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処刑地伝承の地
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| 姓 名 | 所属部隊 | 出 身 地 | 享 年 |
| 秦野常若 | 萩市河添真行寺新発意 | 20 | |
| 水木最一郎 | 大炮隊 | 光市立野 | 20 |
| 林璋之助 | 大炮隊 | 光市山田 | 21 |
| 本城藩人 | 第二銃隊 | 平生大野毛利家来 | 22 |
| 秋田五郎 | 光市立野清水家来 | 22 | |
| 西村幸治郎 | 大炮隊 | 光市立野清水家来 | 22 |
| 吾妻左源次 | 岩国藩士 | 25 |
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上関町室津である。現在は対岸の長島に橋が掛かり地形が変化したが大筋現在と大差ない。 絵図には、常満寺や西方寺など現在の位置にそまのの描かれている。海岸通りに高札があり、長島に渡る渡船場があったことがわかる。渡船場について、橋ができる前は同じように対岸に渡った。ここでは鮮烈な斬首の 記憶を留めている。なにしろ最初の多量の斬首が行われたのであるからなおさらである。裁判官槙村は、麻郷戎ケ下ほか最寄りの地三個所と決めていたが間違いなくその最寄りの地の一個所であろう。 なぜなら、山口県で下関、上関は 北前船にあっては一日行程の寄港地であった。津々浦々の言葉にあるように港は最大の情報発信の地でもある。 |
| この処刑が政治的なものであるということは、すでに序章で触れているので割愛するが藩政府や槙村は幕府に長州としては討幕など考えてもおりませんよというアピールの方法として大量処刑を選んだのである。 ましてや殺す若者たちはほとんど百姓の子倅であり陪臣の子弟であった。彼ら(政府)としては痛痒を感じる必要もないほどの存在である。 |
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本城藩人について 大島郡東和町。 藩人の生家は’92年当時廃屋となっいるものの原形を留めていた。分家の本城家に次にみるような記録 が残っている。それによると在方名は伴右衛門、現熊毛郡平生町の毛利隠岐(毛利一門)の家臣である本城家 の婿養子となる。本城家はその昔島根県の石見銀山を領していた戦国大名の一人である。との領主が毛利元就に謀殺され、以降毛利家に 従臣するようになる。東和町の本城家もその末裔にあたるかもしれない。平生本城家 での名は「光健」墓は近くの常春寺にある。墓面は「昇誉曜光居士」。ちなみに妻の名は「シゲ」。夫を亡くしたシゲは余談だが再婚する。 ![]() ![]() |
| 石城脱走人数について確たる物証の一つが兵助の備忘録である。玉島で捕縛され、その後幕府派遣軍船で広島に移送された佐場野三郎は96人脱走した。と供述しているが 兵助は94人と書き残している。 この備忘録により正田久次郎も東和町船越であり、吉松こと折本吉之進も船越であった。 |
萩市河添真行寺 秦野常若生家
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地元(斬首)の寺に残る 新発意(しんぽち)と読む。寺の跡取り息子の意。 「聞正院釈義正 字は観月」 萩の自宅にも父が法名を付けた。 よって彼は二つの法名がある。 |
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室津白浦 |
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兄の備忘録 1 | |
兄の備忘録 2 | |
父の手記 1 | |
父の手記 2 |
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次に秦野常若について 出身地萩市河添(こうぞえ)真行寺 法名 聞正院釈観月 父義諦は記録を残した。弘化4年(1847)9月10日出生長男童名常丸 以下記録の一部立石の私怨説に触れたあたりについて、「隊長立石孫一郎備中倉敷私怨アリ(孫一郎ノ兄幽閉セル) 隊兵引率シテ倉敷ヲ夜撃シ死亡多アリシ三昼夜戦ヒ隊士僅少ノ兵ヲ以テ備前ニ至シ・・・中略 軍律ヲ乱シタル科ニヨリテ軍法ニ処セラレ室津浜(白浜)ニ於テ斬死ス墓地ハ同処浄満寺後 □(□は文字不明)山アリ・・・中略 続いて久賀村於覚法寺大洲鉄然師ヲ正遵師ト□(□は文字不明)盛大ノ法要アリ戦士同様ノ追悼石碑ヲ建テ義名ヲ陳列セリ」 の記述となる。このことは、現久賀町維新公園にある第二奇兵隊追悼碑と法要について書かれており少なくとも 石碑が建立された明治26年(1889)8月以降の文章であることが判る。ここでも私怨説である。 この文で常若の墓は常満寺(浄満寺)後の山にあるとなっているが、対岸の長島に橋が架かったとき墓地も大幅に移転させられた ので行方不明となった。 この維新公園の追悼碑の碑文が、その後長く現在に至るまで大島郡処刑関係遺家族を苦しめることになる。遺家族には 未整理の犯罪者のままで据え置かれているのである。 |
残された辞世 (第二奇兵隊暴徒御処置一件) 今更に 何かといわむ武士(もののふ)の 我真心を しりてたたえよ 四月廿五日 死ス日 「まス成」 葉柳の風に うき身ハしすむとも結ひ置かん 志一トすし 不読経書不講兵 忠謀武略亦難成 丈夫可死勤王事 澹泊何求身後名 「義成」 記録では秦野常若の辞世となっているが、上段写真の本城藩人の兄の手記2では末尾に |
| 【大島郡の寺に残る過去帳】
(一)、楢崎剛十郎 四月六日 石城山で殺害された。
(二)、西村(高田)兼助 五月二日 久賀松野で斬首。
(三)、大沼 鴻介 五月二六日 萩大谷で斬首。
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平成2年2月柳井市郷談会誌第14号 佐原秀雄氏発表
『安政三年(1856)生まれの祖母は、私が小学生の頃昔の話をよく聞かしてくれた。 当時私から見ると相当の年寄りに思えたが今計算してみると六十を過ぎたばかりで記憶は確かであった。 少し大袈裟に言えば、明治維新前後の生き証人ともいえる・・・ そして当時十才ぐらいであった 祖母はこの斬首の現場を目撃しており後ろ手に縛られて正坐し首切り人がエエイーと大声を発しながら 刀を打ち下ろした。・・・ 中には切られる前に大声で詩をうたった者もいた。斬首直前の詩。 まぎれもなく辞世の詩であり、切られる当人にとって息づまる意志表示であったであろう。・・・』 |
『今更に 何かといわむ武士(もののふ)の 我真心をしりてたたえよ』 |
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