|
![]() 4月5日の段階で戦艦大和は袋のネズミだった。
大和水上特攻の燃料に深く関わった小林儀作手記抜粋全文
|
| TOP 戦艦大和 続きGF電令作607号 |
| -- 昭和20年(1945)3月1付 連合艦隊残存大型水上艦艇は予備役化 |
| 前年10月下旬レイテ沖海戦,続く比島輸送作戦により、連合艦隊水上部隊は壊滅的損害を被り組織的戦闘力を喪失した。
また資源還送をなし得なかった彼らに大型艦艇を動かす重油は残っていなかった。よって大型艦艇は浮き砲台にされるか予備役にされた。
庶民の生活から薪炭が消え、風呂も制限された。もとより石鹸の類は入手不可能に近かった。食器の洗剤は無く藁(わら・稲の茎)を柔らかくし丸めて灰をまぶして洗剤代わりとした。 不潔さがノミとシラミの天下となり、やせ細った幼児らを悩ませた。 すでにこの時期昼となく夜となく戦略爆撃機B29の爆音が途絶えることはなかった。また、爆弾の雨により、都市は瓦礫の山を築いたが発表は損害は常に軽微なり!であった。 |
| -- 昭和20年(1945)3月10日 東京大空襲 |
| 00:08〜2時間40分。334機のB29が東京下町に焼夷弾19万発を投下。この日だけでも12万4711人が死亡し百万人がホームレスとなった。 そして、あの町でもこの町でも両親を失った孤児たちが巷にあふれた。 近代戦は兵士だけが戦ったのではない。前線も銃後もその境は不明確であった。 |
| -- 昭和20年(1945)3月中旬 日吉連合艦隊司令部 |
| 敵信傍受及び偵察等から米軍がいよいよ新作戦を企図して動き出したと判断し、 昭和20年(1945)3月17日 ・電令作第564A号 (171813番電)を発した。 三項 連合艦隊の作戦要領 イ、航空作戦 −略− ロ、潜水艦作戦 −略− ハ、極致守備隊ノ作戦 −略− ニ、海上部隊ノ作戦 (1) 第一遊撃部隊ハ警戒ヲ厳ニシ内海西部ニ在リテ待機シ特例ニヨリ出撃準備ヲ完成ス (2) 航空作戦有利ナル場合第一遊撃部隊ハ特例ニヨリ出撃シ敵攻略部隊を撃滅ス |
| 四項 本作戦ヲ「天一号作戦」ト呼称シ 之ガ警戒竝ニ発動要領は「捷号作戦」ニ準ジ本職コレヲ下令ス |
| この電令が配信された。これにより第一遊撃部隊指揮官は、内海西部に散在(徳山市大津島・呉)していた第7、 第17、第41駆逐隊の艦艇に対し柱島結集を命じた。 |
| 早速、敵征空圏下における水上艦艇の進撃に関する研究会が開催されたが、燃料不足による 訓練不足と、過去の戦訓における三式対空砲弾の効果は低く、 対空(防空)駆逐艦以外の艦艇での対空射撃は困難との声になった。 すなわち、既存駆逐艦主砲の対空射撃では米機撃破は期待できない。 結果水上艦艇の現状では成算は覚束なしとの各級指揮官の結論であった。 夜間戦闘、電測射撃、 電測発射(魚雷)、などの不備を指摘したことにもなった。 |
| 日米対空火器比較 日本の12.7 cm 砲は平射砲。米国は対空・平射両用砲 |
| 国別 | 長射程砲 | 中射程砲 | 短射程砲 |
| 帝国海軍 | 12.7 cm | 25 mm | 13 mm |
| 米国海軍 | 12.7 cm | 40 mm | 20 mm |
| 1945年3月末 戦艦大和以外にも動かせる軍艦はあったが燃料が無かった!。 |
| 開戦1年目、ミッドウェイ海戦の大敗北にもまして、海軍TOPに衝撃を与えたのが、燃料の問題であった。ソロモン海戦など数次わたる大きな海戦での燃料消費量の増大である。 開戦1年目の消費予測280万キロリットルと見込んだものが、実際に〆てみると485万キロリットルにも達していた。開戦前の備蓄は約560万屯。 |
| 昭和16年(1941)、海軍が保有していた国内貯油量 単位:KL | ||||||
| 原油 | 重油 | 航揮発油 | 普通揮発油 | 航空潤滑油 | 普通潤滑油 | 合計 |
| 1,435,000 | 3,624,000 | 473,000 | 27,000 | 6,400 | 13,600 | 5,579,000 |
| 出典:徳山海軍燃料廠史頁290 | ||||||
| 出撃直前に撮影されていた大和 |
![]() この戦艦大和の写真は【写真が語る山口県の空襲 工藤洋三/著】で販売されている。 |
|
第3写真偵察戦隊 F-13 (B-29) が高度 30,000ft(9,100m),徳山沖約 4km 地点(記事で)
(33゚.57' N、131゚.45' E) で撮影された。位置は山口県徳山市(現周南市)粭島沖約 3,000m。 撮影は昭和20年(1945)4月6日09:45 沖縄出撃約6時間前。 |
| 注) この偵察機 B-29 は当時この海域に結集していた17駆逐隊,21駆逐隊,31戦隊,同43駆逐隊旗艦花月などの戦時日誌に同時刻目撃したという記述はない。 |
![]() |
全体画像はこちら 結集した特攻艦隊を見た人たち |
|
− 戦艦大和 この島嶼列島に日本人が生き長らえる限り、永遠(とわ)に語り継がれるだろう。 この艦こそあの熾烈な戦いと敗戦と悲劇を象徴する軍艦は存在しない。
− 民族の悲しい性(さが)
− 技術上で
− 軍事上で
− 暗号〔情報〕の重要性認識
− 技術力不足と想像力の貧弱
− 海上輸送力の不足 |
| S.E.Morisonは、その著書で日本が終戦をむえたとき、その対潜装備は開戦時とおなじだった。非常に正確に作動する爆雷も、航空機搭載用爆弾ももたなかったのである。 彼らは敵潜水艦に損害を与える爆雷を、どこに投下するかという主に数学的な方法を解決できなかった。 日本は対潜攻撃法を手中にできず、そして米潜水艦を攻撃したときは、いつでも撃沈したとひとりよがりに考えていた。 |
|
− 資源の不足 膨張主義が、当時の経済大国(植民地主義国)の禁輸をもたらし、その後の産業現場を大きく制扼した。 これも、ひとえに、Imperial Navy の海上護衛力の無さに起因した。 資源確保のために世界第三位の海軍力が使われることもなく消滅した。 航空母艦戦力に限定すると 1941 年当時だと世界トップクラスである。 だがこれも国力増強に使われることはなかった。
− 海戦の本質を教えなかった兵学校
言論の自由や倫理を喪失した組織は崩壊する。 政治体制が専制主義だろうが、独裁主義や民主主義だろうが変わらない。 昨今の食品偽装で明らである。 もしも、悪しき隣人の政体があと、50年続いたなら人類にとって歴史に残る悲劇である。 |
|
富岡定俊が軍令部作戦部長(1944/12〜)になった後、最後の決戦場をどこに求めるか、また対米戦への取組みについて陸・海軍の隔たりは大きかった。 陸軍側は過去の経緯から 一方海軍側は 鋭く対立した。陸軍は我方がここまで敗れたのは南方資源還送の輸送船団が沈められたからであり、当然主戦場が台湾・沖縄*1いずれになろうとも 今度は、連合国側が長大な輸送線確保を迫られる。よって敵の補給を寸断*2すれば戦いに勝利できるはずだ。と現実的な見方を行っていた。 結局、昭和20年(1945)1月20日、次いで2月3日「台湾及南西諸島方面作戦に関する中央協定」、3月1日「航空作戦に関する中央協定」の決定をみた。続く19日陸海軍中央協定により、西南方面作戦に関しては、第六航空軍(陸軍)は連合艦隊の指揮下*3に入ることが承認された。これにより第六航空群参謀副長青木喬(少将)を鹿屋第五航空艦隊に派遣する。 *1 すでに比島は残存兵力(海軍)の持久戦(密林逃げ込み)が決定されていた。 恐らく陸軍首脳部が海軍の全指揮権を掌握できたなら、あそこまで無様な敗け方はしなかったかも。 海軍残存部隊を置き去りにして逃げたのは?航空特攻を推し進めた大西瀧治郎であった。 その時点で1万4千人程度の兵員がいた。 その内無事帰国できたのは4百人たらずである。 痛憤をとおり超え情けなさに涙あふれる。 *2 当時の帝国海軍に敵補給路を寸断する力量も装備も持っていなかった。 彼らの教育は教条的で柔軟性に欠け、航空機の戦いに転換したにもかかわらず、艦隊決戦(戦艦同士)思想を墨守した。 特攻を始めたとされる大西瀧治郎は航空戦力を高く評価していたという記述をまま見るが、航空特攻で敵空母の飛行甲板を破壊し、一時的に艦載機の離発着を妨げ、その間に艦隊決戦を目論んだに過ぎない。 なお、大西瀧治郎には信じられないエピソードがある。彼は水からガソリンが出来ると信じて実験を行わせている。 悲しい現実。その程度の提督を戴く組織が戦いに勝てるはずもない。 *3 第六航空軍(陸軍)を連合艦隊指揮下に入れたのは、陸軍菅原道大(みちお)が海軍五航艦(鹿屋)宇垣纏より先任にあたるため立場上並列の形にした。 |
|
太平洋戦争において、水上艦艇が戦いの趨勢を決したことなど一度もなかった戦いにあって、
大艦巨砲,防御軽視の海軍首脳らは燃料枯渇の現状のなかで、ほかに使えば国力の減衰に少しは寄与する重油を、
そして多くの将兵をまるで、アウトローらが、賭場でサイコロを振るよな、賭にもならないことに賭けてしまった。
戦艦長門は横須賀で主砲,副砲以外はすべて撤去しスクラップ同然で繋留され、 必要な蒸気は陸上に石炭ボイラーを設置し供給を受けていた。 燃料問題から、水上艦艇を特攻作戦に使うとすれば大本営の承認を必要としたのである。 軍部の一部はこのような燃料状態にもかかわらず本土決戦を叫んでいたので、 生還を期しがたい沖縄特攻なら燃料片道分は当然の帰結であった。 |
|
昭和20年(1945)3月末、燃料枯渇で訓練もままならなかった残存 Imperial Fleet (帝国艦隊)に乗り合わせた
男たちは、その不運に気づくこともなく、なお艦隊決戦、殴り込み戦法しか取り得ない無定見、無見識、無見通しの海軍エリートとされる数名の男たちの手に委ねられていた。 やがて運命のその時を迎える。
このWebサイトは、物言わぬ男たちに代わって、その作戦の真実をあぶり出し世に問わんとす。 無定見、無見識、無見通しは、昨今の社会保険庁のエリートに通ずる。 本来賦課方式の年金1兆円を私利に費やした。 阻むべき政治はそれを許した。 大和以下も「一億特攻のさきがけ」とされ、 まるで生身の人間をすり鉢に入れた胡麻のようにすり潰そうした。 このような愚行やめさせるべき、防波堤は政治だったが、決断することはなかった。 悲しい現実・・・ 国民に視点を置いた政治は戦中も戦後もこの国に存在しなかった。 その政治は今('07/7)社保庁解体を叫ぶ・・・・ 勤労国民の4分の1がワーキングプアとなっても保守政治家は利権に走り、キャリア官僚は特殊法人を設立し惰眠を貪る。 昭和20年(1945)特高警察の監視の下、もの言われぬ民は空襲におののき、子は寒さにふるえ餓えに泣き、都市無差別爆撃により戦災孤児は路頭にあふれた。 だが、国体護持(絶対天皇制)を標榜する軍部は一億玉砕を叫び暴走する。 |
| -- 昭和20年(1945)3月20日、大海令三七号発令にともい |
| 大海指五一三号が発せられた。この時期、米軍の次の侵攻は誰の目にも沖縄にみえた。硫黄島の組織的軍事力は破摧され終末を迎えようとしていた。 |
|
大海指第五一三号別紙 帝国陸海軍作戦計画大綱二基ク帝国海軍当面作戦計画要綱 第一 作戦方針 陸軍卜密二協力シ 各其ノ総力ヲ強化結集シテ 主敵米軍進攻破摧ニ指向シ 次デ国防要域ノ確保 尠クトモ敵ノ皇土侵襲企図ノ未然撃砕ヲ期スルト共二 此間極力皇土防衛態勢ヲ強化シ 戦勢ノ推移二 即応シ 靭強果敢ナル作戦ヲ推進シ 飽ク迄戦争目的達成ヲ図ル 第二 作戦指導ノ大綱 1 陸軍卜密二協力シ 当面作戦ノ重点ヲ東支那海周辺特二南西諸島正面二指向シ特二航空兵カノ徹底 集中竝ニ局地防衛ノ緊急強化ヲ計リ来攻スル敵主力ノ撃滅ヲ期ス (本作戦ヲ天号作戦卜呼称ス) 2 此間極力皇土防衛ノ態勢ヲ強化シ 敵ノ直路皇土要域来攻ニ対シテハ 機ヲ失セズ機動兵力特二航空 及特攻兵力ヲ移動集中シテ之ヲ反撃々滅ス 3 皇土防衛態勢ノ強化ニ当リテハ先ヅ其ノ重点ヲ関東方面及南九州方面二集中指向スル如ク準備スルト 共二主要海峡、湾口ノ防備強化ヲ計リ日本海二於ル海上交通ヲ確保ス 4 戦勢ノ推移ニヨリ機ヲ失セズ益々皇土防衛二徹スル作戦準備ヲ強化推進シ国家総力ノ戦力展開ヲ計リ 之ヲ重点二集中統合シテ来攻スル敵上陸軍ヲ撃滅ス (本作戦ヲ決号作戦卜呼称ス) 5 天号作戦二於テハ先ヅ航空兵カノ大挙特攻々撃ヲ以テ敵機動部隊二痛撃ヲ加へ 次デ来攻スル敵船団 ヲ洋上及水際二捕捉シ各種特攻兵力ノ集中攻撃ニヨリ其ノ大部ヲ撃破スルヲ目途トシ 尚上陸セル敵ニ 対シテハ靱強ナル地上作戦ヲ以テ飽ク迄敵ノ航空基地占領ヲ阻止シ 以テ航空作戦ノ完遂ヲ容易ナラシメ 相俟テ作戦目的ヲ達成ス 6 決号作戦二於テハ各種特攻攻撃ヲ以テスル敵船団ノ洋上及水際撃破ヲ重視ス 7 戦局転換前卜雖モ 自主積極ノ奇襲作戦ヲ重視シ敵ノ進攻ヲ遷延セシムルニ勉ム 8 敵空襲激化ヲ予期シ 戦力ノ維持昂揚二万全ヲ期スルト共二生産交通通信ノ防衛及治安ノ確保ニ努ム 之ガ為早期強力ナル処置ヲ以テ軍需品ノ適正ナル配置施設ノ疎開分散移設ヲ推進ス |
|
戦後航空特攻はあくまで志願であった。と強弁するが、大海指において天号作戦では航空特攻を強力に行うとしている。志願なら必要な兵力未達もあり得りえ作戦は成り立たない。成り立たない作戦を大綱として決めたとなると、彼らの頭は総スッカラカンであった証拠となり、海軍首脳連は大馬鹿者集団だった証左となる。ゆえに特攻は志願にあらざりき。 また、治安の確保を強調している。敵も恐ろしかったが国民も既に陸海軍にとっては声なき声での脅威であったのであろう。 |
| -- 昭和20年(1945)3月23日〜25日 沖縄 |
|
| -- 戦艦大和 呉在泊 |
電令作577号 ― 昭和20年(1945)3月25日(発:13:23 受:14:46)発:GF長官 宛:各鎮長官,各艦隊司令長官,司令,GEB,各警備府,第6航空軍,支那派遣軍,第10方面軍 【無線】 |
|
| -- 昭和20年(1945)3月26日 米軍沖縄慶良間諸島に上陸 |
| 同諸島に陸兵配備はされていなかった。陸軍海上挺身隊の特攻部隊のみであった。前3日間の砲爆撃でこの特攻艇のほぼ全てが失われた。26日早朝レイテから転戦した米77師団が上陸部隊だった。 |
電令作581号 ― 昭和20年(1945)3月26日(発:10:52 受:12:00)発:GF長官 宛:呉鎮長官,2F長官,31S司令,2Sd司令,11Sd司令 【無線】 |
|
![]() |
電令作582号 ― 昭和20年(1945)3月26日(発:11:02 受:19:20) 発:GF長官 宛:海軍関係部署 【無線】
|
|
天一号作戦発動 3月26日 11:02 海陸軍関係部署にGF電令作第582号で天1号作戦発動。を打電。 まだこの段階で大和をどのように使うのか結論は出ていなかった。 当初の作戦計画は、沖縄島突入ではく佐世保に回航し、そこから適宜東シナ海に遊弋させ、それによって米機動部隊を北方に誘引し、 航空特攻で痛打を与える目論見だった。 |
海軍の天号作戦に対する熱意は3月に入って急速に熱を帯び決戦思想に発展した。決号(本土)作戦は従、天号作戦を主とする構想に変わってきた。3月20日、大海令513号を以て「当面の作戦計画大綱」を策定発令した。
即ち、「当面作戦の重点を沖縄航空作戦」に置き、「航空戦力を徹底的に集中発揮し、侵攻米軍を撃滅」また、「沖縄に侵攻する米軍の大部を洋上に撃破し、沖縄地上防衛軍は敵の航空基地(飛行場)獲得を阻止し、天号作戦の容易にする」戦略思想を明示した。
これは、沖縄防衛軍の策定した中,北飛行場放棄の持久戦略思想とは相容れなかった。 この日、第三航空艦隊,第十航空艦隊は第五航空艦隊司令官の作戦指揮下に入れられた。一方陸軍第六航空軍(菅原道大中将)の準備は全く整わず、当面可動兵力は重爆10機。襲撃機15機に過ぎなかった。
米軍先遣部隊が沖縄慶良間諸島に上陸した天号作戦初動の貴重な戦機は、九州沖航空作戦の戦力消耗と敵情判断の誤判断と、陸軍側の戦備不足と相まって天号作戦発動そのものに無理があった。
話が前後するが、米機動部隊が3月28日、29日、再度九州方面に来攻してきたが、第五航空艦隊は有効なる反撃を行う戦力を持たなかった。 |
電令作583号 ― 昭和20年(1945)3月26日16:57 発:GF長官 宛:佐・呉鎮長官・GEB/5AF・各2F・3AF長官
|
|
1.1YB(第一遊撃部隊)ハ28日12:00以降、
指揮官所定*4ニヨリ速ニ出撃。主力ハ豊後水道ヲ、一部ハ下関 海峡ヲ通過シ佐世保ニ前進待機スベシ。 2,3,4省略 |
昭和20年(1945)3月27日 発:呉鎮長官 宛:大和〔矢矧・花月〕 【信号】
|
|
![]() 【慟哭の海】初版表紙 |
*5 大和副長だった能村次郎は自著「慟哭の海」で大和は満載だったと書くが、第二水雷戦隊戦時日誌によると大和搭載燃料は呉出航の際は 3,000トン,矢矧 1,000トンと記録している。この燃料関係で判明している量は 17dg (17駆逐隊・磯風,雪風,浜風)は満載で各艦 599トン この時か最初からかどうなのか判然としが、缶用重油枯渇により大豆油が搭載されている。 在庫量か搭載量かは不明だが鹿川岸壁で大豆油 4,000キロ(トン) が41dg (41駆逐隊・冬月,涼月)と矢矧に搭載された。またその後の経緯から 31S (花月,槇,榧)も満載している。花月は満載で900トン搭載できた。 |
|
大和他艦艇による沖縄水上特攻が失敗し、第二水雷戦隊が提出した戦闘詳報の中で、冬月が使用した大豆油の燃料は問題なく使用できた。と書かれている。
4月段階で海軍が保有していた燃料在庫こちら
第二水雷戦隊戦時日誌及び戦闘詳報は、国立公文書館アジア歴史資料センターWebサイトで検索可能である。 ![]()
電令作583号で下された佐世保廻航計画は頓挫する。翌27日、戦略爆撃機 B-29 による関門海峡機雷投下で消し飛んだ。 大和護衛艦艇が関門海峡を通って佐世保に行けなくなったのだ。
GFは作戦の再考を迫られた。 米軍による海峡機雷封鎖は大和を追い詰めるための計算された作戦だった。
それは沖縄上陸支援を目論む戦艦大和袋のネズミ作戦であり、またそれは日本国民をStarvation (飢餓)に陥れる作戦でもあった。 |
|
米軍は昭和19年(1944)10月中旬マリアナ諸島に戦略爆撃機B-29を擁するXX爆撃機集団の航空基地を確保した。この集団には写真偵察を専門とする F-13 を運用する第三写真偵察戦隊が所属していた。同戦隊と海軍機動部隊写真偵察機は緊密に連携し、
沖縄上陸の障害となる 残存 Imperial Fleet を探し求めていた。3月19日、第58機動部隊第1機動軍所属空母ホーネットのVF-17とVBF-17飛行隊F6F 16機は岩国飛行場攻撃を命じられていたが岩国沖で大和を発見。これに攻撃を加えた。至近弾を得たものの命中弾はなかった。 この日以降、米軍は大和の探索を毎日のように続けた。 大和を見失った米軍は3月27日深夜、大和などが関門海峡から東シナ海に逃げ出さないための機雷投下作戦を実行した。 |
昭和20年(1945)3月27日(17:26) 発:2F長官 宛:初霜〔1YB〕 【信号】
|
| 朝霜ハ燃料搭載終了次第呉出港甲島(かぶとじま・岩国市)南方錨地ニ於テ当隊ニ合同スベシ |
|
3月27日曇り空の下、関係各艦は午後から弾薬の補充、酒保物品・貯糧食・戦給品1〜2ヶ月分を積み込み、生鮮食品20日分を搭載した。 31Sの酒保品・糧食は1ヶ月分である。 燃料に関して呉鎮長官は大和、矢矧花月に信号を送り呉では燃料として大豆油を搭載し、残りは徳山で 2,000 粁(キロ)積むように命じた。 昭和20年3月 月頭缶用重油は日本中をかき集めてもわずかに 26,533KL しかなかった。 これが南方からの資源還送を行わなかった Imperial Fleet なれの果ての姿であった。 戦艦大和以下10隻で沖縄島突入を目論んだが、それは燃料枯渇の結果であり、この隻数より多くの艦艇を動かせる重油がなかったことによる。 参考までに戦後判明した戦争通年平均月間消費量が 263,800KL だったことを思えばいかに悲劇的数字の在庫量だったことがおわかりだろう。 2F長官はただちに1YB所属各艦に次の信号を送った。 |
昭和20年(1945)3月27日(22:20) 発:2F長官 宛:1YB 呉鎮長官 【信号】
|
| 1YB〔11sd一部欠)明二十八日一七三〇出港広島湾仮泊二十九日早朝出港ノ予定 |
| 3月28日09:30 1YB各艦関係指揮官艦長は大和において作戦会議を開催した。 |
昭和20年(1945)3月28日(11:20) 発:2F長官 宛:1YB外 【信号】
|
|
電令作第589号 ― 昭和20年(1945)3月28日(発:10:19 受:14:20) 発:GF長官 宛:海軍関係部署 【無線】
|
| GF電令作第583号ニ依ル1YBノ佐世保廻航兵力ヲ1sf(大和)2sd(一部欠)31S(一部欠)トス |
必要な物資を搭載し終わった各艦は 17:30 頃から行動を起こし甲島仮泊地に向け出港した。大和は広島湾を迂回し小艦艇は早瀬瀬戸を抜けた。
大和以下の艦艇は 20:30 頃には甲島南仮泊海域に到着した。 呉出港時 17:40 2F長官は、『大和ノ錨地ヲ佐波島ノ一〇八度 四浬ニ改ム』と各艦に信号を送った。
引き続き甲島仮泊艦で 『タナ二六 大和ハ明朝〇三三〇出港ノ予定』 と連絡。
3月28日第3写真偵察戦隊B-29 F-13 写真偵察機に大和探索作戦【作戦任務104号】を発令呉湾で大和を発見する。 |
1YB信令第2号 ― 昭和20年(1945)3月28日(発:20:20) 発:2F長官 宛:1YB各艦 【信号】
|
| 本日機動部隊九州及ビ豊後水道方面来襲ニ鑑ミ予定ノ豊後水道出撃ヲ見合セ周防灘ニ於テ待機ス |
| 仮泊地で1YB各艦は次の電令に接した。 |
電令作第590号 ― 昭和20年(1945)3月28日(発:19:39 受:21:13)
発:GF長官 宛:2F長官,9F長官,31S司令,11Sd司令 【無線】 |
|
1.明二十九日敵機動部隊九州方面ニ接近ノ徴アリ 2.1YB主力ノ佐世保廻航ヲ特令スル迄延期ス |
|
大和以下の残存艦隊を佐世保から東シナ海に遊弋させ、米機動部隊を九州に接近させ、
航空特攻を掛けやすくしようとした目論見は、
米軍による機雷封鎖で再考を余儀なくされ次なる手を失ったGFは、29日に敵機動部隊が九州に接近しそうだと糊塗弥縫(ことびぼう)する電令を送った。
翌29日03:30 予定通り周防灘西部に向け行動を開始した。小艦艇はクダコ水道を大和は釣島水道を抜け由利島沖で会同する計画で航行を続けた。 05:56 頃松山航空隊(343航空隊)紫電改が艦隊の上空に不用意に接近した。敵味方識別装置(IFF Identification Friend or Foe)を有していない Imperial Navy は同士討ちを行い、 日頃中りもしない対空砲火だったが不幸にも2機に命中。撃墜された。 |
-- 戦艦大和 三田尻沖![]() |
| 3月27日深夜からの下関海峡機雷封鎖によって瀬戸内西部も安全な海域ではなくなった。 |
|
|
|
|
| 話が前後するが1YBではこの敵潜の状況は的確につかんでいた。出撃(6日)18:30 この時までに判明する敵潜の概位、豊後水道出口2隻。日向灘1隻。この日向灘の敵潜を回避するため大きく迂回した。 |
|
|
|
| 続きGF電令作607号 |
![]()
|
第二奇兵隊取材班 E-mail ご質問・お問い合わせはこちら ADDRESS Kudamatu City S.K.P Version 1.00 (C)Copyright 1999/2001 |