなく、 艦橋休憩室で死んだように眠って仕舞った。 「そろそろ出港時間ですが」との先任下士官の声にガバッと跳ね起きて再び艦橋に立った。徳山の山々を見ると満開の桜が緑に映えて平和そのものだ。 |
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上の写真は1945年5月10日B-29爆撃機による攻撃時の写真である。原油桟橋に着桟中の船舶あり。
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► 12:35 徳山出港、13:19 徳山湾口にて大和と合同。 ► 13:40頃、徳山湾口で大和に接近し、 油の移載の指示を仰ぐと意外なことに「重油の移載は取り止め、花月は所定の位置に占位せよ」との指示であった。 これはただ事ではない。花月が徳山往復している間になにかあったと直感した。 三井通信士を呼んでなにか電報が来ているかも知れないので暗号室へいって調べてくれと頼んだところ、 果たして一通の不可解な入電があった。 |
| ■ 大和片道燃料説の震源か? ラッセル・スパー「戦艦大和の運命」 |
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戦艦大和に電測士として乗組み九死に一生を得た吉田満はその著書「戦艦大和」昭和41年(1966)12月20日初版本、
頁33 「かくて全艦、燃料搭載量は辛うじて往路を満たすのみ 帰還の方途、成否は一顧だにされず」と書く。 同じく、大和右舷5番高角砲の信管手坪井平次はその著書で4月5日夕方、大和へ燃料を移載するためにか駆逐艦が側に寄ってきた。 と書いている。 すなわち、坪井よりより情報量が多いはずの吉田満は一方的思い込みからなのか「片道燃料」と書いてしまった。 |
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「戦艦大和の運命」英国人ジャーナリスト ラッセル・スパー:著(左近允尚敏訳*)
発行 1987.8.20 昭和62年発行。
六部構成で大和を含め非常よく纏まっている。
実は、同書頁167〜 大和以下の艦隊の燃料補給に関してこの書がバイブルとなったのか
錯誤と間違いの元凶となる。ラッセル・スパーマジックである。 ここの部分を補完するがごとく、 軍令部出仕機関参謀だった 小林儀作手記との相乗効果?で、 次に紹介する書籍もラッセル+小林の呪縛から逃れ得ない。 著者の想像力の産物は、手押しポンプでタンクの底の燃料を抜き取ったとしている。これが6日朝の話なのだ。 大和の燃料タンクを石油ストーブの灯油タンクと同程度と勘違いしている。 |
| *左近允尚敏の父、左近允尚正は南西方面艦隊第16戦隊司令官であったとき、ビハール号事件の責任を問われ、昭和23年(1948)1月21日刑死した。 |
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(昭和二十年四月六日)燃料廠の日誌には残量(重油)は、1万5,000 トンと記録されており、日本に残っている重油の三分の一をわずかに超えている。
−中略−、どのカラのタンクにも普通のポンプで届かない底の方に、約200トン残っている。
−中略−、手押しポンプで最後の一滴まで汲み出せる。 ラッセル・スパーは汲み出せる。とは書いているが汲み出したとは書いていない。 彼はご丁寧に曳船が巡洋艦と戦艦まで油パージを曳航した。と書いてしまった。 徳山海軍燃料廠史頁429 同燃料廠に勤務していた渡辺崎雄は、接岸した艦艇に燃料搭載の作業を行っているが「みんな持って(全ての重油)行ってくれと力一杯バルブを全開したと。回想している。 |
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「真相・戦艦大和ノ最期」 原 勝洋:著 2003年7月7日初版発行。
氏の著に「戦艦大和建造秘録」など多数がある。大和のメカニカルや写真など迫力があり読み応えのある本である。
同書 頁80 掲 載の写真をみて一人の男が絶句した。最初の乗艦が大和。
戦闘負傷で退院し大和と共に沖縄に向かった軽巡矢矧第二水雷戦隊付き通信兵佐藤義一。
奇跡の海から生還。 同書頁133 と頁139〜140 とは整合しない記述となつている。ラッセル・スパーマジックか小林手記に幻惑されたかであろう。 特攻艦隊燃料補給に関して、原 勝洋氏は「慟哭の海」のその部分を全く読まず、小林儀作手記に幻惑され、かつ重油搭載作業そのものがどのような物理的・ 技術的な制約を受けるのかご存じなかったことによるものと考えられる。 |
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「真相・戦艦大和ノ最期」にみる燃料に関する矛盾 頁133 の記述 頁139〜140 の記述 出撃準備中の特攻艦隊は、上空「三百」(三万メートル*1)を 飛ぶ敵偵察機B−29*2を発見した。特攻隊各艦は、 偵察機の目を避けるため、灯火管制下の夜間作業で艦隊搭載量一万五百トンを補給した。 燃料搭載量は、軍令部指示の「出撃兵力及び出撃時機は貴要望通りとするが、 燃料については戦争指導の要求に基づき連合艦隊機密電どおり二千トン以内にすることに従ったが、 重油タンクの両脇*3に溜まる帳簿外の重油を積み込んで出撃することになった。 第二水雷戦隊の中で特攻隊の編成からはずされていた第二十一駆逐隊「霞」と「初霜」はGF電611号(六日〇七五一電) により特攻隊に編入*4され・・・・ -- 以下略 -- 原 勝洋氏は頁133 で 1,500トンの燃料補給を米軍は暗号解読で知っていた のに、頁139〜140 で 10,500 トンの積み込み作業にしている。軍隊で命令は絶対で あり、いきなり数量が大幅に変更されることはない。 「戦艦大和・平間洋一/編 講談社 2003/5/10第1刷」 頁129 (4月5日電令作607号受領時)の記述 『出撃準備命令を受領した大和以下の水上部隊は、三田尻沖を発して徳山へ回航*5し、 燃料補給*6 、 弾薬補充*7、不要物件や機密書類の揚陸、 乗艦実習中の少尉候補生*8および病人などの退艦などあわただしく着手した。』 *1 B-29 は3万メートルも上昇できなかった。 30,000ft を単に 30,000m に間違えた? *2 グァムに配置されていたF-13 偵察機 B-29 の、4月4日、 4月5日の偵察記録はない。 *3 「重油タンクの両脇に溜まる」簿外重油とあるが、 地上・地下タンクを問わず貯油部分が二重筒構造とはなっていない。一般的に地上タンク、地下タンクの2重構造は無意味。よって両脇に油が溜まることはありえない。 日本の航空母艦の艦内軽質油タンクは2重構造になっていたようである。 揮発性ガスが滞留し百害あって一利なし。 *4 04/05 18:27(18:40) 【信号】発1YB 司令長官(大和) 宛各艦 当隊は(31S,花月,槇,榧欠)当隊は8日黎明沖縄島に突入の予定。 各隊艦は至急出港準備を完成すべし。不要物件は機密書類等は残存艦に移載すべし。 *5 31戦隊43駆逐隊駆逐艦「花月」山根眞樹生航海長に取材('07年7月)し、 同艦が徳山燃料敞に向かうため三田尻沖を離れたのは、6日06:00 時。 *6 駆逐艦「花月」は自艦の燃料を大和へ補給した。終了時刻が6日02:00時。夜が明けて 内火艇で矢矧の少尉候補生が「花月」に移乗。これで三田尻沖を離れた。よって大和は徳山燃料敞の重油を補給していない。 確たる書籍を見ていないが「初霜」も大和への燃料移載があったかも知れない。 この当たりのところを「花月」山根眞樹生航海長にお尋ね('07/07)したところ、遠い昔のことで忘れた。とおっしゃった。 *7 「花月」の魚雷を 5日 他艦分け与えた。対空弾の移載も行われたが、大部分は出撃前に、 呉秋月弾薬庫で佐世保回航命令が出されたとき行っている。 花月は九三式酸素魚雷の手持ちがあったのか? すでにこの時期、原材料と潤滑油の枯渇で長射程の九三式酸素魚雷は製造出来なくなっていた。 *8 駆逐艦「花月」より大和への燃料移載終了時刻が 6日02:00時。 この時点で少尉候補生は花月中部機銃座へ青竹の滑台で移乗した。 平間洋一氏も大和の燃料積込みが念頭にあり、全てを徳山沖でおこなったような記述となってしまった。 同じく、「戦艦大和・平間洋一/編」 頁133 の記述 『これらの各艦に対する燃料補給*は夜を徹して行われ・・・・・』 大和副長能村次郎氏の「慟哭の海」の記述である。 * この作業は三田尻沖 5日夕方から6日黎明までかかった。 |
![]() ► 4月1日(日)、呉より響は三田尻沖を経由し佐世保に向かう。途中で触雷。初霜が呉まで護衛。初霜は直ちに反転し各種洋上訓練を行う。 *21駆逐隊と41駆逐隊は別の海域に居た事になる。 ► 4月2日(月)、三田尻沖着。敵偵察機の飛来頻繁。甲板に偽装工作を行う。 ► 4月4日(水)、大和より各艦所轄長集合命令。海上特攻隊を編成し8日未明沖縄突入の命あり。 ただし21駆逐隊(初霜・朝霜・霞)を除くとあるため、艦長より隊司令を通じ第二艦隊司令部に意見具申を行う。GFより隊編入の許可あり。 直ちに出撃準備を行う。 ► 4月5日(木)、 15:30 三田尻沖出港。燃料補給のため徳山へ回航。 花月より機銃弾の補給を受ける。 ► 4月6日(金)、13:30出港。三田尻沖の艦隊泊地に向かう。 14:00泊地着。艦長大和へ作戦打合せに赴く。 14:45艦長大和より帰還。直ちに出港用意。 15:00出撃下令あり。三田尻沖出港。► 4月7日(土)、17:30頃より各艦乗員の救助開始。 ► 4月8日(日)、08:00佐世保入港。 14:00過ぎ涼月佐世保入港 ![]() 残された戦時日誌は、初霜航海長藤井治美の記憶が違うことを示している。 響触雷は3月29日、17:26(32) 響触雷航行不能 佐波島(山口県防府市)187°5.2浬 33-52-55-37N 131-29-50-98E の海上である。 4月4日の記述。実際の記録は、4月5日18:06時 発:2F司令長官(大和) 宛大和・矢矧・朝霜・初霜(信号) 当隊(31S,朝霜,初霜欠)8日黎明沖縄島突入ノ予定。各隊艦ハ出撃準備完成ス可シ。 不要物件機密書類等ハ必要最小限ヲ残シ残留艦ニ移載スベシ。 朝霜、初霜は21駆逐隊だったから、同隊では霞だけが沖縄に向かうはずだった。 |
| 燃料補給に関する設備的条件(ポンプ能力) |
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(注) これで4,000トンの油を積むと延々1,482時間。日にちにして62日程度。休みなく2カ月必要。 1,000KLはドラム缶(200リットル)で5,000本。家庭用灯油ポリタンクで55,556缶。 @ 陸側タンク→油パージ船(2,000KL)。大和へ移動。 A 油パージ船→大和(2,000KL)。 @+A= 4,000KL 6日朝駆逐艦花月は500トン程度の重油積込みに 08:00〜11:40 の3時間40分 ほど要している。 |
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−戦史叢書に見る燃料補給時間と搭載量 先の徳山燃料敞における花月 500t÷220分=2.27t/分 約 2,340リットルである。 レイテ沖海戦小澤艦隊洋上補給(1944/10/21みる補給・戦史叢書海軍捷号作戦<2>フィリピン沖海戦 P90) 空母瑞鳳から軽巡多摩 開始時刻 13:15 終了時刻 15:10 補給時間 120分 補給量 210t 毎分 1.05t 毎分約 1,082リットル 空母千歳から軽巡五十鈴 開始時刻 18:08 終了時刻 19:30 補給時間 82分 補給量 75t 毎分 0.915t 毎分 943リットル 空母瑞鳳から駆逐艦桐 開始時刻 18:14 曳策切断補給中止 18:55 補給時間 41分 補給量 30t 毎分 0.73t 毎分約 750リットル * 戦艦大和と同様各艦艇も毎時100トンの能力の重油ポンプである。 |
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積込みに必要な作業時間 補給量について最大15,000トン。11,500トン。10,500トン。10,174トンの私が読んだ書籍のなかで この四つの記述があった。液体は容積(リットル)が普通で次の比重で割り戻せばリットルとなる。 比重はA重油083〜0.88、B重油0.91〜0.93、C 重油で0.94〜0.97 当時の海軍にはA重油相当を1号重油。B重油相当を2号重油。 C重油相当を3号重油と呼んでいた。また、缶用重油という呼称もあり、 概ね3号重油と同じ扱いになっている。概略は「海軍燃料史(上)」にある。 大和能村次長重油移送記述と当時の技術レベル(推定、ギヤポンプなら現在も通用) 大和の油ポンプ吐出(吸排出)能力で100トン/基(Hr)であった。 ちなみに現在の重質油ギヤポンプでも ◆4inch 内径10.16mm 最小 80KL/時 最大 100KL/時(Hr) ◆6inch 内径15.24mm。 最大 180KL/時(Hr)程度。 4,000トンの燃料補給に必要な時間は前掲の表になる。 ◆艦艇間移載は最大 100KL/時(Hr)程度である。 第三海軍燃料廠(徳山)で重油タンク係だった山根謙一は、毎時75トンポンプ2基と180トンポンプ4基。であった。 と話しているので現在と同じようなポンプ能力だったことがわかる。また戦時中には1日の原油処理量は1千トンにて廠内の原油補充は大浦より油槽船で行う。語っている。 20年4月上旬には大和出撃に対し燃料補充の上見送った。とあるから、31戦隊花月、第21駆逐隊初霜などに彼らが重油を搭載したことになる。 |
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-- ヒ96船団 光春丸 -- 「戦時輸送船団史 駒宮真七郎/著 出版協同社」頁351上段 3月27日06:00 門司に帰還。 直ちに徳山に回航し揚陸に成功した。本船が還送した重油 1,000トン。全量が待機中の戦艦大和に給油された。 との記載あり。 * この夜 23:45 時頃から B-29 戦略爆撃機による機雷封鎖作戦が関門海峡西海面で展開された。 光春丸が一日遅れて日本に到着したなら、荷揚げするところがなくなるところだった。 光春丸運んだものはこちら。 |
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