実録・戦艦大和特攻作戦 戦後明らかになった事実。長官の死出の旅路であった。

戻る第一遊撃部隊の作戦計画   進む7日悪天候不良 突入成算有り


【伊藤整一】
生還した伊藤整一長官の副官だった石田恒夫(少佐)が戦後に語った話で「息子が特攻隊員なんだ。 もうじき死ぬんだよ。俺も生きていたって仕方がない」と心中*1を吐露したという。 多くの親が味わった悲哀をこの鈍感な男はこの期(ご)におよんで感じている。
大西瀧治郎がフィリピンで航空特攻を行うと切り出したとき、伊藤整一は軍令部次長*2であった。 伊藤がダメだと一言云えばあの千載青史に汚名を残す愚劣な航空特攻は起こり得なかった。  この話が事実なら、航空特攻で戦死させられた兵士の家族の悲嘆と悲哀をこの間際において感じるとはなんと鈍感な男であることか。
第二艦隊参謀たちは、白昼堂々? 平均速度 18Kt 程度。 この特攻艦隊に乗り合わせた 6,700余人の将兵を、長官と長官の息子への殉死者にしようとしたのか?
*1 「戦艦大和 生還者たちの証言から」栗原俊雄/著 2007/8/21発行 岩波書店 頁70
*2 軍令部次長が二人制だった時期がある。1944年3月1日付で塚原二四三が就任。同年7月29日に廃止。
  伊藤は一時期軍令部第一部長も兼務(1943年5月22日〜6月14日)していた。第一部長後任は中澤 佑
伊藤整一は日本の運命を決めた昭和16年(1941)9月6日、宮中で開催された御前会議出席者の一人(15人)である。
彼が軍令部次長の席にあるとき、人間爆弾桜花,人間魚雷回天,航空特攻の全てが決定し推進された。第二艦隊司令長官に着任する前、既に数百の特攻死が発生している。 戦争史の中で全く非道なこの特攻作戦でその後も多くの若者が志し半ばで果てたが、彼らを育てた両親は『生きていたって仕方がない』など泣き言を言わずやり場のない悲しさと憤りを胸に秘めながら廃墟となった戦後日本の復興に心血を注いだ。
 昭和20年(1945)4月7日(00:01発 受:03:45) 発:GF長官
   GF司令官,GF司令,沖特根司令,天1号作戦部隊,〔大臣・総長〕,八飛師,南方軍,一方面軍,三二軍    【無線】
連合艦隊司令長官激励電
帝国海軍部隊ハ陸軍ト協力空海陸ノ全力ヲ挙ゲテ沖縄島周辺ノ敵艦隊ニ対スル総攻撃ヲ決行セントス皇国ノ興廃ハ正ニ此ノ一挙ニアリ 茲ニ殊ニ海上特攻隊ヲ編成シ壮烈無比ノ突入作戦ヲ命ジタルハ帝国海軍力ヲ此ノ一戦ニ結集シ以テ光輝アル帝国海軍部隊ノ伝統ヲ発揮スルト共ニ其ノ栄光ヲ後昆(ごうこん,後世の人)ニ伝ヘントスルニ外ナラズ
各隊ハ其ノ特攻隊タルト否トヲ問ハズ愈々殊死(しゅ‐し,死を決してなすこと)奮戦敵艦隊ヲ各所ニ殲滅シ以テ皇国無窮ノ礎ヲ確立スベシ
二水戦旗艦矢矧でこの電信を受信した。受信者は第一電信機室(艦橋基部)に配属されていた二水戦付き通信兵佐藤義一である。暗号電で解読班は電信室隣だった。
発見された大和沈没位置 日本測地系 北緯 30度43分17秒 東経 128度04分25秒。 沖縄残波岬まで予定航路だと286浬である。 どんな計算をしようとも途中でとんでもない低速に落とさない限り当初GFが意図した沖縄島到着想定時刻にはならない。
米軍は Imperial Fleet 袋のネズミ作戦を立案し、戦略爆撃機 B-29 を使用し、ある作戦を実行した。 この事実を「-- 空襲・戦災を記録する会全国連絡会議 --」 事務局徳山工業高等専門学校工藤洋三教授が秘密解除された米国立公文書館の記録とレポートを発見した。 同時にそれは、日本に対する飢餓作戦でもあった。
1945年1月25日、最高戦争指導会議決戦非常措置要綱を策定したが、 第二条二項で、「現状ニ鑑ミ左記事項ニ関シテハ特段ノ措置ヲ講ス。
1)航揮ノ急速還送。 
2)自給不能ナル南方資源ノ急速還送。
 昭和20年に入って南方から帰還できた船舶は4隻のみだった。  単なる言葉遊びの作文だった。

*3大井 篤」山形県出身。海軍兵学校から海軍大学へ。昭和18年(1943)11月から終戦まで海上護衛隊総司令部参謀。海兵51期、海大34期   ※大井篤著『海上護衛参謀の回想 原書房 S50/9/30発行』P226〜228
初版は「海上護衛戦」の名称で日本出版協同(株)でS28/3/5 発刊。同書では関係者が伏字となっている。
これで、特攻艦隊への燃料補給の当初案は全体で4,000トンだったことがわかる。 そうなると、大和2,000トン。矢矧450トン。駆逐艦八隻に1,500トンか?(各艦200トン程度)

*4 古村啓造,マリアナ沖海戦時、第一機動艦隊(司令長官小澤治三郎)の参謀長。

 大和出撃直前 重要関係電令整理                       時間:時.分
月日時刻内     容突入
残余時間
方法
04051730GF長官1YBY−1日黎明豊後水道出撃。突入Y日 04:0058.30無線
出撃は7日黎明時豊後水道。突入8日黎明時。
  040518302F長官31S 花月徳山で燃料搭載、それを大和へ移載せよ57.30信号
04060751GF長官1YB 出撃時機指揮官所定40.51無線
0405 1730 時から0406 0751 時までの14時間強あまりにGFとの間で何が話し合われた?
  04060827GF参謀長1YB長官 燃料は二,〇〇〇屯以内40.65無線
04060956GF参謀長1YB長官 Y−2日夕刻豊後水道出撃39.00無線
結果からみるとチンタラ・チンタラ散歩気分の出撃に。
 突入残余時間は推定着信時刻を加味した。概ね2時間30分〜3時間加算。

 0406 0956 番電が送信された時刻で既に航路Vの選択肢はあり得ない。  ならば、機密命令作第3号別図は誰が何のために作成したのか?? 大和沖縄島突入を欺瞞する韜晦航路と戦史は記述するが、米軍の沖縄上陸支援作戦の一環として、3月27日深夜下関海峡機雷投下作戦、続く広島湾、呉湾に機雷投下された現状から、大和の炙り出しを意図していることは明々明白ではないか。
 当時の帝国海軍の情況分析・解析能力が小学生程度に堕していたのか?? 傍証的に能力低下を疑わせるのは潜水艦部隊による沖縄海域への回天戦展開であろう。
徳山沖から各航路別所要時間 単位:時
 徳山沖〜沖縄 20Kt 所要時間
航路T 581.5 浬29.1
航路U 660.2 浬33.0
航路V 763.2 浬38.2
之字運動艦速15%増し(20Kt×1.15%)
敵の索敵線に偶然一寸した穴が開いたとき以外に、潜水艦は接敵できなかった。また、一旦発見されると生還は期しがたかった。それでもなお執拗に潜水艦の作戦投入を行っている。 帝国海軍はある思いこみの呪縛にとらわれていた。 潜水艦は、制空権,制空権に関係なく横行独歩できると信じていたのである。

作戦会議で示された航路 ―
 【図−1】
 昭和20年4月6日 13:00 於:大和,作戦会議
陸軍機は九州南部から飛びたっても、徳之島が往復を考えたとき飛行限界であった。ただしカタログ値は沖縄往復飛行が可能である。海軍局地戦闘機紫電改の限界は奄美大島までである。
第六航空軍は陸海軍協定により1KFGB〔機動基地航空部隊(第五航空艦隊)〕指揮下に入ったので参謀副長青木喬(少将)が派遣されていた。海軍側が陸軍機も沖縄往復が可能ではないかと詰め寄ると。あれはカタログ値とやり返している。

戦艦大和の沖縄特攻について、あまたの出版物があるが、当初のGF命令どおり大和が行動しなかったことを記述しているものは皆無だった。 筆者も公刊戦史「沖縄方面海軍作戦」をなんど開いたことだろう。 そうした折、前述した、駆逐艦「花月」山根眞樹生航海長投稿によるWebサイトを発見した。  氏のご存命を知り、厚かましくも書簡を入れた。 そして、丁重なるご返事を頂戴した。
戦史叢書 「海軍沖縄方面海軍作戦」 読んでみても?? 出撃がなぜ早まったのか疑問符だらけであった。
電令作第607号 ― 昭和20年(1945)4月5日(発15:00 受:17:30) 発:GF長官            【無線】
 宛:1YB司令長官〔天1号作戦部隊〕大本営海軍部第一部長,沖特根司令,高通,第10方面軍,第32軍,第8飛行師団
1.帝国海軍部隊及ビ第六航空軍ハX日(六日以降)戦力ヲ挙ゲテ沖縄周辺艦船ヲ攻撃撃滅セントス。
2.陸軍飛行第八師団ハ右ニ協力攻撃ヲ実施ス。 第三二軍ハ七日ヨリ総攻撃ヲ開始敵上陸部隊ノ掃滅ヲ
  企画ス。
3.海上特攻隊ハY−1日黎明時豊後水道出撃Y日黎明時沖縄西方海面ニ突入敵水上艦艇並ニ輸送船団ヲ
  攻撃撃滅スベシY日ヲ八日トス
普通に見ることの出来る史料から、GFは沖縄島出撃や突入は何時でももよいなどと命令していない。 だが、経過と結果はこの第一遊撃部隊は当初命令に反した出撃時刻になってしまう。 まるで米軍に私たちを沈めて下さい。私たちは死にたいのです。と初期任務を放棄した艦隊行動にみえるのだ。
残されている機密第一遊撃部隊命令作第三号別図の航路Vは、 電令作611号(06/07:51)で出撃時機指揮官所定と令する以前に提示(送信)されたと考えざるを得ない。 戦艦大和以下残存艦艇による沖縄水上特攻は戦後無謀の極みのごとく伝えられているが、第一遊撃部隊参謀たちによる出撃時刻選定は無謀に輪をかけた暴挙ではなかろうか。 すなわち、
航路別の航程及び所要時間  (豊後水道出口深島沖より沖縄)
航路別所要時間      単位:時・分
 航程 (浬)20Kt 所要時間
航路T 495.0 24.45
航路U 565.0 28.15
航路V 680.4 34.16
之字運動艦速15%増し(20Kt×1.15%)
 
少なくとも、電令作第607号の内容から、GFは【図−1】に示した航路Tを考えたはずである。 上表による航路Tの航程なら495浬程度で艦速21Ktで間違いなくY日 04:00 に突入できる。 奄美からの方位 198゚ 航路との交点付近から夜間になる。参考までに陸軍機,海軍機紫電改の行動範囲内におさまる。 航路Uで沖縄到着まで出撃から24時間におさめようとすると之字運動(ジクザグ航行・対潜警戒航行)を考えると24Kt以上の速度が必要となり成り立たない。565浬÷24時間=23.54Kt×1.15(之字運動無駄率,15%のみなし)=27.07Kt。 航路Vは論外となる。
電令作第607号4月5日(発15:00 受17:30)この着信前 16:47 から沖縄に向けての燃料準備に入った。 憶測仮定の話だがこの電令のとき機密第三号別図が送信されたと考えられる。すなわち大和が出撃した4月6日 15:30 頃なら沖縄到着まで 36時間30分の時間があり航路Vも成立する。
4月6日 13:00 から大和で開催された作戦会議では
 六日 一八〇〇 豊後水道東水道出撃
     二三〇〇 都井岬ノ六六度一一浬
 七日 〇三〇〇 佐多岬
     一〇〇〇 31度12分N 128度15分E
     二〇三〇 28度12分N 126度41分E
 八日 〇四〇〇 沖縄島西方海面着
作戦会議で示された航路U ―
 【図−3】
屠殺者の群れと恐れられた米第58機動部隊にこれでは殺されに行くような作戦となった。
一体1YBの幕僚らは沖縄突入をピクニックでも行くつもりだったのか?
沖縄に近づくつれ艦速を落とす作戦である。それも16Kt 弱。之字運動するはずであるが、それでも18Kt を超えることはあるまい。 ミッチャー中将指揮する機動部隊は、 空母18,戦艦8,重巡4,軽巡11,駆逐艦48,艦載機919機。 対 戦艦大和以下10隻。勝ち目はない。
  電令作第611号 
 昭和20年(1945)4月6日(発07:51 受:11:09)
    発:GF長官  天1号作戦部隊    【無線】
1.電令作603号ニヨル第一遊撃部隊兵力ヲ大和、二水戦(矢矧及駆逐艦8隻)ニ改ム。
2.海上特攻隊豊後水道出撃ヲ第一遊撃隊指揮官所定トス。
この電令を受けたのが記録では 11:09 とされている。 04061015、1YBは停泊している各艦に〔本日1300ヨリ大和ニ於テ作戦打合セ行ウ各級指揮官幕僚駆逐艦長参集セヨ〕と信号を送っている。
示された進撃接敵要領で第一遊撃部隊はY−2 18:00 豊後水道出撃。 進撃接敵路,特令ナケレバ第二航路トス。であった。
電令作611号が着信する前、在泊各艦に 13:00 より大和で作戦会議を行う旨信号し、 この時刻に菊水航空特攻作戦作戦会議に加わったGF参謀長草鹿龍之介と艦隊参謀三上作夫が来訪した。
この電令で出撃は指揮官所定(勝手に決めてよい)となったが、 本論的作戦会議に入るか入らないかの 13:05 時に航路Uで沖縄に向かうこと、前述した各地点の座標が軍令部総長に発信された。
艦艇からの送信は緊急の場合を除き、機械式で行われていたので電令準備はそれ以前に行われたはずであり、 1YBからの無線も受信し暗号解読時間を経て総長に届いたのは少なくとも 15:30 頃ではなかろうか。
頭が混乱するが記録の残る電令 051446(発GF参謀長,宛徳山支部長,2F長官)番電で燃料は二,〇〇〇トン以内と命令されながら 051830 に花月に対して徳山で燃料を満載しそれを大和へ移載せよ。 と令していることである。
 単に着信時間が遅れただけなのか?  次ぎの04051500 番電の着信が1730であるだけに不思議である。 電令にも至急電などあったそうだから筆者の深読みしすぎだろうか。
04051500 番電(発信,着信1730)では出撃がY−1日であったものが、約14時間後の 04060751 番電(発信,着信1109)で出撃時機指揮官所定とし、続く 04060956 番電(発信,着信不明)でY−2日夕刻豊後水道出撃と変更されている。 この間に出撃駆逐艦数も第41駆逐隊の冬月と涼月2隻が加えられた。いったい1YBと連合艦隊との間でどのようなやりとりがあったのか?
04060956 番電が着信したであろう 04061200 頃に出撃したのなら、徳山沖から航路Vでの航程は841浬で艦速20Kt 強で沖縄に所定の時刻Y日 04:00 に突入出来た。 既にこの時刻 (040612:00頃) には花月が搭載してくる重油は積まないことを決定していると思える。なのに 040613:00 招集された作戦会議で航路Uと発表された。ならばなぜ実行しもしない、 いや時間的に実行不可能な命令作第3号別図の航路Vはなぜ作成されたのか?
04061505  1YB 指揮官訓辞 〔信号〕
神機将ニ動カントス皇国ノ隆替懸リテ此ノ一挙ニ存ス 各員奮戦敢闘全敵ヲ必滅以テ海上特攻隊ノ本領ヲ発揮セヨ   ※ 二水戦戦闘詳報ではこの信号時刻 1610 としている。
4月6日 航跡記録 (31戦隊・駆逐艦花月戦時日誌より)
16:10 大和旗旒信号 〔軍艦大和戦闘詳報時刻〕 ※ 二水戦戦闘詳報ではこの信号時刻 1620 としている。
「第31駆逐隊ハ陣列ヲ解キ、帰投セヨ」
花月艦橋。騒然となる。艦長は叫ぶ「何故か?」。鶴岡司令*3は「今一度大和へ照会せよ!」と怒鳴る。全員大和を守ると固く覚悟を決めていたのだ。 山根航海長は今朝08:27時 発GF 宛第二艦隊の電文*4の意味が理解出来た。
GFは第31戦隊を九州南方海面に向かわせるなという内容だったことを。 中村昇先任参謀が鶴岡司令へ具申。「司令、柳井に向かいましょう」
16:20:前路掃蕩隊第43駆逐隊(花月、榧、槙)を分離解列命令発令。 この発令を花月側は16:10としている。花月航海長山根眞樹生 (海上特攻作戦余話)に掲載されている。なお、国立公文書館アジア歴史資料センターWebサイトに花月戦時日誌が公開されている。参考までに検索用レファレンスコード 「C08030591000」
第31戦隊のドラマは終わった。やがて柳井鳥島沖に仮泊。GFの次なる命令を待った。 花月は回天訓練基地(潜水学校)のあった山口県熊毛郡平生沖で終戦を向かえる。
第31戦隊解隊後柳井市鳥島沖に仮泊。到着時刻を18:01時としている。  解隊位置を佐多岬先端より西北西14Km地点あたりの海上とすれば、鳥島まで約33浬。 解隊時刻16:10時とされているので第31戦隊は18ノットで鳥島に向かったことになる。
錨地(三田尻・徳山・下松沖)から佐多岬先端まで86Km。22Kt逆算で15:31時頃抜錨となる。 能村副長は16:05泊地発進としている。艦速と距離が符合しない。
*3 鶴岡信道(海兵43期)
*4 公刊戦史にこの電令の記述はないが電令作611号(05/15:00)の前に電令作605号で「第一遊撃部隊指揮官ハ三十一戦隊の駆逐艦四隻(実際は三隻)ヲ以テ掃蕩隊ヲ編成 九州南方海面迄 海上特攻隊ノ 対潜対空警戒ニ任ゼシムベシ」であろう。
-- 昭和20年(1945)4月6日 米潜水艦 スレッドフィンとハックルバック
豊後水道を出撃した戦艦大和を報告した。報告を受けた第58機動部隊指揮官ミッチャーは麾下空母を三つの任務グループに分け攻撃させることにした。
1YB航行時刻毎位置
   15:20時:徳山沖出撃下令。艦隊襲撃訓練を行う。
   16:30〜17:00時:対大和襲撃教練実施
   18:00時:西水道に入る。艦隊速度22Kt(豊後水道、四国と九州を隔てる水道)
   18:30時:此のときまでに判明する敵潜水艦概位
         豊後水道出口 2隻
         日向灘 1隻
   18:45時:司令部水偵は明朝 05:30 発進 09:00 迄対潜直衛を実施す。帰投基地指宿。
   19:50時:西水道通過【深島沖】第一警戒航行序列に占位
   20:30時:対潜水艦警戒のため斉動運動(之字運動)航行開始
   21:30時頃:矢矧敵潜水艦がグアム基地宛航空機暗号発信スルヲ傍受感度極メテ大
昭和20年(1945)4月6日(発21:57 受:07/00:00) 発:GF参謀長  宛:天1号作戦部隊         【無線】
敵信情報ニ依レバ本日ノ航空攻撃ニ依リ敵KGBハ甚大ナル損害ヲ受ケタルモノノ如シ空母ヲ含ム数隻ノ艦艇沈没確実ナル外引続キ大混乱ヲ惹起シツツアリ
この日、大和では菊水一号作戦が発動され航空特攻出撃の電令を次々受けていた。 そして帝国海軍病弊ともいうべき架空の大戦果が報告された。  艦橋では、明日の突入を楽観視する空気が流れた。 元山航空隊、予備学生受難の第一日目が始まった。
6日、18:30 西水道に入り22Ktに増速し第一警戒序列で進んだ。
22:00 宮崎県門川町東約15Kmの海上で140度に転舵。 大隅海峡(04:00)通過中203空の艦隊上空直掩電を受けた。海峡を抜けたところで第三警戒序列とし、7日、06:00 大隅海峡通過。坊ノ岬南西44Kmの海上に達し第三警戒航行序列に入った。
 07/06:00 大隅海峡通過 第三警戒航行序列ニ占位ス
 06:00 大和司令部水偵1機発艦(対潜直衛)
 06:57 朝霜機関故障速力12Ktとなり落後する。
戦史叢書沖縄方面海軍作戦頁652 挿図六十一の西水道出口時刻17:10は距離と出撃時刻から整合がとれない。 なにしろ徳山沖から86浬もあるのだ。 徳山沖出撃時刻は 15:20 である。西水道出口 17:10 1時間50分で86浬を航行したなど信じられない。 それまでの出撃に係わる時系列と整合が取れていない。 小さなことだが全てに疑問を感じながらこの公刊戦史は読む必要がある。  GFの初期命令はこの地点を7日黎明に出撃し、沖縄島に翌8日黎明に突入せよだった。

-- 昭和20年(1945)4月7日(08:00) 天候:曇小雨模様。雲量10。雲高1粁〜2粁 
-- 昭和20年(1945)4月7日(08:23) 空母エセックス偵察機 大和発見電発す 
沖縄慶良間、水上機母艦をマーチンPBMヤング中尉機とシムス中尉操縦2機が大和への接触のため飛び立った。10:16 同機は大和発見を打電。以降大和との接触を絶つことはなかった。
天一号作戦は既に動き出していた。昭和20年(1945)3月24日の連合艦隊命令に基づき先遣部隊(第六艦隊・潜水艦部隊)指揮官は、27日回天特別攻撃隊多々良隊を編成し準備でき次第出撃させることにした。まず28日回天6基搭載し第15潜水隊所属伊47は大津島基地を離れ、 640浬先、沖縄戦域を目指して出撃した。 ところが翌29日北緯29-45,東経131-35*5において米艦載機の襲撃を受け損傷。作戦に参加出来なかった。 続いて3月30日伊53を出撃させようとしたが山口県光市沖の周防灘で触雷。戦線から離脱した。 続いて3月31日伊56潜*6と伊58潜が出撃していった。 天1号作戦はそのスタートから大和の将来を予感させるつまずきのスタートとなった。

戦艦大和が動き出したこの日、昭和20年(1945)4月6日、台南武勇隊(第765空)銀河2機(08:37)が菊水一号航空特攻の口火を切った。続いて第一国分第210彗星隊13機(未帰還7)が沖縄北端91度85浬の米機動部隊に殺到した。天山、彗星、97艦攻、 99艦爆が爆装零戦が新竹、串良、鹿屋、第二国分から出撃した。残る地上員は滑走路端で千切れんばかに手を軍帽を振った。 機上で小さな点でしかない勇士の姿を目に焼き付けんとした。 この日、 一航艦、五航艦は当面動員できる特攻機のすべて注ぎ込んだ。出撃機数215機。未帰還機162機に達した。 戦果は戦艦2,艦種不詳2,大型3,小型2計9隻轟沈。輸送船5,艦種不詳1計6隻撃沈。 撃破、戦艦1,炎上 駆逐艦1,輸送船6,小型2,艦種不詳9計19隻が損傷したと見積もった。 敵味方飛び交う電波は第二艦隊に届いた。 よし! 明日の航空攻撃は散発的になるはずだ。この読みは誰の胸にも去来した。 この空前の大規模特攻により沖縄近海の米海軍は大打撃受けたものと考えたのだ。
戦史叢書 沖縄方面海軍作戦 頁639 で第二艦隊司令部の見通しを「機動部隊ニ依ル本格的空襲ノ算大ナラザルベシ」 機動部隊の空襲があっても規模は小さいものと見込んだ。

*5 屋久島南南東方位122゜距離109Km 海域。
*6 伊56 1945年4月5日04:06〜レーダーピケット艦 Hadoson と航空機の連携により爆雷攻撃を受け撃沈された。位置は久米島西方(方位271.6゚ 距離20Km。 北緯26-22,東経126-30)である。

防衛庁(省)戦史室が長い年月をかけ、政府や陸海軍の公文書、戦闘詳報、戦時日誌、当事者たちの証言、 統計データなど膨大な資料と、多くの研究者を動員して編纂した『戦史叢書』の発刊の目的はまさしく 戦略、戦術、戦闘の経過を明らかにすることで、防衛庁(省)の今後に向けた教訓、資料として活かすと 同時に、かっての歴史の検証作業だった。と思うが、「沖縄方面海軍作戦」の どこにも、GFが示した電令作607号(611号)と戦艦大和の沖縄突入時機が整合しないことを検証していない。  筆者はそこに編者たちの 恣意 を見る。
GFの電令作607号から考え、その突撃路は奄美大島付近を航過する沖縄島最短路だったはずだ。補給する 重油の量からしても大幅な迂回航路は考えられない。 最短突撃路であれば、奄美名瀬市北方130Kmあたりから薄暮、夜間に入る。 すでに戦場に投入されていた局地戦闘機「紫電改(航続距離 800Km)」での直掩も可能だったはずだ。  GFは電令作611号(06/07:51)によって第二艦隊からの意見具申を受け入れ41駆逐隊(冬月・涼月)の参加OKは良しとしても、 なぜ指揮官が勝手に出撃時間を決定してよいとする電令作611号を発したのであろうか。  裸の水上艦艇の昼間航行は航空機に簡単(費用対効果)安上がりのご馳走を与えるようなものである。そのような戦訓を海軍は幾たびも経験しているはずだ。  まさか、真っ昼間チンタラチンタラ沖縄に向かうとはGFも考えてもいなかったのだろうか?
防空専門の343空(編成:1944/12/25・三航艦編入 源田 実司令)の鹿屋進出は4月8日である。  進出目的は、航空特攻の奄美付近までの前路征空のためだった。  水上特攻の成算を期すための総合的部隊運用思考力が欠如している。  本格的航空特攻の菊水一号作戦は始まっている。米軍に振り回され、 対策対応が後手後手となった。貧すれば鈍するか? すなわち前日7日帝国海軍は戦艦大和を撃沈され、すくなくとも海軍の海軍たる水上艦艇を喪失した。 この日以降の特攻作戦はその反撃意味を失っている。
源田は、最初の航空特攻隊名称の発案者であり、 最初の航空特攻電文起案者でもある。また、人間爆弾「桜花」の命名者でもあった。
GFが想定した第T航路なら豊後水道から24時間で沖縄島へ突入することを予想していたはずだ。
[図−1]   〔第一遊撃部隊機密第3号別図〕

海上護衛隊参謀大井 篤に連合艦隊司令部の護衛担任参謀立花 止大佐から連絡が入り、 大隅海峡の機雷堤を聞かれたと著書に書いている。 沖縄突入に関し、燃料、航路などを勘案すれば、GFは最短路を想定していたはずだ。 だから、何度も言うが豊後水道黎明出撃、沖縄島突入黎明だった。
豊後水道黎明出撃すると沖縄島突入黎明となる。
ところが、第二艦隊は驚くべき作戦命令を出している。下図 航路U回頭点1の位置から沖縄残波岬まで、 第3号別図に示された回頭点2を経由した距離は 316.2 浬。突入時刻は不変で 08/04:00 残余の時間は 18 時間
316.2Km÷18時間。なんと平均17.57Kt 程度で航行することになるのだ。 帝国海軍の有終の美を飾る作戦にふさわしい選択だったのか。首をかしげざるを得ない。
連合艦隊の発した命令 電令作第607号 〔4月5日(発15:00 受:17:30)〕
『海上特攻隊ハY−1日黎明時豊後水道出撃Y日黎明時沖縄西方海面ニ突入敵水上艦艇並ニ輸送船団ヲ攻撃撃滅スベシY日ヲ八日トス 』 公刊戦史 [沖縄方面海軍作戦] 頁628

[図−2]
 第二水雷戦隊戦闘詳報に上図のような航路が記録されている。すなわち九州東岸よりの航路が示されている。 すなわち深島沖から直線で戸崎鼻方位 90.7゚ 距離 17.4 Km(31゚46'55"N 131゚40'16")先を南下するコースである。
GFが命令した航路−T。 奄美名瀬北方海域付近から夜間突入となる
【図−3】
まだ徳山沖に停泊していた1YB長官より軍令部総長宛(04061305)連絡で次のような無線を入れた。
1YB の予定航路ハ次ノ通リ
七日 〇三〇〇 佐多岬
     一〇〇〇 31度12分N 128度15分E
     二〇三〇 28度12分N 126度41分E
八日 〇四〇〇 沖縄島西方海面着
左図佐多岬 07/03:45 計画と45分違うが九州東岸を少し遠回りしたことによる。
これを知ったGFは腰を抜かさんばっかりに驚いたことであろう。  沖縄島突入は不可能と悟ったはずだ。この事実を知りながら戦後編纂された戦史叢書・沖縄方面海軍作戦は、この事実を隠している。 この杜撰ともいえる突入(航行)計画は前大和艦長だった森下信衛参謀長の承認がなければ伊藤整一長官が決済するはずもない。 この段階で伊藤整一は冒頭記述したように死ぬことを渇望?さえしている。
当Webサイトで図−1,図−3を見た方は、1YB(大和)の選択した、6日、徳山15:00過ぎの出撃が間抜けでお話にならないことに お気づきだろう。何度も述べたが、チンタラお散歩気分でまるでガッツを感じられない。  これでは Imperial Navy の栄光もクソもない。 どうして、あれだけ多くの「戦艦大和」に関する書籍が 出版されながら誰も指摘しなかったのだろうか?、合理的思考の持ち主なら前掲「図−1」の第T航路選択しかあり得ない。 だが、彼らは命令作第三号別図の航路Uを選択した。これまた闘志なき突入を図った摩訶不思議な選択であった。
第一遊撃部隊命令作別図第3号 [第V航路] の意味するところ
第一遊撃部隊は「図−1」のように3ルートを作成している。
1.航路Tは、初期命令どおり豊後水道出撃が7日黎明(04:00)。到着は8日黎明(04:00)となる。
2.航路Uは、瀬戸内海西部(艦隊仮泊位置)を7日00:00時。 到着は8日黎明となる。
  実際はこのルート選択だったが出撃時刻を8時間強前倒しした。
3.航路Vは、瀬戸内海西部6日15:00時。到着は8日黎明(04:00)となる。
この全区間距離は 765.5浬(1,417.7Km(徳山沖から) 艦隊航行速度 21Kt (時速38.89Km) で航行した場合の所要時間は36時間27分。
@ 6日15:20〜24:00 (8時間40分)+A 7日00:00〜24:00 (24時間)+B 8日00:00〜04:00 (4時間)
合計=@+A+Bは、36時間40分。

米機動部隊の遊弋海域と第二艦隊の軌跡は「戦史叢書 沖縄方面海軍作戦」を参照されたい。同書 頁652 挿図第六十一がある。 ただしこの図そのものを信じるわけにはいかない。なぜなら出撃直前の第二艦隊瀬戸内海域停泊海域は徳山市粭島沖である。 同挿図は同海域を6日15:20出撃。豊後水道出口、愛媛県南宇和郡西海町西方海面を17:10としている。粭島から同海域までの距離は123.6Km。  それだと艦隊速度は36.38ノットで航行しなけばならない。戦艦大和の最大速度は28ノット程度である。 花月戦時日誌で佐多岬先端付近の解隊時刻は16:10であり、 この区間距離(佐多岬先端〜西海町西方海面)は約 50Km である。そこを1時間で到達したことになるので、この区間でも大和の最大戦速で航行したことになる。ありえないであろう。
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第二奇兵隊取材班
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