実録・戦艦大和特攻作戦 第一遊撃部隊の燃料工作
戦艦大和は連合艦隊の電令作607号命令と違う選択を行った。
戦艦大和は徳山で一滴の燃料も補給していない。     偵察写真に見る大和出撃前の燃料

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第一遊撃部隊(1YB)
艦隊名隊 区隊 名艦 名職 名階 級氏 名就 任
第二艦隊
2F
主隊旗艦大和 艦長大佐有賀幸作1944年11月〜
副長大佐能村次郎 
軍隊区分
(旗艦直卒)
第41駆逐隊
41dg
司令大佐吉田正義1945年3月〜
冬月艦長中佐山名寛雄1945年3月〜
涼月艦長中佐平山敏夫1945年3月〜1945年5月
警戒隊
第二水戦
2Sd
〔矢矧d×8〕
41dg×3含む
旗艦 矢矧 司令官少将古村啓造1945年1月〜
艦長大佐原 為一1944年9月〜
第17駆逐隊
17dg
司令大佐新谷喜一1944年12月〜1945年4月
磯風艦長中佐前田實穂1944年11月〜1945年4月
雪風艦長中佐寺内正道1944年12月〜1945年6月
濱風艦長中佐前川萬衛1944年8月〜1945年4月
第21駆逐隊
21dg
司令大佐小滝久雄1945年3月〜1945年5月
初霜艦長少佐酒匂雅三1944年8月〜
朝霜艦長中佐杉原與四郎1944年3月〜1945年4月
艦長少佐松本正平1944年3月〜1945年4月
主要任務 敵水上艦艇並びに輸送船団撃滅
 第7駆逐隊響は「響」3月29日、周防灘で触雷し航行不能となり、「初霜」に曳航され呉に回航した。
 このトラブルで第七駆逐隊は解隊され霞は第二十一駆逐隊に編入された。
第二艦隊前路掃討隊
第31戦隊 31S
司令大佐作間英邇1945年3月〜
第43駆逐隊
43dg
花月艦長少佐東日出夫1944年12月〜
艦長少佐岩淵五郎1944年9月〜1945年4月
艦長少佐石塚 榮1944年8月〜
主要任務 艦隊の対潜対空警戒
「出撃兵力」はGFが当初計画に入れていない第41駆逐隊、対空(防空)駆逐艦冬月・涼月の同行を許可した。
「出撃時機」も当初計画の7日黎明豊後水道出撃を、第二艦隊で勝手に決めてよいことにした。 よって突入する駆逐艦は8隻(17dg×3,21dg×3,41dg×2)となった。
出撃時刻も第一遊撃隊で勝手に決めてよいことになったのだ。 これこそが、小林儀作の工作だった。 GF参謀長は結局1YBの具申を受け入れたのである。
04060827番電(****)                GF参謀長発 宛 第二艦隊長官,〔呉鎮長官〕
 @出撃兵力及ビ出撃時機ハ貴要望通リトセラレタルモ燃料ニツイテ大本営戦争指導部ノ要求ニ基ヅク
  GF機密〇五一四四六(5日14:46時)電通リ二〇〇〇屯以下トセラレタシ。
 A右ニ関連シ、掃蕩部隊(第31戦隊、花月・榧・槇)ノ兵力並ビニ行動ハ機宜制限サレタシ。
  大和の燃料は5日に命令したように2,000トンにしろ。           着信時刻不明
GF参謀長は沖縄までの燃料は2,000トン。だぞ、だめ押しの電令が入った!
09:45 出撃直前 米偵察機に撮影された大和の位置 ―
 【図−2】
  昭和20年4月6日 09:45 於:徳山沖
全体画像はこちら

3PR/5M-121〔第3写真偵察戦隊作戦任務121〕
第3写真偵察戦隊 F-13 (B-29) が高度 30,000ft(9,100m),徳山沖約 4km 地点(記事で) (33゚.57' N、131゚.45' E) で撮影された。位置は山口県徳山市(現周南市)粭島沖約 3,000m。 停泊位置:行政区割的には防府市域である。米偵察機による撮影は昭和20年(1945)4月6日09:45 沖縄出撃約6時間前。
注) この偵察機 B-29 は当時この海域に結集していた17駆逐隊,21駆逐隊,31戦隊,同43駆逐隊旗艦花月などの戦時日誌に同時刻目撃したという記述はない。 17駆逐隊記録B-29目撃は 10:05 とあり米側記録と20分の違いがある。
米軍は沖縄作戦支援の一環として関門海峡などに機雷投下を行ったがその効果を判定するため4月1日以降、写真偵察機 F-13 で内海西部の偵察を続けていた。それまでの偵察で大和は発見出来なかったが、4月6日作戦任務121号によって徳山沖で撮影された。 同機はグアム北飛行場を 0406 01:58 離陸した。
1945/4/6 09:45 出撃直前 Yamato
この戦艦大和の写真は
【写真が語る日本の空襲 工藤洋三/著】で販売されている。
4月6日 09:45 第3写真偵察戦隊 F-13 (B-29) が高度 30,000ft(9,100m),徳山沖約 4km 地点(記事で) (33゚.57' N、131゚.45' E) で撮影した。
04060630 発:大和 宛【各艦】「S」1.5Kmとは大和を中心として両端占位艦距離が1.5Kmと考えられる。 09:45 米写真偵察機 F-13 西方より徳山湾に進入。戦艦大和発見される。 F-13 東方へ飛び去る。
  電令作第611号 
 昭和20年(1945)4月6日(発07:51 受:11:09)
    発:GF長官  天1号作戦部隊 【無線】
1.電令作603号ニヨル第一遊撃部隊兵力ヲ大和、二水戦(矢矧及駆逐艦8隻)ニ改ム。
2.海上特攻隊豊後水道出撃ヲ第一遊撃隊指揮官所定トス。 〔指揮官所定とは勝手に決めてよいということ。

大和の運命を決定付けた一本の電令 04060827番電   この時大和以下すでに徳山沖 ・・・・
4月6日 08:27時 GF参謀長発 宛 第二艦隊長官
 @ 出撃兵力及ビ出撃時機ハ貴要望通リトセラレタルモ燃料ニツイテ大本営戦争指導部ノ要求ニ基ヅク
  GF機密〇五一四四六(5日14:46時)電通リ二〇〇〇屯以下トセラレタシ。

04060956番電 ― 昭和20年(1945)4月6日(発09:56) 発GF参謀長 宛1YB司令長官,2Sd
海上特攻〔大和矢矧(月型二隻磯風型三隻若葉型三隻)〕Y−2夕刻豊後水道出撃列島線西側ヲ経テY日極内密ニ沖縄島ニ突入ス味方識別ニ留意アリタシY日ハ八日ノ予定。
この電令の着信時刻は不明である。前日の 18:30 には2F(第二艦隊)は朝霜,初霜,花月,槇,榧に対して徳山で燃料を積め。花月には積んだ燃料は大和へ移載せよと命じている。 6日朝までの12〜13時間の間に、出撃時機などの変更(Y−1日からY−2日)を決めている。7日黎明豊後水道出撃をGF参謀長も簡単に変更し、突入2日前の出撃を承認した電令となった。
4月6日朝、 駆逐艦花月徳山燃料敞 重油補給中・・・・
08:00〜11:40 徳山燃料敞で500トンの 重油積込み作業。燃料廠には缶用重油ポンプ は6基あった。 
1945-5-10米軍撮影徳山燃料敞燃料デリバリに関する命令及び令達

*戦闘詳報にみる各艦搭載量

駆逐艦花月 12:35〜13:19 徳山燃料敞より、戦艦大和待機海上徳山湾口へ移動。

4月6日昼過ぎ、 徳山沖 戦艦大和

 この日、沖縄第32軍、在島全部隊に8日総攻撃を命令。 戦死した硫黄島、栗林忠道中将が大将に昇進。
 この日、廈門(アモイ)沖で駆逐艦天津風(艦長:森田友幸)、海防艦第1号、同134号爆撃されて沈没。

機関参謀小林儀作は、燃料にかこつけてこの作戦をねじ曲げた。大和はGF命令に異議を申し立てた。 機関参謀小林儀作の行った根回し(第二艦隊,呉鎮守府,軍令部)はこちら
小林儀作の行った工作は燃料を抜き取れない時刻に大和を出撃さすことだった。
GFは豊後水道を黎明出撃(04:00)。沖縄島黎明突入(04:00)。すなわち24時間で沖縄に到着しろと命令していた。  4月5日15:00 GF電令作第607号の命令を受け取った第一遊撃部隊は、 突入兵力及び出撃日時、艦隊構成、航路について連合艦隊に意見具申を行ったものと考えられる。

この電令を受け取った4月5日夕刻から、出撃準備が始まる。大和の周囲に占位していた17駆逐隊、の駆逐艦から大和へ燃料を移載する作業をはじめた。 まず31戦隊第43駆逐隊の花月より500トンの重油を大和へ移載し、翌6日00:00時から随番 駆逐艦への移載を行った。この作業が終了したのが4月6日黎明時であった。 各駆逐艦は燃料満タンになったが、大和にはそれでも4,000トンもの燃料が残っていた。

6日 00:00時からの大和の燃料→駆逐艦移載はGFの命令だった。 大和能村副長は空襲懸念の昼間作業は困難と書く。

13:40 駆逐艦花月徳山沖着 戦艦大和から「花月」へ信号
「重油の移載は中止、花月は所定の位置に占位せよ」花月艦上で混乱と衝撃が走る。 2Fは燃料敞での重油積載命令を出しながら大和へは補給するな。である。 花月山根眞樹生航海長、三井通信士をして暗号室で電信の調査をさせた。 不可解な電信発見 (第31戦隊配信指定なし)

時系列的には、先の電令(607号)前に、連合艦隊は第一遊撃部隊の具申を受け入れ、命令の一部を変更し、6日に次の電令作第611号を発令した。
大和にはまだ降さなければならない重油が2,000トンある。当初の命令は7日黎明出撃。そうすると出撃まで 悠に20時間は残されている。大和の重油ポンプ能力は100トン/時。このポンプ2基使用すると、 楽々4,000トン程度の重油は抜き取れる。
ここが、小林の妙案だった。どんなに急いでも抜き取れない時刻に出撃する。よって結果は6日15:00 出撃下令。 残された時間は7時間*1あまり。大和の燃料 2,000トンはおろか 1,000トンでも降ろせない。
*1 第二艦隊司令部受領 09:56時 よって出撃下令まで残り時間は5時間10分程度だ。
この出撃時刻の変更は、先に令した電令607号の出撃時刻を簡単に変更したGF参謀長の無節操な指揮権に問題があるのか?
それとも、燃料たらふく (ありあまる燃料 4,000トン) を選択し、 出撃を12時間前倒した第二艦隊司令部にその責があるのか?  いま、真にその責任を問わなければならない。
機関参謀小林儀作手記のどこを読んでも 簿外重油の積込みなど実際に行ったと書いてはいない。そして、燃料を降ろさずに出撃したではないかと軍令部から問われたなら、
1.燃料の半分はタンクの底に溜まっている簿外重油です。
2.また、急いで重油を積み込んだのでうっかり多く積み過ぎました。
  そこで抜き取ろうとしましたが、
3.出撃時間に間に合わずそのままに致しました。
答えることにしたのであった。
その結果、国家に奉仕すべき Imperial Fleet は、貴重な重油を食い潰し、 結果は対馬海峡(東水道)、朝鮮海峡(西水道)における米潜水艦進入阻止の防衛線確保も覚束なくなったと大井篤*2は書く。 すなわち国益に反した。
五航艦(宇垣 纏司令官)は、GF電令作611号を受けて50機の大和上空直掩隊を準備していた。 この直掩は取りやめられた。 理由は簡単。大和が電令作607号通りの出撃としなかったからである。当初計画を変更し大和が出撃したのだ。 そんな大和に特攻至上主義者の宇垣は賛同しなかった。日中だらだらと大和を守るためだけに貴重な航空機と搭乗員を失うことを避けたのだ。 それよりも、50機を特攻に使い自分の武勲としたかった。
大和の軌跡(航跡)は、欺瞞航路とされている。本当に佐世保に向かう航路だと仇敵米機動部隊を北方に誘引できたはずだ。
それだと、前日(4月6日)と同じく大規模な航空特攻で少しは米機動部隊に損害を与えたかも知れない。 ところが、7日は悪天候に阻まれ、5隊の特攻が行われたに過ぎない、この日以降は10日まで悪天候で海軍は特攻を全く行えなかった。 翌11日、沖縄東方海面において今見ても悲しいゼロ戦単機戦艦ミズーリへの突入が発生した。
突入機は、石野二飛曹(19歳)だとされている。
昭和20年4月には航空燃料の不足から、米戦略爆撃機B-29による数機程度の偵察飛行に対して、大挙来襲の航空基地爆撃を除いて戦闘機を邀撃に出撃させてはならないと通達された。
重油 2,000トン の電令(04060827番電)を受領した第二艦隊(第一遊撃部隊)は、 先に受け取っていた電令作第603号(04051359番電)を履行すべく 大回転で最終出撃準備を行った。明けて6日、乗員内地託送品締切り時刻 10:00時。最後の運貨船離舷時刻 12:00時。
内地との一切の絆を断ち切ったときに草鹿連合艦隊参謀長が水上機で大和を訪問した。 発した言葉は「一億特攻のさきがけ* 」だった。 この期に及んで最早何をか言わん。二水戦古村啓蔵司令の戦後の回想である。
海軍は大和の存在を国民に隠しに隠していたので「一億特攻のさきがけ」もクソもない。大和が撃沈された後の発表に 大和のヤの字さえなかった。 * 古村啓蔵司令談「特攻さきがけ」公刊戦史 沖縄方面海軍作戦頁627
艦隊は8時間前倒しで出撃することを決意する。
しかも選択した航路は第二航路。漫画チックな航行速度。戦後草鹿連合艦隊参謀長は沖縄突入は五分と五分と語っている。だが、作戦内容から五分と五分はありえない。
大和は経済速度で航走するなら燃料1トンで2.12Km*
* 航走データに二つあり、搭載燃料6,300トンで、7,200浬(燃費2.12Km/トン) と 10,000浬(燃費2.86Km/トン)。
■ 機密第04051446番電(電令作第606号)燃料ハ二,〇〇〇屯以内トセラレ度。 1YBはこの電令を受けても意に介した風はない。
04051830 2F長官は31S花月へ次の信号を発している。 「花月ハ大和ヘ重油移載後徳山ニ廻航至急燃料満載ノ上更ニ大和ヘ重油<六〇〇屯ヲ移載スベシ」
翌6日、04060827電令が入った。「出撃兵力及出撃時機ハ貴要望トセラレタルモ燃料ニ付テハ大本営戦争指導ノ要求ニ基クGF機密第051446番電通二,〇〇〇屯以内トセラレ度
すなわち、大和の燃料は2,000トンで出撃せよという再指令だった。
燃料逼迫の情況からこのような事態を想定したのか、小林儀作機関参謀が出撃前に来訪している。 その謀議の内容は、「燃料抜き取りは出撃時間に間に合わなかったのでそのまま」 にし急遽6日午後の出撃とした。
出撃時期指揮官所定はそれでよしとし、付け加えて沖縄突入は最短路とせよ。と念押しすべきであった。  更に、その場合最大限の航空直掩を行う。としてやればよかったのである。
第二艦隊は当初GFが想定していた進撃時刻・進撃路に従うかのごとく徳山を抜錨した  第二艦隊参謀たちに命を託した七千余の男たちがあった。 
電令607号(04051500番電)を受け、先ず31戦隊43駆逐隊の花月より重油の移載を受け、命令通りの時刻(06日00:00時)より 随番する駆逐艦に次々と燃料を補給した。黎明時補給が終わったがそれでも大和には4,000トンの燃料が残っていた。
そこに、だめ押しの燃料減量命令がもたらされた。余分な燃料2,000トン降ろせ!。
降ろさずに前倒し出撃(降ろすに必要な時間がなかった)、これこそ呉鎮守府、第二艦隊、 機関参謀小林儀作との密約(根回し)だったのだ。
米軍による「戦艦大和」追出し作戦のシナリオ通り帝国最後の艦隊は豊後水道から出撃した。
大和戦場へ
1941年4月6日15:20
徳山沖解纜 下松市古島を背に再び還らぬ祖国を後にした。

 第二艦隊司令長官伊藤整一中将の指揮の下,第一遊撃部隊の戦艦「大和」
  (艦隊旗艦)(艦長・有賀幸作大佐)
 第2水雷戦隊(司令官・古村啓蔵*3少将)の軽巡「矢矧」 (水雷戦隊旗艦
 第17駆逐隊の艦隊方駆逐艦「磯風」「浜風」「雪風」
 第21駆逐隊の艦隊型駆逐艦「朝霜」「霞」「初霜」の計10隻と,
 第41駆逐隊の防空駆逐艦「冬月」「涼月」
 前路掃蕩隊の第43駆逐隊の対空(防空)駆逐艦「花月」、「榧」「槇」の3隻も同時出撃。合計13隻。
この出撃を目撃した人はこちら
第二艦隊エリートらは、6日朝、沖縄に向かう艦隊(大和)の燃料は2,000トンだぞ!。  とのGF電令を受けた。  彼らの決断「くそったれ積んだ重油を降ろしてやるものか!」 この男らのつまらない意地が大和を沈めた。  機関参謀小林儀作の工作は二つ。簿外重油で処理せよ!。すでに積んでいる油は出撃に間に合わなかったとして降ろすな!!。
 昭和20年(1945)4月6日、15:20。 微速前進方位164゜静かに大和は徳山湾口を離れ下松市深島沖から再び還ることのない祖国を後にした。やがて、露天甲板を埋め尽くす将兵の耳朶に 大和を神風たらしめよ! の訓示が飛び込む。  乗組んだ男たちの YAMATO に神風は吹かなかった。

大和以下の艦艇が沖縄特攻に向かったのは、いかにも Imperial Navy (帝国海軍)による主体的な作戦計画立案のようにみえるが、 実態と出撃に至る要因として米軍による関門(下関)海峡,安芸灘,呉軍港海域への B-29 爆撃機による機雷投下作戦によって、 瀬戸内西部海域(三田尻)に向かわせた艦隊が窮鼠のネズミになった結果であった。  米軍の戦略は Imperial Fleet (帝国艦隊)を唯一外海とつながっている豊後水道から出撃させて撃沈することだった。  よって大和が出撃するまで、豊後水道への機雷投下作戦は計画もされず実行もされなかった。  すなわち、檻の出口一個所が開けられていた。  米軍による機雷封鎖作戦はこちら
海軍の醜悪さは、人間としての尊厳を踏みにじり、単なる消耗品として扱ったことだ。桜花、震洋、 回天などの必死兵器を各級組織で計画的に製造し運用したことにある。悠久の大義という虚構を組み立て、 一矢を報いるなどと呼号し、組織的に兵員を損耗した。特攻効果に疑問を感じながらも止めようとせず、 敗戦確実と知りながらも、来るべき近い将来に海軍兵学校卒業者らに社会的リーダーシップを堅持しようとしたのか?学徒兵を特攻に駆り立てたと勘ぐらざるをえない。学徒兵らの扱いは公平の原則に照らしても明らかに偏っている。 戦後、再軍備が進められるや、大西瀧治郎の下で実質的に初期特攻取り仕切った中島 正(第201航空隊飛行長)*4なども航空自衛隊に関わり 安穏と生を偸(ぬす)んだ。
学徒兵の墓場と云われた元山空青木泰二郎は、敗戦が確実視されるや、早々と家族共々戦場を離脱し逃亡している。
ここにも、元山海軍航空隊秘話(第901海軍航空隊、シベリア抑留手記)松下 昭 その一節、「司令自らも元山空のスタッフ全員をダグラスDC-3輸送機に乗せ帰国していた。残された基地隊長の江藤少佐が元山空の総指揮官という立場に立たされた。 『人は逆境に立たされたときこそ真価が分かる』とは江藤少佐の言葉である。」 それは、逃亡した青木泰二郎への痛烈な批判でもあった。
青木泰二郎。 ミッドウェイ海戦空母赤城艦長。
※ 戦争を始める決断は、自存自衛の戦争ではなかったのか? 抵抗するすべを持たない下級兵士を抹殺することが、自存自衛だとでも云うのか?。
人が最大の能力を発揮する環境は、上官と部下のあいだの揺るぎない信頼関係と、兵らの間には助け合える仲間がいるという安心感。この心の支えの二点に尽きる。  Imperial Navy はこの関係をズタズタに断ち切った。憎悪と不信。最悪の環境が想像できる。
  表−1           大和特攻出撃時の海軍高級幹部−1   〔昭和20年(1945)1月〜4月〕
軍令部 総長 及川古志郎 ◆聯合艦隊 長官 豊田副武 五航艦 長官 宇垣 纏*
次長 小沢治三郎 参謀長 草鹿龍之介 参謀長 横井俊之
第一部長 富岡定俊 参謀副長 高田利種 参謀副長 守弘作郎
第二部長 黒島亀人 先任参謀 神 重徳 先任参謀 宮崎 隆
第三部長 大野竹二 航空参謀 淵田美津雄 762航空隊 久野修三
第四部長 野村留吉 機関参謀 小林儀作 721航空隊 岡村基春+
◆第一艦隊長官大西瀧次郎*先任参謀天谷孝久 呉鎮守府長官沢本頼雄
宇垣 纏   * 「宇垣 纏」開戦当時GF長官が山本五十六だったときの参謀長。 長官とは馬が合わずロクに口も聞かなかったという。この組合せでミッドウェイ海戦を戦った。宇垣 纏はまた、 軍令部第一部長(1938年12月15日〜41年4月9日)時代三国同盟に賛成している。
+ その後宇垣は8月15日最後となる航空特攻で戦死。 大西は8月16日自決  岡村基春は桜花部隊を率いた。戦後の1948年7月千葉県茂原市で鉄道自殺。 敗戦まで829人の戦死・殉職者を出した。
 表−2 大和特攻出撃時の海軍高級幹部−2  航空特攻展開部隊〔昭和20年(1945)1月〜4月〕
◆三航艦 長官 寺岡謹平 ◆十航艦 長官 前田 稔
参謀長 山澄忠三郎 参謀長 山本親雄
先任参謀 佐々木 彰 先任参謀 猪口力平*5
131航空隊 濱田武夫 11連空筑波 中野忠三郎
210航空隊 田中義雄 11連空谷田部 梅谷 薫
252航空隊 齋藤正久 11連空百里原 高次貫一
343航空隊 源田 実 11連空名古屋 市村成松
752航空隊 菊岡徳次郎 12連空元山 青木泰二郎
大和は当初のGF命令を拒否。そして、GFは大和の要求を呑んだ
大和水上特攻の経緯は縷々(るる)述べられているので省略する。問題は、
当初GF電令作611号(4月5日15:00)命令通りの艦隊行動を行っていない。 その命令とは、
@ 海軍航空隊は6日以降沖縄周辺海域の艦船攻撃。
A 陸軍航空隊も海軍に協力し攻撃せよ。第32軍は7日より総攻撃を開始せよ。
B 海上特攻隊は、「7日黎明時豊後水道出撃 8日黎明沖縄西方海面突入」だった。
*4,*5
特攻を組織的、計画的、集団的に続行した『猪口力平*6・中島 正共著「神風特別攻撃隊の記録」頁193 で、   (中略) 戦後多くの批判もこれに対して加えられている。当然のことである。 (中略) 特別攻撃隊に 散華*7していった若者たちへのとかくの非難は絶対に許されない。』と力説している。  文脈からして一見反省の弁にみえるが「散華」という詭弁を弄し批判をすり替えている。  戦後我々が知ることになる海軍航空特攻隊が携行した爆弾の威力に疑問符が投げかけられ、未完成空母阿蘇に対して投下実験を行い、 その結果が散々たる無威力爆弾ということが判明した1945年7月に入っても、10航艦は愚劣な作戦を延々と続けた事実を知る。 猪口・中島の人間性を疑うのである。
*6 1944年10月段階、最初の航空特攻を行った一航艦参謀長。
*7 「散華」とは華(はな)と散る意味で、彼ら特攻兵にひらひらと花弁を散らすように死ねと命じていない。 敵艦を沈めろ!と合理的打算で送り出している。 猪口がもし人間として本当に反省しているなら、散華と書かずに「貴様の戦死を明日に決めた」と書くべきであった。
前出著書で特攻機の接敵攻撃法を二例示しているが、そのいずれも艦上部構造物に突入する方法である。 艦船の上部構造物を破壊しても、艦が沈むことはないであろう。 海に浮かんでいる艦を水没させるには、喫水線下に大破口を生じせしめる必要がある。 米陸軍機 B-25 は、この方法の反跳爆撃で数多く日本の輸送船、護衛艦を沈めている。

沖縄突入駆逐艦は当初六隻 だった。

進む もうじき死ぬんだよ。俺も生きていたって仕方がない

最高戦争指導会議とは
1944年8月4日以降小磯国昭内閣で設けられた。以前の大本営政府連絡会議と同じ。 政府から総理大臣、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣が,軍部からは陸軍参謀総長、海軍軍令部総長が出席。 蔵相ほか閣僚や参謀次長・軍令部次長が列席、天皇も臨席する。

太平洋戦争取材班
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