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| TOP 戦艦大和 戻る 大和戦闘詳報 疑問符だらけ |
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−この頁はまだ作成中です。!− 矢矧の沈没は14:05とされているが、この沈没時刻にも作為を感じる。というのは二水戦司令部付通信兵だった佐藤義一(防府市向島)は、 司令部付通信兵露天甲板第1通信機室前集合がかかった時刻を艦橋直下艦底部第2通信機室*を出る際の艦内時計は 12:25 であると断言した。 詳しくは、別項にゆずる。 *第2通信機室は戦闘配置の予備通信室。第1通信機室が主通信室。ちなみに第2通信機室配置の者で佐藤義一を除いて誰も生還しなかった。 |
![]() | 駆逐艦「涼月」の記録と米軍エアー・クラフト・リポート*各12:00の記録から、 米艦載機は北緯31゚15' N,東経128゚42' E 付近まで北上し、 大和右舷100゚方向から攻撃態勢に入ったようだ。 よって減速機不調で落後し主隊の後方を追尾していた第21駆逐隊朝霜(艦長:杉原與四郎)が最初の犠牲艦となった。 大和はその後(12:00過ぎ)右に転舵したから、 おのずと左舷から攻撃を受けることになる。 なお、戦史叢書「海軍沖縄方面海軍作戦」付図第三,別図軍艦大和合戦図は 12:30 以降を記述している。 付図第三による 12:00 の大和位置 30゚−54' N,128゚−05' E。 大和探索会調査で判明した正確な沈没位置から 20,132m 手前で、 航路U西方 863m である。 |
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* エア・クラフト・リポート 戦艦大和発見 三井俊二/著 頁262 日米双方12:00 の位置が大きく違う。 日本側の位置だと激闘2時間で発見沈没位置まで 19,824m 移動し、 米記録だと直線で 83,754m 移動したことになる。 公刊戦史「沖縄方面海軍作戦 付図第三」が違いそうだ。 |
| 米艦載機保存レポート |
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| 図−1 『モリソンの太平洋戦史』頁417 |
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| 上図は米国の最も優れた歴史家の一人サミュエル・E・モリソンによる『モリソンの太平洋戦史』頁417 記載の戦艦大和合戦図である。それには大和沈没位置を 30゚−43' N 128゚−03' E としている。戦闘詳報(公刊戦史)の沈没位置は 30゚−22' N 128゚−04' E。 |
![]() | 13時45分の位置はヨークタウンレポートの位置である。 30゚−50′N 128゚−05′E である。時間的にはこの後38分後に沈没している。魚雷・爆弾命中を抜き出すとわずかな時間に立て続けに命中している。 13:37 左舷中部に魚雷3命中。 13:44 左舷中部に魚雷2命中。 14:02 左舷中部に中型爆弾3命中 14:07 右舷中部に魚雷1命中 14:12 左舷中部及び後部に魚雷2命中 14:17 左舷中部に魚雷1命中S・E・モリソンはどこから、大和の沈没位置座標を入手したのか? 実際に沈没している大和の位置に近い。 |
| 図−2 『合戦図部分と大和沈没位置』 |
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戦闘詳報(公刊戦史)の沈没位置は論外としても、空母ヨークタウンレポートの13:45時の緯度経度と、合戦図の大和航跡とはなんとなくしっくりしない。
合戦航跡図に於ける13:45時の位置は沈没地点より低緯度に描かれている。合戦図の沈没位置を視覚的にみると高緯度である。(60度に変針しているので当然だが)
ところが、実際の沈没位置(モリソン図,能村次郎緯度経度)は13:45時位置より低緯度である。
これは日本測地系と世界測地系の問題ではない。 |
| 図−3 『公刊戦史合戦図』 |
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注) @.これまで使った作図はフリーソフトカシミールで行っている。 緯度・経度とも国土地理院デジタルマップを使用している。なお、日本側の戦闘詳報・戦史叢書の緯度経度は日本測地系である。 米側は日本測地系を使うはずもなく当然米国の測地系(WGS84)だったはずだ。よって座標差異があることを承知されたい。 東京付近では、おおむね、日本測地系の数値から、北緯に12秒加え、 東経に12秒減ずると、世界測地系の数値が得られる。ちなみに、緯度1秒の長さ 約30.9m。 緯度1分は1,852m。 経度は赤道上であれば同じく1,852m。 日本測地系と米WGS84測地系との差異は目くじらを立てるほどの距離ではない。 A.当時米国艦隊(空軍)等ではグアム(マリアナ)時間(日本時+1Hr)、シドニー時間(日本と同時)、マニラ時間(日本時−1Hr)があった。 Martin PBM機ヤングとシムス中尉機による、ディラニー中尉機(他2人・空母ベロオウッド・艦爆機・着水時刻 14:00?)が撃墜され、 その救助*1をシムス機とヤング機が行った。その漂流を発見し海面染料投下時刻を14:00時としている。 まだ、烈しく戦闘(攻撃)が続いており、グアム(マリアナ)時間の可能性がある。だと日本時間で15:00時。 欧州で対独戦も戦っていたので統一的にはグリニッジ標準時だった。9時間加えると日本時間になる。 米軍資料でKタイムとあればグアム(マリアナ)時間、Zタイムとあれば グリニッジ時間である。 軽巡「矢矧」の沈没位置がこの近くだろう。 マーチン PBM による救助活動(15:05時〜)を矢矧の乗員は漂流中に眺めている。 戦後矢矧艦長原為一大佐は自著「帝国海軍の最期」に、 海上から大和の方を見るとまだ白波を蹴立てて走っていた。と書いているが、 その側にいた二水戦通信兵佐藤義一は大和は全く見えなかったと筆者(小生)に話した。 *1 Martin PBM 機による墜落したパイロット救助は大和沈没の前だったと記述している書籍も多い(戦艦大和発見 三井俊二/著頁243)。 公式記録でPBM機による墜落搭乗員の救助活動は 15:05 時からである。 二水戦通信兵で救助された佐藤義一は漂流小一時間して大和が爆発したと述べており矢矧の沈没は公刊戦史で 14:05 だが、それより早かったと思える。 なお、大和発見の第一報(08:15) を受けた後、沖縄慶良間より2機のMartin PBM 機が飛び立ちこの戦闘が終わるまでこの海域にとどまっている。 B.「霞」海没処分位置だが、大和が爆沈した海上近くに、冬月、初霜、霞がいた。 霞は缶室全部浸水で漂泊*していた。よって冬月に乗員を移乗させ 16:57 時に処分された。 ![]() ![]() 【戦艦大和発見 三井俊二著頁69 41dg合戦図】 41dg合戦図を参考にすると大和爆沈の写真は北側から撮影されたことになる。艦首は南ということになる。艦首方向に重油の帯?が認められるので風は北か? *磯風撃沈の様子はWebサイトのここに掲載されている。 砲・雷撃は猛訓練されているはずなのに漂流している磯風にまるで命中しないのだ。 *戦艦「大和」大爆発時の写真検証。「冬月」砲術長番井章氏,「初霜」砲術長藤井治美氏証言。 霞の被爆状況は右舷中央部直撃弾1。同至近弾1。右舷後部櫓檣至近弾3。左舷前部至近弾1。 |
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当日当該海域の風向・風速について。ラッセル・スパー著「戦艦大和の運命」で北の風、風速5ノット/s。日本側記録南よりの風、風速12m 。まるで正反対。大和爆沈直近、漂流中の霞の重油の帯びは、北流れなのか、南流れなのか? ラッセル・スパー著「戦艦大和の運命(左近允尚敏*/訳 1987/8/20)」による各艦艇の沈没位置をなぞるとおかしなことになる。
戦史叢書の矢矧沈没位置記述と、スパーのいう矢矧沈没位置は大きく矛盾する。初霜は浜風の乗組員を救助した後、矢矧の生存者探索のため南下したとしている。 同書(戦艦大和の運命)は非常によくまとめられているが、細部の資料性は更なる検証が必要だと感じた。
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ラッセル・スパー著「戦艦大和の運命」は米国で入手出来る確実な資料に基づいて書かれている。
以下、彼の著書で出撃直前の大和の写真偵察が頁169〜170 に書かれている。ここで書かれている写真偵察作戦番号3PR5M121は2001年徳山工業高等専門学校工藤洋三教授が発見した出撃直前の大和の偵察写真に付されている。以下、ラッセル・スパーの書籍のその部分を抽出する。 『第二一爆撃空軍、第三飛行偵察隊のフランク・シェイブル大尉は、カメラを装備したB-29を呉から西に向けた。 今までのところどうもうまくいっていない。海軍基地上空の天候には失望させられた。「呉上空飛行不可能」と彼は報告した。 どうも失望させられる飛行になりそうである。テニアンからの単調なマラソン飛行を続けているうちに、エンジン三基から油が漏れるようになった。 無線機には適当なアンテナが付いていない。硫黄島のホーミング・ビーコンは究明不能の信号で妨害されている。食事もひどい。 使命番号3PR5M121の同機は高度三万五〇〇フィートで本州沿岸と平行に飛びながら、 |
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3PR5M121の解説。 「3PR」 第3写真偵察戦隊の意味。 「5」 西暦1945年の意味。 「M」 Combat Mission (戦闘任務)”M”ission の頭文字 「121」 作戦通算番号。 任務の121番目。 5M1 だと1945年の第1回作戦任務。すなわち4月6日で121回写真偵察飛行が行われた。1回で7,000枚程度のプリントが得られるている。 鉛直方向(真下)撮影カメラはK-18という名称でフイルムサイズは230mm×460mmという大判だった。写真偵察機F-13には通常7台の目的が違うカメラが搭載されていた。 帰着後すぐに現像され、分析専門者によって解析された。問題を発見すれば、速やかに関係部署(陸海軍)に配布され、次の作戦に活かされた。 この偵察機は偵察写真を撮りまくったが撃墜されたという記録はない。では日本軍はなぜ邀撃に出撃しなかったのか?。単機若しくは2〜3機程度で来襲するB-29は爆弾を落とすことはまず無かった。 南方からの資源還送が絶たれ、ガソリンは血の一滴と大切にされた。ガソリン枯渇により無害航行機への邀撃は無駄のこと。と考えるようになっていた。貴重なガソリンは本土決戦に備え各地への隠匿が始まっていた。 広島に原爆を落とすため、このような1〜3機程度の無害飛行を繰り返し、おいまた定期便がきたぞ!と安心させ、広島に原子爆弾を落としている。 |
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天候の良好な空域を探しでいた。ちょうど江田島(呉の村岸)を過ぎようとしたところで停泊中の空母がちらっと見えた。
多分天城であり、無駄なことだがこれ以上空襲されないために隠れようとしているのだろう。機上整備貞のジテックは凡帳面に写真を撮り始めた。広島湾には艦艇は潜伏していないようだ。内海でもこのあたりでは艦船は動いていない。
アメリカ軍はこうして日本を綿密な監視下に置いているので、何か軍事的な動きがあれば、ほとんど即座に発見できる。カメラでも分からないし情報の専門家でも推測できないのは、日本経済の絶望的な状態、悪化する食程事情、国全体の極度の疲労、大衆の恐怖、そして上層部における重要ではあるがまだはっきりしたものにはなっていない、ある形の和平への希望だった。
徳山上空を対地速力毎時一九五マイルで飛んだフランク・シェイプルの仕事は報われた。燃料廠のすぐ先に大和部隊を発見したのである一群の軍艦が給油している。ジテック軍曹のカメラは阿賀野級軽巡(矢矧)と駆逐艦六隻をとらえた。もう二隻は多分徳山の湾内だろう。「最高の写真である」と飛行隊長はのちに報告した。』
*スパーによる「戦艦大和の運命」に書かれている大和写真偵察飛行ルートが実際と逆になっいるだけだ。スパーは東(呉)方向から西(徳山)方向に飛行したように記述しているが実際は関門海峡方向から徳山に向かい、呉を偵察して帰路についた。 *左近允尚敏の父はビハール号事件刑死左近允尚正である。 |
| C.痛烈な批判 |
制空権ヲ有セザル艦隊ノ脆弱ナルハ既ニ「マレー」沖海戦以来幾度カノ戦闘ニ於テ実証セラレル処ナリ。完全ナル制空権ヲ確保シ得ザル場合ト雖モ突入迄強力ナル直衛機ヲ附シ勢力ノ保持ヲ期ス。徒ニ特攻隊ノ美名ヲ冠シテ強引ナル突入戦ヲ行フハ失フ処大ニシテ得ル処甚ダ少ナシ。
特攻部隊ノ使用ニ当リテハ如何ニ九死一生ノ作戦ニアリトテモ目的完遂ノ道程ニ於テハ最モ合理敵ニシテ且自主的ナル如ク細密ナル計画ノ下ニ極力成算アル作戦ヲ実施スル要アリ。
思ヒ附的作戦或ハ政略的作戦ニ堕シ貴重ナル作戦部隊ヲ犬死セシメザルコト特ニ肝要ナリ。続けて、作戦目的が曖昧だったとかみつく 今次海上特攻部隊ノ作戦目的ガ航空攻撃ヲ容易ナラシムルモノナリヤ航空部隊ノ志気昂揚ノ為ナルヤ或ハ三十二軍ノ総攻撃ニ策応スル為ナルヤ明確ナラザリシ点アリシ
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| D.敵撃墜たったの10機 |
米艦載機の実態は、機上攻撃管制官が機上レーダーにより各攻撃隊に攻撃目標を割り振り、
第一遊撃部隊側が機影を発見したときは、機銃群の応射が間に合わないほど近距離だったと戦史は記している。
更に対空(防空)兵装に致命的欠陥を内在していた。
九六式 25mm対空機銃の要目は下図のようなものだった。
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この対空射撃について戦闘詳報は 二水戦各艦ハ環型照準機(蜘蛛の巣状)ニ換装後間モナク照準訓練不足ノ儘出撃セリ。
二十五粍機銃ノ威力少ナキガ如ク信管改造カ四十粍機銃ニ換装スルヲ要ス。今次戦闘ニ於テ明ニ命中弾ヲ確認セルモ撃墜シ得ザルコト多カリキ。
電探ニヨル射撃可能ナル如ク速ニ兵器改善ノ要アリ。理由 (一)今次戦闘ニ於テハ雲底低ク敵機発見遅レ射撃時間少ク砲力ノ発揮充分ナラザリナリキ。 (二)現在ノ測巨(距)儀測ハ測手ノ精神的影響大ナリ。即チ精神的誤差ヲ零ナラシムル為最科学的ナル電測兵器ニヨル射撃ヲ実施セザルベカラズ。 第二水雷戦隊装備の25mm対空機銃は環型(蜘蛛の巣状)の照準装置であったから、(ニ)項の測巨儀測定値は高角砲に使ったのか? 鉄砲屋の本流(主砲関係者)は、7日の天候悪天候。天佑我にあり!。であったが、 彼らが蔑んだ「テッポー屋のクズ」視された対空射撃関係部署将兵には、雲底が低く、 射撃指揮装置またレーダー連動管制装置を欠く装備にあっては、誠に不都合な天候だったのだ。 対空防禦兵装に進歩が見られなかった。それまでの指揮装置が高速化した航空機に対応できないため、環型(蜘蛛の巣状)照準装置に後戻りした。ここでも兵器が進歩せず逆戻りである。せいぜい25mm 機銃の増載程度でお茶を濁した。また、最大の欠陥は中間域砲を装備していないことだった。 航空攻撃に対して輪形陣を組むことはマリアナ沖海戦以降に行われたが、急降下爆撃にはそれなりの対空応射が可能だが、 低空飛行する雷撃機に対して同志撃ちの危惧がつきまとい輪形陣の内側に進入した航空機に対しては有効な射撃は不可能に近い。 1945年4月6〜7日の航空特攻でも、米艦艇に多くの同志撃ちが発生している。 海面すれすれに低空飛行する場合の応射はよほど注意しないと味方艦艇に銃砲弾が命中してしまう。 |
| E.生還艦の銃砲発射弾数 【表−1】 |
| 砲種/艦名 | 矢矧 | 冬月 | 涼月 | 雪風 | 初霜 | 合計 |
| 主砲 | 218 | 834 | 332 | 136 | 75 | 1,595 |
| 36 | 104 | 82 | 34 | 19 | ||
| 高角砲 | 365 | 365 | ||||
| 91 | ||||||
| 25mm機銃 | 32,980 | 18,480 | 15,735 | 9,943 | 4,398 | 81,536 |
| 545 | 379 | 315 | 232 | 157 | ||
| 13mm機銃 | 1,032 | 583 | 1,615 |
![]() | 4月7日06:00時頃大隅海峡を抜け、坊ノ岬南西44Kmの海上に達したところで第三警戒航行序列輪形陣)とし予定進路を一路沖縄を目指した。 【表−1】のデータは平射砲だった主砲(矢矧,雪風,初霜)が対空射撃に無力だったことを表す。平射砲といえども迎角55度まで対応できたから、高射砲的使用も可能だった。たが、次弾装填に砲身をほぼ水平の10度まで戻さなければならなかった。 よって、沖縄突入が決まった最終段階で防空駆逐艦の冬月,涼月が加えられたことが敵機に対する防御力に貢献したことがわかる。 冬月、涼月には25mm三連装機銃×7基。冬月には25mm単装機銃×12基、涼月7基あった。 ![]() |
| 本題からそれるが、米国汎用型ベンソン級駆逐艦の二本煙突に比べ、冬月(秋月型)の艦姿は優美そのものである。当時の世界最優秀艦の一つだろう。高角砲も世界の水準に決して劣ってはいない。さて、本題だが、矢矧、冬月、涼月にはこのデータで見る限り13mm機銃は積まれていない。 |
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艦攻(雷撃機)の襲撃高度(魚雷投下)は標的より概ね千メートル以内でかつ投下高度は50mを上回ることはない。飛行ルートは標的の前方を進む。
海軍の艦攻(魚雷)用照準機は「97式雷撃照準器」が使われている。
大和は左舷に多く魚雷を受けたので、敵機は左図青線を飛行する。よって傾向として機銃の応射、涼月,冬月が同士撃ちされる意味でも最適な占位にあった。初霜の場合、高速で眼前を通過し、後は追い撃ちとなりまず命中しない。 25mm 機銃弾は【表−1】で 81,536 発であり、別の駆逐艦、磯風,浜風,霞を加えると10万発を超えるだろう。 |
| 米艦載機の実態は、機上攻撃管制官が機上レーダーにより各攻撃隊に攻撃目標を割り振り、第二艦隊側が機影を発見したときは、 機銃群の応射が間に合わないほど近距離だったと戦史は記している。 更に対空(防空)兵装に致命的欠陥を内在していた。 |
| 鉄砲屋の本流は、7日の天候悪天候。天佑我にあり!。であったが、
彼らが蔑んだ「テッポー屋のクズ」視された対空射撃関係将兵には、雲底が低く、
レーダー連動射撃管制装置を欠く装備にあっては、誠に不都合な天候だったのだ。 対空防禦兵装に進歩が見られなかった。せいぜい25mm 機銃の増載程度である。 航空攻撃に対して輪形陣を組むことはマリアナ沖海戦以降に行われたが、急降下爆撃にはそれなりの対空応射が可能だが、 低空飛行する雷撃機に対して同志撃ちの危惧がつきまとい輪形陣の内側に進入した航空機に対しては有効な応射は不可能に近い。 昭和20年(1945)4月6〜7日の菊水一号航空特攻作戦でも、米艦艇に多くの同志撃ちが発生している。 海面すれすれに低空飛行する場合の応射は、よほど注意しないと味方艦艇に銃弾が命中してしまう。 |
| 日米対空火器比較 日本の12.7 cm 砲は平射砲。米国は対空・平射両用砲 |
| 国別 | 長射程砲 | 中射程砲 | 短射程砲 |
| 帝国海軍 | 12.7 cm | 25 mm | 13 mm |
| 米国海軍 | 12.7 cm | 40 mm | 20 mm |
| 帝国海軍の対空装備の欠陥は中間域機銃の無かったことである。結局米機に対して1万発撃ってやっと1機の撃墜となった。逆ガル翼 F4U コルセア(戦闘爆撃機)は頑丈の代名詞のような航空機だった。 25mm機銃弾は余程のことがない限り致命傷にはならなかっただろう。 |
| F.銃砲撃戦の反省 |
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○機銃ノ射弾精度良好ナリシニモ拘ラズ撃墜機数少キ一ツノ理由ハ敵機ニ対スル照準装置トノ集中角修正不適切ナルニ因ルモノト認ム多数機同時来襲ノ時機械的自動調整装置ナクシテ之ヲ其ノ都度指揮官ノ目測ニテ苗頭調定輪ニテ修正スルコトハ実施不可能ナリ集束弾ノ中心ヲ目標ニ導キ得ザレバ多数命中弾ヲ得ザルコトハ自明ノ理ナリ
来襲機が多数の場合機銃座指揮官の判断のみで射撃しても撃墜は難しい。機械的自動的調整装置。すなわち射撃管制指揮装置が無かったなら敵機撃墜は困難と評価している。 ○連装機銃ハ艦ノ転舵被害等ニ依リ一〇度乃至二〇度傾斜スルトモ旋回円滑シムル如ク機構改善ノ要切ナルモノアリ 艦の急転舵により傾斜がきつければ、機銃座の旋回に支障がでている。以前の海空戦の戦訓による不具合が改善されていないのであろう。これなど通常訓練でもテスト出来たと思える。銃座が横揺れ、縦揺れに対応していなかった。 ○敵機ハ被弾防火対策ハ略完全ニ近キモノト認メラレル我ガ方機銃弾ハ相当命中シ命中ニ依リ火ヲ発スルモノ多数アリシモ間モナク消火シ撃墜スルニ至ラザリシモの極メテ多カリキ 詳しいことは専門外で知識も乏しいが、秋月型駆逐艦装備の10センチメートル高角砲には、航空機による水平爆撃機に対する高射測距儀と砲同軸照準機は装備されていたと思うが、レーダー管制などの装備はなかったと考えられる。ましてや艦載機の急降下爆撃に対応できる射撃管制は行えなかったと、その発射弾数と撃墜機数から考えられる。 |
| G.通信 |
大和ノ通信力予想外ニ脆弱ナリ。戦闘開始(12:30)後記録上ニテハ約十分ニシテ艦隊内電話ニ出系セズ。
真空管フィラメント等の材質悪化により、爆弾爆発の衝撃により切れたのであろう。 今次戦闘中自艦ノ発信ガ如何ナル電波ニテ送信サレルヤ知ラザル通信長、通信士アリ。
自艦後部電信室ニ二号電話ノ装備シテアルヲ知ラザル通信士アリ。
電話不達トナル際T・M軽便通信機ノ使用ニ着意セザリシ通信長アリ。
ランドセル型背負式T・M通信機が配備されていた。全ての艦には受信室2(上部が主担、下部が予備)、送信室2(上部が主担、下部が予備)、最悪前部通信室が使用不能になっても後部送信室での受信は可能であった。 |
| \.水上特攻隊に関する大本営発表 |
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○大本営発表(昭和二十年四月八日十七時) 一、我航空部隊並ニ水上部隊ハ四月五日夜来 反復沖縄本島周辺ノ敵艦船並ニ機動部隊ヲ 攻撃セリ 本攻撃ニ於テ (一)我方ノ収メタル戦果 撃沈 特設空母母艦二隻、戦艦一隻、 艦種不詳六隻、駆逐艦一隻、輸送船五隻 撃破 戦艦三隻、巡洋艦三隻、艦種不詳六隻、輸送船七隻 (二)我方ノ損害 沈没戦艦一隻、巡洋艦一隻、駆逐艦三隻 二、右攻撃ニ参加セル航空部隊並ニ水上部隊 ハ孰レモ特別攻撃隊ニシテ右戦果以外ソノ 戦果ノ確認セラザルモノ尠(すく)ナカラズ |
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大和以下の水上特攻隊の損害は珍しく実数に近かった。ただし戦艦沈没は大和と伝えていない。大和の就役も国民に知らされなかったし、その沈没も知らされなかった。開戦後就航した戦艦大和,武蔵。一度もその存在を告げられることもなく、幾多の将兵を道連れにし海の墓標となった。
太平洋戦争3年9ヶ月の間、大本営発表は846回を数える。 敵に与えた損害はその年開戦応答日(12月8日)に累計が発表された。戦争が進むにつれ誇大戦果傾向が顕著となり、月別戦果隻数を年間累計にすると、戦争3年目、昭和19年12月8迄に米国へあたえた艦船の損害は、いかに工業生産力があろうとも建造不可能な膨大な隻数に達した。 国民の中には、新聞発表を集計している人間もおり、誰言うことなく大本営発表は大嘘であると確信するに至る。 最後の大本営発表 ○大本営発表(昭和二十年八月十四日十時三十分) 我ガ航空部隊ハ八月十三日午後鹿島灘東方二十五浬ニ於テ 航空母艦四隻ヲ基幹トスル敵機動部隊ノ一群ヲ捕捉シ敵航空 母艦及巡洋艦各一隻ヲ大破炎上セシメタリ |
| ].水上特攻隊に関する感状 |
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海上特攻隊感状 機密GF告示第一一四号 布 告
第一遊撃部隊の大部 連合艦隊司令長官 小 沢 治 三 郎 |
| これまでに戦った海軍将兵に空しい連合艦隊司令長官の感状であった。明治建国以来世界第三位の海軍力は戦力としてゼロにまでなっていた。 血みどろの3年8ヶ月失った主要艦艇だけでも412隻に及ぶ。 |
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