実録・戦艦大和出撃時刻前倒しのナゾそのT と片道燃料
昭和20年(1945)3月中旬〜31日
4月5日の段階で戦艦大和は袋のネズミだった。     大和水上特攻の燃料に深く関わった小林儀作手記抜粋全文

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-- 昭和20年(1945)3月1付 連合艦隊残存大型水上艦艇は予備役化
前年10月下旬レイテ沖海戦,続く比島輸送作戦により、連合艦隊水上部隊は壊滅的損害を被り組織的戦闘力を喪失した。 また資源還送をなし得なかった彼らに大型艦艇を動かす重油は残っていなかった。よって大型艦艇は浮き砲台にされるか予備役にされた。
庶民の生活から薪炭が消え、風呂も制限された。もとより石鹸の類は入手不可能に近かった。食器の洗剤は無く藁(わら・稲の茎)を柔らかくし丸めて灰をまぶして洗剤代わりとした。 不潔さがノミとシラミの天下となり、やせ細った幼児らを悩ませた。 すでにこの時期昼となく夜となく戦略爆撃機B29の爆音が途絶えることはなかった。また、爆弾の雨により、都市は瓦礫の山を築いたが発表は損害は常に軽微なり!であった。

-- 昭和20年(1945)3月10日 東京大空襲
00:08〜2時間40分。334機のB29が東京下町に焼夷弾19万発を投下。この日だけでも12万4711人が死亡し百万人がホームレスとなった。  そして、あの町でもこの町でも両親を失った孤児たちが巷にあふれた。 近代戦は兵士だけが戦ったのではない。前線も銃後もその境は不明確であった。

-- 昭和20年(1945)3月中旬 日吉連合艦隊司令部
敵信傍受及び偵察等から米軍がいよいよ新作戦を企図して動き出したと判断し、
昭和20年(1945)3月17日 電令作第564A号 (171813番電)を発した。
三項 連合艦隊の作戦要領
 イ、航空作戦 −略−
 ロ、潜水艦作戦 −略−
 ハ、極致守備隊ノ作戦 −略−
 ニ、海上部隊ノ作戦
 (1) 第一遊撃部隊ハ警戒ヲ厳ニシ内海西部ニ在リテ待機シ特例ニヨリ出撃準備ヲ完成ス
 (2) 航空作戦有利ナル場合第一遊撃部隊ハ特例ニヨリ出撃シ敵攻略部隊を撃滅ス
四項 本作戦ヲ「天一号作戦」ト呼称シ 之ガ警戒竝ニ発動要領は「捷号作戦」ニ準ジ本職コレヲ下令ス
この電令が配信された。これにより第一遊撃部隊指揮官は、内海西部に散在(徳山市大津島・呉)していた第7、 第17、第41駆逐隊の艦艇に対し柱島結集を命じた。
 早速、敵征空圏下における水上艦艇の進撃に関する研究会が開催されたが、燃料不足による 訓練不足と、過去の戦訓における三式対空砲弾の効果は低く、 対空(防空)駆逐艦以外の艦艇での対空射撃は困難との声になった。  すなわち、既存駆逐艦主砲の対空射撃では米機撃破は期待できない。  結果水上艦艇の現状では成算は覚束なしとの各級指揮官の結論であった。 夜間戦闘、電測射撃、 電測発射(魚雷)、などの不備を指摘したことにもなった。
日米対空火器比較    日本の12.7 cm 砲は平射砲。米国は対空・平射両用砲
国別長射程砲中射程砲短射程砲
帝国海軍12.7 cm25 mm13 mm
米国海軍12.7 cm40 mm20 mm
 1945年3月末 戦艦大和以外にも動かせる軍艦はあったが燃料が無かった!。 

開戦1年目、ミッドウェイ海戦の大敗北にもまして、海軍TOPに衝撃を与えたのが、燃料の問題であった。ソロモン海戦など数次わたる大きな海戦での燃料消費量の増大である。 開戦1年目の消費予測280万キロリットルと見込んだものが、実際に〆てみると485万キロリットルにも達していた。開戦前の備蓄は約560万屯。
昭和16年(1941)、海軍が保有していた国内貯油量                        単位:KL
原油重油航揮発油普通揮発油航空潤滑油普通潤滑油 合計
1,435,0003,624,000 473,00027,000 6,400 13,600 5,579,000
出典:徳山海軍燃料廠史頁290
出撃直前に撮影されていた大和
1945/4/6 09:45 出撃直前 Yamato
この戦艦大和の写真は【写真が語る山口県の空襲 工藤洋三/著】で販売されている。
第3写真偵察戦隊 F-13 (B-29) が高度 30,000ft(9,100m),徳山沖約 4km 地点(記事で) (33゚.57' N、131゚.45' E) で撮影された。位置は山口県徳山市(現周南市)粭島沖約 3,000m。 撮影は昭和20年(1945)4月6日09:45 沖縄出撃約6時間前。
注) この偵察機 B-29 は当時この海域に結集していた17駆逐隊,21駆逐隊,31戦隊,同43駆逐隊旗艦花月などの戦時日誌に同時刻目撃したという記述はない。
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 結集した特攻艦隊を見た人たち


戦艦大和
この島嶼列島に日本人が生き長らえる限り、永遠(とわ)に語り継がれるだろう。 この艦こそあの熾烈な戦いと敗戦と悲劇を象徴する軍艦は存在しない。

民族の悲しい性(さが)
嘉永6年(1853)陰暦 6月3日、米国使節ペリー(ペルリ)が黒船四隻を率いて浦賀沖に現れた。 激震が列島民族を襲う。 民族の劣敗感は極に達した。 老中首座 阿部正弘。  追いつけ、追い越せ!と檄(げき)を飛ばす。 その延長終末点が戦艦大和であった。

技術上で
世界最大であった。今後も世界最大であり続けるだろう。 だが、世界最強だった訳ではない。
白亜紀(中世代)に栄えた恐竜のような存在だった。新生代(航空機時代)に入ると絶滅への途をたどるに似ていた。

ホモサピエンスの歴史は闘争(戦争)の歴史でもある。暴力装置はより強力さを求め続けた。石器は青銅器の敵ではなく、青銅器は鉄器の敵ではなかった。 軍艦大和に新規なテクノロジーは何一つ備わっていなかった。 大砲は単に大きいだけであったし、また測的兵器もガリレオ・ガリレーが使ったものの延長線であった。 すなわちそれぞれの専門バカが創りあげた傑作でしかあり得なかった。

軍事上で
開戦と同時に誕生した人類史上最大の軍艦は、その瞬間絶滅寸前の恐竜に似ていた。 大艦巨砲,艦隊決戦など、生起しない戦場だった。
また、有史以来何千年も前に誕生した船が第一次世界大戦で出現した航空機という新奇なテクノロジーに勝てるはずもなかった。

暗号〔情報〕の重要性認識
米は多大な努力で日本海軍の暗号解読に成功したが、日本海軍は敵信傍受による解析で敵の意図を探る程度で状況判断をしていた。 暗号解読・情報解析能力の欠陥を補完する他のいかなる方法も保持若しくは構築されていなかった。今時大戦が太平洋上の戦いだったのに絶対要件の専用偵察機の出現は敗勢が濃厚になるまで待たねばならなかった。

技術力不足と想像力の貧弱
航空母艦の脆弱性は眼を覆うばかりであった。巨大な軍艦は造り得たが、総合的戦力は必ずしも高くなかった。  沖縄島突入を企図した護衛艦艇の搭載対空火器は、口径100mm(10cm)の高角砲の次は25mm機銃で、 中間域到達口径の対空火器は存在しなかった。 更なる不幸は有効な対空射撃管制指揮装置を有していなかった。 そこで、ドイツにその技術供与のため長駆潜水艦を派遣したが、割れバケツ騒音潜水艦だったことで一隻を除き作戦は成功しなかった。 レーダーの活用に関しても日米の開きは大きかった。敵を早く発見する機材は卑怯者が使う兵器に分類され疎んじられた。
  ミッドウェイ大敗北の後研究会が開催されたが、結論は驚くべき内容だった。

海上輸送力の不足
国を挙げての戦争に、陸海相互の不信感は敗戦まで続いた。 戦争だから多少の損失は覚悟しなければ、と豪語したが、 潜水艦発見測的兵器も潜水艦を攻撃する新兵器も開発されず敗戦を迎えた。 陸軍の海軍不信はこの一点に収斂する。
干殺し(ひごろし・兵糧攻め)は天正年間(1573年〜)秀吉がよく使った戦法であった。味方の損害を少なくし最大の効果を挙げる。  この国内の360年前の出来事さえ Imperial Navy の連中は知らなかった。 食料増産の一助にと国会議事堂前も芋畑にされた。

S.E.Morisonは、その著書で日本が終戦をむえたとき、その対潜装備は開戦時とおなじだった。非常に正確に作動する爆雷も、航空機搭載用爆弾ももたなかったのである。 彼らは敵潜水艦に損害を与える爆雷を、どこに投下するかという主に数学的な方法を解決できなかった。 日本は対潜攻撃法を手中にできず、そして米潜水艦を攻撃したときは、いつでも撃沈したとひとりよがりに考えていた。
資源の不足
膨張主義が、当時の経済大国(植民地主義国)の禁輸をもたらし、その後の産業現場を大きく制扼した。 これも、ひとえに、Imperial Navy海上護衛力の無さに起因した。 資源確保のために世界第三位の海軍力が使われることもなく消滅した。  航空母艦戦力に限定すると 1941 年当時だと世界トップクラスである。 だがこれも国力増強に使われることはなかった。

海戦の本質を教えなかった兵学校
海戦の本質は、1.敵国海岸を封鎖し、 2.敵国基地を破壊し、 3.敵国商船を撃沈し、 4.敵の経済を破壊する。 この原則は、戦場の主役が、航空機であろうが、戦艦だろうが何ら変わらない。

戦闘・戦争の力学
戦闘でも戦争でも、常に相手の出方を見破り、その意図を粉砕することにある。粉砕するため一番効果的な一点に 物的・人的資源を集中する。近代戦では科学・工業力で物的資源の充実を図り、 人的資源は人間の尊厳を尊重し重用することにある。 古今東西の歴史で人的資源を使い捨て(特攻)にする組織や国家が闘争に勝利した例はない。 旧帝国陸海軍部はその点で弁護の余地のない史上最悪の恥ずべき組織だった。

言論の自由倫理を喪失した組織は崩壊する。 政治体制が専制主義だろうが、独裁主義や民主主義だろうが変わらない。 昨今の食品偽装で明らである。 もしも、悪しき隣人の政体があと、50年続いたなら人類にとって歴史に残る悲劇である。

富岡定俊が軍令部作戦部長(1944/12〜)になった後、最後の決戦場をどこに求めるか、また対米戦への取組みについて陸・海軍の隔たりは大きかった。
陸軍側は過去の経緯から
  • 船団攻撃に重点を置くべきだ!
    一方海軍側は
  • 米機動部隊又は艦艇を目標とする!
    鋭く対立した。陸軍は我方がここまで敗れたのは南方資源還送の輸送船団が沈められたからであり、当然主戦場が台湾・沖縄*1いずれになろうとも 今度は、連合国側が長大な輸送線確保を迫られる。よって敵の補給を寸断*2すれば戦いに勝利できるはずだ。と現実的な見方を行っていた。  結局、昭和20年(1945)1月20日、次いで2月3日「台湾及南西諸島方面作戦に関する中央協定」、3月1日「航空作戦に関する中央協定」の決定をみた。続く19日陸海軍中央協定により、西南方面作戦に関しては、第六航空軍(陸軍)は連合艦隊の指揮下*3に入ることが承認された。これにより第六航空群参謀副長青木喬(少将)を鹿屋第五航空艦隊に派遣する。
    *1 すでに比島は残存兵力(海軍)の持久戦(密林逃げ込み)が決定されていた。 恐らく陸軍首脳部が海軍の全指揮権を掌握できたなら、あそこまで無様な敗け方はしなかったかも。
     海軍残存部隊を置き去りにして逃げたのは?航空特攻を推し進めた大西瀧治郎であった。 その時点で1万4千人程度の兵員がいた。 その内無事帰国できたのは4百人たらずである。 痛憤をとおり超え情けなさに涙あふれる。
    *2 当時の帝国海軍に敵補給路を寸断する力量も装備も持っていなかった。
     彼らの教育は教条的で柔軟性に欠け、航空機の戦いに転換したにもかかわらず、艦隊決戦(戦艦同士)思想を墨守した。 特攻を始めたとされる大西瀧治郎は航空戦力を高く評価していたという記述をまま見るが、航空特攻で敵空母の飛行甲板を破壊し、一時的に艦載機の離発着を妨げ、その間に艦隊決戦を目論んだに過ぎない。 なお、大西瀧治郎には信じられないエピソードがある。彼は水からガソリンが出来ると信じて実験を行わせている。 悲しい現実。その程度の提督を戴く組織が戦いに勝てるはずもない。
    *3 第六航空軍(陸軍)を連合艦隊指揮下に入れたのは、陸軍菅原道大(みちお)が海軍五航艦(鹿屋)宇垣纏より先任にあたるため立場上並列の形にした。
  •  太平洋戦争において、水上艦艇が戦いの趨勢を決したことなど一度もなかった戦いにあって、 大艦巨砲,防御軽視の海軍首脳らは燃料枯渇の現状のなかで、ほかに使えば国力の減衰に少しは寄与する重油を、 そして多くの将兵をまるで、アウトローらが、賭場でサイコロを振るよな、賭にもならないことに賭けてしまった。
     戦艦長門は横須賀で主砲,副砲以外はすべて撤去しスクラップ同然で繋留され、 必要な蒸気は陸上に石炭ボイラーを設置し供給を受けていた。 燃料問題から、水上艦艇を特攻作戦に使うとすれば大本営の承認を必要としたのである。 軍部の一部はこのような燃料状態にもかかわらず本土決戦を叫んでいたので、 生還を期しがたい沖縄特攻なら燃料片道分は当然の帰結であった。
     昭和20年(1945)3月末、燃料枯渇で訓練もままならなかった残存 Imperial Fleet (帝国艦隊)に乗り合わせた 男たちは、その不運に気づくこともなく、なお艦隊決戦、殴り込み戦法しか取り得ない無定見、無見識、無見通しの海軍エリートとされる数名の男たちの手に委ねられていた。 やがて運命のその時を迎える。  このWebサイトは、物言わぬ男たちに代わって、その作戦の真実をあぶり出し世に問わんとす。

     無定見、無見識、無見通しは、昨今の社会保険庁のエリートに通ずる。 本来賦課方式の年金1兆円を私利に費やした。 阻むべき政治はそれを許した。 大和以下も「一億特攻のさきがけ」とされ、 まるで生身の人間をすり鉢に入れた胡麻のようにすり潰そうした。 このような愚行やめさせるべき、防波堤は政治だったが、決断することはなかった。  悲しい現実・・・ 国民に視点を置いた政治は戦中も戦後もこの国に存在しなかった。
     その政治は今('07/7)社保庁解体を叫ぶ・・・・   勤労国民の4分の1がワーキングプアとなっても保守政治家は利権に走り、キャリア官僚は特殊法人を設立し惰眠を貪る。
     昭和20年(1945)特高警察の監視の下、もの言われぬ民は空襲におののき、子は寒さにふるえ餓えに泣き、都市無差別爆撃により戦災孤児は路頭にあふれた。 だが、国体護持(絶対天皇制)を標榜する軍部は一億玉砕を叫び暴走する。

    -- 昭和20年(1945)3月20日、大海令三七号発令にともい
    大海指五一三号が発せられた。この時期、米軍の次の侵攻は誰の目にも沖縄にみえた。硫黄島の組織的軍事力は破摧され終末を迎えようとしていた。
    大海指第五一三号別紙
     帝国陸海軍作戦計画大綱二基ク帝国海軍当面作戦計画要綱
      第一 作戦方針
     陸軍卜密二協力シ 各其ノ総力ヲ強化結集シテ 主敵米軍進攻破摧ニ指向シ 次デ国防要域ノ確保
     尠クトモ敵ノ皇土侵襲企図ノ未然撃砕ヲ期スルト共二 此間極力皇土防衛態勢ヲ強化シ 戦勢ノ推移二
     即応シ 靭強果敢ナル作戦ヲ推進シ 飽ク迄戦争目的達成ヲ図ル
       第二 作戦指導ノ大綱
    1 陸軍卜密二協力シ 当面作戦ノ重点ヲ東支那海周辺特二南西諸島正面二指向シ特二航空兵カノ徹底
     集中竝ニ局地防衛ノ緊急強化ヲ計リ来攻スル敵主力ノ撃滅ヲ期ス
      (本作戦ヲ天号作戦卜呼称ス)
    2 此間極力皇土防衛ノ態勢ヲ強化シ 敵ノ直路皇土要域来攻ニ対シテハ 機ヲ失セズ機動兵力特二航空
     及特攻兵力ヲ移動集中シテ之ヲ反撃々滅ス
    3 皇土防衛態勢ノ強化ニ当リテハ先ヅ其ノ重点ヲ関東方面及南九州方面二集中指向スル如ク準備スルト
     共二主要海峡、湾口ノ防備強化ヲ計リ日本海二於ル海上交通ヲ確保ス
    4 戦勢ノ推移ニヨリ機ヲ失セズ益々皇土防衛二徹スル作戦準備ヲ強化推進シ国家総力ノ戦力展開ヲ計リ
     之ヲ重点二集中統合シテ来攻スル敵上陸軍ヲ撃滅ス
      (本作戦ヲ決号作戦卜呼称ス)
    5 天号作戦二於テハ先ヅ航空兵カノ大挙特攻々撃ヲ以テ敵機動部隊二痛撃ヲ加へ 次デ来攻スル敵船団
     ヲ洋上及水際二捕捉シ各種特攻兵力ノ集中攻撃ニヨリ其ノ大部ヲ撃破スルヲ目途トシ 尚上陸セル敵ニ
     対シテハ靱強ナル地上作戦ヲ以テ飽ク迄敵ノ航空基地占領ヲ阻止シ 以テ航空作戦ノ完遂ヲ容易ナラシメ
     相俟テ作戦目的ヲ達成ス
    6 決号作戦二於テハ各種特攻攻撃ヲ以テスル敵船団ノ洋上及水際撃破ヲ重視ス
    7 戦局転換前卜雖モ 自主積極ノ奇襲作戦ヲ重視シ敵ノ進攻ヲ遷延セシムルニ勉ム
    8 敵空襲激化ヲ予期シ 戦力ノ維持昂揚二万全ヲ期スルト共二生産交通通信ノ防衛及治安ノ確保ニ努ム 
     之ガ為早期強力ナル処置ヲ以テ軍需品ノ適正ナル配置施設ノ疎開分散移設ヲ推進ス

     戦後航空特攻はあくまで志願であった。と強弁するが、大海指において天号作戦では航空特攻を強力に行うとしている。志願なら必要な兵力未達もあり得りえ作戦は成り立たない。成り立たない作戦を大綱として決めたとなると、彼らの頭は総スッカラカンであった証拠となり、海軍首脳連は大馬鹿者集団だった証左となる。ゆえに特攻は志願にあらざりき。
     また、治安の確保を強調している。敵も恐ろしかったが国民も既に陸海軍にとっては声なき声での脅威であったのであろう。
    -- 昭和20年(1945)3月23日〜25日 沖縄
     23日、閣議、国民義勇隊の組織編成を決定する。すなわち13才以上の男女〜45才以下の女性、65才以下の男性の戦力化が決定された。 また、13才以上の学業(勉学)1年間中止が決定された。
     この日、那覇港から疎開船が出港予定であった。乗船者は朝早くから港へ集まった。 08:00 頃突如 F6F グラマン戦闘機が現れ、ロケット弾と機銃掃射を浴びせた。全くの不意打ちで空襲警報も発せられなかった。 これに先立つ6日前、第58機動部隊が九州四国沖に現れた。これを迎え撃った第5航空艦隊(鹿屋・宇垣纏)はこれを攻撃敵正規空母2、戦艦2、巡洋艦1、駆逐艦2撃沈。 撃破を含め10隻以上の艦艇を撃沈破したと確信豪語していた。
    大本営発表はいつもの如くその戦果は実際より更に誇大だった。 実際は空母3隻の損傷にとどまる。
    大本営発表  昭和20年 3月23日16時
    一、其の後の調査に依れば三月十八日より同二十一日に亙り敵機動部隊に対し我航空部隊の収めたる確認せる戦果綜合次の如し 撃沈正規航空母艦五隻 戦艦二隻 巡洋艦三隻 艇種未詳一隻 撃墜約百八十機  我方未帰還百五十機 地上竝に水上に於る損害軽微
    二、我攻撃機の大半は特別攻撃隊にして右以外其の戦果確認し得ざるものあり
    航空機の損害は実数に近い。特攻機(69機)を含め161機喪失。出撃機数の65%を失った。

     敵機動部隊に大打撃を与えているので、当面米艦載機が西南諸島を空襲するはずがない。これが彼ら(海軍)のいつも見られた楽観的観測であった。 また、松山空源田実司令はウソの大戦果を上申した。
     来るはずがない米機動部隊艦載機355機が、24日朝6時50分沖縄島への空爆を行なった。つづく正午過ぎ戦艦6,重巡8,駆逐艦25隻を含む敵大艦隊が沖縄久米島島尻海岸沖に現れ艦砲射撃を浴びせた。翌25日沖縄近海におびただしい輸送船が確認された。 誰の目にも沖縄来攻が明らかとなった。陸軍は、いつもの海軍の誇大戦果にがっかりするとともに海軍に対する不信感は増した。


    -- 戦艦大和 呉在泊
    電令作577号 ― 昭和20年(1945)3月25日(発:13:23 受:14:46)
      発:GF長官 宛:各鎮長官,各艦隊司令長官,司令,GEB,各警備府,第6航空軍,支那派遣軍,第10方面軍  【無線】
    天1号作戦警戒
     この日硫黄島守備隊は残存兵力約400をもって最後の突撃を敢行玉砕。栗林忠道中将以下戦死。
     同島海軍第27航空戦隊司令官市丸利之助少将戦死。 沖縄戦を戦う五航艦の実働機は110機程度になった。
    -- 昭和20年(1945)3月26日 米軍沖縄慶良間諸島に上陸
    同諸島に陸兵配備はされていなかった。陸軍海上挺身隊の特攻部隊のみであった。前3日間の砲爆撃でこの特攻艇のほぼ全てが失われた。26日早朝レイテから転戦した米77師団が上陸部隊だった。
    電令作581号 ― 昭和20年(1945)3月26日(発:10:52 受:12:00)
                            発:GF長官 宛:呉鎮長官,2F長官,31S司令,2Sd司令,11Sd司令  【無線】
    1YB〔1SF(大和)2Sd,31S,11Sd(稼働兵力)〕ハ出撃準備ヲ速ニ完成内海西部ニ在リテ待機スベシ
    GFは一航戦(大和)、二水戦、三十一戦隊、十一水戦は燃料・弾薬を補給し三田尻沖で待機せよと命じた。
     連合軍は沖縄慶良間諸島に3月23日に空襲で襲いかかった。翌24日からは艦砲射撃に曝され、続く26日には慶良間諸島(座間味・阿嘉・慶留間・外地島)に上陸、そして29日までには慶良間諸島全域を占領。誰の目にも沖縄本島上陸が近いことを知らしめた。
     これらの艦艇は秋月弾薬庫で必要な弾薬を補充した。弾薬補充のために弾薬庫に到着した兵らはガラーンとした弾薬庫に衝撃を受ける。
     この日、英艦隊(戦艦2,空母4,巡洋艦5,駆逐艦15)が米機動部隊に加わる。
    電令作582号 ― 昭和20年(1945)3月26日(発:11:02 受:19:20)  発:GF長官 宛:海軍関係部署 【無線】
    天一号作戦発動
     3月26日 11:02 海陸軍関係部署にGF電令作第582号で天1号作戦発動。を打電。 まだこの段階で大和をどのように使うのか結論は出ていなかった。  当初の作戦計画は、沖縄島突入ではく佐世保に回航し、そこから適宜東シナ海に遊弋させ、それによって米機動部隊を北方に誘引し、 航空特攻で痛打を与える目論見だった。
    海軍の天号作戦に対する熱意は3月に入って急速に熱を帯び決戦思想に発展した。決号(本土)作戦は従、天号作戦を主とする構想に変わってきた。3月20日、大海令513号を以て「当面の作戦計画大綱」を策定発令した。 即ち、「当面作戦の重点を沖縄航空作戦」に置き、「航空戦力を徹底的に集中発揮し、侵攻米軍を撃滅」また、「沖縄に侵攻する米軍の大部を洋上に撃破し、沖縄地上防衛軍は敵の航空基地(飛行場)獲得を阻止し、天号作戦の容易にする」戦略思想を明示した。 これは、沖縄防衛軍の策定した中,北飛行場放棄の持久戦略思想とは相容れなかった。
    この日、第三航空艦隊,第十航空艦隊は第五航空艦隊司令官の作戦指揮下に入れられた。一方陸軍第六航空軍(菅原道大中将)の準備は全く整わず、当面可動兵力は重爆10機。襲撃機15機に過ぎなかった。
    米軍先遣部隊が沖縄慶良間諸島に上陸した天号作戦初動の貴重な戦機は、九州沖航空作戦の戦力消耗と敵情判断の誤判断と、陸軍側の戦備不足と相まって天号作戦発動そのものに無理があった。
     話が前後するが、米機動部隊が3月28日、29日、再度九州方面に来攻してきたが、第五航空艦隊は有効なる反撃を行う戦力を持たなかった。
    電令作583号 ― 昭和20年(1945)3月26日16:57  発:GF長官 宛:佐・呉鎮長官・GEB/5AF・各2F・3AF長官
    1.1YB(第一遊撃部隊)ハ28日12:00以降、 指揮官所定*4ニヨリ速ニ出撃。主力ハ豊後水道ヲ、一部ハ下関
      海峡ヲ通過シ佐世保ニ前進待機スベシ。

    2,3,4省略
    昭和20年(1945)3月27日               発:呉鎮長官 宛:大和〔矢矧・花月〕    【信号】
    急速補給左ノ件然ルベク取計ラレ度
    1.徳山ニテ一部補給(浜風ノ分入レ約2,000キロ)
    2.呉ニ於ケル燃料格納場所関係上セントウヲ? セントウヲについては意味不明
    鹿川岸壁ニ横付ケ補給(在庫大豆油4,000キロ)
     大和他の艦艇は、呉(広島県)でかき集められるだけの重油を搭載した。大和は巡洋艦などから移載を受けたがその搭載量は不明*5である。  大和クラスの停泊での重油消費量は60トン/日程度と考えられている。 戦艦長門で日量49トン。 大和の呉出港は3月28日で、 沖縄島突入出撃は4月6日だから三田尻沖(山口県防府市)回航を含め10日間で1,000トン程度費消したと考えられる。

     この日、米軍慶良間諸島渡嘉敷島上陸。また、アウン・サン将軍率いるビルマ国軍、日本軍に対して全面的に反乱開始。
     この日、陸軍知覧「なでしこ隊」の奉仕が始まる。 現在の中学校3年生。


    【慟哭の海】初版表紙
      *5 大和副長だった能村次郎は自著「慟哭の海」で大和は満載だったと書くが、第二水雷戦隊戦時日誌によると大和搭載燃料は呉出航の際は 3,000トン,矢矧 1,000トンと記録している。この燃料関係で判明している量は 17dg (17駆逐隊・磯風,雪風,浜風)は満載で各艦 599トン
     この時か最初からかどうなのか判然としが、缶用重油枯渇により大豆油が搭載されている。 在庫量か搭載量かは不明だが鹿川岸壁で大豆油 4,000キロ(トン) が41dg (41駆逐隊・冬月,涼月)と矢矧に搭載された。またその後の経緯から 31S (花月,槇,榧)も満載している。花月は満載で900トン搭載できた。
     大和他艦艇による沖縄水上特攻が失敗し、第二水雷戦隊が提出した戦闘詳報の中で、冬月が使用した大豆油の燃料は問題なく使用できた。と書かれている。   4月段階で海軍が保有していた燃料在庫こちら
    第二水雷戦隊戦時日誌及び戦闘詳報は、国立公文書館アジア歴史資料センターWebサイトで検索可能である。

     電令作583号で下された佐世保廻航計画は頓挫する。翌27日、戦略爆撃機 B-29 による関門海峡機雷投下で消し飛んだ。 大和護衛艦艇が関門海峡を通って佐世保に行けなくなったのだ。  GFは作戦の再考を迫られた。 米軍による海峡機雷封鎖は大和を追い詰めるための計算された作戦だった。   それは沖縄上陸支援を目論む戦艦大和袋のネズミ作戦であり、またそれは日本国民をStarvation (飢餓)に陥れる作戦でもあった。

    米軍は昭和19年(1944)10月中旬マリアナ諸島に戦略爆撃機B-29を擁するXX爆撃機集団の航空基地を確保した。この集団には写真偵察を専門とする F-13 を運用する第三写真偵察戦隊が所属していた。同戦隊と海軍機動部隊写真偵察機は緊密に連携し、 沖縄上陸の障害となる 残存 Imperial Fleet探し求めていた。
     3月19日、第58機動部隊第1機動軍所属空母ホーネットのVF-17とVBF-17飛行隊F6F 16機は岩国飛行場攻撃を命じられていたが岩国沖で大和を発見。これに攻撃を加えた。至近弾を得たものの命中弾はなかった。 この日以降、米軍は大和の探索を毎日のように続けた。 大和を見失った米軍は3月27日深夜、大和などが関門海峡から東シナ海に逃げ出さないための機雷投下作戦を実行した。 
    昭和20年(1945)3月27日(17:26)                発:2F長官 宛:初霜〔1YB〕     【信号】
    朝霜ハ燃料搭載終了次第呉出港甲島(かぶとじま・岩国市)南方錨地ニ於テ当隊ニ合同スベシ
     3月27日曇り空の下、関係各艦は午後から弾薬の補充、酒保物品・貯糧食・戦給品1〜2ヶ月分を積み込み、生鮮食品20日分を搭載した。  31Sの酒保品・糧食は1ヶ月分である。
     燃料に関して呉鎮長官は大和、矢矧花月に信号を送り呉では燃料として大豆油を搭載し、残りは徳山で 2,000 粁(キロ)積むように命じた。
     昭和20年3月 月頭缶用重油は日本中をかき集めてもわずかに 26,533KL しかなかった。 これが南方からの資源還送を行わなかった Imperial Fleet なれの果ての姿であった。  戦艦大和以下10隻で沖縄島突入を目論んだが、それは燃料枯渇の結果であり、この隻数より多くの艦艇を動かせる重油がなかったことによる。
     参考までに戦後判明した戦争通年平均月間消費量が 263,800KL だったことを思えばいかに悲劇的数字の在庫量だったことがおわかりだろう。
     2F長官はただちに1YB所属各艦に次の信号を送った。
    昭和20年(1945)3月27日(22:20)                発:2F長官 宛:1YB 呉鎮長官  【信号】
    1YB〔11sd一部欠)明二十八日一七三〇出港広島湾仮泊二十九日早朝出港ノ予定
     3月28日09:30 1YB各艦関係指揮官艦長は大和において作戦会議を開催した。
    昭和20年(1945)3月28日(11:20)                発:2F長官 宛:1YB外       【信号】
    本日当艦隊宇部沖仮泊ノ予定錨地左ノ通リ大和佐波島ノ二三八度九.六浬円内占位艦ハ輪形陣ノ儘一斉投錨外円占位艦ハ軸方向一八〇度トシ霞ロ〇榧〇一花月ロ九槇ロ二七朝霜〇四「S」ヲ三粁トス
    この日、関東、第三航空艦隊(寺岡謹平中将)司令部鹿屋に進出。
    この日、戦艦大和佐世保進出前路掃討中の海防艦御蔵(940t)、海防艦33号(745t)宮崎県青島沖(31゚45'N/131゚45'E付近)で米空母艦載機の攻撃を受け沈没。行方不明となる。
    この日、慶良間群島渡嘉敷島民52名が集団自決した。
    電令作第589号 ― 昭和20年(1945)3月28日(発:10:19 受:14:20) 発:GF長官 宛:海軍関係部署 【無線】
    GF電令作第583号ニ依ル1YBノ佐世保廻航兵力ヲ1sf(大和)2sd(一部欠)31S(一部欠)トス
     必要な物資を搭載し終わった各艦は 17:30 頃から行動を起こし甲島仮泊地に向け出港した。大和は広島湾を迂回し小艦艇は早瀬瀬戸を抜けた。 大和以下の艦艇は 20:30 頃には甲島南仮泊海域に到着した。
    呉出港時 17:40 2F長官は、『大和ノ錨地ヲ佐波島ノ一〇八度 四浬ニ改ム』と各艦に信号を送った。  引き続き甲島仮泊艦で 『タナ二六 大和ハ明朝〇三三〇出港ノ予定』 と連絡。

     3月28日第3写真偵察戦隊B-29 F-13 写真偵察機に大和探索作戦【作戦任務104号】を発令呉湾で大和を発見する。
     ところが、またもやこの日以降大和を見失なったのだ。  沖縄本島上陸を控えた米軍は大和の動向を探るため翌29日作戦任務105号、107号を発する。この作戦でも前日発見した大和を呉湾周辺で発見出来なかった。大和は29日日暮れ前に三田尻沖に達していたのだ。
     大和を見失った米軍はすかさず、3月30日〜4月3日にかけて山口県東部由宇沖から倉橋島、呉港内に1,034個の機雷を投下し呉湾からの脱出路を遮断する封鎖作戦を展開。下関海域を含めると1,871個に達した。 3月27日を嚆矢として日本に対するすさまじい機雷投下飢餓作戦が展開された。 米軍はこれを Starvation (飢餓; 餓死)作戦と呼んだ。その全貌はこちら

    1YB信令第2号 ― 昭和20年(1945)3月28日(発:20:20)      発:2F長官 宛:1YB各艦    【信号】
    本日機動部隊九州及ビ豊後水道方面来襲ニ鑑ミ予定ノ豊後水道出撃ヲ見合セ周防灘ニ於テ待機ス
     仮泊地で1YB各艦は次の電令に接した。
    電令作第590号 ― 昭和20年(1945)3月28日(発:19:39 受:21:13)
                                発:GF長官 宛:2F長官,9F長官,31S司令,11Sd司令    【無線】
    1.明二十九日敵機動部隊九州方面ニ接近ノ徴アリ
    2.1YB主力ノ佐世保廻航ヲ特令スル迄延期ス
     大和以下の残存艦隊を佐世保から東シナ海に遊弋させ、米機動部隊を九州に接近させ、 航空特攻を掛けやすくしようとした目論見は、 米軍による機雷封鎖で再考を余儀なくされ次なる手を失ったGFは、29日に敵機動部隊が九州に接近しそうだと糊塗弥縫(ことびぼう)する電令を送った。
     翌29日03:30 予定通り周防灘西部に向け行動を開始した。小艦艇はクダコ水道を大和は釣島水道を抜け由利島沖で会同する計画で航行を続けた。
      05:56 頃松山航空隊(343航空隊)紫電改が艦隊の上空に不用意に接近した。敵味方識別装置(IFF Identification Friend or Foe)を有していない Imperial Navy は同士討ちを行い、 日頃中りもしない対空砲火だったが不幸にも2機に命中。撃墜された。

    -- 戦艦大和 三田尻沖
     3月27日深夜からの下関海峡機雷封鎖によって瀬戸内西部も安全な海域ではなくなった。
    3月29日17:30頃 第7駆逐隊『響』は佐波島(周防灘・三田尻沖)187度5.2浬で触雷航行不能に陥った。第21駆逐隊朝霜に『響』曳航の命令が出された。
    朝霜ハ響ヲ曳航呉ニ向ヘ 響自力航行ナラバ(朝霜)艦隊ニ合同セヨ
     途中から『響』は自力航行が可能となり翌30日06:00 呉にたどり着いた。 『響』触雷により第7駆逐隊は一艦となり解隊され21駆逐隊に編入された。  この日の深夜再び敵 B-29 は94機で呉湾,広島湾(安芸灘)に機雷投下。大和はこの段階で母港呉に戻れなくなった。また随番艦艇は下関海峡から佐世保への進出も適わなくなった。  翌31日矢矧搭載水上機による機雷探査と爆破処理が開始された。この掃海活動で音響機雷2個が爆破された。
     わずかに残った残存艦艇は周防灘西部に進出したものの艦隊訓練もままならない状態に追いつめられた。下関海峡も通過できず、呉に戻ることもかなわずこの海域に閉じこめられた。そして唯一の出口は豊後水道に限定された。 この水道は出口狭く30浬しかなかった。潜水艦2隻程度伏在させれば大和の出撃を容易に探知でき見逃すことは考えられなかった。

    米潜水艦 Threadfin, SS-410
           Hackleback, SS-295
           Silversides, SS-236
           監視任務
     
    話が前後するが1YBではこの敵潜の状況は的確につかんでいた。出撃(6日)18:30 この時までに判明する敵潜の概位、豊後水道出口2隻。日向灘1隻。この日向灘の敵潜を回避するため大きく迂回した。
    3月29日 17:26(32)
    被爆26分,32分あり
    響触雷航行不能 佐波島(山口県防府市)187°5.2浬
     33-52-55-37N  131-29-50-98E
    触雷場所確定のため、第六管区海上保安本部の守秘義務にはばまれ、この付近海域から鉄片などの回収があったのか未確認である。
    この日第21駆逐隊(原隊第七駆逐隊)響は周防灘西部で触雷し発電機が故障し航行不能となった。第二十一駆逐隊初霜が途中まで曳航。やがて自力航行が可能となった。第七駆逐隊は解隊され霞は第二十一駆逐隊に編入された。
    駆逐艦響の触雷
    日付:03/29
     17:26(32) 響 触雷航行不能 佐波島187°5.2浬 33-52-55-37N 131-29-50-98E
     第六管区海上保安本部の守秘義務により、この付近海域から鉄片などの回収があったのか未確認
      である。

     17:30 発1YB司令長官 宛(×)(信号)
        朝霜ハ響ノ警戒艦トナレ。
     18:32 発2F司令長官 宛(×)(信号)
        朝霜ハ響ヲ呉ニ曳航呉ニ向ヘ。響自力航行可能トナラバ艦隊ニ合同セヨ。
        艦隊ハ明30日姫島北方海面ヲ行動ノ予定。
     20:30 響 自力航行可能。呉独航。

    3月29日、軍令部総長及川古志郎大将は,参内して南西諸島方面における戦局を奏上した。 その際、大元帥昭和天皇から「天一号作戦は、帝国安危の決することであり、 挙軍奮闘もって目標達成に遺憾なきように」とあり, 及川大将は「航空機による特攻攻撃を出来る限り激しくやります」と答え, 大元帥は「海軍にはもう艦がないのか?海上部隊はもうないのか?」と下問された。という。 及川軍令部総長は天皇の下問次第を、連合艦隊司令長官豊田副武大将に伝えたが、 豊田長官は同日19:22 GF(Gathered Fleetの頭文字 連合艦隊の意) 電「畏レ多キ言葉ヲ拝シ、 恐縮ニ堪エズ。臣副武以下全将兵殊死奮戦、誓ッテ聖慮ヲ安ジ奉リ、アクマデ天一号作戦ヲ完遂ヲ期スベシ」という 緊急電文を天一号作戦部隊に発した。
    この日、米艦載機約500。鹿児島,宮崎,佐世保,高知,松山来襲。鹿児島万世飛行場で作業中の住民28人直撃弾を受け爆死。

    3月30日 この日回天多々良隊を乗せるため大津島に移動中の伊53潜が光沖で触雷し、急遽翌31日伊58潜が代替として沖縄方面に出撃する。
    この日、翼賛政治会解散。大日本政治会結成。総裁南次郎陸軍大将。
    この日深夜2回目となる機雷投下作戦が行われた。
    *4 「指揮官所定」とは出撃時刻を指揮官の判断に委ねること。この場合12:00以降ならいつでもよい。

    続きGF電令作607号

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