処刑地伝承の地

慶応2年陰暦4月26日(1866.06.09 土曜日) 7名が殺害された。
姓  名 所属部隊 出 身 地 享 年
秦野常若 萩市河添真行寺新発意20
水木最一郎大炮隊光市立野20
林璋之助大炮隊光市山田21
本城藩人第二銃隊平生大野毛利家来22
秋田五郎 光市立野清水家来22
西村幸治郎大炮隊光市立野清水家来22
吾妻左源次 岩国藩士25
検断 藤井関次郎 後見 市川忠平 内田九市
 
地下上申絵図 上関宰判 室津
   上関町室津である。現在は対岸の長島に橋が掛かり地形が変化したが大筋現在と大差ない。
 絵図には、常満寺や西方寺など現在の位置にそまのの描かれている。海岸通りに高札があり、長島に渡る渡船場があったことがわかる。渡船場について、橋ができる前は同じように対岸に渡った。ここでは鮮烈な斬首の 記憶を留めている。なにしろ最初の多量の斬首が行われたのであるからなおさらである。裁判官槙村は、麻郷戎ケ下ほか最寄りの地三個所と決めていたが間違いなくその最寄りの地の一個所であろう。 なぜなら、山口県で下関、上関は 北前船にあっては一日行程の寄港地であった。津々浦々の言葉にあるように港は最大の情報発信の地でもある。
この処刑が政治的なものであるということは、すでに序章で触れているので割愛するが藩政府や槙村は幕府に長州としては討幕など考えてもおりませんよというアピールの方法として大量処刑を選んだのである。 ましてや殺す若者たちはほとんど百姓の子倅であり陪臣の子弟であった。彼ら(政府)としては痛痒を感じる必要もないほどの存在である。
 
西村幸次郎墓 光市の寺の境内   【左写真 西村幸治郎墓 光市 長徳寺 境内】

 脱兵処罰案で、処刑地(斬首)は大島郡上ノ関三ケ所最寄之地」となっており最初から処刑地の選定がなされて いる場所である。
 倉敷事件の一連の処刑(斬首)の最初の処刑となった場所であるが隊士の出身地主義は見られずバラバラである。 陪臣的地位(武士階級)7名中4名となっている。脱兵処罰案では、本陣で楢崎剛十郎の殺害に最初から加わっていても他国 に出国しなかった者は流罪にする方針であったが、沖家室島で離脱した秋田五郎、吾妻左源次が処刑(斬首)されている。 彼らは士分の地位でありかつ隊内にあっては小隊を指揮する立場にありそれが検察官林半七のの怒りに触れ、裁判官槙村半九郎も一般隊士への 見せしめとして妥協したものであろう。諸隊隊士に対する恫喝が読み取れる。  その実この4月5日の立石率いる部隊の倉敷襲撃事件は県内各地の諸隊に伝播し呼応する者が続出した。彼らもまた呼応したがゆえに 全員斬首もしくは銃殺された。四境戦争も目前に迫る切迫した情勢のもと、当初の処罰案など斟酌しておれない状況となったと考えられる。

ここの処刑者の秦野常若と本城藩人は、父と兄が記録を残した。 処刑地及び関連資料参照

本城藩人について
 大島郡東和町。 藩人の生家は’92年当時廃屋となっいるものの原形を留めていた。分家の本城家に次にみるような記録 が残っている。それによると在方名は伴右衛門、現熊毛郡平生町の毛利隠岐(毛利一門)の家臣である本城家 の婿養子となる。本城家はその昔島根県の石見銀山を領していた戦国大名の一人である。との領主が毛利元就に謀殺され、以降毛利家に 従臣するようになる。東和町の本城家もその末裔にあたるかもしれない。平生本城家 での名は「光健」墓は近くの常春寺にある。墓面は「昇誉曜光居士」。ちなみに妻の名は「シゲ」。夫を亡くしたシゲは余談だが再婚する。
平生常春寺境内の本城藩人墓
石城脱走人数について確たる物証の一つが兵助の備忘録である。玉島で捕縛され、その後幕府派遣軍船で広島に移送された佐場野三郎は96人脱走した。と供述しているが 兵助は94人と書き残している。 この備忘録により正田久次郎も東和町船越であり、吉松こと折本吉之進も船越であった。
   萩市河添真行寺 秦野常若生家
秦野常若生家 萩市河添真行寺
過去帳の法名

 地元(斬首)の寺に残る 
 秦野常若の法名(浄土真宗では法名)
 四月二六日
 過去帳には、深果院釈義廓道然法師 長洲 龝(はぎ)カウゾエ真行寺新発意。
 新発意(しんぽち)と読む。寺の跡取り息子の意。
 「聞正院釈義正 字は観月」 萩の自宅にも父が法名を付けた。
 よって彼は二つの法名がある。

 
処刑地及び関連史料
 
斬首は中央大石の手前で執行された。
伝承の地
室津白浦
本城藩人
兄の備忘録 1
本城藩人
兄の備忘録 2
秦野常若
父の手記 1
秦野常若
父の手記 2

次に秦野常若について
 出身地萩市河添(こうぞえ)真行寺 法名 聞正院釈観月
 父義諦は記録を残した。弘化4年(1847)9月10日出生長男童名常丸
 以下記録の一部立石の私怨説に触れたあたりについて、「隊長立石孫一郎備中倉敷私怨アリ(孫一郎ノ兄幽閉セル) 隊兵引率シテ倉敷ヲ夜撃シ死亡多アリシ三昼夜戦ヒ隊士僅少ノ兵ヲ以テ備前ニ至シ・・・中略 軍律ヲ乱シタル科ニヨリテ軍法ニ処セラレ室津浜(白浜)ニ於テ斬死ス墓地ハ同処浄満寺後 □(□は文字不明)山アリ・・・中略  続いて久賀村於覚法寺大洲鉄然師ヲ正遵師ト□(□は文字不明)盛大ノ法要アリ戦士同様ノ追悼石碑ヲ建テ義名ヲ陳列セリ」 の記述となる。このことは、現久賀町維新公園にある第二奇兵隊追悼碑と法要について書かれており少なくとも 石碑が建立された明治26年(1889)8月以降の文章であることが判る。ここでも私怨説である。
 この文で常若の墓は常満寺(浄満寺)後の山にあるとなっているが、対岸の長島に橋が架かったとき墓地も大幅に移転させられた ので行方不明となった。
 この維新公園の追悼碑の碑文が、その後長く現在に至るまで大島郡処刑関係遺家族を苦しめることになる。遺家族には 未整理の犯罪者のままで据え置かれているのである。

   残された辞世 (第二奇兵隊暴徒御処置一件)
  今更に 何かといわむ武士(もののふ)の 我真心を しりてたたえよ
      四月廿五日 死ス日 「まス成」

  葉柳の風に うき身ハしすむとも結ひ置かん 志一トすし

 不読経書不講兵 忠謀武略亦難成
 丈夫可死勤王事 澹泊何求身後名   「義成」

  記録では秦野常若の辞世となっているが、上段写真の本城藩人の兄の手記2では末尾に
「葉柳の風に〜 」が記されており、本来「本城藩人」のものかも知れない。
過去帳に三人の名
【大島郡の寺に残る過去帳】

(一)、楢崎剛十郎 四月六日  石城山で殺害された。
  「至誠院釈浄真隆道居士」 歳三十
 実際の死亡日は4月5日。当時の暦日の変更点は午後8時であったという説あり。これだと5日は6日となる。

(二)西村(高田)兼助 五月二日  久賀松野で斬首。
  「隻月堂釈寂淨」十九才 楢崎も兼助も住所は久賀村「畑」とある。

(三)、大沼 鴻介 五月二六日 萩大谷で斬首。
  「寂定軒釈宏城法子 五月二六日當山十世弟子 二十七」

  『西村、大沼について死亡月日は他記録と合致』

 平成2年2月柳井市郷談会誌第14号 佐原秀雄氏発表
 『安政三年(1856)生まれの祖母は、私が小学生の頃昔の話をよく聞かしてくれた。 当時私から見ると相当の年寄りに思えたが今計算してみると六十を過ぎたばかりで記憶は確かであった。  少し大袈裟に言えば、明治維新前後の生き証人ともいえる・・・ そして当時十才ぐらいであった 祖母はこの斬首の現場を目撃しており後ろ手に縛られて正坐し首切り人がエエイーと大声を発しながら 刀を打ち下ろした。・・・ 中には切られる前に大声で詩をうたった者もいた。斬首直前の詩。 まぎれもなく辞世の詩であり、切られる当人にとって息づまる意志表示であったであろう。・・・』

『今更に 何かといわむ武士(もののふ)の 我真心をしりてたたえよ』
 彼らが夢見たものは維新回天であり封建身分制の打破であった。 藩主の愚昧によって劣悪な武器のままで戦場にかり出された会津白虎隊の若者とその精神はどちらが高邁であろうか。

 この処刑の翌日、日向の材木船に乗った脱隊隊士の一部が祝島近辺に漂泊していることが判明し、 小方謙九郎・山県直一・白井小助一行が兵を率い逮捕に向かった。 この小方の顕彰碑が三浦悟楼の撰でこの半島に残る。 これも後日談だが慶応2年6月7日第二次長州戦争は幕艦による大島郡安下庄の砲撃により開始されたとなっているが、史実は、本土と上関を結ぶ橋の付け根付近あったという燈篭堂と室津白浦の民家の砲撃が戦闘の始まりであるという。 この件も佐原秀雄氏が柳井市郷談会誌第14号に発表されているので参照されたい。 当時は海上交通の要路であり、大島町安下庄よりはるかに戦術的拠点であることは間違いない。なお、この砲弾は田布施米出の上関勘場まで運ばれたが今は行方不明となっている。 当地に立ったのは暗雲低く垂れ込める1991年5月6日である。 万古不変の波音が人間の愚かさをあざ笑うかのように、いつもとかわらず打ち寄せ、惨劇があったことが嘘のようないつものおだやかな瀬戸の昼前であった。


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