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実録・戦艦大和特攻作戦 7日悪天候不良、航空攻撃僅少判断と戦闘経過
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| 戻る 伊藤長官の死出の旅路 進む疑問符だらけ大和戦闘詳報 |
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06/21:57発 着07/00:00頃 GF参謀長 宛天一号作戦部隊 〔無線〕 敵信情報ニ依レバ本日ノ航空攻撃ニ依リ敵KGBハ甚大ナル損害ヲ受ケタルモノノ如シ空母ヲ含ム数隻ノ艦艇沈没確実ナル外引続キ大混乱ヲ惹起シツツアリ |
| 07/08:15時:矢矧1号機〔機長富原少尉〕発艦 |
| 前日6日、菊水1号航空特攻の華々しい戦果が入った。もし航空攻撃を受けても大規模なものにはならない。と楽観視していた。 また、翌7日の天候は悪天候の予報だった。よって航空攻撃があったとしても散発的攻撃だろうとの見方が大勢を占めた。 この天候判断は正しかったが、 航空攻撃の制約を受けたのは日本側で米側は航空機搭載レーダーで少数機を除いて目標を雲上から捉えた。 |
| 戦史叢書沖縄方面海軍作戦 頁652[挿図61]豊後水道出口 17:10 出撃時刻 15:20 としている。この区間は 70浬以上ある。艦速 30Kt でも到着出来ない。一方宮崎県日向市東方海上地点時刻は 22:00 となっておりわずか23浬に5時間近くかかっている。
本行動図は公刊戦史に倣ったが、豊後水道出口の時刻は 19:50 である。 戦史叢書海軍編は旧帝国海軍関係者が編集執筆したはずであり、作図段階で所要時間と位置関係から疑問を感じるべきだった。 ついついおまえ達プロかよ!と言いたくなる。
同書、頁643 下段第二艦隊司令部を含む戦死者を2,498人としているが、次頁頁644 下段では大和司令部も含め戦死2,740人としている。 戦友の死者さえ戦果と同様デタラメなのかと叫びたくなった。
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| 【図−1】 |
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上図 A は、豊後水道黎明出撃で航路Tを選択した場合の7日15:00大和推定位置である。
鹿屋基地よりの方位 236゚ 距離 162Km。 30゚ 32' 46"N ,129゚ 26' 12"E GFの命令は、8日黎明(04:00)沖縄島西方海域突入だった。一体この06:00時のこの場所で大和はどのような 行動をしているのか真意を疑う。 突入まで 22 時間もある。20Kt(37.04Km/Hr) の速度で航行すると 20 時間もあれば指定海域に突入できるのだ。 本来なら 06:00 地点は 14:00 頃でなければならない。 航路Uを選択するにしても 20Kt で航行するのなら、この地点 08:00 でも早すぎるのだ。 真っ昼間チンタラチンタラ航行して沖縄に突入できると考えたらお目出度い限りである。 第二艦隊の参謀連中は、生きる希望も闘志も失っていた伊藤整一長官への死出の旅路へと大和以下の将兵を驀進させたのか?? |
08:40時:大和敵F6F七機発見。敵ハ攻撃セズ1YB周辺ヲ一周後去ル我地点坊ノ岬二六〇度六〇浬進路二〇〇度速力一八節 第一遊撃部隊参謀たちの見通しは楽観に満ち、かつ希望的観測だった。GFからもたらされた菊水一号作戦に
おける航空特攻による米側の損害は甚大で空母数隻の沈没*1を伝えた。 また、
当面する天気は悪天候で当然艦載機の動きを大きく制約するものと考えていた。7日、
11:07 時頃から次々と対空電探による編隊が捉えられ出した。そして、
11:30 には喜界島島上空に大編隊を捉え「敵艦上機ノ来襲必至ト予期」したにも係わらず、
「天候及既得敵情ニ鑑ミ其ノ機数大ナラザルベシ」との希望的観測を行っている。
また、敵味方識別装置(IFF)のない悲しさで「或ハ味方ノ邀撃(ようげき)戦闘機ナルヤモ知レズ」 ・・・・・・
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早い段階でレーダー照射による応答装置すなわち敵味方識別装置(IFF)を海軍技術陣は知っていた。
この装置も訪独潜水艦での技術供与リストにのぼっている。 戦史叢書「沖縄方面海軍作戦」で
「或ハ味方ノ邀撃(ようげき)戦闘機ナルヤモ知レズ」と本当に書いてあるのだ。
海軍士官教育の技術音痴と底の浅さが知れる。 そのような装置も無くレーダーで敵・味方不明の場合であるなら敵と判断すべきであろう。
日米は交戦状態なのだ。物事を楽観視して得るものはなにもない。 筆者も社員100人程度の株式会社の取締役だったが、最悪の事態を想定しながら舵取りを行った。 戦史叢書(日本国の公式戦史)編纂に携わる人物は当然海軍兵学校出身者と思える。この一文は反省だったのか、 それとも本音の吐露として最大公約数だったのか知りたいところである。 |
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11:40 時 第二艦隊司令部の判断 敵艦上機ノ来襲必死ト予期ス。
航路U第1回頭点(31゚12′N,128゚15′E) から205度に変進した直後である。 大和の電探は敵大編隊を捉えていたが、天候小雨模様の状況と敵機動部隊が遠距離であること。 味方基地航空隊の奮闘など勘案し、大規模空襲はない。との敵情判断となった。 |
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海軍本流の砲術・航海科の連中は、とんでもないテク音痴*2であった。
すなわち、悪天候目視に頼る自分たちの判断で状況予測していたにすぎない。
傍受した五航艦の無線は航空特攻出撃を伝えており、特攻攻撃を受ける前に米空母より発艦した航空機が自分たちに向かってきただけという判断をしている。 |
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*1 7日の航空特攻は悪天候が災いし、
航空特攻は、散発的でかつ沈没した艦艇2隻が記録されるいるが1隻の沈没は特攻ではない。 国民に対する誇大戦果ならいざ知らず、
戦闘の帰趨に係わる情報を的確正確に伝えなかったなら、現場の判断はとんでもない間違いを犯す。
*2 大和副砲長清水芳人少佐の戦後の回想としてレーダーは随分遠距離から機影を捉えるものだと感じた。 と述べている。 「大和の三式1号3型の古色蒼然とした電探でも、このとき、80〜100Kmに2群の艦載機を捉えていた」 * 海軍内部では、対空高射銃・砲関係者を陰で「鉄砲屋のクズ」と呼んでいた。 防空・防御などは 海の男の役務に値しないと考えていた。 |
[図−2]![]() 米機動部隊第58・3任務部隊や58・4任務部隊は概ね北緯27°,東経130°付近に遊弋して いることが多かった。すなわち、喜界島180゚ 海域である。 |
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雲底は低く敵機の急降下爆撃は困難で 雷撃機は低空に降下して、はじめて艦隊を視認することになり、輪形陣の対空防御砲火で航空攻撃をかなり防ぎえると考えたのであろうが、 その対空弾幕には根本的欠陥を持っていたのだ。 ここにも、防御軽視攻撃優先の体質がみてとれる。 * TBFアベンジャーは3座で機上電探を装備していた。 |
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昭和20年(1945) 4月7日 沖縄と戦艦大和以下の航跡及び戦闘記録 沖縄現地32軍は反撃開始を4月7日とし、その支援のため、戦艦「大和」,軽巡洋艦「矢矧」, 駆逐艦8隻からなる第一遊撃隊は,伊藤整一中将に率いられて沖縄に出撃した。 つまり,日本の陸・海軍は,航空隊と水上艦隊との共同作戦によって、4月6日・7日と米軍の地上部隊・ 艦隊に総攻撃を実施したのである。 大和以下の艦隊が必ずしも行き当たりばったりで出撃をしたのではなかったが、 沖縄突入艦隊燃料補給に限って多くの出版物や戦記に類するものが行き当たりばったりの記述となっているのはなぜなのか? |
現実問題として1945年3月下旬、瀬戸内海西部に進出した戦艦大和以下の
残存艦艇は米軍の機雷封鎖で
ニッチもサッチも行かない状態になっていた。
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-- 『戦史叢書「沖縄方面海軍作戦」付図第三』 -- に見る一大疑問。 06日10:17 までは、既定進撃路を驀進していた。 敵編隊を見ていないにもかかわらずこの時点(10:17)いきなり変進しているのだ。 米軍大和確認時刻12:00 時の経度は128゚ 42′E ,日本側の記録は128゚ 05′E だから、距離にして58Km大和の位置が西に変位している。 大和が正しいとすると、沈没までの2時間23分の間、わずか20Kmの距離でのたうち回ったことになる。ところが、別図軍艦大和合戦図では そんなに、のたうち回ってはいない。 ひたすら沖縄島に近づこうとしている。 |
| -- 防御軽視の体質は -- |
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第三警戒序列のような輪形陣はマリアナ沖海戦の頃に試みられ、レイテ沖海戦で完成の域に達した。
航空機からの艦隊防御の問題が持ち上がったのは世界初の空母同士の戦いとなった珊瑚海海戦(1942年5月8〜9日)からである。
このとき、索敵機は敵機動部隊を発見し、
味方艦隊に通報した。よって十分な時間があったにもかかわらず有効な対抗手段が取れなかった。
駆逐艦の主砲は迎角をあげ対空射撃も出来たが、あくまで平射砲であり装弾は砲をほぼ水平にし給弾した。
そのようなことで、主砲による対空射撃は25秒に1発程度だった。対空(防空)駆逐艦の出現が待たれたが、攻撃優先の精神風土のなかで本物にならず、
対空(防空)駆逐艦でも魚雷発射管を備えていた。
対空(防空)型駆逐艦は敗戦まで12隻建造されたにとどまる。ちなみに、駆逐艦の戦時建造は 63隻 を数えたが、秋月型駆逐艦の建造比は 19.05% にとどまった。 思考に柔軟性が無かった証しでもある。
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航空魚雷はなぜ簡単に命中するのか 米軍では、目標手前約1,200ヤード(1,000m)手前で投下するとしている。当時米軍航空魚雷の雷速は33Kt(16.97m/s)。それだと58.9 秒後に到達する。 大和の最大戦速は28Kt(14.4m/s)だから、魚雷到達時間に848m 移動する。艦全長は263m だから848÷263m=3.23 で艦の3 倍強程度の位置移動となる。 当然魚雷回避転舵を行っても舵がきき出すまでの空走距離も長大・超重の艦体だと必然的に大きくなる。攻撃側は艦速をアバウトに見積もっても複数機で扇状に投下すれば、 目標艦速、雷速、投下地点から魚雷投下軸に機首をめぐらせばよい。 だから、大きな危険を冒してまで目標艦に接近する必要はない。 あまり接近して投下すると投下魚雷は自重により大きく沈下する。やがて調停深度まで 回復するが、近距離だと回復が間に合わず艦底通過し空振りとなってしまう。 第三警戒序列でも、航空機が通過するには隙間だらけなのである。 特攻機はどうだったのか 一攻撃戦隊の機数が少すぎた。目標まで到達する前に多く防空戦闘機によって撃墜され、 辛うじて目標にたどり着いた攻撃機は、各護衛艦艇搭載の40mmボーフォース連装機銃の集中射撃を浴びた。 |
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下図は、大和を攻撃する雷撃機の各艦応射の範囲である。輪形陣の中で低空進入する雷撃機に対して銃撃を加えるられる範囲は各艦とも射角40゚ 程度以内と非常に限定される。 右図から霞と初霜の間から攻撃に向かえばよいことがわかる。敵機が射撃圏内に入っても同志撃ちを避けるために、 三艦程度の反撃しかあり得ない。 原勝洋著「戦艦大和ノ最期」で大和に対する魚雷は58本発射され、大和戦闘詳報で命中は10本(左舷7,艦尾2,右舷1) であるから命中率は 17.2% である。一方爆弾は77発投下され、同じく戦闘詳報では6発命中。命中率は 7.8% 攻撃を受ける側から見れば、艦爆は多くの艦艇が反撃に参加できるとともに回避が容易でもあるが、 雷撃機に対しては、反撃が限定され、かつ編隊で扇形に投下されたら回避困難である。 |
| 艦攻(雷撃機)の襲撃高度(魚雷投下)は標的より概ね千メートル以内でかつ投下高度は50mを上回ることはない。飛行ルートは標的の前方を進む。 海軍の艦攻(魚雷)用照準機は「97式雷撃照準器」が使われている。 |
![]() 【図出典:戦史叢書 沖縄方面海軍作戦】 |
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大和を艦首部,艦央部,艦尾部に3分割すれば、左舷側の触雷は艦首に1発。艦央部2発,艦尾部6発である。
概ね、× 印の位置付近で魚雷を落とせばよい。投下航空機は約3秒後に大和のはるか前方を通過する。 航空機は魚雷を投下すれば左方向に逃げればよい。機銃は追い打ちとなりまず命中しない。 大和への攻撃は上図の進入コースで、大和の魚雷回避行動は右転舵であったことを魚雷命中は示している。 |
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上図輪形陣内の駆逐艦で魚雷命中は浜風右舷中央部1のみである。小型高速艦への魚雷攻撃は困難なのだろう。 幸運艦初霜。戦傷2以外損傷なし。冬月では艦底通過魚雷が記録されているが調定深度の狂いか、接近投下によるものと考えられる。 |
| 朝霜は早期に脱落したので、米雷撃機の攻撃に対しての貢献度はゼロ。 駆逐艦で魚雷を食らったのは浜風右舷1本。冬月の艦底通過1本が記録されている。残りの艦の触雷はない。 雷撃機が輪形陣内に進入した場合反撃の応射はほとんど不可能で、もし応射しても数秒である。 |
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傘型危険界 軍艦などの大型船舶が、衝突などの危険を回避するため、停船など急制動措置を講じても、慣性により前進してしまう範囲。 大和が仮に最大戦速(27Kt・50Km/Hr)で驀進していると3,000m 程度の距離が必要となる。 また転舵など進行方向から90゚軸が変わるのに、艦の長さの5倍程度必要だという。 |
![]() 【米軍5inc砲と40mmボーフォース連装機銃】 |
海軍内部で、防御を言い出せる雰囲気が全く出来なかったので、
防空直衛機をどのように統一指揮するかという研究は一度もされなかったし、米軍のように直衛機管制はついに成らなかった。航空機用無線電話の不備とか、電探能力不足以前の根源的問題を抱えていた海軍だった。 防空システムと防御という思想を持たない艦隊が輪形陣を組んでも、単なる気休めであった。
実際、土壇場で、冬月,涼月を加えたが対空戦闘の切り札になりもしなかった。 電探連動対空射撃指揮装置もなかった。戦訓でこれらの装置の欠如について痛烈に批判している。
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この最新式艦用高角砲と指揮装置は喉から手がでるほど欲しい装置だった。
その入手のため伊52潜水艦が訪独することになる。
艦隊防衛の対空射撃についても、個艦主義で、艦隊決戦にみられる合同主義の訓練もされなかったし、
研究もされていない。 「防衛」「防御」「守る」などの言葉は、臆病者や卑怯者の使う言葉で人間とみなされなかった。
個艦主義は潜水艦の脅威に対しても同じく個艦主義だった。 鎌倉武士の一騎打ちのやり方を踏襲したように見える。海軍は自らの劣勢(軍艦数)を認めた上で漸減(ぜんげん)邀撃(ようげき)戦で相手の勢力を減殺(げんさい)した上で、雌雄を決する基本戦略*であったから 、太平洋戦争が空母機動艦隊の戦いとなっても、急に頭の切りかえが出来なかったのであろう。 海軍建艦の神様視された平賀譲の責任も大きい。 | |
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* このような考えそのものが近代国家総力戦にそぐわないことにも気付いていない。 日本型組織に見られる「調和」方式は長官や司令官は、場の調停者であり、参謀らの進言によって裁可を与える存在である。 狩猟民族にみられる強いリーダーシップと無縁な農耕民族が、巨大な海軍を持った悲劇かもしれない。 |
| 米機撃墜たった10機のナゾ この水上特攻に赴いた駆逐艦「霞」の先任士官(砲術長)だった三浦 節氏が『私観 大東亜戦争(元就社 2008/1/25発行)』で興味深い記述をしている。 同書頁251 「特攻作戦が下令されたあと私は大和から凧を借りてきた。霞の後甲板からこれを上空に舞いあげておいて、歴戦の部下に25mm機銃の射撃演習*をやらせた。まず砲術長が模範を示すとばかり部下の前で自分が射ったら、すぐそこにある(だからこそ、さらに自信をつけさせるため行った射撃訓練であるのに)凧に命中しないので、頭をかかえたのを覚えている。 砲術長の腕がおかしいのか、乱造の機銃がおかしいのか、誰か代われよと言って、部下とともに陽気に笑ったのも覚えている。」 機銃の製作年が不明だが、1944年に入ると熟練工が徴用され多く学徒が製作した。空中に漂っている近距離の凧にさえ命中しないのだから、高速移動体の航空機には更に命中しなかったことであろう。 * 4月5日 ・電令作第603号 (13:59)『急速出撃ヲ完成スベシ』 とされたから4月5日の午後と考えられる。 * 艦載機銃は95式射撃指揮装置が使われたが、駆逐艦はスペースの関係で単装機銃などがありその場合射撃指揮装置は使われなかったのではなかろうか? |
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第二水雷戦隊の戦闘詳報で、この機銃の問題点を指摘している。画像の蜘蛛の巣状の照準器は、出撃直前に装備され、これに慣熟する間もなかったと書いてある。
敵雷撃機は目標とした艦の3,000m先から襲撃態勢に入り概ね1,000m程度で魚雷投下し、この襲撃に対して25mm機銃での対応は困難で破壊力も小さかった。
やはり、40mm程度の口径が欲しいと総括している。 爆弾は怖くないが、魚雷の破壊力は大きく雷撃機なのか爆撃機なのか素早く見分ける必要があるとも書いている。 |
| 大和沖縄出撃は「天一号作戦・菊水一号作戦」発動で全軍が知っており、当面沖縄方面航空作戦は、五航艦の担当だった。 当初の電令作607号で、大和は豊後水道黎明出撃であり、第一回頭点(12:00)から奄美大島西方海域まで(380Km・これから先は夜間) 直掩すればよかった。だが大和は12時間前倒し出撃したことで 五航艦とすれば計画が狂い(最低でも10時間程度の直掩)、沖縄特攻攻撃が手薄にならざるを得なくなる。 |
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よって五航艦の判断を忖度すれば、 1.大和直掩に振り回されることを快しとしなかった。 2.生憎悪天候(日本側の認識)。雲底が低く直掩隊形が組めない。 3.航空特攻機数(直掩で撃墜される)に狂いが生じる。 4.343空紫電改隊(特攻前路掃蕩隊)の到着が遅れている。(到着日8日) などから直掩中止命令を出したと考えられる。 |
天候記録、天候観察から当日(4月7日)の海軍航空機による大和直掩は不可能だった。天候は小雨もしくは雲量10。
空一面乱層雲が覆っていた。雲底は約1,000m。雲上トップは2,000m程度。 直掩機は当然雲底より低く飛ばざるを得ない。
高度が低いことは邀撃の範囲も小さいことを意味する。 雲中飛行だと、機上レーダーを装備していない日本の戦闘機は水上艦艇を発見できない。
すなわち、航空機装備の陳腐劣悪さが直掩を不可能とした。 米機を撃墜しなくても追い払うだけで初期の目的は達するが、当時の米軍パイロットはガッツに溢れていた。
自動消火装置に頑丈な機体。更に、乗員救助のシステムが構築されていたので、魚雷なり爆弾を投下した後戦場を離脱することなく機銃弾を各艦艇に浴びせている。
何があっても助けてもらえるということで恐怖感は少なかったと彼らは記している。 死ぬ気で戦え!死なない限り助けてやる! あなたならどちらのチームに加わるだろうか? |
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海軍は異例の沖縄第32軍に飛行場奪回の作戦を強く望んだ。沖縄の飛行場が敵手に落ちると、ここから簡単に本土への空爆が
可能になるからであった。 ■この日の沖縄:左翼の八五高地地区(首里防衛線)の主陣地は全滅に近い状態で米軍に占領された。嘉手納飛行場奪還は絶望的となった。 |
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